第13楽章【解かれた封印(2)〜記憶の迷宮〜】

 頭痛が激しかった。嘔吐感もあった。
 それらを必死に堪え、ぐるぐると回り続ける視界のなか必死に立ち上がる。
「ぐ……ぅっ」
 よろめいて、片膝を地面に着き、こめかみを両手で押さえた。
 突き付けられた事実を、頭では理解しているが、まだ心が受け付けないでいた。
 それはそうだ、好きな少女が、自分を受け入れてくれた存在が、虚構だった。
 ずっと好きだった少女は、月宮あゆは、もう……この世には……。
 ゴトッ。また聞こえる。心臓が止まりそうになる。
 重い音。岩を地面に叩き付けたような。絶望の音。
 恐る恐る後ろを振り返る。
 先程も見た光景。あゆが白い絨毯に横たわっていた。
 唯一違うのは、それが幼いあゆではなく、現在のあゆであるということ。
「あゆーーーっ!!」
 立ち上がり、駆け寄る。懸命に、今度は手遅れにならないように。
 しかし、どんなに足を前に出しても、あゆに少しも近づけなかった。
 そうではない、よく見ると、自分の足が動いていないだけだった。
 またか……またここでも彼女を拒絶するのか。俺は。
 死んでもなお俺を想い、想い続け、待っていてくれた少女を。
「た……すけて、ゆぅ……いち……く……」
 途切れとぎれの声。俺に助けを求める。
 彼女の信じている男は……こんなにも弱く、情けない奴だというのに。
「あゆーーーーーーっっ!!!」
 今度は駆け寄れる。近づく少女との距離。
 ダッフルコートの小さな身体を抱きかかえる。細く、軽い。
「すぐ病院に連れていってやる、俺が助けてやるから!!」
 なるべく身体を揺らさないようにしながら、必死に囁きかける。
 身体を横たえ、助けを呼ぼうと麓へ駆け下りようとした、そのとき、
「……嘘つき」
 ぐったりと俯き、前髪に隠れて見えなかった顔が、不気味に笑っていた。
 血だらけの、苦痛に歪んだ、恨めしそうに俺を睨むあゆの顔。
「助けてくれなかったくせに……ボクのこと、殺したくせにっ!!」
「うわあああぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
 あゆの眼がカッと見開かれたと同時に、俺は足場を失い、空中に放り出された。
 ゴオッという轟音とともに風が木々を揺らし、嘲笑っていた。
 モノクロの視界のなか、ゆっくりと遠ざかってゆく。枝。
 あの日のあゆの視点だ、瞬時にそう悟っていた。
 ひどくゆっくりと、無音の海を漂いながら、身体が落下してゆく。
 やがて背中から胸へ衝撃が突き抜け、反動で一度、二度、身体が跳ね返る。
 そのあまりの強さに、息が出来なかった。痛みすら感じられない。
 全身の神経が麻痺して微動だにできない。指先の先端すらピクリとも動かせなかった。
 ……死。
 死を、直感していた。
 恐怖などは感じられなかった。
 そんなものを、感じる余裕すらなかった。
 流れる運命の尊大さに対して、留まる自分の卑小さに孤独を感じていた。
 死を、孤独な死を、覚悟するしかなかった。
 ただ、それだけ……。
「すぐ病院に連れていってやる、俺が助けてやるから!!」
 いつのまにか、俺とあゆの心と身体が入れ替わっていた。
 先程の場面で、あゆとなった俺を、俺となったあゆが抱きかかえている。
「……嘘つき」
 他に言いようがなかった。
 それが、気休めだとは分かっていても……。
 それが、出来るなら瞬間移動してでもそうしたい本心だと分かっていても……。
 自分に不可能な行為を言って安心させるだけなんて、結局は偽善以外の何物でもない。
 現に俺はあゆを助けられず、あゆは七年間も苦しみ続けることになったのだから。
「祐一君、早くこっちに来てよ……ボク、寂しいんだよ……」
 俺は自分の身体に戻っていた。暗闇の空間。漆黒の奥から聞こえる声。
 虚無の海を漂いながら、声のする方向へと進んでゆく。
「そうそう、もう現実世界に戻る必要なんてないよ……名雪さんの居る世界なんか」
「……ッ!!」
 慌てて立ち止まる。
 いや、この浮遊感に“立つ”なんて表現は合わないのだが。
「お前はあゆじゃない……あゆは、名雪の悪口なんか言わないからな」
「くすくす……そう、こんなに簡単にバレちゃうなんて……じゃあ、地獄に落ちなさい」
 落下。足場を失うと言うより、そのまま墜落したような感覚だった。
 それでも必死に手を伸ばすと、誰かがガシッと捕まえてくれる。
「あっ、ありがとうございま――……」
 見上げて、そのまま息を呑む。
 そいつは、姿形はあゆそのものだったが、表情と身に纏(まと)う空気が違っていた。
 きっとコイツが名雪を……そして、あゆを冒涜した、声の張本人なのだろう。
 パッ、とふたたび手を離す。
「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ……」
 今度こそ本当に記憶の底へ底へと墜落してゆく。

