第17楽章【失意の底から】

 ツー、ツー、ツー……。
 受話器から断続的な電子音が鳴り響く。
 親機から垂れ下がったまま、頼りなく揺れるそれを取ることもなく。
 俺は電話が切られたあとも、その場にただ立ち尽くしていた。
 名雪が、肺炎で、市民病院に運ばれて、いま危険な状態にいる。
 打ち震える声に聞いた話を簡潔にまとめれば、そういうことらしい。
「でも、どうして……」
 理由がまったく思い付かなかった。
 持病とか心肺機能が弱いとか、そういうのは無かったはずだ。名雪には。
 どう考えてみても、そんな気配や兆候は一向に……。
「……いや、待てよ」
 昨夜の様子を思い出してみる。
 贈り物を見つけ出したあと、確か、かなり熱が高くて……。
「まさか……あいつ!!」
 ふと思い至って、俺は自室へと駆け戻った。
 扉を乱暴に開ける。視界に入る物体。思わず駆け寄る。
 机に置かれたカチューシャと、もうひとつの贈り物を見て、俺は愕然とした。
「あのバカ、やっぱり……」
 土に汚れ、ボロボロに綻びていたはずの羽根リュックは……奇麗に修復されていた。
 無理を押して、徹夜で作業に勤しんだのだろう。
 容易に想像できる分、俺は念を押さなかったことを今更のように後悔した。
 羽根リュックを持ってみると、ひらり、ひらりと数枚の紙切れが舞い落ちた。
 手に取り、すぐに気づく。それが手紙だということに。
 差出人は……言うまでもなかった。


 『 羽根のリュック、ちゃんと直しておいたよ。
   結構大変だったんだよ。本当に苦労したんだから。
   でも、お母さんの力は借りなかった。借りたくなかった。
   これは私たちの問題だし、それに……私自身の問題でもあるんだから。

   あのね、その……ここから先を読んでも、怒らないでね。
   羽根のリュックを直したの、本当は……あゆちゃんのためじゃないの。
   断言はできないけど……きっと、そうなんだと思う。理由は言えないけど。ね。

   祐一の悲しい顔、苦しむ姿は、もう見たくなかったから。
   だから私は諦めてたんだけど、でも、祐一は思い出しちゃったんだよね。
   「お前のせいだろう」って言われたとき、驚いたけど……でも、その通りだよ。
   私が祐一を苦しめ続けたのは事実だと思う。
   考えれば考えるほど、すべての原因は私にあったように思う。
   本当は私が謝らないといけないはずなのに……祐一に謝られるのが怖かった。

   また、祐一が私の近くから居なくなってしまうんじゃないか……。
   また、祐一が私の届かない、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないか……。
   そう思えて、気がついたら、逃げ出したあとで……また、深く後悔して。

   罪滅ぼしって訳じゃないけど、羽根の贈り物、無理してでも直そうと思った。
   いますぐは無理だけど、私の体調が戻ったら、ふたりであの“学校”行こうよ。
   置いてけぼりはダメだからね……あんなのは、もうイヤだからね……。

   ……お願いです。私のこと、嫌いにならないでください。
   祐一が大切な人を見つける、そのときまで……従兄妹としてで構いませんから、
   いままで通り、私を……水瀬名雪を、嫌わないでください……。

                                 水瀬 名雪 』


 手紙には何ヶ所か文字の滲んだ部分があった。
 もしかしたら、最後の方は泣きながら書いていたのかもしれない。
「嫌わないで……って、そんな……逆じゃなかったのか!?」
 一昨日の夜、俺の謝罪に対して逃げるように部屋を出ていった名雪。
 あれは俺を避けたんじゃない、これ以上嫌われないようにと……そういう意味だった?
「……自分を責めすぎなんだよ、お前は……昔から、そして、いまでも……」
 名雪が無理を押してでもしたのは、羽根リュックの修復だけではなかった。
 この手紙を見ても、呼吸難の苦しみを相当に我慢しただろうことが容易に窺える。
 本来なら健筆なはずの文字の羅列が、まるで子供の落書きのように乱雑になっていた。
「無理して、壊れるまで無理して……何事も、自分ひとりで解決しようとして……」
 つくづく俺の従兄妹なのだと思い知った。
 どこか人並み外れた性格、そして、独りで悩みを抱え込むことが……俺と似ている。
 悲しみを綴(つづ)った手紙を離せないまま、俺はいつまでも震えていた。
 早く市民病院へと駆けつけないといけないはずなのに、ここから一歩も動き出せない。
「これ以上、俺が関わると……みんな不幸になる……」
 怖かった。不幸の種を撒き散らす、自分自身の存在。
 怖かった。水瀬家から、大切な従兄妹の笑顔が消えてしまうこと。
 怖かった。現実を認識することによって、自分の心が深く傷ついてしまうこと。
「……おれが、すべての事件の元凶……おれが、この街に帰ってきたから……」
 もう耐えられなかった。限界だった。
 かつて好きだった少女をこの世から抹殺して。
 心を閉ざしていた俺に常に笑顔を絶やさなかった従兄妹をも瀕死に至らしめて。
「俺のせいで、おれのせいでっ……おれのせいでっっ!!!」

