第1楽章【運命】

 ……バサッ!
 眼前に広がる、色彩豊かな景色。
 一瞬、知らない場所に瞬間移動でもしたのかと思った。
「ほら、座ろうよ」
 柔らかな声に引き戻されて、しかしその正体を知る。
 階段の踊り場に広がるレジャーシート――間違いなく佐祐理の敷いたものだった。
 笑顔に促され、靴を脱いで私も隣に座す。
 床は冷たかった――いくら直でないとは言え――けど、ふたりならそれも関係ない。
 ひとりでなければいい、佐祐理が傍にいてくれさえすれば……。
「今日は舞の好きな卵焼きに、それから鶏の唐揚げもあるよっ」
「タコさんウインナー」
 好物と言われて、やはりそれを忘れてほしくはなかった。
 いつもより私の反応が早かったことに虚を突かれたのか、二度ほど眼を瞬かせて、
「あっ、もちろんあるよ」
 でも、相好を崩せばいつもの佐祐理だった。
 そんな佐祐理とも、すでに知り合って二年以上になる。
 二年間――その凝縮された想い出に還れば、光陰矢のごとき速さにただ驚くばかりだ。

(……それだけじゃない)

 私たちが出逢ったことさえ、膨大な確率の内のたったひとつでしかないのだ。
 もし佐祐理と出逢っていなかった場合の現在なんて、考えるだけでも恐ろしくなる。
 だからこそ、親友になれた『現実』には、ただひたすら感謝するばかりだった。
 佐祐理と知り合うことの出来た、この運命に――。

(本当に、ありがとう……)

 直接は伝えられない想いを、心から伝えかける。
 佐祐理も熱い視線に気付いてくれたのか、微笑みを返してくれる。
 その柔らかさは春の陽光にも似て、優しく暖かく私を包み込んでくれていた。
「ゴメン、お箸がまだだったね」
「………」
 どうやら上手くは伝わらなかったらしい。
 割り箸ではない漆塗りのお箸を手渡されながら、私は少し悲しかった。
「ふぇ〜、舞、どうかしたの?」
「なんでもない」
 その反応から察するに、沈んだ心情が顔にも現れてしまっていたのだろう。
 大切な人を、そして自分の気持ちを誤魔化すためにも、私はお箸を伸ばした。

 …………

 ………

 ……

 お弁当は今日もすごく美味しかった。
 しかも私の好みをいつも的確に突いてくるので、倍率ドン、さらに倍の嬉しさだ。
 至福感に浸りながら、忘れないうちにと合掌して頭を下げる。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
 佐祐理も嬉しそうに手を組んで、それが後片付け開始の合図だった。
 お箸とお弁当を仕舞って、レジャーシートに残ったゴミを拾う。
 行儀よく食べているつもりだったけど、その実、かなりこぼしていた。
 これからは気を付けよう、そう心に誓ったとき――ふと視界の端に何かが映った。
(……佐祐理?)
 手際よく作業を進めてはいるが、その表情からいつもの笑みが消えている。
 それも、単純な無表情などではない――陰鬱な空気をまとってさえいるのだ。
 私を優しく包み込んでいた暖かさが、冷気を伴って急激に薄らいでゆく。
「さゆり……なにかあったの?」
 ふぇっ?と悲鳴にも似た声を上擦らせて驚くが、
「そ、そんなことないよ」
 にっこりと微笑むその表情は、しかしいつもとは違って見えた。
 無理して作ったような――そんな貼りついた笑顔だった。
 それ以上は追求できず、あるいは詮索することもはばかれて、思わず視線を逸らす。
 佐祐理も不穏な空気を読み取ったのか、そそくさと荷物をまとめ終えると、
「ま〜いっ、明日は何が食べたい?」

 明るく弾んだ声が、どこか不自然に響いていた……。


第2楽章【熱情】

 ふたりで会話に花を咲かせながら階段を下りる。
 と言っても、喋るのは佐祐理ばかりで、私はいつも通り相槌を打つだけだ。
 本当は私からも話を振らなければならないのだろう。
 口で伝えない限り、本来なら思考も想いも伝わるはずはないのだから。
(佐祐理には通じる、分かってくれるから……)
 しかし、結局は親友だからと甘えてしまっているのだ。
 だからと言って、他に伝える術も持たない私には――どうすることもできない。