 記憶という名の、奈落へと……。



第14楽章【解かれた封印(3)〜記憶の出口〜】

 ……ドサッ!
 重々しい音と衝撃に、思わず身体を震わせる。
 もうあんな夢は嫌だ、もう人の死ぬ光景なんて見たくない。死にたくもない。
「ゆめ……?」
 呟いて、重い瞼を無理矢理こじ開ける。
 視界に飛び込んでくる漆黒の闇。
 一瞬、夢の世界に逆戻りしたのかと思ったが、ここには重力があった。
 左肩に鈍い痛みと、フローリングの床の冷たさを感じる。
 これは……夢じゃない。
 現実の、水瀬家の自室だ。
 背中にあたる無機物とシーツの感触からして、恐らくベッドから落ちたのだろう。
「いつ戻ったんだ」
 体勢を直し、起き上がりながら自問する。
 しかし、これまでの経緯がまったく記憶にない。
 あゆの絶望に暮れた顔と、想い出の大木の名残を見て、それから……。
「……痛ッ」
 思い出そうとした途端。すぐにこれだ。
 鈍く激しい頭痛に立ち眩みを覚え、吸い込まれるようにベッドに腰を下ろす。
 両手でこめかみを強く押さえつけ、身体を丸め、嵐が過ぎ去るのを待つ。
 そう。こうして何も考えなければ、この痛みもやがては忘れられ――、
「………ッ!?」
 はたと気づき、慄然となる。
 ちょっと、待て……俺は、いま、何を考えた……!?

『自分で閉ざした心は、自分でしか開くことはできないわ……最終的には、ね……』

 今朝の秋子さんの言葉が脳裏を駆け巡る。
 自ら閉じ込めた心の扉は、自らしか開け放つことができない。
 忘れ去られた心の痛みは、いまも扉の奥深く、心の檻に閉じ込められている。
 忘れ去られ、蓄積された古い傷痕は、いままさに俺を苛ませている。
 この痛みは、過去の自分の、いまの俺に対する――復讐――。

「ははっ……そっか、おれ……じぶんから、わすれたくて、わすれてたんだ……」

 知らず笑い声が漏れる。
 自虐的な嘲笑、心の底から自分を憎んで。
 背筋が凍って、大量の冷や汗が全身を蝕んでいた。
「あゆも名雪も、ずっと……七年間も、苦しんでいたのに……」
 俺は自分から彼女たちの存在を忘れ、この雪の街に二度と戻らなかった。
 名雪から何度となく届けられた手紙、想いも、目を通すことなく閉じ込めていた。

「はっ、ははははっ……あはははははははははははははははっっ!!!」

 狂った笑い声が夜闇に響き渡る。
 いま何時だろうか、もう深夜帯に入ってはいるのだろうが。
 知るか、そんなこと……これが笑わずにいられるか!?
 あゆを殺し、名雪を置き去りにし、俺は一人だけ平和に生きてきたんだ。
 名雪を好きだとか、あゆと一緒にいると心安らぐとか言える身分じゃなかったんだ。

