第18楽章【二人の母】

 名雪は深い悲しみの中にいた。
 自分が周りに迷惑を懸けていることは十二分に解っていた。でも。
「お母さん、怒ってるかな……ううん、もしかしたら、悲しんでくれてるのかな……」
 本当は、お母さんのこと、大好きなのに。
 本当は、祐一のことも、大好きなのに。
 本当は、真琴も、あゆちゃんも、舞さんも大好きなのに。
 本当は、みんな、みんな……。
 私の居場所はあの家、あの家族……水瀬家にしかないはずなのに。
 何で私、こんな所にいるんだろう。
 何でこうして、暗い部屋の中で閉じこもっているんだろう。
 ここは私の部屋じゃない、香里の部屋なんだ。
 なのに私は今、ここにいる。
 私の本当のお母さん――美冬さんは、私のことをどう思っていたんだろう。
「私の、本当の、お母さん……」
 違うよ、私の本当のお母さんは、今のお母さんだけだよ。
 心のどこかで、ふとそんな声が聞こえた。
 でも、お母さんは血は繋がっていないって言ってた。
 そんなことを考えながら名雪の思考は深く暗い底へと沈んでいった。

 ……夢。
 名雪は夢を見ていた。
「うっ、ううっ……」
 誰かが泣いている。
 それが誰なのかは、よく解らないのだけれど。
「泣いちゃ駄目よ。辛いでしょうけど、あなたにはこの子がいるでしょう?」
 恐らく、初めて見る光景。
 でも。何故か懐かしい、暖かな光景。
「そ、そんなこと言ったって……これからだと、思ってたのに…なのに…っ!」
「……ゴメン、そうよね。まさか、あの人が裏切るだなんて」
 知らない出来事のはずなのに、それを見ていると心が痛い。
 お願い、泣かないで。
「秋子。アタシこれからどうすればいいと思う?」
「だから美冬にはこの子がいるじゃない!」
 泣かれたら、私まで悲しくなるから……だから、泣かないでお母さん。
 えっ……お母さん!?
「この子を生き甲斐にして、頑張るのよ!」
「そんなに簡単に言わないでよ。アタシひとりで、どうやって面倒を見ろって言うの?」
「それは……そうよね。私たち、まだ中学を卒業したばかりだものね……」
 何も言い返せず、秋子が口ごもる。
「……でも。だったら、下ろすの?」
「え?」
 思い掛けない秋子の質問に、美冬は思わず聞き返す。
 美冬さん……きれいな人。
 そのお腹はとても大きくて……そうだ。
 この人が、私の本当の、私を産んでくれた――お母さんなんだ。
「その子、下ろすのね?」
 秋子が真顔で、今の秋子さんからは想像もできないような厳しい顔で、美冬に迫る。
 やめて、お母さん。
 私の……本当のお母さんを、虐めないで。
 私の、本当の……本当の、お母さん……?
「……酷いよ秋子っ、アタシがそんなことできないの、解ってるくせに……!」
「ゴメン、そんなつもりもなかったの。でもその子、やっぱり、産んであげないと……」
「解ってる。そんなこと言われなくても、この子は……立派に産んでみせる」
「うんっ! ……そうだわ、美冬。その子と三人で暮らさない?」
「えっ!?」
 美冬が心底から驚く表情を見せる。
「私、高校は働いて学費を稼ぎながら行くから、時間あいてるときは生活費稼いだりその
子の面倒見るから。足りない分は、両親から若干、仕送って貰って……」
 秋子が張り切って言う。
 その様子を見て、だが美冬は申し訳なさそうに、
「気持ちだけ、受け取って置くわ」
「えっ? でも、私は本気よ?」
 そうなのだろう、秋子の場合。
「秋子は、自分の信じた道を生きて。……アタシたちの面倒を見るということ以外でね」
「でも」
「心配しなくても、アタシこそ親のところでこの子を育てながら頑張るから」
「でもっ!」
 秋子が泣きそうなくらい、心配した顔で言う。
「もう、秋子らしくないなぁ。心配しなくても、アタシはこの子を愛し抜くから!」
 お母さんの……気持ち。
 私を愛し抜いてくれると言った、お母さんの……。
 そこで、名雪の意識は遠のいていった。