「……おや、これは倉田さん。また問題児と一緒に仲良くお遊戯ですか?」
 
 下りきる直前に聞こえたそれのせいで、思考が一瞬にして遙か遠くに飛んでしまった。
 佐祐理に向けられた、いつもながら多分に嫌味を含んだ声――。
「こんにちは、久瀬さん」
 社交辞令用の笑顔と対応で頭を下げる。けれど私は下げなかった。
 腐った汚物を見るような軽蔑を伴って、久瀬の視線が少し上に移動する。
 実際には見上げているはずなのに、彼の眼は間違いなく私を見下していた。
「まったく、挨拶もないとは常識外れも甚だしいね。これだから育ちの悪い人間は……」
 わざとらしく両手を広げながら、ヤレヤレと首をしつこく横に振る。
 何だかお母さんまで馬鹿にされた気がして、私は無意識の内に拳を堅く握っていた。
「おやおや。女性が暴力に訴えようとするとは、全く以て感心しな…」
「他人に挨拶を求めるときは、まず自分からするものですよ」
 生徒会長の暴言を、まっすぐな瞳で遮る。
 佐祐理の表情からは、必死に堪えているその続きすら読み取れた。
『どちらが常識外れなんですかっ!』
 決して言葉としては出てこずとも、震える両手がそれを証明している。
(まただ……また、庇ってくれた)
 いつも私は、こうして佐祐理に守られてばかりいる。
(かけがえのない親友なのに……佐祐理は、いつも何かをしてくれるのに)
 暖かな笑顔を、好みを選りすぐったお弁当を、私を疎む勢力からの弁護を――。

(……それなのに、わたしが佐祐理のためにしたことなんて……ひとつもない)

「きゃっ」
 突如、短く悲鳴が上がる。
 予期せぬ出来事に、深く落ち込んでいた私も反応が遅れてしまった。
「来るんだ倉田さんっ、やはり貴女はそんな問題児と一緒に居るべきではない!」
「やめて……やめてくださいっ!」
 嫌がる佐祐理を強引に近くの教室――生徒会室だった――に連行しようと試みる久瀬。
 どうして彼がそこまで佐祐理に執着するのか、私にはまったく理解ができなかった。
 だけど、そんなことに感心する必要もないし、関心を抱いている場合でもない。
「なっ、何をする!?」
 久瀬の手を引き剥がし、佐祐理の両腕を掴みながら、キッ、と強く睨み返す。
 策を弄し虚勢を張る人間ほど根は小心者らしく、彼も返す言葉を失ったようだった。
 怖じけづき、たじろぎながら……しかし、はたと何かに気付くと、

「川澄さん、キミは……親友を“傷つける”ことしかできないのかい?」

 口調と同等、もしくはそれ以上の嫌味に歪んだ顔でほくそ笑む。
(何を言っているの?)
 ゾクリ。背筋に悪寒を走らせながらも、私はただ呆れ返るばかりだった。
 勢いを失ったばかりだというのに、その自信はどこから湧いてくるのだろうか。
 見栄と虚勢で凝り固まった生徒会長に見切りをつけ、踵(きびす)を返す。
 と。そこで、私はようやく異変――彼の意図するところに気が付いた。
「……佐祐理?」
 焦点の定まらない虚ろな眼、小刻みに震える肩。
 先程――踊り場で後片付けをしていたときと、まったく同じ――陰鬱な表情。
「なっ、なんでもないよ……」
 そのまま片腕を解き、佐祐理は悲しそうに、何かをそっと隠した。
 しかし久瀬は許さず、無神経にもそれを本人の許可なしに晒け出してしまう。
「!!!」
 私は思わず息を呑んだ。眼を見張った。慄然とした。
 敵の反応に満足したのか、愉悦に浸った男の顔がゆっくりと、さらに歪んでいく。

「倉田さんは傷ついてゆく……キミが彼女と『親友』で居続ける限りは、ね……」

 その言葉に、歪んでいくのは彼の下卑た笑みだけではなかった。
 揺らぐ視界と鈍い心の痛みとが、やがて導き出す、たったひとつの“答”。
 わたしが佐祐理にしてあげられること、たったひとつ――。


