第24楽章【願い】

 救急車に秋子さんが収容され、病院に搬送する準備が整う。
 ……収容、搬送……嫌な響きだ。
「どなたかご家族の方で、同伴される方はいらっしゃいませんか?」
 救急隊員のひとりが叫ぶように言う。
「あ、はい。俺と……」
 俺は名雪を振り返った。
 名雪は震えていて、怯えていて、秋子さんを見つめて、ただ呆然としていた。
 駄目だ……名雪をひとりにしたら、駄目だ。
 そしたら、また名雪は閉じこもってしまう。
 本当にもう二度と、笑えなくなってしまう。
 今は俺が付いていてやらないと。
 それに、秋子さんはまだ死んだ訳じゃない。
 助かる可能性だってある……いや、絶対に助かる!
「俺と、名雪……彼女は、患者の娘なんです」
「解りました、それでは急いで乗って下さい!」
 隊員が俺たちを救急車に乗り込むように促す。
 そのとき、舞が俺の手を掴んで呼び止めた。
「何だよ舞、今は時間が無いんだ!」
 舞は真剣な表情を、真剣な眼差しを、俺と名雪に向けていた。
 それは決して、興味本位や、中途半端な心配からではなかった。
 本気で秋子さんを心配して、秋子さんを見守りたいという、舞の気持ち――。
 ……そうか、お前も……秋子さんの娘なんだよな。
 真琴も、あゆも、みんな……。
「よし解った。少し狭いけど、三人で行こう!」
 力強く頷くと、舞は真琴たちに向き直して、
「真琴とあゆは、先に帰っていて……佐祐理と、一緒に……」
 その意志と表情を読んだのか、真琴たちは頷いた。
「うん、アタシ待ってるよ」
「佐祐理も待ってますから。舞と祐一さんと、名雪さんを……」
 その言葉を合図に乗り込もうとする俺の手に、あゆが何かを掴ませた。
 これは……天使の人形?
 昔あゆにプレゼントして、俺が願いを叶えてやった、天使の人形……。
「これ、お守りだよ……祐一君はまだ、ふたつまでしか、願いを叶えてないから」
 ……そう言えば、そうだったな。
 あゆのことを忘れていない以上、最後の願いは執行されていない。
「サンキュー、あゆ。これ使わせて貰うよ!」
「祐一君、名雪さんを守ってあげて……それから……」
 もうひとつだけ、とあゆは言葉を続ける。
「奇跡はね、強く想えば想うほど……強く願えば願うほど……叶えられるんだよ」
 強い想いと願いが、偶然をも呼び起こして、奇跡を成し得るんだよ、と付け足す。
 こう言っては失礼だが、あゆらしくもない、真面目で哲学的な話だった。
 でも……本当にありがとうな、あゆ……。
 おかげで心なしか、気が軽くなったよ。
「早く、急いで下さい! 患者は大変危険な容態ですっ!」
 隊員の警告を受け、俺たちは慌てて救急車に飛び乗った。

