第8楽章【不安】
翌朝、名雪の部屋から目覚ましの音が聞こえなかった。
セットし忘れたのかと扉を開けるが、人の気配はまったくなかった。
「名雪なら、朝練があるからと言って、先に行きましたよ」
朝食を取ろうとした俺に、秋子さんが教えてくれる。
……嘘だ。
そんなの俺に顔を合わせないための口実だ。
やはり、昨夜、俺は名雪を傷つけてしまったのだ。
それは初めてではない、7年前もきっと――。
「秋子さん、ちょっと……聞きたいことがあるんですけど……」
「はい、何でしょうか?」
「俺がこの街に最後に来た冬……そのとき、何かありましたか?」
どうしてもそこだけ記憶が抜けているんです、と付け加えて。
そんな俺の顔をじっと見据えて、
「世の中には、知らない方がいいことも……あるんですよ……」
わずかに秋子さんの表情が曇る。
昨夜の名雪と、一瞬、姿が重なった。
何故だか俺だけ取り残されたような違和感を覚え、追求しようとしたとき、
「おはようございますっ」
あゆが笑顔と共に元気よく入ってきた。
「おはよう、あゆちゃん」
秋子さんも優しい微笑みを向ける。
その様子に、俺はそれ以上は訊き出せなかった。
いつもより一人少ない水瀬家の朝食。
昨日の、恐怖を体感したあの食卓の方がどれだけ幸せだっただろうか。
「ねぇっ、祐一君♪」
秋子さんと会話を弾ませていたあゆが、突如、俺に話しかけてくる。
無視するのも可哀想、というより気が引けたので、適当に返事をしておく。
「今日、名雪さん、いないんだよねっ?」
「……あぁ、そうだな」
当事者の俺には悲しすぎるほどに明るい笑顔。
相槌を打ちながら、味噌汁を啜(すす)る音を響かせる。
ハッキリ言って味なんて分かりやしない。
ごめんなさい。秋子さんに心でそう謝っておく。
そんな俺の気も知らず、あゆは嬉しそうに先を続けていた。
「だったら、学校、二人で行こうよっ」
うん、決まり♪と嬉しそうに無い胸の前で両手を組む。
特に断る理由もなかったので、俺は首を縦に軽く振った。
「よかったよ〜、祐一君とふたりきりなんて……久しぶりだよね」
「……そうだったか?」
「そうだよっ」
三人で合掌し、俺たちは席を立った。秋子さんも見送ってくれる。
同時に靴を履くには狭い玄関を、犬のように飛び回るあゆ。
「お前は名雪か……」
「えっ、何か、言ったっ!?」
「……落ち着いて履け」
「うんっ、やって、るんだけどっ」
しかし口とは裏腹に、あゆの回転速度は確実に増していた。
このままだと『どいてっ、どいて〜〜〜っ』の域にも達しかねない。
後ろには様子を微笑ましく見守る秋子さんもいる、巻き込みたくはない。
「仕方ないなぁ……よっと!」
「わわっ!」
両手で肩を掴んでやると、ようやくあゆは回転を止めた。
ちょうど靴も履き終えた、というか向き合う格好で俺があゆの肩を抱いていた。
このポジション……いや、ちょっと待てよ……。
と。不穏な空気が漂っているような気がして、何気に横を振り向く。
「あらあら……祐一さん、朝から大胆ですねぇ」
「違います、こいつが慌てて……って秋子さんも見てたじゃないですか!」
しかし名雪の母親はたおやかに微笑むだけだった。
はたとあゆに視線を戻せば、
「お前、いつまで抱きついてるつもりだ」