『………さようなら…』


第3楽章【悲愴】

 チャキッ……。
 剣を持ち直すと、リノリウムの廊下に乾いた金属音が響いた。
 月明かりもすっかり雲間に途絶え、漆黒の闇に無機質な音が吸い込まれていく。
 一瞬の油断が命取りになりかねないので、ふたたび精神を研ぎ澄ます。

(ひとりきり……まっくらな場所で、ただひとりきり……)

 ふと、そんなことを思う。
 よほど昼の出来事が精神的な負担になっているのだろうか。
(たたかいは、いつもひとりきり……)
 それはごく当たり前のことなのに、どこか当たり前ではないような気がした。
“ひとり”――その切なく悲しい響きに、チクッと胸が痛む。
 しかし、理由は特に考えるまでもなかった。

『倉田さんは傷ついてゆく……キミが彼女と「親友」で居続ける限りは、ね……』

 ガシャアアアアアアアアアアアアァァァンッ!!
 久瀬の歪んだ顔が浮かぶのと、張り裂けるような音の発生とが同時だった。
「くっ!」
 間一髪で攻撃をかわす。言うまでもなく、魔物の襲撃だった。
 振り返る暇もなく、崩れた体勢を直す暇もなく、敵は容赦なく襲いかかってくる。
 足もなければ重力も関係ない魔物に、体勢などというものはないのだろう。
 手をバネに中空に跳び、身を翻すのがやっとの私の方が圧倒的に不利だった。
 しかし、それも永きに渡って続いてきた闘いに於いては意味を為さない。
 いつものように、敵を引きつけ、ギリギリで攻撃するか、避けるか。
 ただそれを差し引いても実力伯仲のため、いまだに決着がついてないのだけど。
(そう言えば……)
 いま、ふと気がついた。
 夜の学校に巣くう魔物は、一体だけではないはずだ。
 数体で奇襲をかければ勝負は簡単につくのに、敵はそれをしようとはしない。
(……魔物も“ひとり”なの?)
 そんな馬鹿げた考えを張り巡らす自分に気付いて、ひどく滑稽だった。
 頭(かぶり)を振って、ふたたび闘いに全神経を集中させる。
 敵の気に恐れをなしたのか、魔物は光の一切届かない、廊下の奥へと退散する。
 無駄だ。月の隠れたこの空間では、どこにいても状況は変わらない。
 逃げ出す魔物を追いかけて長い廊下を走り抜け、角を曲がる。その先は階段だった。
 最初からそのような算段だったのか、あるいは私の執拗な攻撃に手を焼いたのか。
 駆け上がろうとした瞬間、待ち伏せしていた“べつの”魔物の気配に私は慄然とした。
(“ひとり”じゃ、なかった……!?)
 完全な不意打ちだった。ただならぬ殺気を一身に浴び、一瞬、恐怖に身の毛がよだつ。
 しかし、次の瞬間。

(ひとりきり……まっくらな場所で、ただひとりきり……)

「あああああああああぁぁぁっ!!」
 爆発した感情の正体――それは、明らかに“羨望”だった。
 いや、それは嫉妬と言っても過言ではない醜さすら伴っていた。
(わたしは独りで闘っているのに……)
 夜の学校だけではない。昼の踊り場も、教室の喧噪も――。
 私は、本当に、独りぼっちになってしまった。
 大切な親友を守るため、佐祐理をこれ以上傷つかせないために、私から身を引いた。

<違うよ……>

 どこからか、私の思考を否定する声が聞こえる。
 すべての時間の進行が、ひどくゆっくりと感じられる。

<本当はね、違うんだよ……>

 聞きたくない、認めたくない感情を、無神経にもほじくり出そうというのか。
 しかし拒絶しようと魔物に集中すればするほど、それは心に深く入り込んでくる。

<舞の心は繊細だから……だから……>




 ……佐祐理ニ嫌ワレルノガ怖クテ、先ニ逃ゲテシマッタンダヨ


 傷ツクノガ怖クテ、自分カラ逃ゲ出シテシマッタンダヨ……




「うるさぁぁぁぁぁぁいっっ!!!」
 ドスッ。
 防御や回避など頭になく、私は無意識のうちに武器を突き出していた。
 呆気ないほど攻撃は完璧に決まり、剣を通して伝わってくる手応えが不気味だった。
 荒い呼吸を落ち着け、最後に深呼吸をして、そこでふと疑問が湧く。
 不可視の魔物にしては手応えがおかしすぎる。
 倒したことはなくとも、攻撃を当てたことのある私にはそれが判った。
 嫌な予感が湧き起こり、冬にも関わらず熱くなった空間を――月明かりが照らし出す。