第19楽章【生まれたての雪】

 ……夢。
 名雪は夢を見ていた。
 先程とは、また別の夢。
「うっ、ううっ……」
 また誰かが泣いている。
 ……泣いているのは誰?
 お母さん。
 どっちの、お母さん?
「秋子、泣かないで……」
「でもっ!」
 秋子……今のお母さん?
 私の、大好きな、お母さん。
「……ハァハァ……もう、駄目みたい……」
「そんなこと言わないで、美冬! あなたが死んだら、誰がこの子の面倒見るのよっ!」
 お母さんが泣いている。
 そして、美冬さんが……私を産んでくれたお母さんが、死ぬ!?
「あなたに……秋子に、任せるわ……」
「冗談はよしてよ、美冬! そんな重い責任、私には背負えないわよっ!」
「あなたになら、できる。秋子……あなただからこそ、任せられるのよ……」
 美冬はとても苦しそうだ。
 ……そう言えばお母さん、祐一に言ってたっけ。
 美冬さん――私を産んでくれたお母さんは元々、病弱だったって。
 それでお母さんが高校を卒業した直後、最愛の人を、そして美冬さんをもほぼ同じ時期
に亡くした…って…。
 今が多分そのとき――その場面なんだ。

「ママ? どうちたの、ママ?」
 病室に小さな女の子が入ってきた。
 蒼い髪。大きく可愛らしい瞳。
 2〜3歳くらいの、やっと歩けるようになった、やっと話せるようになったばかりの。
 まだその歩き方もしっかりとしていない、小さな女の子。
 あれは……そう、小さい頃の私だ。
「ああ、名雪。私の可愛い、名雪……」
 ママが……美冬さんが、小さい私をだっこしてくれる。
 本当は、たったそれだけでも、とてもつらいのだろうに。
 本当は、たったそれだけでも、耐え難い苦痛を伴うのだろうに。
 そんなことは気にしない、平気であるかのように、顔色を変えずに。
 ……でも、幸せそうなお母さん。
 そして幸せそうな小さい私……。
「ママ?」
「何でもないのよ。それより、秋子お姉さんに、ちゃんと……挨拶した?」
「ううん。こにんちわ、あきこおねえちゃん」
 秋子の肩がビクッと震える。
 涙を拭うと、秋子は笑顔をつくって。
 でも、それもすぐに崩れて、
「こん…にちわ…っ」
 秋子本人はちゃんと言ったつもりなのだろう。
 その声は想像以上に震えていて、
「どうちたの、あきこおねえちゃん。ないてゆの?」
 その言葉がスイッチを入れたように、秋子がその場に泣き崩れる。
「ねぇ、あきこおねえちゃん? ……わっ」
「違うのっ……違うのよ、名雪ちゃん……っ!」
 秋子は思わず名雪を抱きしめた。
 少しだけ、驚いたように悲鳴を上げる名雪。
「やっぱり、あなたになら、任せられるわ、秋子……」
 美冬の言葉に、秋子は弾かれたように顔をあげた。
「み、美冬……っ!?」
「秋子になら、名雪を……っ! ゴホ、ゴホゴホッ……ゴホ……ッ!!」
「美冬っ!」
「ママッ?」
 美冬が、いよいよこれが最期だと言わんばかりに咳込む。
 咳が落ち着いた途端、秋子の目が見開かれた。
 ……血。
 美冬の、口を押さえた手から、血が流れ落ちる。
「あははっ、吐血だなんて……ハァハァ……いよいよ、最期が来たみたいね……」
 落ち着いた様子。
 死を前にしているというのに。
「何を言ってるの、美冬! まだっ、まだまだ……っ、これからじゃないのっ!」
「秋子、もう一度あなたと……ハァハァ……そして、名雪の顔を……よく見せて……」
 聞こえなかったかのように、切なる願いを言う美冬に、秋子もついに悟ったようだ。
 歯をワナワナと震わせて、自分の無力さを呪って……でも、笑顔をつくって。
「解ったわ、美冬……名雪ちゃん、ほら……お母さんにバイバイ、しようね……っ!」
 秋子は名雪を抱き上げると、美冬がよく見られるように、顔の近くへ持っていった。
 訳が解らずに戸惑っている名雪を不安そうに、だが優しく見守るような、幸せそうな
表情をすると、美冬の目は静かに閉じられた。
 無情にも、担当医の声が静かな病室に響いた。
「午前12時23分……ご臨終です……」