「抱きついてないよ、祐一君がボクの肩ッ…」
「だったら、その両手は何だ」
「うぐっ……」
俺の腰に回されていた両腕を解いて、あゆの顔が、ボッ、と赤くなる。
今朝も(冗談で)愛の告白かどうかを確かめたが、あながち嘘でもなさそうだった。
『祐一のこと、ずっと、待ってたんだよ』
昨夜の名雪の言葉が脳裏をかすめる。
あゆの気持ち。名雪の気持ち。俺の気持ち。
それは、一度知ってしまえば勢いを増して感情を支配し、俺を混乱させる。
七年前に俺があゆを好きだったという事実と、いつのまにか忘れていた想い。
いま俺が名雪を好きだという確かな事実と、いつのまにか抱き始めていた想い。
視線を下ろせば、沈黙した俺を心配そうに覗き込むあゆの顔。
……いつかは出さなけらばならない。答え。
「祐一さん、ちょっと……いいですか?」
いつもの秋子さんの笑顔、しかし口調は真剣そのものだった。
「じゃあボク、先に外に出てるよっ」
二人きりになると、先程まで騒がしかった水瀬家に静寂が訪れる。
外であゆが新雪を踏みしめるザクッ、ザクッという音以外は何も聞こえない。
ややあって、秋子さんはゆっくりと口を開いた。
「真実というものは……いつだって、残酷ですよね…………」
第9楽章【見つからない捜し物(1)〜陽の傾く街で〜】
気が付けば、俺はまだ陽の暮れない商店街をひとり歩いていた。
隣に、昨日は肩を並べて歩いていたはずの姿は、ない。
部活があるから、部長会があるから、そんなのは理由にはならない。
HRに始まりHRに終わるまで、学校では名雪と一度も口を聞いていなかった。
「あぁ、教室出るときに“それじゃ”くらいは……言ってくれたっけ」
香里と北川の心配そうな視線が辛かった。
俺が名雪を傷つけ、自分自身をも追い込んでいる。
もしかしたら、もう名雪には嫌われてしまったのかもしれない。
昨夜、強引に過去を訊き出そうとしたことに腹を立てて。
いや、怒っているのならまだ救われる。
間違いなく、名雪は悲しんでいた。
……おれは、何て無力なんだ。
『真実というものは……いつだって、残酷ですよね…………』
俺の、夢の記憶が間違っていなければ、あそこには名雪も居たはずだ。
相沢祐一と月宮あゆと、そして水瀬名雪。
まるで昔からの幼友達のように遊んだ。
そういえば、わずかに記憶の浅瀬に残る……あの森は、どこにあるのだろう。
森の中央には大木があって、よくあゆが天辺まで登っていた。
名雪とふたりで笑い合って、俺と一緒に街並みを見られないことを残念がっていた。
「あの頃から俺は高所恐怖症だったんだよな」
その先を無理に思い出そうとすれば、すぐさま頭に激痛が走る。
昨夜からずっとこうだった。
昨夜までは頭痛すら起こらなかった。
少しずつ、真実に近づいてる……そういうことなのだろうか。
『自分で閉ざした心は、自分でしか開くことはできないわ……最終的には、ね……』
秋子さんはそれだけを言うとキッチンに消えてしまった。
立ち去る寸前、無理だけはしないで下さいね、と言い残して。
「はは、さすがは放任主義者……厳しいよな……」
あゆには秘密にしないといけない言葉だったのか。
それは分からないが、ただ、ひとつだけ言えること――。
真相のすべてを知っているのは、あの母娘だけだということ。
……ドンッ!
