第7楽章【悲愴序曲】

「なゆ…き……」
 秋子さんの声が震えているのが判った。
 それはそうだ、最愛の娘に知らたくれなかったことを、知られてしまった。
 名雪にしてもどれほどのショックを受けているのだろうか、計り知れない。
「お、お母さん……今の話、本当…なの?」
 名雪を見ている俺の視界からは、秋子さんは見えない。
 だが、秋子さんが名雪の言葉に息を飲み込んで大きく反応したことは、振り返らずとも
判った。嗚咽混じりに、息遣いが荒い。
 何を言えばいいのか、どのように対応すればよいのか、迷っているのだろう。
 永遠とも思える沈黙を破って、名雪が独り言のように呟いた。
「私には、言えない、ことなんだね……」
 一言一言、噛み締めるように。本当に悔しそうに、泣き笑いながら。
「ち、違うの名雪……わ、私は……っ!」
 秋子さんが言葉を為す前に、名雪は走り去ってしまった。
 続いて聞こえる階段を駆け上る、扉が勢いよく閉められる音。
「う、ううっ………〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
 声なき声で、秋子さんが泣き崩れた。
 俺はそんな秋子さんの肩を抱きながら、扉を、そして階段へ名雪の部屋へと続く、廊下
をただ黙って見ていることしかできなかった。
 無力な自分、自分だけでは本当に何もできない自分。
 秋子さんと約束しようとしたのに。
 二人とも傷付けないようにしようとしたのに。
 やっぱり秋子さんの制止を振りほどいてでも、話を聞かなければよかったんだ。
 そうすれば、名雪が聞いてしまうこともなかった。
 そうすれば、秋子さんが泣くこともなかった。
 俺がこの平和な家族の平和な日常を、壊してしまった。崩してしまった。
「晩ご飯、つくらなくちゃ……」
 ようやく少し落ち着きを取り戻した秋子さんが、フラフラと立ち上がる。
 その足取りは今にも転びそうなほど覚束なかった。
 と思った瞬間、秋子さんがバランスを崩した。
 慌てて駆け寄り、肩を掴む。
「す、すみません。祐一さん……」
 申し訳なさそうに、そして秋子さんらしくない、元気の無い声で謝る。
「秋子さん、休んだ方がいいんじゃないですか?」
「いえ、いいんです。それより……」
 秋子さんはそこで言葉を止め、考え込むように目を伏せながら、
「名雪のこと、お願いしますね」
 その笑顔は、とても弱々しかった。

「名雪、入ってもいいか?」
 プレートに『なゆきの部屋』と書かれた扉をノックする。
 名雪は今、どういう心境なんだろう。
「………」
 返事は無かった。罪悪感を覚えながら、祐一はドアノブをそっと回した。
 キィ…。
 鍵は掛かっていなかった。
 足音を殺しながら、祐一は名雪の部屋に入った。
 名雪の部屋は、真っ暗だった。
 まるであのときみたいに
 秋子さんが事故った直後の……。
「ゆう、い…ち…?」
 名雪の声。か細く、まるでこの闇に消え入ってしまいそうな。
「ああ、俺だ」
「……お母さんは?」
 探るような口調。
 当たり前だ、あんな信じられないことを聞いてしまったら誰だって混乱する。
「今、晩飯作ってくれてる」
「……そう。お母さんにとっては……私のことなんて、その程度のことなんだね……」
「どういう意味だよ…」
 ムッとした、カチンときた。
 さっきの秋子さんの嘆きを知っているから。
 名雪を心から愛している、秋子さんの――。
「お母さんは、私が傷付いたってどうなったって、関係ないんだ、って……!!」
「お前いつからそんなスレちまったんだ! 考えても見ろ、秋子さんは名雪がいつ降り」
「祐一には……本当のお父さんもお母さんもいる、祐一には、解らないよぉっ!!」
 名雪が俺の言葉を遮って泣き叫んだ。
 信じられなかった。自分のしたことが、信じられなかった。
 次の瞬間、俺の右手は名雪の頬を平手打ちしていた。