第20楽章【雪の辿り着く場所】

 名雪は飛び起きた。
 今のは、夢なの……?
 違う、夢なんかじゃない!
「お母さん……っ」
 名雪の脳裏を、今の夢――想い出のカケラがよぎった。
 担当医が、臨終を宣告したあと。
 泣き崩れたお母さんが、私を抱きしめて、言ってくれた台詞。

『美冬……この子は、私が責任を持って育てるから。
 それが、あなたの遺言だものね。だから、安心して。
 ねぇ、名雪ちゃん。今日からは私が、名雪ちゃんの母親になるのよ。
 だから、名雪ちゃんも私のこと、ママって……ううん、お母さんって呼んで。
 お母さんも名雪ちゃんのこと……名雪って、呼ぶから……っ!』

 あの日から、秋子さんは――お母さんは、私のお母さんになった。
 あの頃の私には、その意味が、よく解らなかったけれど。
 でも……そう、本当のお母さんも何も関係ない。
 私を産んでくれた、美冬お母さん。
 私を育ててくれた、秋子お母さん。
 二人とも、私のことを本当に愛してくれてたんだ。
 美冬お母さんは、本当に死ぬまで私のことを愛し抜いてくれた。
 秋子お母さんは、今でも私のことを本当に愛しく想ってくれる。
 二人とも、私の本当のお母さんなんだ。
 それは、何て喜ばしいことなんだろう。
 それは、何て幸福なことなんだろう。
 なのに私は、くだらないことで悩んで……。
 ううん、くだらなくなんかない。
 本当に、大切なことだもん。
 二人のお母さんの愛に気付かせてくれたから。
 私はどうして家出なんかしたんだろう。
 水瀬家に――お母さんの元に帰りたい。
 早く、あの家に帰りたいよ!
 気が付いたら、名雪はまた泣いていた。