 漆黒の闇を払拭するため。暗がりに怯える人々を、希望へと導くために。
 そして、すべて何もかも――目の前の現実を、私に突き付けるために――。


 手を濡らす生暖かい赤の発生源、臙脂(えんじ)色の制服、白いケープ、蒼のリボン。
 確認したくなかった。これ以上、視線を上げたくなかった。
 腹部に深々と刺さった剣を一瞥して、しかし、張り裂ける想いでその顔を確認する。




 ――佐祐理、だった……。




第4楽章【月光】

 時間が、止まっていた。
 思考も、止まっていた。
 わたしのなかで、すべてが凍りついていた。
 何も考えられなかった、何も考えたくなかった。
 手に伝わる生暖かい感触も、私に任せた身体の温もりも。すべて。すべて……。
 誰でもいい、嘘と言ってほしかった。これは現実ではない――悪夢なのだと。
 それなのに、どうしてだろう。
「……ま…ぃ…」
 目の前の笑顔だけは、嘘であってほしくなかった。
 地球を見守る月のように、いつも穏やかな光で私を優しく照らし出してくれる。
 いまも苦悶に表情を歪めながら、それでも努めて私を安心させようと微笑んでくれる。
 その暖かさは春の陽光にも似て、凍りついた私の心を解かしていった。
 佐祐理はそのまま私の頬に両手を添えると、諭すように、

「ダメ、だよ……“自分”から逃げたら……わたしみたいに、なっちゃ…ぅ…」

 もう一度だけ柔らかく微笑んで、そして――佐祐理は動かなくなった。
 ぐったりと全体重を私に任せて、蒼白い頬には、一筋の涙を残したまま。
「さゆ…り……?」
 私の頬を離れた両手が力無く空中に垂れて、やっぱり何も考えられなくて。
 昼休みにも久瀬に晒け出された“傷”が目に入って、ただ事実を突き付けられて。
 佐祐理から日常を奪って、幸せを奪って、傷つけて、そして――殺した――。
 そう。佐祐理の手首には、新たに付けられた“傷痕”があったのだ。

(……わたしは、ほんとうに、なにもしてあげられなかった……)

 魔物は何をしているのだろう。何故、様子を見守っているのだろう。
 いまが格好のチャンスなのに。いま攻撃すれば、確実に私を仕留められるのに。
 それとも、愚かな私など殺す価値もない、と嘲笑っているのだろうか。
 いっそのこと消してほしかった。親友を傷つけ、あまつさえ殺してしまった“私”を。

『ダメ、だよ……“自分”から逃げたら……わたしみたいに、なっちゃ…ぅ…』

 佐祐理の言葉が脳裏をよぎった。最後の笑顔が、脳裏に浮かんだ。
 違う。私は逃げてなんかいない。佐祐理も逃げてなんかいない。
 悪いのは、魔物だ。この場所に巣くう魔物が、すべて何もかもの元凶なんだ。
 こいつらさえ居なければ、こんなことにはならなかったに違いない。

「魔物なんて“最初から”居なければ、佐祐理は死なずに済んだのにっ!!」

 熱い雫がとめどもなく頬を伝った。
 嫌な感触に手を震わせながら赤黒く染まった剣を引き抜き、佐祐理を横たえ、構える。
 ヌルッ。広がる血溜まりに足が濡れた。再び心が凍りつきそうになる。
 でも、佐祐理の笑顔を必死に思い浮かべて、何とか自分の心を守る。
 一度でも傷つけば、途端に私は壊れてしまうだろうから。
 だから、そうなってしまう前に、決着だけはつけておきたかった。
 許さないから。絶対に、許せないから――。

