第1楽章【寝起き】

 心地よい朝の目覚め。
 まだ少し寒いけど、布団から出るときの苦痛感は少し薄れてきたようだった。
 桜の花びらが舞う季節。
 もう、タイヤキの季節でもなくなったな……。
 でも、アイスはやっと食べてもおかしくない季節にはなってきた。
 牛丼や肉まん、それに……イチゴサンデーなんか、季節とか関係ないだろうけどな。
 それにしても、イチゴサンデーか――あいつ、本当にイチゴ好きだよなぁ。
 さて、今日も名雪を起こしてやるか。
 ……約束、したもんな。

「うぐぅ…それ、ボクの肉まん〜っ!」
 廊下に出ようとした途端、あゆの悲鳴が聞こえてきた。
 ……まただ、まただよ。
「違うも〜ん、これはアタシのだも〜ん♪」
 続いて真琴の嬉しそうな声。まぁいい、いつものことだ。
 ドアノブを回して、祐一は廊下に出た。
「あ、祐一君っ!」
「よう、あゆ。お前、何やってんだ?」
「見ての通りだよ〜」
「いや、見て解らないから聞いてるんだけど」
「うぐぅ…真琴ちゃんに、肉まん取られたぁ!」
「だろうな」
 やはり、いつものことだった。
 すかさず真琴が反論する。
「これはアタシの分の肉まんだもんっ。それに、勝手にちゃん付けしないでよぉっ!」
「真琴ちゃんは、真琴ちゃんだよ」
「いいもんっ。それじゃあアタシも、あゆちゃんって呼ぶもんっ!」
 おい、それって全然違和感が無いと思うぞ、俺は。
「えぇええぇぇーーーーーーーーーーーーっ!?」
 しかし、当のあゆは相当ショックを受けているようだった。
「やめてよぉっ、ボクの方が年上なのに」
「えっ? アタシ、同い年かと思ってた……」
「違うよっ。だってボク、祐一君や名雪さんと一緒だもんっ!」
「え、そうだったのか? 俺はまた、てっきり……」
 そんなこと解ってはいたが、わざとからかってみる。
「てっきり……何かな?」
 冗談が通じてないのだろうか、あゆの声は顔と違って全然笑ってはいなかった。
「うぐぅ…」
「うぐぅ、真似しないでっ!」
 祐一が笑うと、つられて真琴も笑った。ますます顔を真っ赤にして怒るあゆをからかい
ながら、時間は過ぎていく。
「おっと、危うく我を忘れるところだった。早く名雪を起こさなきゃな」

 まだ仲良さそうに喧嘩する二人を置いて、祐一は名雪の部屋に入った。その瞬間。
 ジリリリリリリリ、ジャンジャンジャンジャン、リングリングリングリング、と大音量
に耳を襲われ、祐一は床にうつぶせてしまった。
「あ、相変わらず、シャレになってねーぞ…これは」
 ひとつひとつベルを止めていき、最後のベルも止めると、祐一は名雪の体を軽く揺すっ
たが……やはり起きない。今度は頬を軽く叩いてみる。
「にゅう」
 謎の言葉と共に、名雪の目が少し開かれた。
「起きろ、名雪。朝だぞ!」
「んにゅ…?」
「先に下、行ってるからな! 早く行かないとイチゴジャム、全部食っちまうぞ!」
「ん……んぁ、待ってよ〜」