「名雪、起きてる?」
 カーテンを閉め切っていて薄暗い部屋に、開かれたドアから光が漏れる。
 開かれる扉、開かれる心。
 少しずつ、少しずつ……。
「あ、うん……起きてるよ、香里」
 名雪は乾きかけていた涙を拭うと、香里に向き直した。
「相沢君たち、今から家族総出でお迎えに上がります、って」
「そう……」
「やっぱり、まだ帰りにくい?」
 香里の言葉に、名雪は深呼吸をして、
「ううん。早く帰りたいよ〜」
 名雪らしい、暖かい笑顔。
 名雪らしい、おっとりとした口調。
 久々に見た親友の日常に、心から嬉しそうな香里。
「香里、迷惑かけて、本当にゴメンね……」
「えっ? ううん、迷惑なんかじゃないわよ。それに、謝られる相手も違うし……ね!」
「あ、祐一のこと? だったらいいよ〜。私、祐一のこと、やっぱり大好きだから」
「そんなに心配しなくてもいいわよ。私の気の済むまで殴ってやったから」
 香里の言葉に、困った表情を見せる名雪。
「……グーで?」
「安心しなさいって。私がそんな乱暴する人に見える?」
「そうは見えないけど……でも私、香里がメリケンサックを装備してる絵、どこかで見た
ことあるよ〜っ?」
 図星だったように、慌てふためく香里。
 だがそれも一瞬のことで、いつものクールな笑顔に戻ると、
「ま、まぁ……それは、名雪の気のせいよ。それに、相沢君には、パーだったから……」
「そっか。安心したよ〜」
 名雪は本当に安心したように胸を撫で下ろすと、思い出したように、
「私、帰らなきゃ。みんなに謝らなきゃっ!」
「うん、そうしなさいよ。来るって言ってたから、今から出れば、途中で逢えるわ」
「香里」
「ん……?」
 名雪は戸惑ったような、恥ずかしいような、嬉しいような表情を見せると、
「心配してくれて本当にありがとう、香里……それに、栞ちゃんも……」
 香里と、その影からじっと様子を見守る栞に、名雪は心からお礼を言った。
「何言ってるのよ、名雪。私たち、親友でしょ?」
「あの、私も、名雪さんには、笑顔が似合うと思いますからっ!」
 二人の言葉に、グッと涙を堪える名雪。
「……ありがとう」
 ただ、それだけしか言えなかった。
 でも、それが名雪に言える精一杯の感謝の気持ちだった。
「それより、ホラッ。早く行きなさいよ!」
「……うんっ!」
 その言葉に弾かれるように、名雪は香里の部屋を、美坂家を出た。
 香里と栞に、言い表せないくらい感謝をしながら。
 早く会いたい、一刻も早く水瀬家に帰りたい。
 私の居場所は、あの家――みんなの所なんだ。
 舞さん、あゆちゃん、真琴……祐一っ……お母さんっ!!

第21楽章【雪の少女】

 日の暮れかけた商店街を祐一たちは歩いていた。
 名雪を迎えに行くために、水瀬家を元に戻すために。
「秋子さん、どうしてるかな」
 あゆがそわそわするように聞く。
「そうだなぁ。今頃、ケーキ屋に立ち寄ってるんじゃないのか?」
 祐一の言葉に、うん、そうだねと安心した様子であゆが頷く。
 今度は真琴が服の裾を引っ張りながら、
「名雪をお迎えしたら、早くみんなでご馳走食べようよ〜」
「そうだな、真琴」
 微笑みかける祐一に、今度は佐祐理が割り込みをかける。
「祐一さんっ。佐祐理も、ご一緒させて下さいね〜っ」
 答えようとする祐一の腕を、舞がぎゅっと掴んだ。
「……祐一。私も、佐祐理と一緒がいい」
「ああ、何言ってんだ。当たり前だろ?」
 何て言ったって、ご馳走つくってくれたの佐祐理さんだしな、と付け加える。
「うん…」
 舞が、注意しなければ解らないほどに、だが確かに微笑む。
「あ!」
 佐祐理が絶句した。
「どうした、佐祐理さん?」
「今、舞が笑ったんですよーっ!」
「え? そうなのか、舞」
 途端に顔を真っ赤にして、舞はうつむいてしまった。
「……別に、笑ってない……」
「嘘だよ〜。舞、笑ってたよ〜っ?」
 佐祐理が満面の笑顔で、舞を覗き込む。
 本当に幸せそうだな、佐祐理さん。
 水瀬家も、早く元の幸せな家族に戻さないとな。

