前奏曲【希望】

 ……夢

 夢を見ていた

 どんな夢かは分からない

 それが本当に夢なのかどうかすら分からない

 そんな……不確定で、ひどく曖昧な夢



 ……でも、構わない

 何故なら……いま、すごく幸せだから

 不確定な世界を漂いながら、いつか現実を見つけるために

 他ならぬ“ボク”自身を見つけるために

 いつか交わした約束を、そう遠くない未来に果たしたい



 だって……ボクらの旅は、まだ始まったばかりなのだから……



第1楽章【日溜まりの朝】

 カーテンを勢いよく開け放つ。
 気持ちのいい朝、気持ちのいい目覚め。
 まだこの寒さには慣れないが、この街にはかなり慣れてきた。
 いつだったか、名雪が笑って言っていた通りそのままに……。
 悔しいけど、でもそれは、決して嫌なことではなかった。
『朝だよ〜、朝ご飯食べて、学校行くよ〜っ』
 ……カチッ。
 名雪に借りている目覚ましを止める。
 始めは逆効果だと思っていたこの目覚ましにも、ずいぶんとお世話になっていた。
 いつかは雪やこの街を好きだった頃の俺を、俺自身は取り戻せるのだろうか?
 さて、今度は俺が名雪を起こす番だ。
 祐一はドアを開けて、朝の冷たいが新鮮な空気と入れ違いに廊下に出た。
「わっ」
 途端にあゆと鉢合わせになる。
 大袈裟に一歩後退して、目を丸くして、あゆは祐一を見上げた。
「きゅ、急に出てくるからビックリしたよ〜……」
「驚いたのはこっちの方だ、急に声を上げやがって」
「うぐぅ……まだ心臓がドキドキしてるよ〜……」
「それは俺に対する愛の告白だと見なしていいんだな?」
 祐一の言葉に、さらに大袈裟な反応を示すあゆ。
「うわっ、何てこと言うんだよ〜」
「ところであゆ、何でお前がここにいるんだ?」
 真剣な顔付きで。
「祐一君、おかしなこと言ってるよ」
 不思議そうにあゆが首を傾げる。
「ボクはここの家族なんだから、ここにいるのは当たり前だよ」
「………」
 そうだ。俺は何を寝惚けているんだ。
 あゆはもう、ここの家族の一員なんだ。
 秋子さんが熱を出して倒れて、あゆが懸命に看病した、あの日から……。
「じゃあ、俺は名雪を起こして学校だな」
「うんっ、ボクも途中まで一緒に行くよ〜」
 朝から元気なあゆと一緒に、俺は名雪の部屋の扉を開けた。

 ジリリリリリリリ、リングリングリング、ジャンジャンジャン、ピピピピピピピピッ!
 部屋に入った途端、押し潰されそうな大音量。
 俺は耳を押さえながら、おびただしい数の目覚ましをひとつひとつ止めていく。
 やっと最後の目覚ましを止めたとき、俺は肩で大きく息をしていた。
「うぐぅ……鼓膜が破れるかと思ったよ〜……」
 床にうつぶせていたあゆが、ようやく解放されたようによろよろと起き上がる。
「おお、戦友よ……よくぞ生き残った!」
 俺は半分は冗談で、もう半分は本気で言った。
「うぐぅ……本当に死ぬかと思ったよ〜……」
 あゆは本当に死線から生還してきたかのように、疲れ切った表情で声を震わせた。
 さて、と名雪に向き直すと……想像通り、ビクともしていなかった。
 動かない身体、深い眠りにつく少女。
 寝息ひとつ立てずに、まるでそれは、生命活動を停止してしまったかのように。
 俺は思わず名雪の顔に耳を近付ける。
 注意深く聞かないと判らないくらい、スゥスゥと穏やかで静かな寝息を立てる少女。
 俺はホッと胸を撫で下ろすと同時に、朝からいけない気持ちに襲われた。
 耳に、名雪の暖かい吐息が当たる。名雪の顔が目の前にある。
 いとこで、同居人で、クラスメートで、俺をいつも温かく見守ってくれている名雪。
 ここ最近、俺は名雪のことが好きになってしまっていた。
 いとことしてではなく、ひとりの女の子として、俺は名雪を……。
「祐一君、何してるの?」
「うわあああぁぁぁぁぁぁっっ!」
 急に声をかけられて、俺は心臓が飛び出るくらいに驚いた。
 それはそうだ、俺は完全に自分の世界に入ってしまっていて、もう少しで名雪にキスを
してしまうくらいに顔を接近させていたからだ。
 危うく名雪とのキスシーンを、朝からあゆに見られそうだったじゃないか。
 それに、俺の片想いに、不意打ちという形で名雪を巻き込みたくはない。
「祐一君、名雪さん、起こさないの?」
「あぁ……そうだったな」
 今度は俺が心臓をドキドキさせていた。
 怪訝そうな顔のあゆをよそに、再び名雪に向き直す。
 ちょっとやそっとのことではこのいとこは起きてはくれない。
「あゆ、ちょっと耳塞いでろ!」
「え? うっ、うん……」
 さらに理解不能という表情をしながらも、あゆは言われるままに両耳を塞いだ。
 祐一は思い切り息を吸った。
 あゆは訳の解らないまま、その様子を凝視していた。
 シーンと静まり返った名雪の部屋、それは嵐の前の静けさ。