《 そ ん な こ と な い よ 》

 ……声。優しく。すべてを包み込むような。
 うしろを振り向けないでいた。ここに居るはずのない声。響く。
 そっと伸ばされた細い指。歪んだ俺の視界をも柔らかく包み込んで……。
 ひんやりとした指の冷たさが目蓋に心地よかった。優しく涙を拭ってくれる。

《 さ ん に ん の や く そ く 》

 それだけ言うと、声の気配は忽然(こつぜん)と消えた。
 瞬間。見えぬ枷から開放されたように、その姿を求めて振り向く。
 しかし、其処に……大切な家族が、愛しい存在が、居るはずもなく……。
 しかし、此処に……涙を拭った跡、指の冷たさが、消えないでいて……。
「……名雪ッ!?」
 確かに彼女の存在を近くに感じた俺は、居ても立ってもいられなくなった。

 上着を羽織り、想い出の贈り物を胸に抱え込むと、俺は水瀬家を飛び出していた。



第18楽章【終曲(1)〜託された想い〜】

 吹雪のなか足を止める。見上げた先に、赤十字と『市立病院』の看板。
 膝が笑っていた、呼吸が苦しかった。だが、こんなもの名雪に比べれば……。
 そう思い直して、俺は病院の玄関口までラストスパートをかけた。
 自動ドアを潜り、広いロビーをフラフラになった足で素通りする。
 案内図を頭に叩き込み、奥へ奥へと進んでゆく。階段も何回か駆け上った。
 苦痛なんて感じられなかった。名雪の顔を見たい。それだけの想いで動いていた。
 ようやく最後の角を曲がったとき、視界に飛び込んできた文字に思わず立ち止まる。

   北棟3F(4301〜4324) >>
     管理棟(501〜520)  <<

 足が、無意識のうちに左に向いていた。
 夢に見た少女の居場所を、この目で確認しようとして。
 夢に見たあの“現実”を、この“現実”に結びつけたくて。

   【501】  月宮 あゆ

 だけど。必死に思い留まって。踏み止まって。俺は北棟へと足を向けた。
 途中、何度も振り返りそうになった。引き返しそうになった。でも、黙々と直進して。
 ……確かめるのが怖かったから!?
 ……そこにあゆの名前が無いと判りきっているから!?
 違う。俺は、もう二度と夢の世界に逃げ込んだりなんかしない。
 この先にどんな絶望と後悔が待ち受けようと、現実から眼を逸らさないように。と。
 それに、現実のあゆは……七年も前に……。
 唇を噛みしめ、爪が食い込むほど拳を強く握りしめて。
 先の電話が質の悪い冗談であってほしいと願い続けて。
 泣きたくなるような白い壁を、どこまでも追い続けて。
 やがて、それは……祈りも虚しく、俺の目の前に存在した。

   【4323】  水瀬 名雪

 カラカラカラ。レールの乾いた音。スライド式のドアを横に開けて。
 個室。ひらひらと風舞うカーテン。ベッドに肘を着いて疲れた果てた表情の母親。
「いらっしゃい、祐一さん……」
 にこりと微笑む。しかし、いつもとは明らかに違う。悲しい笑顔。
 夢で見た、動かないあゆを覗き込んだ、あの……悲しげな表情……。
「どうなんですか……名雪は」
 いまの秋子さんには最も残酷な質問とも思えた。
 でも、訊かずにはいられなかった。回避したくなかった。
 七年前の、あゆのときのような……おなじ過ちは繰り返したくなかった。
「判らないんですって、助かるのかどうかさえも……」
 彼女にしては珍しく、俺から視線を逸らして。声を震わせる。激しく。
 それもそのはずだった。ドアを開けた瞬間に聞こえた、名雪の苦しそうな声。
 荒い呼吸。時折、苦しそうに何度も咳込んで。また荒い呼吸……その繰り返し。
 ベットに近づき、横から様子を覗き見る。視界に入る全貌。
 刹那。俺は胸を鷲掴みにされたような激しい痛みを覚えた。
 顔の下半分を覆った大きな酸素呼吸器。細く白い腕に刺さった点滴の管。
 最後の逃避、あの夢での――変わり果てたあゆを彷彿とさせる様相。
「……なゆ…き…?」
 ぐらぐらと揺らぐ視界のなか。覚束ない足取りで。一歩。一歩……。
 横顔が近付くたび。視覚が鈍く麻痺して。心臓が音を立てて暴れ出して。
「秋子さん、教えて下さい……名雪がこんなことになった理由」
 横に置かれたパイプ椅子に掛けて、愛しい少女の手を握る。強く、優しく。
 ギュッ……握り返してくる。そこに自分の居場所を求めて。弱々しく、しかし力強く。
 夢とはいえ、臨死体験を一度している俺にとって、その苦しみは想像に難くなかった。
「どうしてっ、名雪が……こんな目に遭うんですか!?」
 同じ質問を繰り返す。同じ悲しみを共有し合える人間、いまはただひとり……。