第2楽章【朝食】

 ダイニングに行くと、既に食卓に料理が並べられていた。
 白いご飯にワカメと豆腐の赤だしと漬け物、目玉焼きとそれから和風サラダ。
「おはようございます、祐一さん」
「あ。おはようございます、秋子さん」
 秋子さんが気持ちのいい朝に相応しい、爽やかな笑顔を返してくれる。
「名雪も、おはよう」
「んにゅ、おはようございまふ…」
 若干まだ寝惚けているようだったが、取り敢えず、早く朝飯食べて学校行かないとな。
 それにしても……。
「いつから、ここの朝食は和食になったんですか?」
「あら、それは決まっていますよ」
 秋子さんが微笑みながら手を頬に当てる。秋子さんらしい仕草だ。
「あの娘が来てからですよ」
「あのこぉ?」
 祐一は当然の質問をする。名雪はそんなやり取りなど気にも止めず、半分寝ながら器用
に朝食を進めている。
 祐一は何かを思いだしたかのようにポンッと手を叩いて、
「そっか、あゆだ!」
 ……ポカッ。
 無言チョップによるツッコミ。この技は。
「ゴメンゴメン。冗談に決まってるじゃないか!」
 ツッコミ主を振り返る。振り返るまでもなく、それが誰なのかは解っているのだが。
「嘘つきは泥棒の始まり…」
「そうだな、舞」
「今日も舞ちゃん、朝ご飯のお手伝いしてくれたんですよ。ありがとう、舞ちゃん」
「そうなのか? ありがとな、秋子さんの手助けしてくれて」
「いや…すること、無かったし…」
 やはり半分寝ながらだが、祐一に続き名雪も、
「むにゃ…ありがとう、舞さん」
 照れる舞。少しだけ顔を赤らめて。僅かにだが、口元が笑っていた。
「別に、暇だったし……それに『舞』でいい」
「舞……――って、おい! 時間はどうなんだ、名雪!」
「え、だって時間……うわ、走らないと間に合わないよ〜」
「なにぃいいぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!?」
 慌てて水瀬家を飛び出す二人。
「待ってよ〜、ボクを置いてかないで〜っ」
 同じく慌てて付いてくるあゆ。
「ボクも学校あるんだから、途中まで一緒に行こうよ〜っ」
「お前の場合、中学校だろ?」
「うぐぅ、だって仕方が無いんだもんっ」
「まぁ…そうだな」

 そう、奇跡は起きた。
 あゆは7年間の眠りから覚め、真琴は人間として水瀬家に帰ってきた。
 栞も病と闘いながら死の淵からの生還を果たし、秋子さんや舞も無事助かった。
 引取先のないあゆと、同じく実は母親が既に亡くなっていて家計が苦しい舞を秋子さん
は引き取ってくれた。無論、元から家族だった真琴は言わずもがな……。
 何故、秋子さんがこんなに大勢の娘を養えるほどのお金があるのか、一体どんな仕事に
就いているのか、名雪の父親……つまり、秋子さんの夫はどんな人だったのか、秋子さん
て一体何歳なんだ……と、疑問と興味は尽きない。
 だが、それもどうでもいいことだった。
 目の前にある現実。恐い程に平和で、物凄く楽しい日常。
 俺には、それだけでよかった。
 それに、俺は……。
「ん? どうしたの祐一、私の顔に何か付いてる?」
「あ、いやっ? ななな、何でもないって! アハハハハハッ……」
「ふ〜ん」
 それ以上は何も追求してこなかった。
 ありがたいと言うか何と言うか、流石は名雪だ。
 だが、本当に俺はそれだけで十分幸せだったのに……。
 それを知ってしまったのは夕方のことだった。

第3楽章【放課後】

 キーンコーンカーンコーン……。
 STが終わり、やっと放課後になった。
 今日も暖かくて気持ちのいい一日だったな。
「祐一、授業中ずっと寝てたからね」
 ……そうとも言う。名雪はおっとりしているように見えて、ツッコミは結構鋭い。
「相沢君、それでも受験生? 私達、もう三年生なのよ?」
 名雪に続いて香里までもがそんなことを言う。
「そうだぞ相沢、お前そんなんでいいのか」
「あら、北川君にだけは言われたくないと思うけど」
「何を〜っ?」
「何よ?」
 香里と北川の夫婦漫才を無視し、祐一は隣で帰り支度をしている名雪に呼びかけた。
「なぁに、祐一?」
「いや、一緒に帰ろうかと思ってさ」
「ゴメン…私、今日も部活があるんだよ…」
 本当に申し訳なさそうな名雪。そんな光景を見て、すかさず冷やかす北川。
「お。相沢、振られたな」
「…そうか、部活なら仕方ないよな」
「うん…本当に、ゴメンね…」
「いいって。なら昇降口まで一緒に行こうぜ」
 名雪はその台詞に満足したかのように微笑むと、
「うんっ」
 ふたりは揃って教室を出ていった。
 取り残された北川と、その様子を哀れむような呆れたような目で見守る香里。
「美坂、もしかして俺、無視されたのか?」
「まぁ、ふたりの世界に干渉するのは無粋ってことなんじゃない?」
 香里の同情とも忠告とも受け取れる言葉に、北川の背が小さく見えた。