第8楽章【不安】

 真っ暗な部屋に乾いた音が響いた。
 見えなくても容易に想像できる、名雪の信じられないといった表情。
 平手とは言え、名雪を殴ってしまった。後悔の念が襲う。
 衝動的だったんだ、無意識にしたことなんだ、殴るつもりなんて……。
 解ってくれ、とは言わない。言えない。
 でも、俺は。
「………って…」
「え?」
 突如として聞き取れなかった。心臓の鼓動が耳に障る。
「出て行って…」
 名雪の、静かな、それでいて頑なな、俺への拒絶。
「待て名雪、俺は……ッ!」
「出てってよぉっ!」
「ぐあっ!?」
 顎に激痛が走る。目覚し時計を投げつけられたらしい。
 ……しかも、でっかいヤツ。
「しばらく、祐一の顔なんか見たくないっ!!」
 バタンッ!!
 扉が強く閉められた。
 名雪の、心のそれも。

 馬鹿、何やってるんだ俺は。
 さっき秋子さんに名雪のこと頼まれたばかりじゃないか。
 それなのに、結果として名雪を焦らせて、怒らせて、そして……。
 俺は本当に何もできないんだな。
 役に立たないどころか、逆効果にしかなってない。
 それでも名雪に拒絶されたことの方がショックだなんて、身勝手もいいところだ。
「俺のことは嫌いになってもいい、だけど……秋子さんだけは好きでいてくれ……」
 俺は半分は心にもなく、でももう半分は本心を、閉められた扉から伝えかける。
「ずっと、二人っきりだったんだろ? 俺がこの家に来るまで……」
 よく考えたら迷惑な話だ。
 仲良し母娘水入らずの所へ、親戚で訳アリとは言え、年頃の男が転がり込むんだ。
 秋子さんはそれを別段気にするでもなく、それどころか、家族が増えて嬉しいです、と
喜んでさえしてくれた。
 二人ともおっとりしてるようで解らないけど、もしかしたら7年もの間、特に名雪は俺
のことずっと恨んでいたのかもしれないな。
 秋子さんだって、自分の大切な娘がそのあと、トラウマで平均睡眠時間が格段に長くな
って、その原因である俺を恨んでいたのかもしれない。
 それなのに俺は、そんなことも知らずにのうのうと……。
「頼む名雪。秋子さんも、名雪が真剣に聞けば話してくれるさ」
 扉が静かに開けられた。
「……お母さんに、話、聞いてくる……」
「あ、ああ…」
 名雪が怒ったとも悲しいともつかない顔で、ゆっくりと階段を下りていく。
「祐一は、そこで待ってて……」
「……ああ」
 俺までもが行くと、秋子さんが喋りにくかったり、もしくは逆に喋りやすかったりして
影響を与えてしまい、本心が解らなくなってしまうからなのだろう。
 名雪はひとりで、ゆっくりと階段を下りていった。
 その背中がやけに小さく、心細そうに見える。
 やはり不安なのだろうか。不安なのだろう。
 ……名雪……。