「祐一さんを、たった一人で背負い帰って、風邪をひいたのに、無理をしていたんです」

 母親の口調は淡々としていた。
 混ざり合った負の感情を、決して見せまいとして。
「一人で、って、それ……おとといの話ですか!?」
「そうですよ……夜遅く、吹雪の中を……」
「でも名雪は、あゆと二人で連れて帰ってくれたって!!」
「……あゆちゃん? いえ、名雪一人でしたよ」
 やはり淡々と言う。悲しみも。怒りも。懸命に隠して。
 だとすれば、名雪は俺に余計な心配をかけまいと。嘘を通していたことになる。
 俺が名雪を責めたとき。贈り物を見つけ出した後。強引にでも彼女を休ませれば……。
 風邪は万病の元。小さな風邪が発端で、大病に発展してしまうことはままあることだ。

「俺が気づいて遣れなかったから……おれが、きづいてやらなかったから……」

 握り返された手を、両手で包み込んだまま、深い後悔に自分を追い込んで。
 声を震わせながら、漏れる嗚咽も、止めどもなく流れる涙も気にせずに。

「……ゆきゴメン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴメ……」

 俺は、ただ、謝り続けたかった。謝り続けるしかなかった。
 距離を遠ざけていたのは、名雪ではない。むしろ俺の方であったこと。
 七年前からずっと苦しめ続けてきたこと。いまも苦しめてしまっていること。

「……ン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴメン名雪ゴ……」

 声が続かなくなったら一呼吸、声が続かなくなったら一呼吸……延々と繰り返す。
 こんなことで名雪の苦しみを肩代わり出来るはずもない。だが、やめられなかった。
 まるで願掛けのように。まるで呪文のように。まるでお経のように。まるで――。

「もぅ……やめてくださいッ!!」

 背中に、暖かな感触。柔らかく包まれて。
 秋子さんに抱きしめられた。それを認識するのに、ひどく時間が掛かって。
「言ったじゃないですかっ……無理だけはしないで下さい、って……」
 怒っているのか。悲しんでいるのか。いままで以上に打ち震えた声。
「あゆちゃんが消えて、名雪が生命の危機に晒されて、祐一さんまでっ……」
 語尾に嗚咽が混じり、抱きしめられた腕の力がひときわ強まる。
「名雪のこと、本当に想ってくれているのなら……それ以上、自分を責めないで……」
 その声が。言葉が。俺の内面の、悲しみの周りに凝り固まった何かを打ち壊した。
 本当に想っているのなら。懸命に生きようとする、眼前の少女を、心から想うのなら。

「……秋子さん。おれ、行かないと」

 ややあって、そっと腕が解かれる。
 俺が立ち上がろうとすると、名雪の手の熱さがするりと離れた。
 一呼吸おいて振り向く。従兄妹の母親の、いつもの笑顔。たおやかな微笑み。
「名雪が、名雪で居てくれるから……私は、私で居られるんです……」
 悲しみを瞳の奥に宿した、いつもの表情、いつもの口調で。
 彼女が名雪の父親をどれだけ愛し、どんな別れを経験したかは俺には想像がつかない。
 しかし、家族を、大切な人を失う悲しみに、彼女が人一倍敏感であるのは知っていた。
「娘が、娘で居てくれるから……母親は、母親で居られるんです……」
 もう一度、にこりと微笑んで。閉じられた瞳から、一粒の雫が頬を伝って。
 秋子さんにしか出来ないこと。俺は、俺にしか出来ないことを。
 娘を大切に想う告白に黙って頷くと、意を決して歩き出す――あの場所へ――。
 扉に手を掛け立ち止まる。振り返らないまま、重々しく俺は口を開いた。

「秋子さん、ひとつだけ……訊いておきたいことがあるんです」

 自分で確認すれば済むこと。しかし、確認してはいけないこと。
「……七年前。結局、あゆはどうなったんですか?」
 沈黙。秋子さんは、何も返してはくれなかった。
 聞こえてくるのは、名雪の咳と、苦しそうな呼吸音だけだった。
「やっぱり……助からなかったんですか」
 さらに沈黙。肯定の意なのだろう、無理に答えを求めるのもはばかれる。
 今更ながら胸が痛む。あくまでも、夢は夢だった……そういうことなのだろう。
 知っていながら、あゆを家族として受け入れてくれた、彼女に多大な感謝をしながら。
 一体どんな想いでそうしてくれたのか……その胸中は、量りきれなくて……。
「……いってらっしゃい」
 秋子さんの明るく努める声に頭を下げ、俺は病室の扉を後ろ手でそっと閉めた。