「じゃあ家でね、祐一」
「ああ、またな」
 昇降口で名雪と別れると、祐一はまっすぐ商店街に向かった。
 別に大した用もなかったが、家に直行してはいけない気がした。
 根拠はない、直感がそう言っているだけだ。あくまで気分の問題なんだ。
 しかし、そう思えば思うほど、不安な気持ちは大きくなっていく……何故だ?
「あ、祐一さんだーっ」
 突然に俺を呼ぶ声。この明るく不安を吹き飛ばしてくれるような、優しく暖かい声は。
「ようっ、佐祐理さん。久し振りだなぁ」
「お久し振りです祐一さん。舞、元気にしてますか?」
「ああ、元気にしてるよ。それに少しだけだけど舞のヤツ、笑うようになったんだぜ」
 祐一の言葉に佐祐理は目を見開いた。
 最初は驚きの表情だったが、それも自然の内に笑顔に戻っていく。
「あははーっ、そうなんですか?」
「朝食の準備で舞が秋子さんを手伝ってくれたらしくてさ。その礼を言ったときに、少し
だけだけど、こう……フッと笑ってくれたんだ」
「ふぇーっ、そうなんですか? 佐祐理も見たかったです…」
 少し、佐祐理の表情がスッと翳った。
 寂しそうな、無理につくっているような笑顔。
 祐一は我に返った、気付いてしまった。
 ……そうだ、本当は佐祐理さんだって舞のこと……。
舞はやはり、水瀬家に来なかった方が――。
「ゴメン、佐祐理さん」

第4楽章【商店街】

「なっ、何で謝るんですか?」
 佐祐理は本当に解らないと言うような顔をして、だが本当は、心を読まれたかのように
焦った顔をして、祐一に問い返してきた。
「だって佐祐理さん、前に言ってたじゃないか。舞を、幸せにしてみたい……やっと自分
のしたいことが見つかった、って。だから……」
「祐一さん!」
 言葉を遮った佐祐理の声は震えていた。
 声だけではない、肩をも震わせている。
 自分の言葉が却って佐祐理を追い込んでいる。
 ……何をやっているんだ、俺は……。
「舞は今、幸せですか?」
「え? あ、ああ…」
「だったら……だったら、いいじゃないですかっ」
 そう言って、佐祐理はやっと伏せていた顔を上げた。
 笑顔だった。屈託のない、佐祐理さんらしい笑顔だった。
 ただひとつ、一筋の涙が頬を伝っていることを除けば。
「佐祐理さん…」
「今度、遊びに行っていいですか?」
「あ、ああ。いくらでも遊びに来てくれよ。舞も喜ぶだろうし。それこそ毎日でも」
「大学があるから、毎日は無理ですね……」
 佐祐理が珍しく苦笑いをしてみせた。
 いや、多分無意識的になのだろう。
 そうだ、舞は大学には行っていない。
 佐祐理と一緒に同じ大学を受けたものの、舞だけは落ちてしまった。
 舞は佐祐理に心配と迷惑をかけまいと、そのことは言わなかったのだ。
 だが、あのときの佐祐理さんの悲しみったらなかったよ。
 なぁ舞、お前これで本当によかったのか?
 佐祐理さんが一体どんな想いでいるか……。
「忘れたんですか、祐一さん? 佐祐理と舞は未来永劫、死んでしまっても、永遠に親友
なんです。その事実は変わりません。もちろん、祐一さんとも……忘れないで下さいね」
「そう、だったな……だったら、今からでも家に来ないか?」
「あははーっ……今日は遠慮しておきます。用事がありますので」
 それとなく避けているような反応。
 いや、佐祐理さんに限ってそんなことはないだろうけど。
 でも、とても寂しそうだぞ……って、俺のせいか……。
「それではーっ」
「ああ。またな、佐祐理さん」
 祐一は夕暮れの商店街の中を去りゆく佐祐理を、いつまでも見送っていた。