 そういえば、昼休みに天野が言ってたこと……。
「なぁ、真琴」
「ん?」
 ものみの丘の方が騒がしい、と。
「何か、違和感あるか?」
「え? ううん、別に。でも……」
「でも?」
 祐一はその先を待った。
 真琴の体が、少しだが震えている。
「少し、寒いの……頭も、ちょっとだけだけど痛いし……」
 仲間の呼ぶ声、なのだろうか……ただの偶然、と言えばそれまでなのだろうが。
 天野は近い内に何かが起こる、とも言った。
 妖孤たちは知っているのだろうか、これから起こる何かを。
 そして真琴も少なからず、それを感じ取っているのだろうか。
 祐一は漠然とではない、確かな不安を抑えながら、歩調を速めた。
 駄目だ、また正体不明の不安に、押し潰されそうになる。
 余程怖い顔をしていたのだろう。
「どうしたの、祐一君?」
 あゆが恐る恐る声をかけてきた。
「早く、名雪に逢いたい……でないと、不安で心が潰れてしまいそうだ……」
 こういうときに嘘を言っても仕方が無いので、祐一は正直に話した。
「大丈夫だよ、名雪さんは帰ってきてくれる。きっと、祐一君の元へ戻ってくるよ!」
 ああ、そうだな。
 秋子さんがすぐには来られない今、俺が信じずに、誰が名雪を信じてやれるんだ!
 余計なことは考えないでおこう。
 そう、あと少しすれば、名雪と――。

「祐一っ!」
 よく知った声。
 聞き間違いのない声。
「名雪〜〜〜っ!」
 俺は、最愛の少女の名を呼んだ。
 道路を挟んで、真向いにいる。
「ゆう、い…ち…っ!」
 最愛の少女が、雪の少女が、俺の元に駆け寄る……駆け寄ってくる。
 そうだ。俺たちはまわり道ばかりしているけど、でも、その分強くなれるよな。
 もう、こんな過ちは二度としないぞ!
絶対に名雪を、もう二度と悲しませない。
 そう……たった今、誓ったのに……。
 ――轟音とともに近づいてくる二つの光。
 その光はあっという間に近づいて。
 まるで、目の前の道が名雪と俺を引き裂く境界線のように見えて。
 俺たちの視界と、立ち止まった名雪のシルエットを真っ白に包み込んで……。
 キキキキィイイィィーーーーーーーーーーーーッッ!
 ……ドンッ……。
 鈍く重い、嫌な音がした。

第22楽章【紅い雪】

 俺はそれをとても直視できなかった。
 足元から何かが崩れていくような、目の前が真っ暗になるような感触。
 こういうときの感情をそう表現する人もいる。
 俺はそのどちらでもなく、何も考えられなかった。
 ……思考が完全に停止していた。
 真っ暗な場所から急に光ある場所へ出たときのように、視覚が麻痺している。
 だがどこかで、その光景を客観視している自分がいて……。
 心臓の鼓動がいつも以上にその存在を主張して、動悸が耳に障る。
 ……うるさいんだよ、静かにしてくれ……。

「うわーっ、やっちまった」
 ドライバーが出てきて、焦ったように言う。
 まるで、轢いてしまった人間のことより、車の方が心配と言った感じの口調。
 その男に腹を立てることも忘れ、俺はただ呆然と立ち尽くしていた。
 あの速さで轢かれたんだ、まず助からないだろう。
 それはすなわち、死を意味する。
 名雪の……最愛の人の、死……。
 俺はその現実を受け入れられず、耐えられずに、頭を抱えてその場から逃げ出した。
 いや。あと一秒それが聞こえなかったら、間違いなく逃げ出していた。
「う……っ」
 声がした方を恐る恐る見た。
 車の横――俺のすぐ近くに、名雪が座り込んでいた。
 はねられたはずの、大怪我をしたはずの、名雪が……。
「な…名雪っ!?」
 俺は思わず、少女の名を呼んだ。
 名雪は無事だ、ということは……さっきの、鈍く重い音の正体は……?
「あ、あ……ああ……っ!」
 信じられないといった表情をして、名雪はそれを見て怯えていた。
 名雪が立っていて、もし本当にはねられていたら、転がっていただろう場所を……。
 突如として、信じられないくらいに嫌な予感が俺を襲う。
 名雪は助かっている、他のみんなもいる、いなかったはずの人間は、あとひとり――。
 振り返り様に、潰れて転がっていたイチゴのショートケーキが目に入って、瞬時にして
それはいよいよ確信へと変わった。
 血溜まりに浮かぶ、三つ編みと、名雪によく似た女性――秋子さんだった。