「くっ……あぁああぁぁ……っ!」
 舞の悲鳴が、車内に響く。
「無理をするな、舞っ! お前の方が……」
「……別にいい。お母さん、助けたいから……」
 舞が再び治癒能力を施そうと、秋子さんに両手を重ねて添える。
 車内がまた眩しく、そして暖かな光に包まれる。
 しかし舞曰く、術者の能力と患者の耐性との相性というものがあるらしい。
 その様子を見る限り、秋子さんは耐性が相当強いらしかった。
 その上、秋子さんの容態はとてもひどく、膨大な精神力を用いないと傷の完治は見込め
そうにもなかった。
 舞には、もうその精神力が残されてはいなかった。
 救急車に乗り込んでから五分強、ずっと力を使い続けているのだ。
 さっき時計を見て驚いた。
 俺たちにはその五分が、一時間にも二時間にも感じられたからだ。
 ……くそっ、病院にはまだ着かないのかよ!?
「ぐっ……あぁああぁぁーーーーーーーーーーーーっっ!!」
 舞の痛々しい悲鳴が車内に、耳にこだまする。
 もういい、もうやめてくれ……もう舞のそんな姿、見たくないんだよ……。
 祐一は、もうひとつ、舞の言っていた恐ろしいことを思い出した。
 ――仮に傷が完治しても、血液までは元には戻らない、と……。
 秋子さんは、大量の血を失っている。
 つまり、いつ酸欠で死んでも、おかしくはないと言うことだ。
 秋子さんはO型……名雪はB型で、俺はA型か……。
「くそっ、同じ血液型の人間はいないのかよっ!?」
 俺がどうしようもなく頭を抱え込んで苦悩していると、
「私もO型だから……私の血をお母さんに使って……」
 舞の、辛そうな声。
 見ると、舞は秋子さんの治療を終えて、息を大きく乱していた。
「お母さん、助けたいから……もう二度と、お母さんを、死なせたくないから……っ」
 嗚咽を漏らしたのでふと見たら、舞は涙をボロボロとこぼしながら泣いていた。
 ――初めて見る、舞の表情だった。

第25楽章【カノン〜悲愴終曲、想いと願い、そして奇跡〜】

 静まり返った病院の待合室。
 そこに、俺と名雪と舞はいた。
 家族ですら面会を謝絶された。
 それが意味してるのは、すなわち――いや、そんなことを考えたくはない。
 放っておけばスッと消えてしまいそうな、そしてちょっと触っただけでも壊れてしまい
そうな名雪を、俺は優しく抱きしめて、ずっと頭を撫でてやっていた。
「大丈夫、秋子さんは絶対助かるさ……」
 そうは言ってみたものの、根拠は全くなかった。
 むしろその言葉を信じろというのが無理なほど、秋子さんの容態は危険だった。
 名雪はもう涙も流さず、ただ俺に体の全てを任せて、心で泣いていた。
「私の、せいで……」
 自責の念を吐くように、自分の力が至らなかったとばかりに、舞が声を震わせる。
「……お前のせいじゃないさ」
 舞は、お母さんと血液型が一致するから輸血をさせて、と願い出た。
 秋子さんの血液型はO型Rh−、これはRh+の人から比べて極端に該当者が少ない。
 そして、こういうことを奇跡と言うのだろうか、それとも偶然と言うのだろうか。
 舞も秋子さんと同じ、O型Rh−だった。
 俺たちは心底喜んだ、名雪も久々に笑顔を見せて……。
 だが――事はそう、上手くは運ばなかった。
 現実というものの残酷さ、恐ろしさを知る。

『大変残念ながら……川澄舞さんの血液を、水瀬秋子さんに輸血することは出来ません』

 担当医の説明によると、舞は数万人に一人しかいないという血液の持ち主で、血液提供
自体はありがたいが、しかし血液の違う秋子さんには輸血は出来ないとのことだった。
 しかも今、この病院では血液型を問わず、Rh−不足が深刻な問題となっているらしい。
 担当医も全力を尽くすと言ってくれたが、それは善処しますと言う政治家の言葉くらい
当てにはできず、輸血もできないのでは、もうどうにもならないことは目に見えていた。
 祐一はあゆから預かった天使の人形を力一杯握りしめた。
「おかあ……さん……」
 名雪が声と体を震わせて、最愛の人の名を呼ぶ。
「祐一、お母さん……助けたい……」
 舞も俺の表情と心を読んだのか、名雪と俺と同じことを想っているようだった。
「そう、だな……」
 もうどうにもならないことは解っていた。
 だが俺は――俺たちは、心から願った、心から秋子さんのことを想った。
 そのとき俺の手の中で、天使の人形が淡く光ったような気がした。