誰かと肩がぶつかる。
完全に俺の前方不注意だった。
「おわっ、す、済みません!」
相手の顔も見ずに頭を下げ、ふたたび歩き出す。慌てて。
一歩を踏みだそうとするが、今度はグイッと手を掴まれた。
「何だよっ、ちゃんと謝っただろ!?」
「うぐ……もしかして、ボクのこと無視してる〜?」
知った涙声に、先程ぶつかった相手をよく見てみる。
別に驚くことはない、そいつは水瀬家の居候パート2だった。
「どうして声を掛けなかった」
「何度も掛けたけど、祐一君が気づかなかったんだよ〜」
いままで何度も見た拗ねた顔。いまも目の前に。
手を伸ばせば、すぐそこにあった、想い出の共有者。
失った想い出を必死に捜し求める、おなじふたり。
ポフッ。
あゆの頭に手を乗せ、優しく撫でてやる。
「うぐ? ……く、くすぐったいよ〜」
恥ずかしそうな、しかし嬉しそうな顔。
泣き叫んでいる俺の心に、スッ、と入り込んでくる。ごく自然に。
「どうしたの、祐一君……悲しいの!?」
あゆの本当に心配そうな顔。
まるで心の奥底を見られているようで、どきりとした。
心臓が高鳴る、思考がまっしろになってゆく。
「どうしてそんな顔してるの、祐一く…」
ギュッ。抱きしめていた。
力いっぱいだきしめたいた。
今は何もかんがえたくなかった。
いまは、かなしみからのがれたかった。
いまはただ、ぬくもりをかんじていたかった。
………………
…………
……
商店街が夕焼け色に染まっていた。
さっきよりも、影がひとつ、横に長くなっていた。
陽の傾く街で、俺たちは互いの身体を抱きしめ合っていた。
やがて、影は離れる……。
「ありがとな、あゆ、俺を受け入れてくれて」
「ボクは……昔から、祐一君のこと、大好きだったから……」
もう一度あゆの頭を撫でてやると、今度は本当に嬉しそうな笑顔を覗かせた。
その顔の赤さが、夕陽の赤なのか、それとも別の何かなのか。
……封印されていたふたりの想いが解け合うとき。
「うぐっ、まだ心臓がドキドキしてるよ〜」
「それは俺に対する愛の告白だと見なしていいんだな?」
あゆは小首を傾げて考える仕草を見せたが、それも一瞬のことで、
「うん……いいよっ♪」
運命ガ、二人ノ絆、分カツマデ――……。
第10楽章【見つからない捜し物(2)〜あゆの幸せ〜】
シャッターの下りる店が増えてきた商店街。ふたり歩く。
話題の雑誌、評判の甘味所、最近見たTV。他愛のない話。
歩幅の狭いあゆに合わせて、肩を並べて、ゆっくりと。ゆっくりと。
「そういや、ココで何してたんだ?」
何でもない疑問。約束もしていない、いつもの再会。
「捜してたんだよ……ボクの、大切な捜し物」
「あぁ、確かそんなこと言ってたよな」
そう、それは、あゆが水瀬家に居候するより以前の――、
「……って、あれから一ヶ月以上経ってるぞ!?」
「うぐぅっ、だって見つからないんだもん……」
悲しそうな表情。まるで迷子になって途方に暮れた。幼子のような。
それだけ一生懸命に捜した証拠。あてもなく、ただ延々と彷徨(さまよ)って。
「俺も手伝ってやるよ」
「えっ、本当に!?」
「当たり前だ、困ってる彼女を助けてやるのは……彼氏の役目だからな」
一瞬ためらってから、俺は、きっぱりと言い切った。
ただでさえ大きな瞳がさらに見開いて、あゆが戸惑っていた。
「わ、わわ、わわわっ……」
何かを喋ろうとはしているのだろう。
だが混乱しているのか、錯乱しているのか、言葉には表現できないようだった。
「あゆ語は俺には通じないぞ?」
からかってみる。期待通り、超絶反応。
「……なっ、あゆ語って何だよ〜ッ!」
「言葉通りだ」
「うぐぅ、祐一君の意地悪ッ!!」
「よしっ、それでこそ月宮あゆだ♪」
ポンポンッと頭を軽く叩いてから、歩き出す。
文句を言いながらも、あゆが懸命についてくる。
「さて、どこから捜す?」
「タイヤキ屋っ♪」
即答。その差、わずか0.1秒。
さっきまでの悲しそうな表情は完全に払拭されていた。
「お前な、実はオゴってほしいだけだろ?」