「……おかあ…さん…?」
 名雪は駆け寄って、消え入るような、か細い声で母の名を呼ぶ。
 本当は、二日振りの再会を、嬉し涙とともに喜びたかっただろう。
 何て皮肉なのだろう、ようやく心を開いた娘が母を求めたとき、母は目の前で……。
「おかあさん……おかあ…さん…っ」
 嗚咽混じりにしゃくりあげながら、秋子さんを揺り起こそうとする。
 その手を、その服を、母の血で染めて、それでも懸命に……。
 だが。生気が抜けたように、秋子さんの体は全く反応を示さない。
「くっそーっ、何だよこのオバサン! いきなり飛び出してきやがってーっ!」
「……なっ、何だとぉおおぉぉーーーーーーーーーーーーっっ!?」
 俺はそのあまりに倫理観のない台詞にキレて、思わずドライバーに殴りかかった。
 いや、倫理とかなんて関係ない。
 ただ秋子さんの仇を討ちたかっただけなんだ。
「ヒッ!」
 ドライバーが一瞬悲鳴を上げたが、んなこと知ったこっちゃない。
 お前が名雪を、水瀬家を、秋子さんを……っ!
 責任転嫁もいいところだったが、そのときの俺はそこまで頭が回らなかった。
 と、ここまで一秒ともかからなかったが、あと少しの所で、誰かが俺の手を止めた。
「……祐一」
 それは舞だった。
「離せっ!」
「……駄目」
「何が……っ!」
「いいから……」
 舞は俺を諭すように言うと、今度はドライバーに向き直して、救急車を要請した。
「なっ、何で俺が呼ばなきゃいけねぇんだっ! 俺は急いでんだっ!」
 手前勝手なことを言うドライバーにやはり制裁をと拳を繰出す祐一を、舞は抑えて、
「いいの。それより、早く呼んで……呼んでくれないと……」
 そのとき、風が揺れた。
 制限速度40km/hの標識がグニャリと曲がり、その車の窓ガラスが全て吹き飛んだ。
 超能力だった。舞の怒りが肌に直接感じられた。
「ヒィッ……解った、解ったよ! 呼びゃあいいんだろっ!」
 ドライバーは情けない悲鳴を上げると、慌てて携帯電話をかけた。
 ありがとう、助かったよ。舞。
 でもな、もう手遅れなんだよ……。
 そのときだった。
「……な…名雪…」
 秋子さんの、弱々しい、だが心を込めた、声が聞こえた。