<ひどいよ……>

 また、あの声が聞こえる。
 ことごとく私の思考を否定しようとする声。

<舞は卑怯だよ……すべてを忘れて、すべてを閉ざして……>

 嫌な感じがした。“こころ”を根こそぎ掘り起こされるような痛み。
 忘れたかった、思い出したくない過去を、無理矢理に引きずり出されるような痛み。
 しかし、拒絶しようとすればするほど――やはり、それは深く浸透してくる――。

<最初からいないよ……いなかったんだよ、“わたし”なんて……>




 ……ダカラ、ハヤク想イ出シテホシイ


 舞ハ親友ト出会ッテナンカイナイ……イナカッタコトヲ……




「違うっ! 佐祐理は、最初から親友だった!!」
 感情が爆発して、その怒りを魔物にぶつけようと猛然と駆け出す。
 高く飛び上がり、剣を振り上げ、渾身の力を込めた一太刀を浴びせる。
 しかし。魔物は。少女は。逃げなかった。戸惑いすら見せなかった。
 自分の運命を悟って、ただ、たおやかに微笑みを浮かべていた。
(………っ!?)
 少女の顔を、私は知っていた。
 その後ろに広がる黄金色の大地を、私は知っていた。
 金色の海に木霊する麦穂の音色を、優しい風の匂いを――確かに、私は知っていた。

<あの“約束”を、忘れないで……>

 魔物――儚く微笑む少女の瞳から、一滴の涙が珠となって弾けた。
 ウサギ耳を象ったカチューシャが、歪んだ視界の中でユラユラと揺れていた。
 歳不相応に大人びた笑顔が脳裏に焼き付いて、いつまでも離れなかった。
(そうか、この子は……)
 私がすべてを悟ったときには、もう何もかもが手遅れだった。
 ドバァッ!
 堰を切って溢れ出す鉄砲水のように、少女の胸から大量の鮮血が舞った。
 少女は悲鳴を上げず、ただ自分の運命を受け入れ、抗いもせず、苦痛に耐えている。
 膝が崩れた。泣くことを知らないのだろうか。倒れても、ただ歯を食いしばっている。
 いつのまにか、私は畦道に立っていた。広大な麦畑に少女がうずくまっていた。
(ここは、あの……“約束”の地……)
 希望と絶望とが交錯する地。かつて希望を受け入れ、そして解き放ってしまった場所。
 どうして、いまさら、こんなことを思い出してしまったのだろうか。
 もはや私の辿るべき運命<みち>など変えようもないのに――。

(この子は“わたし”だから……だから……)

 ズグンッ。胸に強烈な痛みが走る。
 左肩から右の脇腹にかけて、鋭い、刃物で斬りつけられたような鈍い痛み。
 声を上げる暇もなく、あまりの衝撃に崩れ落ち、それ以上は動くこともままならない。
 全身から汗が滝のように噴き出し、熱いはずなのに、寒気がひどい。吐き気もする。
 崩れた右足を、熱い何かが伝う。触ってみようとするが、手が凍ったように動かない。
 いや、触らずともその正体は判っていた。夥(おびただ)しい量の赤。赤。赤……。
 それでも、油の切れた機械のように震える手を必死に動かす。掌を、ジッと見つめる。
 血塗れた手。親友を傷つけ、殺し、そして自分をも傷つけてゆく。愚かな手。

(“わたし”こそが、魔物の正体……)

 もう一度だけ、少女を見つめる。佐祐理を見つめる。
 かつて希望と絶望の交錯する地で解き放った“わたし”に――。

 私は最後の力を振り絞って、剣の柄を逆手に持って、自分の腹部に突き付けた。
 すべての決着をつけるために。少女を永遠の苦しみから解放するために。
 そして、最後に、あの“約束”を果たすために――。