「俺が! 名雪を! あゆをッ! ……あっははははははははははははっっ!!!」

 一度出た大きな笑い声は止まる気配を見せなかった。
 自分は壊れている。それは自覚できる。でも止められない。
 もはや自分の制御が利かなくなっている、このままでは危険だった。
 頼む、誰も来ないでくれ……いま来たら、俺は何をしてしまうか判らな――、

「……ちょっと、近所迷惑だよ、どうしたの!?」

 ガチャッと少し乱雑に扉が開かれる。
 暗闇に戸惑いながら手探りでスイッチをつけ、蛍光灯が部屋全体を眩しく照らす。
 今度は優しく後ろ手で扉を閉め、ゆっくりと近づいてくる名雪。顔も少し赤い。
「ねぇ、ゆうい…」
「あいつはどうした」
 声を遮る。行方を訊く。
 七年前に死んでいたということは、つまりあゆは幽霊だったのだろう。
 この街に想いを強く残した自縛霊、とでも言えばいいのだろうか。
「あれからどうなった。ここに戻った記憶もない」
「…………」
 俺の低い口調に、名雪は怖じ気づきながら眼を地面に伏せた。
 その行動がさらに俺を苛立たせる。
「あゆちゃんと、ふたりで、祐一を部屋まで担いで……」
 肩を震わせて、弱々しく声を紡ぎ出す。
 その先を確認してしまうのを怯えているようだった。
「さよなら、って……消えちゃった」
「消えた?」
「文字通り……本当に、フッ、って……消えちゃったんだよ」
 申し訳なさそうに俺に一瞥してから再び視線を下ろして、眼から一粒の雫が零れる。
 両手で自分の肩を包み込むように抱いて、全身をわななかせて。漏れる嗚咽。

「……お前の、せいだろ」

 自分でも信じられないくらい冷たい声。ハッと面を上げる名雪。
「元はと言えば、お前がすべての元凶じゃないか」
「えっ、どう……して!?」
「お前がプレゼントを買おうって言わなければ、お前があの森を俺に教えなければ!」
「祐一、思い出したの!?」
「あぁ、お陰様でなぁっ!!」
 胸倉を掴み、そのまま後ろの壁に叩き付ける。
 一瞬にして、名雪の表情は恐怖の一色に変わっていた。
 当然だろう、俺が名雪に乱暴したのはこれが初めてなのだから。
「ぐっ! 苦しいよ、ゆう……いち……」
「あゆはなぁっ、その何十倍、何百倍もの苦しみを味わったんだよっ!!」
「じゃあ……わたしは少しも苦しんでない……って、そう言いたいのっ!?」
 名雪の瞳が厳しく俺を見据えていた。悲しそうに。
 ボロボロととめどもなく零れ落ちる涙の雫。
 そこで、ようやく俺はしている事の重さに気づいた。
 ハッと意識が正常に戻って、慌てて胸倉を離す。

「俺は、おれは……何てこと……名雪……なゆきぃ……」

 好きなはずだった少女の顔を正視できなかった。
 そのまま立ち尽くして、全身を激しく震わせることしかできなかった。
 名雪の悲しそうな顔を見て、過去の彼女に犯してしまった罪を思い出してしまったから。

 そうだ。俺たちも救急車に乗り込み、病院のロビーであゆの帰りを待ち望んだ日。
 何時間も待ち続けて、結局、医務室から出てきた秋子さんの話が怖くて聞けなくて。
 逃げた駅前のベンチで泣き続けて、涙が枯れた頃に名雪がやってきたんだ。
 ずっと捜してたんだよ。そう柔らかく微笑んで、小さな手から差し出されたモノ――。

『……祐一、これ、雪ウサギっていうんだよ。ちょっと変かもしれないけど』

 言葉通り変哲な雪ウサギ。眼の部分が赤いビー玉、しかもみっつ。
 それはファンタジー小説や漫画に出てくるような架空生物を連想させた。
『みっつの眼は、わたしたち……わたしと、祐一と……そして、あゆちゃん』
 最後の名を口にしたとき、声がわずかに揺れたような気がした。
 いまも泣き出したいのを堪え、必死に我慢して、無理に笑顔を見せているのだ。
『これ、受け取ってもらえるかなぁ……わたしも、本当はね、祐一のこと……』

 パシィィンッ!!