「祐一君っ!」
夕暮れの商店街を歩いていると、祐一はいきなり後ろからタックル攻撃を食らった。
勢い余って攻撃を仕掛けてきた奴と一緒に倒れる。
「タイヤキ食逃げ女の攻撃。祐一は123のダメージを受けた。祐一は死んでしまった」
「うぐぅ……ボクもうそんなことしないし、攻撃力もそんなに高くないもんっ!」
「だったらぶつかってくるなよな〜…イテテ…」
「ボクはただ、祐一君を見つけたから嬉しくて抱き付いただけだよ〜」
そうなのだろう。あゆにとってはこれで普通なのだ。
「で、一体何の用だ?」
「だから、ボクはただ…」
同じ答えが繰返されそうなので、祐一はあゆの言葉を手で制した。
「それにしても、カワイイ女性5人の中に男は俺だけ、か……まさにハーレムだよなぁ」
「え? ハーレムって、どこかのバイオリン弾きの勇者?」
「そりゃハー○ルだろ…って、なんじゃそりゃーっ!」
祐一は思わず、自分の達した結論という名のツッコミに自分でツッコんでしまった。
「自分のツッコミに対して自己ツッコミしてたら、世話無いよ〜」
あゆにだけは言われたくないぞという言葉をグッと飲み込んで、祐一は咳払いをした。
「さて、と……頃合いだし、そろそろ帰るか?」
「頃合い? 何のこと?」
言ってから、祐一はしまったという表情になる。
「い…いいからっ、とにかく帰るぞ!」
「うぐぅ…教えてよ〜」
「早く来ないと置いてっちゃうぞ〜っ!」
「うぐぅ…待ってよ〜」
不安は、まだ消えてはなかった。だが、祐一は考えまいとして、ただ走った。
考えても仕方が無い。そうだ、俺は何を弱気になってるんだ。
 家主はあのおっとり最強の秋子さんだぞ?
 何事も起こる訳、無いじゃないか!
(もっとも秋子さんは1月末に事故ったけど…)
必死についてくるあゆと、祐一は必要も無いのに懸命に走った。
これから水瀬家に起こる事件を、このとき二人は知る由も無かった……。