第9楽章【閉じる心】

 一階に消えてから三十秒も経たないうちに、名雪は舞い戻ってきた。
 いや、さっき秋子さんの話を聞いた直後と同じか、下手をすればそのとき以上に階段を
勢いよく駆け上がってくる。
 慌てているあまり名雪が最後の一段を踏み外した。
 俺も慌てて受け止めてやる。
 名雪は混乱……いや、錯乱していた。
 さっきよりもひどく、大きく肩で息をしている。
 最愛の娘に真実を知られてしまった秋子さんと、一瞬、姿が重なる。
「どうした、何があったんだ?」
 何とか名雪を落ち着かせようと、しっかりと、しかし優しく肩を抱いてやる。
 その瞬間。歯軋りの音が聞こえた。
「……っ! 放してよ!!」
 言葉と同時に、名雪に突き飛ばされる。
「な、何するんだよ!」
「もう、お母さんも祐一も、誰も信じられないっ!!」
「え……?」
 扉が壊れるほどに強く、そしておそらく名雪の心も、強く閉じられた。
 訳が解らず、俺はリビングへ直行した。
「秋子さん、今、名雪に何て言ったんです!?」
 え?と秋子さんが解らないような顔をする。
「何の話です?」
「ですから、名雪に話してないんですか。秋子さんと名雪が本当の」
「祐一さん!」
 秋子さんに言葉を遮られた。
 俺はそのとき、何故だか畏怖の念さえ感じた。
「……ですから、一体、何の話です?」
 普段通りの、本当に普段通りの笑顔で、受け流すように言う。
 信じられない答えが返ってきた。
 そうか、これじゃあ名雪も怒るよな。
 ……きっと俺の勘違いだったんだ。
 今までずっと、秋子さんという人間の。
 名雪の言う通り、秋子さんにとってはどうでもいいことだったんだな。
 さっきの俺に見せた涙は、嘘だったんだな。
 そう思うと、俺は急に秋子さんに対して腹が立ってきた。憎しみさえ感じた。
 その様子を影から心配そうに見る三人に、そのときの俺は気付きもしなかったが……。
「……もう、結構です!」
 俺はそう言い放つと、二階へと引き返した。
 振り向かなかった。だから、そのときの秋子さんの表情は解らなかった。

「……名雪」
 俺は再び、名雪の部屋の扉ををノックした。
 やはり、返事は無かった。
 ガチャガチャ…。
 ドアノブを回すと鍵がかかっていた。
 ……恐らく、心のそれも。
「祐一、私のことは放っといてよ……」
 失意に暮れたような、本当に弱々しい声で、名雪が呟いた。
「んなこと、できるかよ」
「もういいよ……お母さんも、祐一も、真琴も、あゆちゃんも、舞さんも……」
 誰とも、会いたく、ない……。
 最後の方は聞き取りにくかった。
「俺もやっと解ったよ、秋子さんの正体。あの人は、無責任なんだ」
 一瞬、なら真琴やあゆのときの秋子さんのあの親切はどうなんだ、という考えが脳裏を
よぎったが、それは無意識のうちに頭の奥底に沈められた。
「名雪、駆け落ちしないか?」
「えっ!?」
 唐突な言葉の反応に、名雪の声は裏返っていた。
「俺とさ、駆け落ちしないか……って言ってるんだよ」
「………」
 返事がない。何を馬鹿なこと言っているんだと無視を決め込んだのか、それとも……。
 でも、本気だった。駆け落ちはともかくとして、この家にはもういたくなかった。
 人間は、一度落ち込んだり嫌なことがあって底の方に引きずり込まれると、何もかもが
嫌になってしまう。まさしく今の俺が、そうだった。
 秋子さんが嫌いになっただけだった。
 なのに、家族である真琴にも、あゆにも、舞にも、もう会いたくはない……気がする。
 でも、名雪なら……名雪だけなら……。
「………」
 いや、やめておこう。返事もないし。
 それに駆け落ちした男女の結末は、大概は不幸なんだ。
 名雪をそんな目に遭わすのは忍びない。
 出て行くのは俺だけで十分だ。
 でも俺に行く場所なんてあるのか?
 ……この、水瀬家以外に。
 そんなことを考えながら俺は眠りについた。
 そして翌朝、事件は起こった。