<……さよぅ…なら…>




 ザク…ッ!
 鋭い凶器の深々と刺さる音が、狂喜の宴のように遠く儚く響いていた……。




第5楽章【田園】


 わたしには、おともだちがいた

 ほんとうはもうひとりいたんだけど、そのこはにげてしまったから

 きっとほかのこたちとおなじに、わたしのちからがこわくなったんだとおもう

 でも、にげたことはちがって、そのこはずっとおともだちでいてくれた

 こがねいろのやさしいかぜがほほをなでるこのばしょで、ずっとあそんでいたかった

 あさがきて、ひるになって、ひがくれて、よるがおとずれても……

 わたしがちからのことをいっても、こわがらずに、ずっといっしょにいてくれた

 このしあわせが、ほんとうにいつまでもつづくとおもっていた

 えいえんに、いっしょにいられるとおもっていた……



 なのに……それなのに……



 わたしは、わすれていた

 たいせつなそんざいを、わすれてしまっていた……

 しんじていたおとこのこがにげたときにはなった、ぜつぼうのそんざいを

“ぜつぼう”はわたしのいったうそのとおり、ほんとうに“まもの”となっていた

 わたしがもっとはやくきづいていれば、こんなことにはならなかったのに……


「その子は逃げたんじゃなぃよ……だから、今度は、三人で遊ぼぅ…ね…」




 魔物の総攻撃に遭った、血溜まりのなかで――佐祐理は、二度と動かなくなった――




第6楽章【告別】

 どこからか、声が聞こえる。
 誰かの、私を呼ぶ声が聞こえる。
 時に遠くから、時に近くから。誰かの声が響く。
 ひどく曖昧な世界のなかで、ゆっくりと意識が覚醒してゆく。
 絶望の闇を一条の穏やかな光が照らして、夜が白み始めてゆく。
 凍えていた“こころ”が、暖かなもので満たされてゆく。
 私を呼んでいるのは、いったい誰なのだろう――。

「起きろ……起きてくれよ、舞ッ!」

 眼を、開ける。誰かが、私の顔を覗き込んでいる。
 でも、視界が霞んでいて誰なのかハッキリとは識別できない。
 何度となく私を呼ぶ怒鳴り声も、どこか遠い出来事のように儚く響いていた。
「俺だよ、分かるか……相沢祐一だっ!」

 ア イ ザ ワ ユ ウ イ チ

 誰だろう、初めて聞く名前ではないような気がする。
 焦点の定まらない視界の中、少しずつ浮かんでくる輪郭。やはり初見の人物ではない。
(そうだ……確か、あのときの男の子……)
 希望と絶望の交錯する地で一緒に遊んだ男の子。
 佐祐理と知り合う前に、私を受け入れてくれた男の子。
「やっと、逢えた……戻ってきてくれた」
 心のどこかで、いつか絶対に帰ってきてくれると信じていた。
 あの別れは裏切りではない、いつか必ず約束を守ってくれると。
「ずっと待ってた。ひとりきりで、闘ってきた……」
 嬉しかった。祐一が帰ってきてくれて、その想いで胸がいっぱいだった。
 涙が流れた。嬉しくて涙が出るなんて、いったい何年ぶりなのだろう。
「ちょっ、ちょっと待てよ……」
 私は嬉しいのに、祐一の顔はひどく困惑していた。
 どうしてだろう、何か間違ったことを言っただろうか。

「……お前、本当に、覚えてないのか?」

 そう言われて、初めて意識が完全に覚醒する。
 慌てて周囲を見渡すが、そこは意識を失う前と同じ場所だった。
 学校の廊下。いまは窓から差し込む淡い月明かりも憎々しい、長い夜の廊下。
 再会を約束した、風の大地などではなく、佐祐理を殺してしまった――忌むべき場所。
 暖かく満たされた空気が一瞬にして凍え、悲しい憎悪となって重くのしかかってくる。
 祐一のうしろに横たわる佐祐理の亡骸が、否が応でも現実を突き付けてくる。

「お前の誕生日に佐祐理さんが襲われかけて……ギリギリで俺が庇ったんじゃないか」

 ハッとなって、改めて祐一を見つめ直す。
 確かにそれを証明するかのように、頭や手の甲にはしっかりと包帯が巻かれていた。
「ごめんなさい。私が……魔物だったから」
「俺はいいよ。この通り、数日で退院もできたしな」
 気を遣ってか、笑顔で軽く腕を振り回してから、再び祐一の表情が沈む。
 その意味に気づいて、私も悲しくなって、同じように俯いた。
 流れる沈黙の永さが、痛い。痛い。痛い……。