第5楽章【帰宅】

 水瀬と書かれた表札を前に、門に手を置いて休む二人。
「ハァ、ハァ……うぐぅ……祐一君、早いよ〜」
「あ? ああ、スマン。ちょっと急ぎすぎたか?」
 息を切らしたあゆが祐一に文句を言う。
 やっぱり名雪相手じゃなきゃ本気で走っちゃいけないな。実感。
「まぁ、ともかく無事帰宅したんだ。いいじゃないか」
「よくないよっ! 祐一君、走らなきゃいけない理由でもあったの?」
「い、いやっ、別に…」
 あゆを何とかしてなだめながら、祐一は門を潜った。
 と。玄関に見慣れない靴が一組あるのに気付く。いや、この靴は……。
「あれ? それ、誰の靴?」
 祐一の肩から覗き込んでいたあゆが当然の質問をした。
「お客さんでも来てるんだろ」
 でも、と辺りを見回して、あゆが言った。
「秋子さんと舞さん、出かけてるみたいだよ? 名雪さんは…」
「名雪は部活。秋子さん達は買い物だとして…」
 独り言のような祐一に対して、あゆは急に慌て始めた。
「もしかして、泥棒かもっ!」
 その単純な発想に対して、祐一は思わず笑ってしまった。
「何だよぉっ!」
「玄関でわざわざ靴を脱ぐような、そんな律儀な泥棒がいてたまるかっつーの!」
「うぐぅ…そんなに笑わなくても…」
「でも、安心しな。確かにこの靴の主はお客さんだよ。もう一人の住人の、な」
 そうだ。この靴は多分、十中八九、彼女のものだ。そう、真琴の友達。
 真琴のことをずっと心配して、消える寸前の永遠と解っていた別れの時でも、真琴と
の再会を約束し、望んだ……俺なんかよりもずっと、毅然としていて強いヤツだ。
「おじゃましています、相沢さん」
 祐一の心を読んだかの如きタイミングで、彼女は二人の前に現れた。
「オッス。久し振りだな、天野」
「相沢さんも、お元気にしておられましたか?」
「まぁな」
 あゆが怪訝な顔をしていることに気付いて、祐一は慌てて紹介をした。
「あ、ああ。彼女は俺のひとつ後輩の天野美汐。真琴の唯一(失礼)の友達だ。んで、
こっちは月宮あゆ。元・タイヤキ食逃げ女だ!」
「うわっ、何てこと言うんだよ〜……じゃなくって、初めまして。月宮あゆです」
「天野美汐です。以後、お見知り置きを」
「相変わらず言い方がオバサンくさいな」
「ですから、物腰が上品だと言って下さい」
 少し顔をしかめながらも、柔らかく、慈母のように微笑みかける天野。
 靴を脱いで玄関に上がると、天野は鞄を持って玄関に降りかけた。
「もう帰るのか?」
「はい、真琴とお話もできましたし」
「そうか、じゃあな」
「美汐、またね〜」
 いつの間にかいた真琴が、天野に一生懸命手を振っている。
「それではさようなら、真琴。相沢さんに……あゆさんも」
「あ、うんっ。またねっ、美汐ちゃん!」
 あゆが嬉しそうに微笑むと、天野はみんなに見送られながら帰っていった。

 祐一の部屋、まだ夕飯には少し早い時間。
 考え事をしていた。帰宅時に突如、正体不明の不安感に襲われたこと。
 あれって、結局何だったんだ?
 やっぱりただの気のせいなんだろうか……う〜、気になる……。
 真琴の部屋から賑やかな声が聞こえてくる。
 ……あゆと真琴、また何か言い合ってるな。
 そう言えば、あの二人って同じ中学校に通っているんだよな。
 何故実質高校三年生のあゆが中学校に通えるのかは謎だけど、そこは秋子さんが何とか
したんだろう。
 ま。あの二人は一緒の部屋で生活しているんだし、喧嘩するほど仲がいいって言うし。
 舞は……そう言えば、名雪の部屋で生活しているんだよな。
 あの二人って、普段の会話ちゃんと成立してるのか?
 今朝は少し話してたけど、疑問だ……。
 そこまで考えて、祐一はトイレに行った。
 考え事があるときはトイレと相場は決まってる――って、マジか?
 用を足してトイレから出ると、何やら人の声が聞こえてきた。
 どうやら発生源は秋子さんの部屋らしい。
「安心して、あなたの娘は……名雪は、健康でまっすぐな子に育っているから……」
 秋子さんの声は震えていた。
 祐一は何となく罪悪感を感じて、その場を去ろうとした。
 ……だが。
「名雪が本当の娘じゃなくても、私は……あの子を、心から愛しているから……」
「秋子さんっ!?」
 祐一は無意識に秋子さんの部屋の扉を開けていた。聞かずにはいられなかった。
 肩を大きく震わせてこちらを向いた秋子さんの頬には、一筋の涙が流れていた。

第6楽章【真実という名の残酷】

 秋子さんの独り言を偶然聞いてしまった祐一。
 お互い戸惑いの顔は隠しきれない、あの、秋子さんですら……。
「あ…祐一さん…」
「あのっ、やっぱり、俺は何も聞いてないですからっ!」
「祐一さんっ!」
 慌ててその場を去ろうとする祐一を、同じく慌てて秋子さんは引き留めた。
 その表情、様子は、いつもの秋子さんではなかった。
 切羽詰まったというか、とにかく尋常ではない、ただならぬ気配が見受けられた。
「話を、聞いて……頂けませんか?」
 秋子さんが懇願するように祐一に呼びかける。
「聞いて欲しいんです……祐一さんにだけは」
 祐一は落ち着いて秋子さんに向き直った。秋子さんの目には、先程とは別の涙が浮かん
でいる。とても不安げに、そしてまるで子供のように、何かに怯えていた。
「……はい」
 秋子さんを安心させるために優しく頷いてみせる。
 するとようやく秋子さんはいつもの微笑みを取り戻した。
 閉じた目から、また涙が幾粒かこぼれ落ちた。