 遮断性の高い扉の奥から、名雪の呼吸音に混じって、慟哭が聞こえたような気がした。



第19楽章【終曲(2)〜ときのかけら〜】

 不思議だった。森の小径に入ると同時に、あれほど激しかった吹雪が止んでいた。
 そうではない。振り返ると、向こうの街並みは霧に厚く覆われていて見えなかった。
「どうして森に入っただけで、完全に風が止むんだ……」
 見上げると、木々の遥か彼方に上空を垣間見ることができた。
 一瞬、俺は自分の眼を疑った。そこに広がる光景は、にわかには信じ難いものだった。
「……何が起こってるんだ」
 まるで台風の目のようにポッカリと口を開けた雲間から夕陽が差し込んでいた。
 森の上空だけを取り囲むように、周囲では分厚い雲がうねりをあげて回転していた。
 鮮やかで深く濃い夕焼け空。記憶の底にあった少女の死を連想させる、真紅の赤。
 見ているだけで吸い込まれそうだった。不意に、すべてがどうでもよくなった。
 足が軽くなったような気がした。身体が浮いていくような感覚。薄れる意識。

《ダメだよ……立って、祐一》

 声に導かれ、ゆっくりと目蓋を開けてみる。
 ……うをっ、いつのまに俺は地面で寝てるんだ!?
 全身が動くことを拒否していたが、何とか無理に立ち上がる。
 ふたたび見上げるが、もう二度と、空の赤に深さや違和感は感じられなかった。
「そうか、名雪……お前が守ってくれたんだな」
 分かっていた。いま名雪は必死に自分と闘っている。こんな場所に居る訳がない。
 それでも俺は信じたかった。俺の手を懸命に握り返してくれた、名雪の強い意志を。
 幻聴で構わない、むしろ幻聴であってほしいが……声が聞けて、嬉しかったよ。
「だったら、三人の約束……絶対に果たさいとな」
 不思議と寒さはなかった。この場に、確実に尋常ではない力が働いていた。
 鉛のように重々しい足を何度も進め、雪を踏みしめながら、俺は約束の地へと急いだ。

 森の長いトンネルを抜けると、もうそこは別世界だった。
 うっすらと積もった雪の絨毯、ステージのように存在を主張する切り株。
 木漏れ日がきらきらと地面を眩しく輝かせる、神秘的な場所に迷い込んでしまった。
 まるで、初めてこの光景を見たときのような既視感――デジャ=ヴを覚える。
「ここは、もぅ……俺たちの知ってる場所じゃないんだな」
 無邪気に三人で遊んだ、楽しいだけの秘密基地ではない。
 悲しみや絶望も知って、記憶の底に沈んで、現実からも見放された空間。
 それらの象徴である思い出の切り株だけが、過去と現在の、仮初めで唯一の接点。
 雪を手で払って、その上に静かに腰を下ろす。かなり冷たかったが、気にしない。
「あゆ、早く出てこい。お別れ会するぞ。三人の、お別れ会……約束……」
 贈り物を抱え込んだまま、独り言のように呟き、存在しないはずの生徒を待ち続ける。
 冬の日没はその速さを誇示するがごとく、いままさに遠く稜線に隠れようとしていた。
「言ってたよな、あのとき『またね』って、お前……言ってたよなッ!!」
 事切れる直前、俺に――あるいは俺たちに向けられた、最期の言葉。再会への希望。
 確か、あゆは最期だけは名雪を“なっちゃん”ではなく“なゆちゃん”と呼んでいた。
 本当は親友をそう呼びたかったはずなのに、俺が面倒臭さ故に反対してしまったから。
「もう嫌なんだよ……知らない間にさよなら、なんて……もう、嫌なんだよッ!!」
 泣き叫んでいた。どこかで、渡り鳥の羽ばたく音が大きく響いた。

《……ボクも、本当は、イヤ……かな……》

 悲しみに揺れた視界をそっと上げる。
 そこには、見覚えのある少女が立っていた。
 懐かしい姿だった。膝下までかかる少し長めのスカート。
 紫色の三角形が正逆交互に規則正しく横に並んだ桜色のセーター。
 腰まで伸びた長い髪に、白くて大きい印象的なリボンが風に揺れていた。
 それはまるで、七年前の月宮あゆを、そのまま成長させたような様相だった。
 切り株から下りて、久々の挨拶を交わす。
「……よぅ、不審人物」
「ボクのどこが不審なんだよ」
「上から下まで、全部かな」
「うぐっ……ひどいよ〜」
「少なくとも、七年前と同じ柄の服をいまだに着てる時点で不審すぎる」
 気にしていたのか、全身を使ってガックリと項垂(うなだ)れる。
 相変わらず分かりやすいヤツだ、と笑いながら、俺も内心では胸を撫で下ろしていた。
 ハァッ、と溜息をひとつ吐いて、あゆが面をゆっくりと上げる。
「遅刻だ、まずは謝れ」
 表情を確認する前に、ひとまず本音とは違うところを言う。
 俺の言葉に、あゆは戸惑いと苦笑を隠せない。……フッ、勝ったな。
「……あのぉ、今日は日曜日なんだけど〜」
「何ですとぅっ!!?」
 この上なく完敗。まるで、俺の自業自得みたいでカッコ悪いじゃないか。
 日曜日の学校に登校して、来るはずのない人を待つ……はい、どうせ自業自得ですよ。
「あ〜、祐一君が拗ねてる〜っ」
「別に、拗ねてる訳じゃない」
 からかわれているはずなのに、不思議と居心地の悪さはなかった。
 ほんの数日前まで存在した幸せが、いま自然に再現されているのだから。
 でも……もう、その終焉は、別れの歴程の結末とともに姿を見せ始めていた。
 そして、俺たちは知っていた。壊れた砂時計は、もう二度と元には戻らないことを。
「ゴメン、せっかくのお別れ会だけど……名雪は、来られないんだ……」
「知ってるよ。なゆちゃん、いま自分と必死に闘ってるからね」
「どうして……知ってるんだ」
 あゆは答えなかった。幽霊だから。それだけで解答には成り得るはずなのに。
 とても悲しげな顔で。俯きながら。何かを懸命に捜すように視線をさまよわせて――。