「うぐっ……ちっ、違うもん!!」
態度で判る。バレバレ。嘘をつけない性質は相変わらずだった。
まぁ、いい。沈痛な思いが払拭されたのは俺も同じだしな……あゆのお陰で。
「一匹くらいならオゴってもいいぞ、初デートだしな」
「ケチだよ、一匹なんて……」
「秋子さんの料理、食えなくなってもいいのか?」
時計がないので正確には知らないが、もう午後五時か六時か。空の濃さで判る。
手伝うとは言ったものの、暗くなっては捜しにくいし、早々に切り上げたかった。
「うん……じゃあ、一匹でいいよっ」
相好を崩して俺の手を引っ張る。
「捜し物がメインだろっ、走らなくても……」
「だって、早くタイヤキ食べたいからっ」
理由になっていない気もしたが、あゆがいいのなら別に構わない。
流れる街並み、七年前と変わらない、俺たちと同じ時間を過ごす空間。
「……捜し物、べつに見つからなくてもいいと思う」
ふと、漏れる本音。ポツリと。
「おい、それは協力してる人間に言うことか?」
それもそうだね、と笑って、あゆは立ち止まった。
振り向く。真剣な表情。どこか大人びた笑顔で。
「ボクの捜し物……ボクが幸せなら、必要ないんだよ……きっと……」
一陣の風。通り抜ける。風は雪を運び、雪は街を真白く染める。
幸せなら必要のない捜し物。見つからなくてもいいと言った、悲しげな笑顔。
「お前……いま幸せか?」
「幸せだよ。暖かい家族。お母さんがいて、お友達もいて……好きな人も……」
「だったら……どうしてそんな顔するんだよ」
一瞬、白く霞む街並みにあゆの身体が溶け込んでしまうような気がして。
ギュッ、と抱きしめた。強く。優しく。
「だって、幸せは……いつかは逃げてしまうから。それが、怖いんだよ……」
どうしようもなく肩を震わせるあゆは、どこまでも孤独に見えた。
顔を上げさせる。抱きしめた両手を解いて、あゆの頬に優しく宛てて。
「ゆういち……くん?」
「目、閉じてろ」
「……ん」
ふたり眼を閉じる。近づく顔と顔。
やがて影はひとつに繋がり、白い街並みに溶け込んでゆく。
唇から伝わってくる温もり、感情。正も、負も。
孤独も、恐怖も、みんな俺が吸い取ってやる。
陽の暮れる濃い赤が青紫に変わり、街灯がその存在を主張する頃……。
沈黙したまま、何も言い出せずに、でも幸せそうなあゆの表情。
「秋子さんも心配するし、そろそろ帰るか」
「えっ、う、うんっ……そうだねっ」
ふたり歩き出す。やはり黙々と。
結局タイヤキは買わなかったような気もしたが、もはやどうでもいいことだった。
いま、あゆは何を考えているのだろうか。
いま、俺は何を考えるべきだろうか。
まず名雪に報告して……昨夜のことも謝らないと。
「これからは、いっぱいデートしなきゃな」
「うん……」
「あゆの学校も、案内してもらわないと……」
「う、うんっ!」
想い出を共有する人間がこんなに近くに居るんだ。
過去に何があったか、なんて、すぐに思い出せるはずだ。
そう思い直し、努め、心の底から湧き出てくる不安を振り払う。
「幸せってのは、そう簡単に逃げてくもんじゃないから……安心しな」
根拠はないが、自分から放さなければ大丈夫だ。
そう言ってあゆを安心させたかった。
だけど……。
「……本当は、もう逃げちゃった後なのかもね」
商店街の外れ、駅前から続く歩行者天国。
入口に掛かるアーチの下から、俺たちの幸せを引き裂く。声。
声の主が一歩踏み出る。街灯に照らされ、姿が克明に浮かび上がる。
雪風に舞う蒼い髪――名雪だった――。
「幸せは……七年前、すでに終わっていたんだよ……」
第11楽章【見つからない捜し物(3)〜記憶の入口〜】
川沿いの小さな交差点。通学路の分かれ道。
そこで、はたと名雪は立ち止まった。
「……いい?」
振り返らないまま、訊いてくる。
秋の夕陽はつるべ落とし、冬の夕陽はもっと早く暮れる。
商店街から移動している間に辺りはすっかり暗くなっていた。
良いも何も、ここまで俺たちを引き連れてきたのは名雪自身だった。