 次の瞬間。名雪の両手に乗せられていた雪ウサギは、その原形を留めていなかった。
 地面に敷き詰められたタイルの繋ぎ目に散乱した雪、転がるビー玉みっつ。
 信じられない表情で自分の赤く霜焼けした両手を見つめる少女がひとり。
 恐らく手の赤から連想されたであろう、ここには居ない少女がひとり。
 少女に想いを伝えられず、また少女の想いを傷つけた少年がひとり。

『……そっか、祐一は……でもね、ちゃんと“お別れ会”したいから……明日も……』

 名雪の、唯一にして、精一杯の少年への願い。
 もう一度この場所で、来年の、三人での再会を約束したいという願い。
 しかし淡く儚いそれは叶わず、俺は名雪の心の奥底に深い傷痕を残してしまった。

「そうだ、俺だよ……俺が、すべての、元凶だったんだ……」

 夢を経由せず、刹那の記憶の旅から帰ってきた。
 そこにあったのは、ただ辛すぎる現実と深い絶望だった。
 あの後あゆは死に、俺は現実から逃避していた。
 しかし、残された名雪は、ずっと懸命に孤独に耐えてきたのだ。
「忘れたいのに忘れることが出来なくて、不安定な狭間に揺さぶられて……」
「…………」
「名雪が、一番……辛かったのにな」
「わたし、あゆちゃん、応援してたよ……でも、もう消えかけていたから」
「幸せが消えそうで怖い……成就したら、自分も消えてしまう、そういうことか……」
 言葉の意味を理解したのか、名雪は悲しげに、しかし優しく頷いて、
「明日、捜してみようよ」
「捜す、って……何を?」
「あのときのプレゼント。渡すことが出来なかった、私たちの贈り物……」
 そういえば、包装紙をリボンで結んだあの物体の行方だけは思い出せない。
 名雪本人が捜すと言った以上、簡単に見つかる場所にはないのだろうが。
「それより、さっきは……本当にゴメンな」
 ずっと逸らしていた、避けていた視線をようやく名雪に戻す。心からの謝罪。
 しかし……。

「明日は、頑張って見つけ出そうねっ」

 バタンッ。
 やや乱暴に閉められる扉。
 取り返しのつかないことをしてしまった。そう思った。
 もう、謝っても二度と許してはくれないだろう。
 もう、謝っても二度と笑顔を覗かせてはくれないだろう。
 もう、謝っても二度と……想いを受け取ってはくれないだろう。
 それでも、俺は、謝り続けたいと思った。例えそれが一生続くことになろうとも。
 彼女をこんな風にしてしまったのは、他ならぬ俺自身なのだから……。

 ……本当にゴメンな、名雪……。



第15楽章【埋もれた再会】

 キーンコーンカーンコーン。
 鳴り響く終業チャイムが、土曜午後の到来を知らせる。
「お願いがあるんだよ。香里」
「急に改まって、どうしたの名雪?」
「大切な捜し物があるの、一緒に手伝ってほしいんだ」
 名雪の口調にならって、香里の表情から軽い笑み消える。
「……分かった。捜し物なら、人数は少しでも多い方がいいわよね」
「だったら俺も連れて行けよ、捜し物なら得意だぜ」
 どこかで聞いた風な台詞を吐きつつ、北川も後ろから顔を覗かせる。
 ふたりは興味本位からではなく、本当に真剣に考えてくれているようだった。
「理由は訊かないわ。でも今日の名雪と相沢君、ずっと深刻そうな顔してたもの」
「あぁ、昨日からずっと変だったしな……心配してたんだぞ?」
「ありがとう、二人とも……」
 名雪が深く頭を下げる。俺も同じ気持ちだった。
 途中、コンビニで軽食と針金とスコップを買い、あの場所へと向かった。
 森の小径を抜け、幸せと悲しみのいっぱい詰まった想い出の地へと……。
「この切り株の周りにある、どこかの樹の根本に埋めたんだよ」
 名雪が手短に説明する。タイムカプセルとして、贈り物ふたつを埋めたこと。
 そこだけは記憶が曖昧だったが、俺は気にせずに皆と一緒に作業を開始した。
 針金を地面に突き刺し、何かあればスコップで掘り返す。ただ単調な作業の繰り返し。
 かなり気の遠くなる作業だったが、誰一人文句を言うことなく付き合ってくれた。
 軽食は一気に取らず、小休止ごとに少しずつ食べた。
 そして、昼下がりの暖かな日溜まりが、やがて茜色に染められる頃……。