「……コレだろ、お前の捜し物」

 後生大事に胸に抱え込んでいたものを、俺は迷子の少女に差し出した。
 絶望に閉ざされていた暗い瞳に、光が宿って、自分の存在を確かめるように、
「ありがとう。見つけて……くれたんだねっ」
 そこにあるのは、笑顔。数日前までの、水瀬家にいた頃と何ら変わらない。笑顔。
 ひどく孤独に怯えて、ようやく見つけた居場所で、自然に表すことのできた微笑み。
「ボク、ずっと捜してたんだよ……ふたりの、心からの贈り物……」
 名雪からの贈り物。名雪が命を賭してまで守り通した、もうひとつ贈り物。
 震えながら手渡す。ふと触れたあゆの指先が冷たくて、心臓が凍りつきそうになった。
 あゆは真白いリボンを解き、赤いカチューシャを着け、羽根リュックを背負うと、
「これで、やっと……本来の役目を果たせられるよ……」
 聞き取りにくいほど小さな声で、でも確かにそう言った。
 本来の役目。その真意を訊ねようと、一歩を踏み出そうとしたとき。
 それは……唐突に起こった。

「!!!」

 眼前に、あの夢と同じ光景が広がっていた。
 リュックから――いや、あゆの背中から、本物の天使の羽根が生えていた。
 雪のように白く、片方が少女の等身大ほどもある立派な双翼。常人ではない“証し”。
 ……バサァッ!!
 飛翔力を懐かしむように、ひとつ羽ばたく。
 木々を揺らす風が巻き起こり、翼から白い羽根が何枚か舞い散った。
 羽根が夕陽の光を受けて茜色に輝きを返す。奇麗だ。素直にそう思えた。
 そして、思ったほど驚かず、すでに眼前の現実を受け入れている俺がここに居た。
「さてっ、ボクの職業は何でしょうか!?」
「タイヤキの食逃げ常習犯」
 即答してやる。あらかじめ予想していたのか、あゆの反応もいまいちだった。
 俺は地面に視線をそっと伏せ、溜息をひとつ吐いて、改めて少女を真剣に見据えた。
「天使だ……って言いたいんだろ」
「あはは、さすが祐一君、分かって……たんだっ」
 明るい声が、一瞬揺らいだ。双翼が、風に力なく揺れていた。
 その答えの向こうに、どんな感情を、どれだけ背負ってきたというのだろうか。

「……もし、願いがひとつだけ叶うとしたら……祐一君は何を望む?」

 唐突な話だった。それが、やはり“天使”の仕事なのだろうか。
「望みを言ったとして、どうなるって言うんだ」
「だから、それを叶えてあげるんだよ。でも、ひとつだけ。願いを増やすのもダメ」
「それは、どんな願いでも……叶えてくれるのか?」
「あ。あと、寿命を伸ばすことも無理かなぁ」
 普段と変わらない口調で小首を傾げる。本当に普段通りの仕草で。
 もし本当にその言葉が真実のものなら。叶えてほしい願い……ただひとつ。
 しかし……古今東西、いかなる場合でも奇跡には相応の代償というものが付き物だ。
「願いが叶ったとして、その場合……お前はどうなるんだ」
 あゆの表情が強張る。やはりというか、つまりはそういうことらしい。
 俺は苦笑を浮かべた。どうして水瀬家の住人は、こう揃いも揃って浪花節なんだ。と。

「ボクは天使だから……人々の想いを叶えて、消えてゆくだけの存在だから……」

 あまりにも悲しすぎる微笑みだった。
 こんな小さな身体の、どこにそれだけの絶望を蓄えておけるのだろう。
 そう考えずにはいられないほど、深く重々しく、複雑な表情だった。
「お前……」
「ボクは長い永い時間を旅してきたよ……色んな幸せも、悲しみも知った……」
 まったく想像のつかない話だった。そこにあった出来事も、その時々の感情も。
 幼なじみで、泣き虫な少女だと信じて疑わなかった存在が、いまはこんなにも遠く。
 俺の心情を読み取ったのか、あゆは何かを振り払うように首を横に振ると、
「でもね、今回で最後……祐一君のお願いを叶えれば、ボクはようやく本当の――」
「……それでいいのかよっ!!」
 遮っていた。思わず怒鳴りつけていた。
 優しすぎるヤツだから。使命なのかどうかは知らないが、あゆは自己犠牲が過ぎる。
「あゆ自身は、願いとか、望みとか……そういうのは無いのか!?」
「ボクの……!?」
「あぁ、そうだッ!!」
 本当に今まで考えたことはなかったらしい。
 深く考え込んで、いつまでもウ〜ンウ〜ンと唸っている。
 そのあまりに真剣な姿に、俺は同情や哀れみではない複雑な感情でいっぱいになった。
「お前にだって、幸せになる権利はある……居場所だって見つけたじゃないか!!」
「ほん……とぅ?」
 ひどく不安げな声。孤独よりも深い、絶望の底から一条の光を見た。声。
 そしてもうひとつ。ここに居るはずのない、居てはいけない存在……。