「祐一と、あゆちゃんには……辛いかもしれないよ?」
いまだ振り返らぬまま、なおも確認を繰り返す。
その声は昨夜と同じように震えていて、ここまでも始終無言だった。
一番辛いのは名雪ではないだろうか……そう思えたが、それは言わないでおく。
「昔のこと、教えて……くれるんだな?」
「もぅ、時間がないから」
「そうか……分かった」
俺の言葉に深く頷くと、名雪は再び歩き出した。あゆの学校へと。
制服も宿題もテストもない、当の生徒は、俺の腕にギュッとしがみ着いていた。
「……怖いのか?」
「怖くなんか、ない……もん」
いつもの岐路を山間へ進むと民家の数が減り、自然と街灯の数も減ってくる。
暗闇は次第にその深さを増し、やがて訪れる漆黒。
もはやあゆは全身を震わせていた。
雪道を奥へ進むたびに腕の痛みが強まる。
それは母親とはぐれた幼子そのものだった。
知らない世界に放り込まれ、現実との接点を完全に見失い、ただ闇夜に怯えている。
「大丈夫だ、俺が居るから」
優しく声を掛けてやる。うん、と少しは和らぐ恐怖。そして笑顔。
吹雪いてこそいないが、天候もそれほど芳(かんば)しくはなかった。
時折強まる雪風を手で凌ぎながら、目的地へ確実に進んでゆく。三人で。
あの交差点から、一体どれだけの距離を歩いたのだろうか。
やがて名雪は足を止めると、まっすぐに一点を指さした。
「ここだよ、祐一の……記憶の入口」
「……あっ!」
それは、紛れもなくあの場所だった。
記憶の断片。三人で遊んだ。霧のかかった記憶の森。
俺ハ、コノ場所ヲ、知ッテイル――……。
大人ひとりが通れるかどうかの、小さな森の小径。
まったく視界が利かないなかで、本能だけが懐かしさを覚えていた。
曲がりくねった道を一度も迷わず先導する名雪。怯えるあゆ。そして最後に俺。
「おい、随分と辺鄙(へんぴ)な場所にあるんだな」
「う……うん、そうだね……」
震えながら、あゆの口調は戸惑っていた。
これから恋人に自慢の学校を紹介する、という態度とは絶対に違う。
胸の内に抱く正体不明の恐怖は、俺も、あゆも、確実に増大してきている。
「なぁ、名雪……」
「この先で間違いないよ。あゆちゃんの……ううん、私たちの学校は……」
「……俺たちの学校!?」
俺の質問に誰も答えることはなく。名雪は黙ったまま。あゆは怯えたまま。
そういえば、と今になってようやく先程の言葉の意図するところが気になった。
『 も ぅ、 時 間 が な い か ら 』
よくよく考えてみれば、あれは重要なことを言っていたはずだった。
失礼な言い方だが、名雪はこれでも聡明なヤツだ。秋子さんの娘なのだから。
最初は軽く聞き逃していたが、もしかしたらとんでもない思い違いだったんじゃ……。
「これ以上、進みたく……なぃよ」
あゆの泣きそうな声。歩を止める。母親に駄々をこねる子供のように。
正直、俺も進みたくはなかった。この先にあるのは、間違いなく“悲しみ”だった。
「もう遅いんだよ……遅すぎだよ、七年は……」
優しく、諭すような声だったが、それは同時に反論させない迫力をも伴っていた。
振り返ってはくれない名雪の厳しい口調に、ビクッ、と肩を震わせる。あゆ。
俺が後ろからその手をそっと繋いでやると、ギュッ、握り返してくる。強く。
そして辿り着いた場所。広い空間。言いようのない不安。
漆黒の闇で完全には視界が利かないが、雪明かりに照らされるその場所は……。
ドクン!
……ちょっと、待て、いや、違う……。
ドクンッ!
……この場所って、そんな、はずは……。
ドクンッッ!
……まだ、早すぎる、時間が、もっと……。
「うそ……だよ……」
ドクンッッッ!!
あゆが、フラフラと、空間の中央に歩み寄ってゆく。
行くな、そこは、それは、お前にとっては、俺と、名雪と……、
「ボク、ここで、確か……」
言葉とほぼ同時だった。月明かり。サアァッ、と森を白く覆う霧が晴れる。
森の広場の中央に、立派な大木……の名残の、切り株があった。
動悸の、爆発する、大音響、耳元で。
……ドクンッッッ!!!