「……あっ、あった、見つけたよっ!!」

 嬉々とした声。涙混じりの、感極まった声。
 同時に名雪の元に駆け寄る三人。
「良かったわねっ」
「おぉ、見つかったか!」
 香里と北川も、まるで自分のことのように喜びを露わにする。
 名雪はすでに嗚咽を堪え切れず、香里に抱きついてむせび泣いていた。
 親友の肩を片手で抱き、もう片方の手で頭を撫でながら、北川と笑顔を交わす香里。
 俺はその輪のなかには入らず、七年ぶりに地中から顔を覗かせた贈り物を見ていた。
 小さな紙袋――名雪の贈り物――カチューシャは無傷だった。
 しかし、大きな紙袋――俺の贈り物――羽根リュックは袋が破れて悲惨な状況だった。
 どちらも、昨日までの幽体あゆが身に着けていた、俺たちの心からの贈り物だ。
 本来あゆがまだ受け取っていない、俺の贈り物が、土に汚れている姿。心が痛む。
 いや、名雪の贈り物が同じ目に遭ってなかっただけまだ良かった。そう思い直す。
「羽根のリュック、こんなに、汚れちゃってるね……」
 いつのまにか落ち着きを取り戻した名雪が、隣から掘り返された穴を覗き込んでいた。
 カチューシャと羽根リュックを優しく手に取って、愛おしそうに撫でる。何度も。
「七年間は、本当に、永すぎだよ……私も、祐一も、みんな変わっちゃって……」
 ふたつの贈り物。その胸に抱いて。俯き、その身を震わせる。
 ふたりの気持ち。遠い存在に届くことを、彼女との再会を願って。
「香里、北川……本当に、ありがとう……俺からも礼を言うよ」
 今度は名雪の代わりに、そして他ならぬ自分自身、深く頭を下げて感謝の意を示す。
「あ〜ぁ、本当だよなぁ、水瀬が見つけるのなら俺が来た意味……ゴフッ!!」
 見ると、香里が北川の脇腹に肘鉄を喰らわせていた。
 声を上げられず地面をのたうち回る哀れな男に苦笑いを向けつつ、改めて感謝する。
「気にしないでいいわ、困ったときはお互い様ということで♪」
「じゃ、じゃあ捜し物も見つかったことだし、俺たち帰るわ」
 早々に復活を決めた北川が、香里と肩を並べて帰っていった。

 ふと視線を下ろすと、名雪はまだ同じ姿勢のまま震えていた。
「逢えるさ。あゆとは、まだ正式にお別れしてないからな」
 そこでようやく一呼吸整え、自分を落ち着けると、
「……このリュック、私が直してあげようか?」
「直せるのか!?」
「お裁縫は得意だから」
「そっか、だったら……直してほしい」
「うんっ、お任せだよ〜♪」
 名雪の笑顔が、夕焼け色の赤に染められていた。
 もう俺が届くことの出来ない、遠いまなざし……。
 だから、せめて、あゆとの別れだけは毅然とした態度で臨みたかった。
 振り向けば、そこに彼女は居るだろうか。
 いまだけは、しかし、居てほしくはなかった。
「また、明日な……あゆ……」
 それだけ、名雪にも聞こえる声で言って、俺たちは踵(きびす)を返した。