第10楽章【雪の無い家】

 翌朝、あゆの声で目が覚めた。
「祐一君っ、祐一君っ!」
「う〜〜〜ん、何だよ……」
「大変だよっ!」
 頼むから寝かせてくれ、俺は疲れてるんだ。
 ……昨日のいざこざで。
「大変なんだよ〜っ!」
「底辺が解ってんなら、あとは高さかけて割る2だ……」
「それは三角形の定理……うぐぅ……それにボク、江戸っ子じゃないよ〜っ!」
 目を擦って時計を見てみる。
 うわ、まだ六時半じゃないか!
 ……ということで、お休み……。
「お休み、じゃないよ〜っ!」
「さっきからうるさいなぁ、一体なんだよ!」
 こりゃあ相手してやらないと寝かせてくれないなと観念し、俺はついにあゆに折れた。
「うぐぅ…」
「どうしたんだ。ホレ、さっさと言ってみな」
「うぐぅ、名雪さんが……名雪さんが、いなくなっちゃったんだよぉっ!」
「!?」
 あゆが泣きながら訴えかける。
 ……名雪がいなくなった?
「祐一」
 呼ばれて見たら、舞だった。
「ちょうどいいところで来てくれた。名雪知らないか?」
「私もそのことで、祐一に聞きに来た」
「そ、そうか……」
 落胆した俺を心配してくれたのだろうか。舞は説明を続けてくれた。
「昨日、部屋に入れてくれなかった。だから、真琴の部屋で三人で寝た。朝起きて部屋を
見に行ったら、名雪がいなかった」
 真琴も外からその様子を覗いている。
 でもその様子だと、名雪を知ってる訳無いよな。
「あゆ、秋子さんには言ったのか?」
「ううん、まだ言ってない。って言うか……秋子さん、まだ起きて来ないんだよ」
「どうしような。秋子さんには、必要以上に心配させたくないし……」
 そこまで言いかけて、俺は昨日のことを思い出してしまった。
 そうだ。秋子さんにとって、名雪はどうでもよかったんだ。
 だったら関係ない、そのまま、ありのままを言えばいいんだ。
 あゆたちとも会いたくないという気持ちは今はもうない。
 でも、秋子さんだけは別だった。
 半ばヤケになって俺は部屋を出、階段を降り始めた。

 あとから、舞だけがついてくる。
「あゆ達はどうしたんだ?」
「騒ぎすぎてお母さんを余計に心配させるから、祐一の部屋に残した」
「そうか…」
 『お母さん』か……舞はそうやって呼ぶんだな、秋子さんのこと。
 かく言う俺も、あれだけ憎むべき存在の秋子さんを、まだ『さん』付けしてるんだな。

 ……いや、待てよ。
 秋子さんの昨日の様子……。
 家族が増えて嬉しいと言った。
 名雪を、そして家族を誰よりも愛した、秋子さん。
「もしかして、とんでもない過ちを犯してしまったんじゃ……」
「豚(とん)でもなければ、牛でもない」
 ポカッ!
「痛い、祐一…」
 俺はチョップを舞の後頭部にお見舞いした。
 いや、今はそんな時ではない。
 あとからよくよく考えれば、それは、俺の不安を取り除いてくれようとした、舞なりの
優しい心遣いだということが解るのだが、今はそれどころじゃない。
「秋子さん……ッ!」
 階段の中腹から、全速力で駆け下りて秋子さんの部屋へ向かう。
 嫌な予感がする、今度はハッキリと。
 いや、予感ではない……確信だ。
「秋子さ〜〜〜んっ!!」
 俺は名雪の、そして彼女たちの心の母の名を呼びながら、その扉を勢いよく開けた。