 一方、水瀬家へ向かっていた真琴たちは。
「秋子さん、大丈夫かなぁ…?」
「うぐぅ……やっぱりボク、秋子さんのこと心配だよぉ…」
 真琴とあゆはお互い顔を見合わせて、今にも泣きそうな気配を見せた。
「ほら、舞も祐一さんも名雪さんも……もちろん秋子さんも、帰ってきますからーっ」
 佐祐理がふたりをあやすように、諭すように優しく言う。
「大丈夫ですよ、舞が好きになった人が……裏切るはずなんて、ありませんから……」
 だから絶対に秋子さんは帰ってきます、と付け足して、佐祐理は優しく微笑んだ。
「うん…」
「……そう、だね」
 強く想えば想うほど、願えば願うほど、偶然をも呼び起こして、奇跡は起こるんだよ。
 あゆは見送る直前に祐一に言った言葉を思い出した。
「みんなで、想えば……強く、願えば……秋子さんはきっと、助かるよ」
 あゆはもう一度、自分にも言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。
 その言葉に真琴は頷き、佐祐理は満面の笑顔をあゆに向けた。
 そのとき――…。
 ……アオォオオォォーーーーーーーーーーーーンン……。
 どこからか、獣の遠吠えが聞こえた。
 それも、一匹や二匹じゃない、相当数の遠吠え。
「……呼んでる」
 真琴が、祐一の通っている高校の方角――ものみの丘を向いて、嬉しそうに言う。
「みんなが、呼んでる……みんな、手伝ってくれるって!」
 あゆと佐祐理はその意味がさっぱり解らなかったが、真琴は両手を挙げて喜んでいた。
 佐祐理は気付かなかったようだが、あゆはしかと見ていた。
 確かに、真琴の体を淡い光が包んでいた。

 ……――そう、みんなの想いが、みんなの願いが通じれば、きっと起こるよ――……。

 病院の早い朝の喧噪で、祐一は目を覚ました。
 待合室で、忙しそうに往来する看護婦を除けば誰もいない、この待合室で。
 祐一は名雪を抱きしめたまま、毛布も被らずに、眠ってしまっていた。
 手にしていた天使の人形は、いつのまにか無くなっていた。
 人形はおろか何ひとつ落ちていない床を覗き込んで、舞の姿がないことに気付くと、
「――……っ! お、起きろ名雪っ、秋子さんの病室に行くぞっ!」 
「……ん、うん、解った!」
 祐一は名雪の手を掴んだまま、手を繋いだまま走って、秋子さんの病室へ向かった。
 開かれた病室――ちなみに個室だ――の扉の前に、舞がうつむいて立ち尽くしていた。
「何やってるんだよ、舞っ! 秋子さん、助かったんだろ?」
 しかし、その現実を目の当たりにして、儚い希望は無惨にも打ち砕かれた。
 舞が、呆然と立ち尽くして、涙を流して、それを直視できないでいた理由。

 ベッドに横たわる秋子さんの顔は……悲しいほどに、安らかだった……。

最終楽章【母娘ということ】

 冬には雪が深く凍て付くこの町も、今は夏の日差しを受けて陽炎が漂っていた。
 祐一と名雪は、夏休みを利用してお墓参りに来ていた。
 ……大切な人が眠っている場所。
 その墓地は水瀬家のある街の、隣町の丘陵に位置していた。
 ここからは、ものみの丘も見える。
「お母さん……私と祐一は元気にしてるよ。だから……お母さんも、安心してね……」
 名雪が手を合わせて拝むと、祐一もそれにならった。
「……ねぇ、祐一」
 目を閉じて拝んでいる俺を、名雪がふと呼んだ。
「ん、何だ……?」
「お母さん、今頃……どこで何してるんだろうね……」
「そうだな……」
 俺は高く広がる真っ青な空を見上げた。
 眩しくジリジリと暑い陽射し、どこまでも高く高く空を覆う入道雲。
 もう、秋子さんが再び事故って病院に運ばれた日から――あの悲しい日から、三ヶ月が
経とうとしていた。
 時が経つのは早いものだ……もう、受験戦争に放り込まれる時期だもんな……。
 そこまで考えて、祐一は頭を振った。
 いかんいかん、今は墓参りに来てるんだ、余計なことは今だけでも忘れよう。
「そうだな……空の向こうから、俺たちのことを見守ってくれてるんじゃないのか?」
「……そう、だね…」
 そのとき、青く高い空の向こうで、誰かがフッと笑ったような気がした。
 名雪は空を見上げると、んーっと伸びをして、俺に笑顔を向けて振り返った。
「祐一は、ずっと……ずーっと、私の側にいてくれるんだよね?」
「ああ、約束……しただろ?」
「うんっ、嬉しいよ〜っ!」
 そこまで言うと、名雪はいきなり俺に抱きついてきた。
「やめろ、暑いって!」
 いや、マジで暑いぞ……何でこの街は、冬は極寒で夏は灼熱なんだ?
 そういうものだよと笑うと、名雪は表情を少しだけ翳らせて、
「私ね……お母さんのこと、悲しいこと……祐一がいれば、乗り越えられると思うんだ」
「ああ、解ってる。だから、ずっと一緒にいるって言ったじゃないか」
 俺はそこまで言って、ふと家に置いて来たあゆの、いつかの言葉を思い出した。