 ドサッ。豪快な音。見ると、いとこが地面に顔から転けていた。
「おい、大丈夫か!?」
「あ〜、うん、大丈夫だよ〜……」
 いつもより口調が間延びしている。おっとり、なんて可愛いレベルではない。
 名雪の顔の赤さに違和感を感じ、掌をそっと額に宛てる。
 異常な熱さ。手と、顔と、心臓が強張る。
「お、おい……何か、熱ヤバくないか!?」
「う〜ん、大丈夫〜、だから、心配しないで〜……」
 こりゃ、帰ったら絶対安静だな。そう思いながら肩を貸してやる。
 少女の身体は、体重のほとんどを俺に任せているはずなのに、悲しいくらい軽くて。
 こうして名雪の支えになってやれることが、仮初めの刹那とはいえ嬉しかった。
 東の空を見上げると、鮮やかな藍のなかに垣間見える無数の星々。

 森から水瀬家までの道のりは、遠く近く、長く短かった……。



第16楽章【夢と現と幻と…】

 病院の長い廊下に立っていた。
 どこまでも続く長い通路のなか、ひとつの病室の扉を前に。
 何故こんな場所に俺は居るのだろうか。分からない。
 ここまで歩いてきた記憶がまったく無かった。
 自分だけ世界から取り残されたような感覚。
 重々しい異質な空間。恐らく、普通の病棟ではないのだろう。
 廊下の先に、他の病棟と繋がる渡り廊下の扉が見える。
「“管理棟”……?」
 こちら側の扉にはそう書いてあった。
 管理棟というと、重病人とか、植物人間とか……そういう患者の収容場所のはずだ。
 視線を戻す。病室の扉の横に、すっかり日焼けしたネームプレート。

   【501】  月宮 あゆ

 眼を見張った。胸が高鳴る。
 よくは解らないが、ここに彼女の名前があるということは……。
「死んで……は、いなかった……ってことか」
 動悸の落ち着かない、小刻みに震える手で、ドアを横にスライドさせる。
 カラカラカラ、とレールの乾いた音がして、期待に胸を膨らませる。
 扉の先の、病室の白いベットに……あゆは深く眠りについていた。
 足音を立てないように、一歩一歩を踏みしめ、確かめながら近づいてゆく。
 時の止まった部屋、こんな白く四角い場所に、ずっと閉じ込められている少女。
 全貌が視界に入り、それを認識したとき、俺は思わず歩を止めた。
「本当に、これがあゆなのか……」
 生命維持装置から無数に飛び出した管の群れを、その細い身に突き刺して。
 寝息ひとつ立てずに、まるでそれは、生命活動を停止してしまったかのように……。
「本当に、これが……あゆ、なのか……」
 ただ呟くように繰り返される言葉。
 開け放たれた窓。風に乗って揺れる白いカーテン。ゆらり、ゆらりと。
 差し込む柔らかな陽射しが、薄布の動きに合わせて少女の顔を照らし出していた。
 ゆっくりと形を変えながら白く浮き立つ、土気色の、骨張って痩せこけた顔。
 眠り姫、などというメルヘンチックな単語からは程遠い……現実の顔。
「あ、あ、あ……」
 言葉が出なかった。ただ間抜けた声だけが漏れ続けるだけだった。
 すべて俺のせいだ。そう思った。思わざるを得なかった。
 俺が助けられなかったから、こうして、いまもなお眠り続けている。

『七年間は、本当に、永すぎだよ……私も、祐一も、みんな変わっちゃって……』

 不意に脳裏に響き渡る。名雪の、色々な感情が混ざり合った。声。
 それは、少女を苦しめるには十二分の時間だった。あゆにも。名雪にも。
 思わず、後ずさっていた。一歩。二歩。三歩……。
「また……おなじ過ちを繰り返す気か」
 声に出していた。自分に対する憤り。
 もう逃げないと。毅然とした態度で別れると。そう、心に誓ったはずなのに。
 実際には死んではおらず、こうも変わり果てた彼女を見てしまうと……心が揺らぐ。
 突き付けられた事実が重い現実となってのしかかってくる。
「あゆは、それでも、ずっと待っていてくれたんだ……」
 手の届く場所まで、ひどくゆっくりと時間を掛けて。近寄る。
 それだけ離れてしまった距離。たった数日のことだというのに。
 罪悪感からか。同情心からか。それとも……まだ残る愛情からなのか。
 手を握ってやりたかった。少しでも安心させてやりたかった。
 もう、見つからない捜し物を求めて商店街を彷徨(さまよ)わなくてもいいんだ。と。
 シーツを捲り上げ、その痩せ細った手を握ろうとする。そのとき。