第11楽章【雪を待った日】

 秋子さんは、部屋にはいなかった。
 まさか手首を切って、と言うことも考えられたが、秋子さんは家族を見捨てるような、
置いて行くような、薄情な人じゃないはずだ。薄情なのは俺の方だ。
 何故、昨夜俺は冷静になって考えられなかったのだろう。
 秋子さんほどの人格者を、そんな薄情な人だとどうして思ってしまったのだろう。
 秋子さんは血も繋がってない名雪を本当に愛して、慈しんで……。
 そうだ。昨日のあの態度は、別に冷たい訳じゃなかったんだ。
 みんなに……真琴に、あゆに、舞に心配をかけたくなくて、それで言えなかったんだ。
 秋子さんは、本当は名雪に言いたくて仕方が無かったんだろう。
 俺だけではなく、名雪にも、きっと言いたかったんだ。
 今まで言う機会を逸していたか……それとも名雪が成長するまではと、暖かく見守って
いただけだったんだ。ただ、それだけだったんだ。
 それなのに、なまじ俺が聞いてしまったせいで、名雪にも不本意な形で知られることと
なり、そして……そう、名雪にも、考える時間が必要だったんだ。
 名雪は、あのときはただ、ゆっくりと考えたいだけだったんだ。
 そんな名雪に俺は必要以上に、執拗に迫った。名雪を余計に混乱させた。
 そして俺は、秋子さんにとって知られたくない、心配をかけたくない、真琴たちがいる
リビングに最悪のタイミングで名雪を赴かせ、結果、俺自身が名雪を傷付けてしまった。
 あの駆け落ちの話がトドメになったんだろうな。
 秋子さんの真意に名雪が気付いたかどうか走らないが、恐らく……。
 さぞかし俺を恨んだことだろう。そう考えると、胸が潰れるくらいに痛む。
 ホントに恋人失格だよ……7年前から、今も変わらず。
 俺は名雪と秋子さんに心底、謝りたくなった。
 きっと土下座しても足りないだろうな。

「……祐一」
 突然のことだから驚いた。舞が声を殺して俺を呼んだ。
「玄関の外、人の気配がする」
「え、外に……?」
 舞に促されて玄関に早足で向かう。
 なるべく足音を立てずに。
 玄関の鍵は開いていた。
 ふたつとも開いている。
 ……でも、誰だ。
 名雪が帰ってきたのか?
 でも、そもそも名雪がどこにいるのか自体、俺たちには解らないし……。
 まさか名雪こそ風呂の中で自殺とか図ってないだろうな!?
 そう結論付けて、俺が風呂場の方へ引き返そうとしたときだった。
「お母さん……」
 舞が呟いた。……お母さん?
「まさか、秋子さんか!?」
 舞がコクッと頷いた。秋子さんが、外に?
 確かにもう春も中旬を過ぎたし、いくら凍え死ぬことは無いからって……。
 俺はもし玄関の外に秋子さんがいたらいけないと思い、扉を静かに、そっと開けた。

「……祐一さん……舞、ちゃん……?」
 舞の言う通り、秋子さんは玄関の外にいた。
 正確に言うと、門のすぐ内側。
「名雪、どこに行ったんですか?」
 秋子さんがこんな所にいる動機。
 目の下には隈ができていた、それに目も赤い。
 恐らく何時間もここに立っていたのだろう。
「どこに、行ったんですか……?」
 俺は、同じ質問をただ繰り返す。
 舞も心配そうに秋子さんを見つめている。
「名雪は……遊びに行ったんだと思います……」
 秋子さんが頬に手を添えて、微笑みながら、ようやく口を開く。
 嘘だ。秋子さんはまた、俺達に心配を掛けまいと。
 きっと舞がここにいなくても同じことを言っただろう。
「さぁ、朝ご飯つくらなくっちゃ……」
 名雪はきっと秋子さんに何も言わず、水瀬家を出て行ったのだろう。
 そうでなければ、秋子さんがこんな所でいつまでも待っていた訳がない。
 名雪が出て行ったことをすぐ察して、でも、きっと帰ってきてくれると信じて、恐らく
ずっと一睡もせずに待っていたに違いない。
 名雪。お前が出て行ったことについて、俺は何も責められない。
 でもな、昨日あれだけ甚だ勘違いしといてなんだけど……秋子さん、こんなにもお前の
こと、心配してるんだぞ、愛しているんだぞ!
 ……解ってるのかよ、名雪……。