記憶の湖、水面に浮かび上がる森、そして……約束……。
第12楽章【解かれた封印(1)〜現実と非現実〜】
少年は駆けていた。全速力で。
曲がりくねった森の小径を、休むことなく走り抜ける。
母親の面影の強い三つ編み少女は、やや後方からその背を追っていた。
明確な体力差。少年はいとこの少女を構うことなく走り続ける。
無理もない。今日は大切な約束があった……少年のお別れ会。
『この樹を……ボクたち三人の“学校”にしようよ』
前日、別れ際に少女が呟くように口にした言葉。
三人で遊ぶようになって知ったことだが、あゆは孤児だった。
幼くして父親を亡くし、母親もいなくなった彼女に身寄りはなかった。
あゆは孤独をひどく恐れていた。
やっと出来た友達も、まもなく終わる冬休みとともに居なくなってしまう。
「実家に帰るから仕方ないよ……来年も、また来るからさ」
「それに祐一が居なくても、私ならこの街にずっと居るよっ」
名雪が元気な笑顔を送り、つられてあゆも笑う。
でも、あゆは確かな想い出がほしかった。
記憶としてだけではなく、形としても残るものがほしかった。
この広場と大木。短いがたくさんの想い出を共有した場所。
少女は初めて出来た、親友ともよべるふたりに、精一杯の勇気を振り絞って言った。
名雪と祐一はあゆの願いを受け入れ、今冬最後の再会を翌日に約束して別れた。
……そして、いま約束の場所に向けて全力疾走していた。
もはや遅刻は確定、あゆも心細くふたりを待っているだろう。
いままで待ち合わせは商店街で、森に着く頃には夕方になっていた。
あゆは、最後に夕暮れでない街を見たいと言い、祐一の帰省時間に合わせての約束。
それをすでに何分、何十分も遅れているのだ。
理由は至って単純だった。
「しばらくお別れだから、何かあゆちゃんにプレゼントしようよ」
名雪の提案で商店街の雑貨屋に行き、彼女への贈り物を吟味していたのだ。
ビー玉みっつを名雪に買ってやる羽目にもなってしまったのだが、それは関係ない。
包装紙とリボンに包まれた贈り物を小さな枝葉で傷つけぬよう抱え込んで走る。
まもなく見られる少女の……あゆの笑顔に、淡い期待を寄せて……。
……まもなく訪れる悲しい別れを、少年は知る由もなく……。
幼い祐一は、名雪よりも先に“学校”へと辿り着いた。
早く少女の姿を見つけ、いとこが到着する前に告白したかった。
名雪の気持ちに薄々気づいていた祐一は、三人の時には言い出せなかった。
直接、大切ないとこを傷つけたくはなかった。
「あゆーーーっ!」
少女の名前。初恋の、女の子。呼び叫ぶ。
返事のない静寂。焦燥と孤独。消えない期待。
「どこだ、あゆーーーっ!!」
何度も、何度も呼び続ける。
消えてゆく期待。膨らむ焦燥感。最悪の想像。
「まさか怒って……いや、悲しくなって……」
さっさと帰ってしまったのだろうか。
誰ひとりとして味方のいない、孤児院へと。
胸が締めつけられる。俯いて、地面の一点を無意味に見つめる。
孤独以上に深い孤独を、自分自身が味わわせてしまった。
と。絶望に落ち込みかけた、しかしそのとき……。
「遅刻だよっ、祐一君!!」
知った声、頭上から響く。
面を上げ、さらに高く見上げる。
いつもの定位置に、あゆがちょこんと腰掛けていた。
「何だ、いたらいたで返事くらいしろよ」
「ごめんね。青空の街並みが……すっごくキレイで」
視線を麓(ふもと)に戻し、ほぅっ、と感嘆の溜息をつく。
夕暮れのそれすら見たことのない俺にはまったく想像のつかない光景だった。
「祐一君もココ、来たらいいのに」
「だ〜か〜ら〜、俺は高所恐怖症なの。ジャングルジムだって怖いのに……」
「あはっ、そうなんだぁ……」
足をブラブラさせながら、無邪気な笑顔を俺に向ける。
その先の小枝が、前触れもなくブワッと風に大きく揺れた。
「!!!」