「……何をしてるんですかッ!!」

 怒声。病室の入口から。
 聞き覚えのあるそれに俺はひどく戸惑った。
「あっ、秋子さん、どうして……!?」
「手を、握っちゃ駄目……複雑骨折しますよ」
 低い声色。秋子さんにしては珍しい態度だった。
 それほど重大で危険な行為なのだろう。
「複雑骨折って……どういう、意味ですか!?」
「人間はね、身体をまったく動かさないと、三週間で筋肉が落ちるんですよ」
「…………」
「その後、贅肉が落ちて……骨格と皮だけになってしまうんです」
 あゆに、視線を移す。痩せ衰えた顔。手。全身。
 胸に何百万本もの針が突き刺さるような痛みを覚え、そして……トドメの言葉。
「成長期の途中にそれが止まったから……骨も脆くて、きわめて危険な状態よ」
「じゃあ、もし目覚めても……」
「限界まで回復しても、自立歩行がやっと……最悪の場合……」
 その場に崩れ落ちる、ただ絶望し、呆然となる。
 自分の言葉に気づく、目覚めることすら、可能性の問題なのだ。
 全身から噴き出した冷や汗が、通り抜ける風に晒されて。寒い。
「秋子さん、知ってたんですね……あゆのこと、七年前からずっと……」
 声が震えていた。悲しみ。虚空感。憤り。憎しみ。色んな負の感情を織り交ぜて。
 ただ押し黙って。頷くこともなく。足音を立てず。あゆに近づいてゆく。秋子さん。
「あゆちゃん……もう、いいでしょう?」
 呟く。悲しそうな声、優しく諭すような口調。
 その手で慈しむように額を、頬を撫でて、柔らかく微笑みかける。

 刹那――。

 あゆの身体は、細やかな光の粒となって舞い散った。思わず立ち上がる。
 集まった粒は、やがて形を為し、部屋中が降り注ぐ白い羽根で覆い尽くされる。
 後方へと流れる風に導かれて振り向くと……神々しい光のなか、少女は立っていた。
 ダッフルコートに羽根リュックを背負って、頭にはカチューシャ。いつもの彼女の姿。
「あ、あゆ……」
 一歩を踏み出す。手を伸ばす。しかし、指があゆに触れることはなく。
 にこりと微笑むあゆ。小さな口を懸命に動かす。しかし、声が俺に届くことはなく。
 大切なものを諦めたような表情。悲しみに暮れた笑顔。そして最後の言葉。

『 さ よ う な ら 』

 確かに、そう聞こえた。口の動きからもそう読み取れた。
 足を前に出す、手を懸命に伸ばす。けれど身体が思うように動かない。
 今度こそ、それは俺の意志や拒絶感からではなかった。
 何らかの不可視の力が、確かに、そこに働いていた。
 強く輝きを放つ光、そしてふたりを引き裂く境界線のように荒れ狂う嵐のような風。
「待て、あゆ、話したいことがあるんだっ……約束、三人のッ……」
 必死に説得する。引き留めたかった。お別れは“学校”でしたかったから。
 光がひときわ強くその輝きを増す。眼を閉じ、ふたたび視界を開放する。
 そこに広がる光景に、俺は一瞬、心臓が止まりそうになった。
 ――羽根。
 天使の白い羽根を背中に纏(まと)ったあゆが、全身を輝かせていた。
 消える、そう直感できた。もう二度と逢えない、そう確信が持てた。
 部屋全体が真白く染まって、羽根の少女のシルエットが薄らいでゆく。
 やがて……それは、完全に、姿を消した。