第12楽章【雪の消えた杜】

 久々に一人で登校した。
 俺と名雪でセットとして見られていたことが、こういうときに解る。
「今日は水瀬さんと一緒じゃないのか?」
「なゆちゃんとケンカでもしたの?」
 クラスに入った途端……いや、昇降口でさえこれだ。
 その中で本当に心配してくれたのは、香里と北川くらいのものだ。
「おい相沢。水瀬はどうしたんだ?」
「相沢君、また名雪に何かしたの?」
 また、とは失敬な。
 でも実際、俺のせいなんだもんな。
 ギリギリまで待ったが、ついに名雪は戻らなかった。
 俺まで学校を休む訳にはいかず、仕方なく一人で登校したのだった。
「……あいつ、家出したんだ」
 クラスメート――友達に、余計な心配は掛けたくなかった。
 いや、余計ではないだろう。
 とにかく、気が付いたら事情を二人に話していた。
「……俺のせいなんだ。俺が、名雪を家から追いやったんだよ」
「どうして!」
 北川が声を張り上げた。
 そうは言ってみたものの……。
 秋子さんが実の親ではないなんてこと、口が裂けても言える訳がない。
 それこそ余計な心配をかけてしまう。
 理由は、本当のことは、話せない。
 しかしだからと言って、別の理由も思い付かなかった。
「相沢君、ちょっと……昼休み、私と学食行かない?」
「……香里?」
 何か話があるのだろうか。
 香里がこういった顔をしたときは、何か訳アリなのだ。
 しかし、北川にはその表情は伝わらなかったらしく、
「おい、ちょっと待てよ美坂。今はそんな話をしてるんじゃない。それに、学食はみんな
で行くものだろう。しかしそれも相沢が水瀬を」
「北川君はちょっと黙ってて!」
 切羽詰ったような口調で、珍しく香里が声を荒立てた。
 今ので勢いが削がれたらしく、北川もブツクサ言いながら席に戻った。
 それにしても、香里のあの様子……もしかして、名雪の居場所を知ってるのか?

 キーンコーンカーンコーン……。
 昼休み。北川は結局、あれから始終無言だった。俺にも、香里にも……。
 そして今も、チャイムが鳴ったと同時に食堂へ直行してしまった。
「じゃあ行きましょうか、相沢君」
「あ、ああ……」
 香里に促され、俺たちも食堂へ移動する。
「なぁ……栞、元気にしているか?」
 本当は、そんなこと聞く気は無かった。
 名雪のことを聞かねばならない。
 でも確信を聞くときってそうだよな、どうしても躊躇してしまう。
「ええ、元気にしてるわよ。今までの分を取り返そうと、必死になって頑張ってる……」
 そんなこと関係ないでしょ、と返されるかと思ったのだが、香里は普通に返してきた。
 そうか。栞はもう大丈夫なんだな、安心したよ。

『好きであれば好きであるほど、別れが辛くなる。
 それこそ、越え難いくらいに。
 怒られたり恨まれたりしてくれた方が、まだマシだった。
 でもあの子は笑って、笑って、わら…って……。
 ねえ相沢君、あの子……一体何のために生まれてきたの?』

 以前の香里の言葉を思い出した。
 そうだよな、もう香里はあんなつらい目に遭わなくてもいいんだよな。
 だったら、俺と名雪を冷やかす暇があるのなら、北川の気持ちも解ってやれよ。
 なんてのは、俺のお節介かな。それに、今はそれどころじゃないし。
 でも、どちらにせよそんなこと口には出せなかった。
 香里はいつのまにか、朝と同じ、元の真剣な表情に戻っていたからだ。
 食堂まであと少しという所で、香里がふと口を開いた。
「相沢君……名雪、私の家にいるわよ」

 

 

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