「……なぁ、舞は“パンドラの箱”って知ってるか?」

 まるで子供に昔話を聞かせる父親のような口調。
 取り繕ったような明るい声と、笑顔で、しかし何かを予感させるような語り口。
「パンドラの箱?」
「あぁ、ギリシャ神話に出てくる“すべての悪”を封じ込めた箱だ」
「知ってる……けど、話して」
 いまは知ってるお話でもいい、少しでも悲しい出来事を忘れたかった。
 私は体勢を変えて楽な姿勢を取った。



   むかし、ギリシャの神ゼウスはあらゆる悪や災いを箱に詰め、とある人間に託した

   その人間は、ゼウスが泥から作らせた人類最初の女性で、名をパンドラといった

   しかしパンドラが好奇心から箱を開けてしまい、地上に悪や災いが広がった

   世界中に阿鼻叫喚が巻き起こり、人間界は深い絶望に閉ざされてしまった

   神から罰を受け、後にパンドラは魔女として迫害を受けることになる

   ところが、自分の業に深く反省したパンドラを見かねてか、神は再び箱を託した

   それはすべての災いを解き放った成れの果て、ボロボロに綻びて醜い箱だった

   パンドラは好奇心からではなく、今度は世界の平和を願って箱を開けた

   すると箱の中から、最後に――希望が出てきた――



 祐一の短くも長い昔話が終わると、急に辺りが寒く感じられた。
 外を見ると雪がしんしんと降っている。厚着をしていない以上は当然のことだった。
 その寒さが、かえって思考を冷静にさせた。それに、祐一のおかげでもある。
 認めたくなかった答えが、いまなら受け入れられるような気がした。
「分かっていた……絶望も、希望も、すべてわたしのなかにあった……」
「あぁ、そうだったな」
「祐一が消えて、解き放った“絶望”が魔物だった……」
「……ゴメンな、10年も待たせちまって」
「いや、祐一は帰ってきてくれた……それだけで嬉しいから」
 いま、私は笑えているのだろうか。
 大切な親友からもらった、あの笑顔で、いられているのだろうか。
 私と目が合って、祐一は照れくさそうに頬をかいた。
「そっか、本当に、待っててくれたんだな」
「約束したから……でも、それより……」
 そこで言葉を止め、大切な親友の遺骸に視線を移す。祐一も沈痛な表情を向ける。
 捕らわれていた過去と訣別するために。あの“約束”を果たすために。
 たとえ、佐祐理との友情が、悲しい別れの歴程だったとしても。
 いつも三人でいた、あの幸せは、現実に他ならないのだから。

(だから、わたしは……もう逃げない……)




「寂しくて、悲しくて、最後に解き放った“希望”が……佐祐理の、正体……」




エピローグ【歓喜の歌】

 外に出ると、もう雪はやみ、雲間からは月が顔を出していた。
 新雪を踏みしめながら小刻みに震えていると、祐一がコートを差し出してくれる。
「……ありがとう」
「あの剣、捨ててきて……本当によかったのか?」
「もう私には必要のないものだから」
 永らく自分を傷つけてきたもの。
 絶望も、希望も、どちらも拒絶してきた弱い象徴。
 そんな悲しい過去に縛られるようなものは、もう要らなかった。
「消えちゃったな。佐祐理さん。お別れすら、できないまま……」
「本当はずっと前に消えたはずだった」
「そうだったな……」
 今の今まで、親友として、傍に居続けてくれたこと自体が奇跡なのかもしれない。
 私が生み出した“希望”は、あの日“絶望”に呑み込まれたはずだったから。
 それにも関わらず私を想い、寄り添い、守り続けてくれた。
「……魔物も佐祐理も、元々“わたし”自身だったから」
 私はどこかで自分を嫌っていて、それでもいつかは好きになりたかったのだろう。
 表現を変えれば、とどのつまり、そういうことだ。
「ところで、お前……傷は大丈夫なのか?」
「大丈夫だと思う。チカラが戻ったと同時に、すっかり塞がったから」
「でもな、一応、念のため医者に行った方がいいと思う。ほら、連れてってやるよ」
「うん……ありがとう」
 差し出された手を取って、ふたりで病院までの道のりを辿る。
 祐一の手は大きくて、優しくて、そして暖かかった。