声が出なかった。
必死に注意を促そうとした……はずだったのに。
しかし、あゆは俺の驚愕の表情を、違う意味として受け取ったようだった。
きっと自分が笑ったことに対して、俺が気を悪くしたとでも思い込んだのだろう。
「笑っちゃいけないよね、ボクだって暗所恐怖しょ――……」
ゴオォッという轟音に、あゆの言葉が掻き消される。
はたと振り向く。だが、気づくのが遅すぎた。
刹那。幹は大きく揺れ、かしぐ枝が降り積るすべてを薙ぎ払った。
……それは、まるで、ビデオのスロー再生のようだった。
見慣れた少女の身体が、無音のなか、宙を不自然に舞っていた。
粉雪のように、ひどく、ゆっくりと、ゆっくりと……。
やがてそれは、地面に降り注ぐと、
………ゴトッ…
岩のような、重く、嫌な音を立てた。
薄く敷かれた白い絨毯の上に、少女の身体が横たわっていた。
俺の足は、立ちすくんで動けなくなっていた。
あたまのなかがまっしろになっていた。
幼心に嫌な想像に掻き立てられて、近寄りたくなかった。
少女の無惨な姿を、決して目にしたくはなかった。
淡く想いを寄せる、少女の、赤い身体を……。
「ゆぅ……いち、く……」
麻痺していた神経が急激に戻って、目眩がした。
ザァッ、と木々のざわめきが聞こえる。
少女の途切れとぎれの声が聞こえる。
そこで俺は初めて地面を蹴り、駆けつけることができた。
近づく少女との距離。過酷な現実。
駆け寄り、彼女の手を取る。優しく。
「ボ……ク……ゆぅいち……くんの、こと、す……き……だった……よ……」
手を握り返す力すら、あゆには残されてはいなかった。
瞼を開ける力すら、あゆには残されてはいなかった。
「俺も、あゆのこと、好きだったんだぞ……ほら、今日は、プレゼントだって……」
ガサ、ガサと紙袋を揺らして音を聞かせてやる。
もう顔の筋肉すら動かせないのだろう、ぎこちない、けれど精一杯の笑顔。
「なか……みは、な……にかな……」
「あゆに似合う、とっても、可愛いものだ」
俺も負けないよう精一杯に笑い掛ける。だが声が震えていた。
ゆっくりと、しかしじわじわと、確実に広がってゆく赤い血の海。
もう残された時間、わずか少なく。幸せの消滅。音を立てて迫り始める。
「……なゆちゃんも、くれ……るんだ……」
振り向くと、俺とは別の小さな贈り物を揺らして、名雪が側に立っていた。
何も言わず、何も言えず、ただ小刻みに震えながらゆっくりと膝を崩す。
「なゆちゃん……ゆういちくん……やくそく……ゆびきり……」
最後の力を、振り絞って、言葉を繋げて、あゆが両の小指を差し出そうとする。
肩を大きく震わせながら、名雪も自分の小指を絡め、俺も同じように絡める。
「あはは……なんだか……あったかい……」
閉じた名雪の瞳から、涙の雫が零れて、絡めたあゆの小指に落ちた。
俺も小指に暖かさを感じて、ようやく自分の視界が歪んでいることに気づいた。
「……やくそく……さいかいは、この“学校”で……ッ!!」
強い口調とともに指切りをして、名雪は一目散に森を駆け下りていった。
救急車を呼びに行ってくれたのだろう。
「うん……約束、だよ……」
あゆの返事は、遠く親友には届いたのだろうか。
薄く両眼を開けて、震える瞳で、俺をジッと見つめて。
「……また、ね……」
その言葉を最期に、少女の瞼が、ゆっくりと閉じられた。
俺はその頭を優しく撫でながら、名雪の帰りをずっと待ち続けた。
白い地面にポツンと置き去りにされた贈り物。ふたつ……。
悲しい想い出のなかに夢を見続けたココロ。ふたつ……。
記憶の底に眠っていた“現実”が、いま、残酷な形で非現実と対峙していた。
<次回予告>
七年前の記憶。悲しい出来事。
自分を追い込むことで、やがて周りをも巻き込んでゆく。
運命の歯車は、いつから狂い始めていたのだろう…。
…七年前、それとも…?