第23楽章【雪解け】

 秋子さんの、名雪を呼ぶ声が聞こえる。
 だがその声は弱々しくて、それは、近付く死を意味していた。
「……な…名雪…?」
「お母さんっ!」
 本当は、大丈夫?と続けたかったのだろう。
 名雪の、その嬉しそうな、でも悲しそうな表情を見ていれば解る。
 でも言わない、言えない。
 秋子さんのその容態を見れば、大丈夫かどうかなんて一目瞭然だったからだ。
「……な、名雪……無事だ…った…?」
 まるで自分のことなど気にしないように、秋子さんが名雪の無事を心配する。
「う、うんっ。お母さんが、守ってくれたから、平気だったよ……」
「……そう、よか…った…」
 まるで自分のことのように、秋子さんが微笑む。
「どうしてこんなことしたの? どうして……飛び出したりなんかしたの?」
 名雪が嗚咽を漏らしながら、しかし必死に平静を保ちながら。
 解り切った答えを、本当に解らないかのように、母親に求める。
「……お、おかしなことを聞くわね……」
 秋子さんは苦しそうに、それでも、いつものように微笑みながら、
「それは、名雪が……私の娘だからよ」
 娘の心からの問いに力強く応える母親。
「……私はあなたを託されたあの日から、ううん……」
 何かを思い出したのだろうか、閉じた目から涙がこぼれ落ちる。
「美冬の赤ちゃんに『名雪』って名付けた、あの日から……」
「……えっ?」
 名雪が驚きの声を上げた。
 無論、それは俺たちも同じことだった。
 秋子さんはそんな様子を気にも止めずに……。
 あるいは反応する力すら残されてないのか、そのまま続けた。
「あの赤ちゃんが……もう、こんなになるのねぇ……」
 秋子さんは感慨深げに、懐かしむような目で名雪を見つめた。
「ねぇ、お母さん。今の話……本当?」
 名付け主が秋子さんかどうか、ということなのだろう。
「……私、名残雪が好きでね……いつまでも変わらない、美しく、白い結晶……」
 問いには答えず、あるいは応える力もなく、秋子さんはゆっくりと話し出した。
 名雪はもう何も言わず、ただ黙って聞いていた。
 救急車のサイレンを遠くに聞きながら、俺たちも名雪にならった。
 俺たちにできることは、それしかなかったから。
「でもね、人ってやっぱり……変わって、成長して行かないと…ね……」
 秋子さんが遠い目をして言う。
 もしかすると、秋子さん自身、遠い昔を思い出しているのだろうか。
「……だから、私の大好きな名残雪から『残』を取ったの……」
 いつまでも残されたら可哀想だからね、と付け加えて。
「あの日から、私は名雪に何があっても……身を挺して護るって、決めたの……」
 そこまで言うと、秋子さんは名雪から目を背けた。
 その様子は、表情は、ひどく不安そうで儚げに見えた。
「……お母さん?」
 名雪もその異常な怯えように気付いたのだろうか。
 心配そうに、悲しそうに秋子さんを覗き込む。
 秋子さんの顔は涙でボロボロになっていた。
 昔を語っていくことで、悲しい何かを思い出してしまったのだろうか。
「……私ね、赤ちゃんを産めない身体なのよ……」

 そういった身体の持ち主がいると耳にしたことがある。
 本人が望んでも、不憫にも母親になることができない女性。
 まさか秋子さんがそうだったとは……。
 俺は子供を持ちたいと考えたこともなければ、ましてや女性でもない。
 だから、秋子さんの悲しみを完全に理解することはできない。
 でも……その告白に込められた悲痛さは痛いほどに感じられた。
 しゃくりあげながら、秋子さんが悲しい過去の邂逅と闘いながら。
 俺たちに、そして他ならぬ名雪に、その感情を吐露する。
「美冬もそのこと知っててね、だったら、その『名雪』をこの子に付けよう、って」
 もう目を開ける力さえも残されていないのだろうか。
 目を閉じたまま、弱々しく言葉を紡ぎ出す。
「……でもね。例え血は繋がってなくても……お腹を痛めて産んだ子じゃなくても……」
 そこで秋子さんは名雪にゆっくりと向き直すと、
「私は……名雪のことを、心から愛してるから……名雪は、その名前、どう思う?」
 涙を拭わない、拭えないまま、秋子さんが笑顔で聞く。
 肩を震わせて、名雪はうつむいたまま、何も言わない。
「やっぱり嫌だった? 知らない方が……よかった?」
 心配そうな悲しそうな秋子さんの声に、名雪は首を横に振って顔を上げると、
「そんなこと言われたら、大好きだとしか言えなくなっちゃうよぉっ」
 最初からこの名前もお母さんのことも大好きだったのに、ずるいよ……。
 消え入るような声で泣きながら、名雪は秋子さんを抱きしめた。
 その言葉に満足したように、秋子さんは微笑んでいた。
 救急車が現着したのはそんなタイミングだった。
 俺たちは安堵の息をついた。
 名雪も嬉しそうに、秋子さんに呼びかけた。
 ――……だが。
「ねぇ、お母さんっ! ……お、おかあ…さん……?」
 秋子さんは動かなかった。
 ただ、その手は力なく地面に垂れていて。
 名雪の泣き叫ぶ声も、遠くにしか聞こえなくて。

 ……だから、動悸が耳に障るんだよ……。

 

 

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