「なぁ、お前さ、水瀬家に来ないか?」

 突然の言葉に思わず振り向く。
 祐一は、私に家族にならないかと誘ってくれているのだろう。
「聞いたよ。最近、おふくろさんが亡くなったんだろ?」
 佐祐理には話していたので、祐一が知っていてもおかしくはなかった。
 実際には、今の居候先である親戚からも疎まれている。拒む理由はなかった。
「……でも、いいの?」
「あぁ、いいんだよ。家主が優しい人で、何でも“一秒了承”で片付けるからな」
「ほんとぅ?」
「いいんだって。家族が増えると、秋子さんも喜ぶし」
「秋子さん……」
「家主で、俺の母親の妹なんだ。ちょっと謎な部分もあるけど、おおらかな姉さんだよ」
 予感が、あった。
 きっと水瀬家に行けば、私は普通に笑えるようになる。
 そして“佐祐理”もそれを望んでいるような気がしたから。
「……だったら、行きたい」
「じゃあ、病院帰りに案内するよ」
「うんっ」
 こんなに心が弾む出来事なんて、初めて祐一と出逢ったとき以来だった。
 いや、正確に言えば“佐祐理”と出逢って以来――。

「ほらっ、着いたぞ!」

 声が少し反響したことに気づいて見回すと、いつのまにか病院内に入っていた。
 慣れない薬の臭いがツンと鼻につく。
 祐一はナースステーションで看護婦さんと何か話しているようだ。
「そう言えば、こんな時間に診察なんかしてない」
 ふと思ったことを口にする。
 学校を出た時点で深夜帯だったから、もう面会時間すら終了しているはずだ。
「ついにバレてしまったか。実はそうなんだ」
 ポカッ。
 戻ってくるなりおどけてみせる祐一に、お約束の攻撃。いつものやりとり。

(……いつもの、やりとり……)

 しかし、そこに佐祐理などいない。大切な親友は、もう存在しない。
 事実としては受け止められても、簡単には受け入れられそうにもなかった。
 目頭が熱くなって嗚咽が漏れたことに、祐一も気づいて、抱きしめてくれる。
「ゴメン、悲しませるつもりじゃなかったんだ」
「分かってる……」
 ついに緊張の糸が切れた。いつの頃から張り詰めてきたのだろうか。
 それは、恐らく、あの“約束”からずっと――。
「うっ、うあああぁぁぁ……」
 一度堰を切ってしまえば、もう感情は抑えきれなかった。
 とめどなく溢れ出す涙を、祐一はずっと受け止めてくれた。
 ずっと頭を撫でて、完全に落ち着くまで包み込んでいてくれた。
 嗚咽を殺しながら、泣いて、泣き続けて、ようやく涙も枯れ果てた頃――。

「……むかし、自分が許せなくて、二度も自殺を図った少女がいたそうだ」

 また何かの物語が始まったのかと思った。
 それほど祐一の口調は自然で、語り口としては最適だったからだ。

「その少女には弟がいたんだ。でも、病弱で小さい頃に死んでしまった」

 違和感を覚えた、どこかで聞いたことのあるお話だと思った。
 それは、確かに、何かを予感させた。

「自分を追い込んだ少女は、二度に渡って手首を切ったが……しかし、未遂に終わる」

 それは悲しいお話だった。本当は、私の嫌いな、悲しいお話のはずだった。
 なのに、私は、いま、進んで聞きたがっている――。

「二度目の傷が相当に深かったらしい。命は取り留めたが、少女は生きることをやめた」

 祐一は微笑んでいた。私も、笑っていたのだと思う。
 悲しいお話なのに、どうしてこんなにも心が暖かいのだろう。

「……約10年前の話だそうだ」

 さっき祐一が看護婦さんと話していたのは、きっとこのことなのだ。
 心を閉ざした少女と、私は親友になれるのだろうか。いや、絶対になりたい。
 遠い昔の“約束”を果たすためにも、今度は私から歩み寄ろうと思った。
 あのときに果たせなかった、三人での再会を実現させるために……。


「その10年越しの眠り姫の名前が――」




 ――それは、“希望”……。




                       < To be Continued... >

 

 

<戻る>