 二人は、リビングのソファーに向き合って腰を落ろした。
 ややして、秋子さんは少しずつ祐一に事情を話し始めた。
「私の夫は、人間ではありませんでした」
「は?」
 唐突にあまりにも無関係と思われる話を持ち出されて、思わず聞き返してしまう。
 無関係と言うより、言葉の意味が理解できなかった。
「人間では…なかったんです…」
 秋子さんの暗い表情を見て、祐一はつまらないことを聞いてしまったかなという罪悪感
に襲われて頭をかいた。と同時に、あることを思い出した。
「秋子さん、それって……真琴と一緒の!?」
「……ええ、妖弧だったんです。私の、最愛の夫は……」
 そうだったのか、真琴の正体を知ったときの、あの納得の表情の理由は。
「でも、死んでしまった。人間になる奇跡は、命と記憶を代償にしますから……」
「そうだったんですか…だったら、名雪は…」
 手で顔を伏せて涙をひたむきに隠していた秋子さんの肩が、ビクッと震えた。
「名雪は、私の……本当の娘ではないんです」
「えっ!?」
 意味がよく解らなかった、名雪は秋子さんとその妖弧の娘ではなかったのか?
 でも確かに秋子さんはさっき、そんなことを独り言ちてたし……。
 祐一の思考を呼んだのか、秋子さんはそのまま説明を続けた。
「私は高校を卒業後、すぐ彼――妖弧と結婚しました。でも、一年と経たない内に死んで
しまった。そしてまもなく、私の親友の美冬も亡くなったんです」
「美冬…さん……?」
 初めて聞く名前だ。祐一は秋子さんの話を待った。
「美冬は可哀想な子でした。中学三年生の時に妊娠して、でも法律上は結婚できないので
その赤ん坊の父親と籍だけ入れて――。でも、その人は蒸発してしまったんです。美冬は
嘆きました。その人を本当に、信じて…愛していましたから…」
 その時の様子を思い出したのだろうか、また涙が溢れ出す。
 あるいは親友の気持ちを汲んでの、その男への腹立たしさ、悔しさからだろうか。
「美冬は芯の強い子でした……でも生来病弱だったんです。だからやっぱり、そのことで
相当堪えたみたいで……それから、苦しみながら亡くなったんです……」
 いよいよ秋子さんは堰を切ったように泣き始めた。
 涙が止めどもなく溢れ出て、乾きかけた何本もの涙の跡を再び濡らした。
「あっ、あの……もしかして、名雪は……!」
 秋子さんは嗚咽を漏らしながら、しかし出来るだけ声を落ち着かせて、
「……名雪は、美冬の娘なんです……私が彼女から託された、当時3歳の女の子……」
 秋子さんの告白。ショックだった。
 とても信じられないことだった。
 あの小さな頃から仲良しだった、幼なじみのいとこの少女が。
 あの微笑ましいくらいに仲良しな、羨ましいくらいに平和なこの母娘が。
 本当の母娘では……ない?
「お願いしますっ! あの子には、言わないで下さい……今は、まだ――……っ!!」
 そこまで言うと、秋子さんは再び堰を切ったように泣き始めた。
 子供のように泣きじゃくる、初めて見る悲痛な姿の秋子さんだった。
 混乱しながらも、祐一が秋子さんを安心させようと肩を抱こうとした、そのとき。
「そう、だったんだ……」
 身を以て実感する。神様って、時に悪魔よりも残酷だよな。
 振り返ったら、部活帰りの名雪が立ち尽くしていた。

 

 

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