《本当だよ……あゆちゃんっ》



第20楽章【終曲(3)〜繰り返される悲劇〜】

 それは、目覚ましの鳴り響く朝。
 眠たそうな眼をこすって、でも笑顔で挨拶を交わしてくれた。

 それは、喧噪に囲まれた昼の学食。
 珍しく弁当をつくってきて、満点と答えた俺に嬉しそうに微笑んでくれた。

 それは、陽が傾いて影の長い商店街。
 肩を並べ話に花を咲かせていて、ふと視界に入った百花屋によく連れて行かれた。

 それは、帳の下りた雪景色を外に見ながらの晩餐。
 一日の出来事を母親に話しながら、一人増えた家族の暖かさに心底から感謝していた。

 俺の記憶にあった彼女の表情は、そのほとんどが笑顔で埋め尽くされていた。
 七年前の想い出。この街に帰ってきてから昨夜まで。それらはあまり変わることなく。
 その暖かな微笑みが、いま……俺のすぐ目の前に存在していた。
「……どうして、おまえがこんなところにいるんだ」
 震えた声。怒りからなのか、悲しみからなのか、その原因すら分からなくて。
 ただ、混乱していた。現実認識と現実逃避とが、紫電を撒き散らして激闘していた。
「ちゃんと言ったよね。置いてけぼりはイヤだよ、って」
「言っては……いないだろ」
「それに、約束したよね……再会は、三人の学校で……」
「……そうだったな」
 名雪の口調は、あくまでも普段のままだった。
 いつも近くにいた従兄妹の空気に、俺の心は落ち着いていった。
 バサァッ、と翼を広げる音がして、あゆが俺たちの側に降り立つ。
「なゆちゃん……大丈夫!?」
「大丈夫だよ。それより……あゆちゃんは、天使さんだったんだね」
 それほど驚いた様子もなく、いつもの眼差しであゆを見つめる。
 あゆも、最後まで自分を受け入れてくれた名雪を感謝の眼差しで見つめ返した。
「ふたり、だけだよ……ボクの正体を知っても、変わらずに居てくれたのは……」
 長く深呼吸にも似た溜息を吐いて、あゆが微笑んでいた。見たことのない笑顔だった。
 ようやく終の棲家を見つけたような。安堵を強く含んだ深い表情。

「本当に、良かった。最後の願いを叶えてあげるのが……あなたたちで……」

 双翼が光を帯び始めた。少女の身体が、薄く霞んでいた。
 それは別れの詩。最も強く望み、また、頑なに拒絶していた――親友との別れ。
「お別れだな……あゆ」
「今度こそ、私も見届けるよ」
 七年前は、怖くて逃げ出しちゃったからね。名雪の申し訳なさそうな告白。
 あゆは何も返さず、ただ悠久の刻(とき)を思い出すかのように眼を閉じていた。
「……ボクたちの想いが、いつまでも、いつまでも、一緒にありますように……」
 光がひときわ強まる。その意味しているところを、俺たちは痛いほど理解していた。
 フワッ。小さな身体が浮いてゆく。
 まるで、この赤い空に吸い込まれるように。
 まるで、世界中からその存在を忘れ去られるように。
 それでも、月宮あゆは、最後まで自分の使命を全うしようと嗚咽を殺していた。
「ふたりのお願い、叶えてあげたいから……最後に、それだけ、言ってください……」
 俺は何も言えなかった。それが例え、あゆ自身の心からの願いであっても。
 言いたいことは山ほどあった。お願い事もあった……でも、言えなかった。
 ポンポンと俺の肩を優しく叩いて、名雪が笑顔を覗かせて、天使の少女に向き直す。
「私たちのお願いと、あゆちゃん自身のお願い……きっと同じだと思うよ……」
「ぅん……そうだよねっ」
 何度も、何度も頷いて。名雪の言葉を確かめるように。
 やがて、広場全体に旋風が巻き起こり、強まる光に眼も開けていられなくなった。
 眼を閉じている間、彼女の感情が少しだけ、俺たちに流れ込んできたような気がした。
 次に視界を開けたとき、そこは最初から誰も居なかったかのように寂寥としていた。
 ただ、最後に……どこからともなく、声だけが響いてきた。

《なゆちゃん、祐一君……本当に……ありがとうっ》

 その言葉を聴いて、ひとつだけ確信が持てること。
 水瀬家にいた時を、彼女は心底から幸せに暮らしていた。
 俺と、名雪と、秋子さんとの家族生活を、彼女なりに受け入れていたのだ。と。
「こちらこそ……本当に、ありがとな」
 俺たちの想いが、遠く親友に届くように願って――。