「猫さんがイチゴジャムを食い逃げしてけろぴーに追っ掛けられてるぞぉぉぉっっ!」



第2楽章【水瀬家の朝食模様】

「あら名雪、今日は早いのね」
 秋子さんが頬に手を添えながら名雪に微笑みかける。
 いつもより早く降りてきたんだ、そりゃ驚きもするだろう。
「だって、猫さんがイチゴジャムを食い逃げして、それをけろぴーが……」
 寝惚け眼に寝惚けた声で、俺が叫んだことをそのまま言う。
「えっ」
「うわぁっ、何でもないよ〜」
 危険なことを口走ったことにようやく気づき、一気に覚醒、懸命に否定する。
「……あんなに私の目の届かない所では動いちゃ駄目よって、念を押したのに……」
 おかしいわねぇ、と秋子さんが呟くように付け足す。

 ――心なしか、冷たい風が吹き抜けていくような気がした。

「あ、きっと私の気のせいですね。さぁ、朝ご飯にしましょう」
 俺たちの反応に気付いたのか、取り繕うように言う。
 まぁいい、秋子さんの謎は今に始まったことじゃない。
 またひとつ、謎が増えただけ……ただそれだけのことだ。
 それさえ除けば平和でいて暖かな、水瀬家の朝の風景。普段通りの朝食。
 しかし。まもなく事件は起きた。

「実は、新作のジャムがあるんですけど……」

 ――心なしか、冷たい風が吹き抜けていくような……いや、今はそれどころじゃない!
 試して下さいませんか、という悪魔の呪文が詠唱される前に逃げ出さなければッ!
 俺たちはまだ若い、命を粗末にしたくない。
 まだ、やりたいことがたくさんあるんだ!
 しかし、そこには過酷な運命が待ち受けていた。
 玄関の外まで出たところで点呼を取ると、約一名、逃げ遅れがいた。
「短い付合いだったな、あゆ……」
「今頃あゆちゃん、お母さんの餌食に?」
 それは、お母さん大好き少女の言う台詞ではないだろう、とツッコみたいのを抑えて、
俺は不穏な空気に包まれた水瀬家の玄関を振り返った。
 するとまもなく、あゆが半泣き状態で玄関を飛び出してきた。
「うぐぅ、ビックリしたよ〜……」
「おお、戦友よ……よくぞ、無事に生還してくれた!」
 肩で大きく息をするあゆを見て、俺は今度こそ心底からそう言った。
 本当に、よく秋子さんのジャムを食べて無事だったな。よかったな、あゆ。
「よくないよぉっ!」
 あゆが地の文に対して不平不満を言う。
 人の心が読めるだなんて、お前はエスパーか?
 ……それにしても。
「お前には学習能力というものが備わってないのか?」
 ごく最近、あゆも一度あのジャムを食べたはずだ。
 なのに、もう忘れてしまったのだろうか?
「うぐぅ……まさか、あのジャムのことだったなんて、思いも寄らなかったよぉ……」
 あゆは秋子さんのこと、完全に信用していたのか。
 そんな健気な少女を実験台に使うとは、何と恐ろしい魔女なんだ、水瀬秋子女史!
「……真っ先に逃げた人には、言われたくないと思うよ……」
「うぐぅ」
「うぐぅ、真似しないでっ!」
 怒った表情をしたことであゆの無事を確認すると、
「ゴメンな、我が身の可愛さのあまり……本能が警鐘を鳴らしたもんで、つい……」
 いの一番に逃げたのは確かに俺の方だったし、取り敢えず素直に謝っておく。
「あゆちゃん、私も知ってたのに先に逃げちゃって……本当にゴメンね」
 名雪も俺に続いて謝る。
「うぐぅ……ボクも、これからは気を付けるよ……」
 あゆも今回の件を反省して、これからは秋子さんのジャムを迂闊には食べないだろう。
 だけど、秋子さんの謎って、追求すれば追求するほど増えていく気がする。
 例えば、それは冬の街に起こった、7つの謎の出来事。

 その名もズバリ『水瀬秋子七不思議殺人事件』!