「待て、あゆっ……あゆーーーーーーーーーーーーっっ!!!」

 ガバッ!!
 飛び起きる。呼吸が荒い。
 全身を蝕む冷や汗と、高まったままの動悸。気分は最悪だった。
 落ち着いて周囲を見渡す。水瀬家の自室。カーテンから差し込む陽射しが眩しかった。
 時計を見てみる。まだ夕方には早い、午後の昼下がり。
「夢か……縁起でもないな」
 思い出すだけでゾッとする。背筋が凍る。
 消える瞬間、その一瞬だけ。あゆの顔が名雪に見えただなんて。
「名雪が消えるだなんて……そんなこと、有り得ないのに……」
 言葉を否定するように頭(かぶり)を振って、ベッドから降り立つ。
 着替えれば汗は落ち着いたし、心拍数も正常値に戻りつつあった。
 それなのに、この胸の不安だけは……決して消えることもなく……。
「のど渇いたな」
 わざとらしく口に出してみて、本当にのどが渇いていることに気づく。
 廊下に出、名雪の部屋を覗き、家中を捜し、誰もいないことに驚く。
 ダイニングで適当に冷蔵庫のジュースを飲んでから、昨日の名雪の様子を思い出す。
「あいつ、熱ヤバかったけど……大丈夫なのか」
 そういえば、頼んでいた羽根リュックはどうなったのだろう。
 まさかあの高熱で修復する余裕があろうはずもない。名雪の回復を待とう。
「外出してる場合じゃないだろ、安静にしてなきゃダメだろうに……」
 どうしても胸に残る痛みが拭い切れない。膨らむ不安。
 やはり先程の夢に強く影響を及ぼされているのか。

『 さ よ う な ら 』

 別れの言葉が、あゆではなく、名雪の声に聞こえたような気もする。
 そんな訳ない、そう自分に言い聞かせても、全身の震えが止まらない。
「やめてくれ……これ以上は、耐えられそうにない……」
 誰に言うでもなく、知らず泣き言がこぼれ出る。
 幼い頃の心の傷を、思い出しただけで、まだその痛みも取れてないというのに。
 これ以上の別れは、間違いなく、俺を壊してしまう。もう限界も近かった。

 トゥルルルルルルルッ、トゥルルルルルルルッ!!

 まるで俺の心を見抜くように、ダイニングに鳴り響く電子音。
 本当は出るのも億劫だったが、恐る恐る手を伸ばした。
 ガチャッ。受話器を取る。
「はい、水瀬ですが」
 待つこと数秒。しかし相手は無言だった。
 受話器の向こうから外界のざわめき。きっと公衆電話からかけているのだろう。
「イタズラ電話だったら……」
「あ、あの、私です……」
 ようやく相手が反応した。
 弱々しい声。一瞬、誰なのか本気で考え込んでしまった。
「秋子さん……どうしたんですか?」
 何かがあっただろうことは見当が付く。秋子さんの落ち込みは一大事と同義だ。
 さらに流れる沈黙。先程の夢に出てきた彼女の悲しそうな笑顔を思い出してしまう。
「あの、秋子さん、俺に言えないことでしたら、名雪に……」
 言ってしまってからその不在を思い出す。
 健忘症。俺も相当まいってるな……。
「……えっ!?」
 秋子さんの驚きが激しい。反応も何となく鈍い。
 そこまで変哲なことを口走ってしまったのだろうか。
 ということは。湧いた疑問をぶつけてみる。
「名雪、どこ行ったか知ってますか!?」
「そんな……だって、なゆき……は……」
 まだ続く秋子さんの驚愕。そして動揺。
 夢の最後、名雪の悲しい笑顔が脳裏に浮かび、必死に振り払う。
 そして彼女の母親から漏れる、たった一言が、俺を……完全に打ちのめした。

「名雪は、肺炎で、発見が遅れて……いま、かなり危険な状態なんです……」



<次回予告>

 秋子さんの言葉の意味は…?
 あゆの、名雪の想いは報われるのか…?
 祐一の苦しみ、葛藤、深い絶望…そして、繰り返される悲劇。

 …起こらないから、奇跡って言うんですよ…。

 

 

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