 ……いつしか、風が凪いでいた。
 名雪が、ゆっくりと身を寄せてきた。
 ふたりきり、という事実を認識した途端に、また心臓が音を立てて鼓動を速める。
 その細い身体を抱き止めると、いきなり視線が合った。思わず眼を逸らしてしまう。
「えと、名雪……あのな、その、俺は……」
 高まる動悸に思考が正常に働かず、自分でも何を言っているのか分からなかった。
 こういう場合は、まず相手を見つめて、唇を近づけ……じゃないッ!!
 最初に姿を現した時点で気づいていた、重要で大変なことを俺は忘れていた。
「……お前、やっぱり無理して来たんだろ!?」
 名雪の吐息は聞いてるだけで辛いくらい荒々しかった。
 肩を貸そうとしたが、首を激しく横に振って、地面に屈み込んでしまう。
「早く病院に戻れ、秋子さん、すごく心配してるんだぞ!!」
 大好きな母親の名を耳にしても、名雪は首を縦に振ることはなかった。
 よく見ると、何か作業に勤しんでいるようだった。俺は少しだけ待つことにした。
 天使の少女のように、幽霊になってまで俺の元に来てくれた存在を――。
 数分が経過して、やがて音もなく名雪が立ち上がった。
 くるりと身軽に振り向いて、両手を差し出す。

「はい……コレ、祐一へのプレゼントだよっ」

 そこにあったものは、七年前の雪ウサギ。三つの赤い瞳。
 リュックを直した理由を彼女のためではないと言いつつも、その本心は……。
「ありがとう、今度こそ……ちゃんと受け取っとく」
 言葉どおり、落とさないよう大切に、慎重にゆっくりと受け取る。
 雪に詰められた様々な想い。きっと、これより重いものを知ることは無いと思う。
「やっと渡せた……あははっ、本当に、よかった……」
 瞳から涙が零れた。初めて見る……いや、二度目の嬉し涙だった。
 俺の胸に顔を埋め、両手を背中に回して、名雪はしばらく泣き続けていた。
「……名雪ッ!?」
 異変が起こったのは、それからしばらくしてからだった。
 身体を激しく震わせながら、急に名雪が苦しみ始めたのだ。
 最初から苦しそうではあったが、それは明らかに尋常ではなかった。
 掴まれている肩に、爪が食い込んで、激痛が電撃のように走った。
「あはっ、本当に……もぅ、時間なぃや……」
 名雪の申し訳なさそうな笑顔が俺を覗き込んでいた。
 どこかで見た表情に、背筋が急激に凍っていく。
「ゴメンね……祐一ッ」
「!!!」
 唐突だった。名雪の唇が、俺の唇と重なり合っていた。
 思考の掻き乱れたなかで、その真意を俺は知ってしまった。
 予感が確信になり、眼前で……名雪の存在が薄らいでいく。
「名雪ィィッ!!」
 唇が離れ、手を懸命に伸ばす。しかし、指が名雪に触れることはなく。
 にこりと微笑む名雪。小さな口を懸命に動かす。しかし、声が俺に届くことはなく。
 大切なものを諦めたような表情。悲しみに暮れた笑顔。そして最期の言葉――。

《 さ よ う な ら 》

 気配が完全に消え、無音の漆黒のなか、俺は……ただ立ち尽くすだけ。
 ドシャッ。何かが雪に当たったような音。
 向き直す。しかし、夜闇に閉ざされた森のなか、視界が通るはずもなく。
 左を見ても、右を見ても、地面を見下ろしても、分厚い雲に覆われた空を見上げても。
 振り向いた先に、彼女の存在を見つけられるはずがなかった。
 崩れ落ちて、先程の音の正体を知り、深い悔恨に陥る。
「雪ウサギ……名雪の、くれた……」
 大切に扱うと誓った、想いの詰まった雪のカケラ。
 ぽつり、と何かが冷たく頬を打った。弾かれたように空を見上げる。
「……雨!?」
 それが本降りになるまで、そう時間は掛からなかった。
 俺は、ただ力なく暗雲を睨むように凝視するだけだった。
 ふと地面に視線を下ろせば、そこには……溶けてカタチ消えゆく雪ウサギ。
 少女の想いの結晶が、少しずつ崩れてゆく。確実に、世界から消滅してゆく。
 躍起になって雪を掻き集めるが、壊れた砂時計、もう二度と元に戻ることもなく……。
「……なゆ…き…」
 一瞬、あいつの最後の声と笑顔が視界を通過してゆく。
 視界を閉ざす漆黒の闇だけが、俺にとっては唯一の心安らぐ場所。
 いまは誰も居ないこの場所で、死ぬまでずっと泣き続けていたかった。