 ……忘れることはできないよ、でも……乗り越えることは、できると思うんだよ……。

「あら? 名雪、祐一さん……もうお参りは済ませたの?」
 石段を登ってくる足音が聞こえて、よく知っている声に呼びかけられる。
「ええ。今し方、済ませたところです」
「そう……残念だわ。みんなで一緒に、お参りしようとしたのに……」
「真琴たちは家に置いて来たのに、それでも『みんなで』ですか?」
 俺は苦笑いして、その人は俺の言葉に悪戯っぽく笑って……。
 俺たちがずっと待ち望んでいたもの……名雪が、ずっと取り戻したかったもの……。
「そうね。それじゃあ、今度こそ『みんな』で来ましょうか」
「そうですね…」
「だったら、早く早く〜っ!」
 元気よく手を振って、名雪がその人を急かす。
「今から、三人でお参りすればいいんだよ〜っ」
「え…ええ、そうね……っ!」
 名雪の言葉に、その人は声を震わせて、俺たちの横に並んだ。
 今度は三人で手を合わせて、また目を閉じて、ここに眠る人の冥福を祈った。
「美冬……ほら、名雪よ。解るでしょ……? 大きくなったでしょう……っ!?」
 名雪の肩を抱きながら言って、秋子さんは声を詰まらせた。
「ねぇ、お母さん……」
「……何?」
「私ね、お母さんのこと、大好きだから……」
「……うん」
「私には二人のお母さんがいるんだけど、私は……二人とも、感謝してるから……わっ」
 最後まで言い切る前に、秋子さんが名雪を抱きしめていた。
「ありがとう、美冬……ありがとう……名雪……なゆ、き……っ!」
「二人とも、大好きだから……私、お母さんのこと、大好きだから……っ!」
 名雪も秋子さんも、泣きながらお互いを抱きしめ合っていた。
 ……俺は男として、何か悲しいような、羨ましいような気もするが。
 こうして、名雪と秋子さんという母娘二人の絆は、更に強まった。

 俺はこれからも、この仲良し母娘と共に生きていくのだろう。
「だから名雪、頼むから起きてくれぇええぇぇ〜〜〜〜〜〜っっ!!」
 毎朝文句を言いながら、名雪を起こしに行って。
「もっと早く起きられないのか?」
「う〜……でも、努力はしてるよ〜」
 それでも、いつかは名雪も自分で起きられるようになって。
 イチゴサンデーも、返していくつもりが逆に増えていって……。
 そうだ、七年半前に受け取り損なった雪ウサギも、またいずれ作って貰わなきゃな。
 ……そして。
「名雪。俺はどんなことがあっても、必ずお前の側にいる」
 いつまでも、いつまでも……ずっと……。
「うんっ……祐一」
夏の陽射しの中、名雪の笑顔がどこまでも眩しかった。
どこまでも、どこまでも――。


                       小説華音〜日溜まりの雪〜【完】

 

 

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