 その日、水瀬家に、最後まで明かりが灯ることはなかった……。



間奏曲【−Last Wish−】

 ……夢

 夢を見ていた

 どんな夢かは分からない

 それが本当に夢なのかどうかすら分からない

 そんな……不確定で、ひどく曖昧な夢



 ……でも、構わない

 何故なら……いま、すごく幸せだから

 長い永い夢を見てきたような気もするけど、もうボクは幸せを知っているから

 幸せがどんなものか、あの人たちに教えてもらったから……



 たったひとつの願い……

 最初で最後の、ボクからの願い……

 千年もの刻(とき)を経て、ボクの身体は消えてしまったけれど

 でも、もう二度と背中の双翼は必要ないから

 だから……



 ……ボクの、本当のお願いは……



最終楽章【まだ癒えぬ傷痕】

 カーテンを勢いよく開け放つ。
 気持ちのいい朝、気持ちのいい目覚め。
 もうこの寒さも当たり前のようになっていた。
 祐一はドアを開けて、朝の冷たいが新鮮な空気と入れ違いに廊下に出た。
「わっ」
 途端にあゆと鉢合わせになる。
 大袈裟に一歩後退して、目を丸くして、あゆは祐一を見上げた。
「きゅ、急に出てくるからビックリしたよ〜……」
「驚いたのはこっちの方だ、急に声を上げやがって」
「うぐぅ……まだ心臓がドキドキしてるよ〜……」
「それは俺に対する愛の告白だと見なしていいんだな?」
 祐一の言葉に、更に大袈裟な反応を示すあゆ。
「うわ、何てこと言うんだよ〜っ!」
「ところであゆ、何でお前がココにいるんだ?」
 真剣な顔付きで。
「お兄ちゃん、おかしなこと言ってるよ」
 不思議そうにあゆが首を傾げる。
「ボクはここの家族なんだから、ここにいるのは当たり前だよ」
「………」
 そうだ。俺は何を寝惚けているんだ。
「それじゃあ、朝飯食って学校だな」
「うんっ、ボクも途中まで一緒に行くよ〜」

 あの事件から数年の月日が流れていた。
 俺は森で一夜を明かし、起きたら驚いたことに切り株が本来の姿を取り戻していた。
 さらに驚愕な事実とは、あの幹が実は桜の巨木だったということだ。
 薄墨桜にしても大きすぎる、桜の世界樹。その種類はいまだ判明されてない。
 それから数日後のことだった。あゆにそっくりの幼い少女が水瀬家に来たのは。
 身寄りの居ない、孤児であるその少女を、秋子さんは当然のように迎え入れた。
 先人と同じ名を受け、趣味嗜好まで似たその少女の正体は……詮索するまでもないか。
 そして、あの事件後、名雪は――……。

「うわ〜っ、早く電車に乗らないと遅刻だよ〜っ!!」
「大学に入っても結局コレか!?」
「だって、お母さんのご飯、美味しいんだもん♪」
「お前は、何のために陸上部やってたんだよっ」
「あっ…………」
「どうしたッ、足止めてる場合じゃないだろ!?」
「大切な理由があった気がする……十年前、確かに何かが……」
「……何もなかったんだよ、思い出せないようなことならな」
「でもっ、思い出したがってるのかもしれないよ!?」

 名雪は十年前に関する記憶を、すべて奇麗さっぱり忘れてしまっていた。
 自分の許容量を超えた悲しみを受け入れられず、一部の記憶を失ってしまうこと。
 解離性健忘症。誰でもなってしまう可能性のある障害。例えば、十年前の俺のように。
 思い出した方が良いのか、悪いのか……それは俺にはまったく分からない。
 いまの水瀬家での生活は、誰もが望んだ状況だし、このままで良いとも思う。
 しかし、もし名雪が望めば……その先にある辛さ、悲しみを受け入れるというのなら。
 最後まで必ず付き添っていてやろうと思う。あゆと三人なら、不可能ではないだろう。

「……なっ、あゆ!?」
「急に話を振られても困るよ〜」
「あゆちゃんをイジめちゃ駄目ッ!!」
「うわ〜ん、お姉ちゃ〜ん」
「卑怯だぞ、名雪を盾に取るとわっ」
「祐一だけ、今日の晩ご飯は紅生姜スペシャルね♪」
「ぐあっ……それだけは勘弁してくれ〜っ!!」

 名雪の笑顔が、仮初めの表情ではないと信じて。
『さようなら』と泣いた名雪を、いつか取り戻させると心に誓って。
 深い傷痕、まだ根強く残る痛みを、記憶の彼方に追いやってしまわないように。
 いつか傷は癒えても、この痛みは、二度と忘れてはいけないと……。
 もし名雪やあゆが辛くなったとき、そのすべてを抱え込めるほど強くなろう。と。
 俺は恋人でもある従兄妹の手を握ると、私鉄駅を目指して街並みを駆け抜けていった。

 風が駆け抜けた。俺たちを見守り、微笑むように、優しく風が揺れた。
 白いカーテンの揺れる名雪の部屋、窓辺に置かれたひとつの小瓶。
 そのなかに転がる、赤いビー玉が三つ。陽光を照り返していた。
 まるで、三人を象徴するかのように身を寄せ合っていた。

 ……そう。それが“彼女”の願いなのだから――……。



                                <FIN>

 

 

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