「――って、何で殺人事件やねんっ!」
「どうしたの、祐一?」
 いとこの少女が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「いや、何でもない。気にしないでくれ……」
 自分のギャグにひとりツッコミしただけだなんて、恥ずかしくてとても言えやしない。
「祐一君、ひとりボケツッコミなんて寒いよ?」
 だから地の文を読むなよ、という言葉を祐一はグッと呑み込んだ。
「そう言えば、あゆちゃん、学校は……?」
 いとこが少しずれたタイミングでフォローしてくれる。
 最も、本人は何も狙ってはいないのだろうが。
「え? あっ……うぐぅ、通り過ぎちゃったよ〜……」
「だったら、ここで解散」
「うんっ、また家でね〜っ!」
 手を元気に振りながら引き返すあゆと別れる。

 ふと後ろを振り返ってみると、すでにその姿は見えなくなっていた。



第3楽章【放課後の事件(笑)】

 キーンコーンカーンコーン……。
 終業チャイムが鳴り響くと、途端にそれまでの疲れも吹き飛ぶから不思議だ。
「祐一、放課後だよっ」
「言われなくても判る」
 素っ気のない返事をすると、名雪に引き続き、
「相沢君、放課後だよっ」
「キャラ変わってるぞ、香里」
「冗談よ」
 笑い合う。そんな何気ない会話が楽しかった。
 この街への拒絶感は、もう随分と薄らいでいた。
 それとなく陸上部の部長にデートを申し込もうとしたところ、
「残念だったな、相沢」
「なんだ、用でもあるのか?」
 聞くと、北川は胸を張って自信満々に、
「大ありだ。それもビッグ・アント!」
「大きな蟻とでも言いたいのか?」
「だからそう言っているだろう」

 ――心なしか、冷たい風が吹き抜けていくような気がした。

「名雪、部活は?」
「ううん、今日は木曜日だから、お休みだよ〜」
「じゃあ、さっさと行くか」
「うんっ」
 名雪の満面の笑みを確認すると、祐一は二人で教室から……。
「……待たんかいっ!」
 扉を潜ろうとする二人を、自信満々のギャグを無視という形でツッコまれて、あの世へ
逝きかけるほどにショックを受けていた北川が、我に返って呼び止めた。
「あ……北川君、いたの?」
 そのとき、再び北川の時間が止まった。
 いとこの悪気のない罪深き台詞に、祐一は心から友人の冥福を祈った。

 ――北川潤フォーエバー!

「勝手に殺すなぁっ!」
 呪いから解かれた北川が、激しく抗議してくる。
 文句を言うなら、俺じゃなくて名雪に言ってくれ。名雪に。
「ハァハァ」
「息を切らしてるところで申し訳ないんだが、結局、何の用だ?」
 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、北川は満ち足りた表情を見せた。
「水瀬と相沢、今日は掃除当番だぞ」
「……それだけを言うために二十行以上も使わせたのか?」
「はっはっは……まぁな!」
 再び自信満々に胸を張って答える北川。
 俺はこのとき、他人に対して生まれて初めて殺意をというものを抱いた。
 しかし、自分の手を汚したくない……ならば、だ……。
「香里」
「何? 相沢君」
「言わずもがな、だ……」
「解ったわ」
 ツーと言えばカーのような感じで、俺と香里の会話は成立していた。
「さて名雪。危害が及ばない内に、さっさと掃除を始めようぜ」
「え? えっ!?」
 事情を飲み込めない名雪を引っ張りながら、祐一は教室の隅に退散した。
 取り残される北川、立ちはだかる香里。
「な……なぁ、美坂、ひとつ聞いていいか?」
「何? 北川君」
「言わずもがな……って、一体……何のこと?」
 不安そうに、嫌な予感を胸に押し込んで、恐る恐る北川が聞く。
 しかし、嫌な予感とは当たるものだ。
 ニッコリと微笑む美坂香里、それは悪魔の舞い降りる瞬間。
「……言葉通りよ♪」
 北川は見た。次の瞬間、香里の両手にニードルサックが装備されるのを。

 ――北川潤フォーエバー!

 一方的な夫婦ゲンカをよそに、祐一と名雪は淡々と掃除を進めていた。
「名雪。そっちの列の机、つってくれよ」
「え……吊るの?」
「ああ、つらないと掃除ができないだろ?」
「……本当に、吊るんだね?」
「だから、そう言ってるだろ!」
「じゃあ……つ、吊るね……」
 名雪の不安な口調に違和感を感じながらも、一列分の机を移動させてから振り向くと、
そこには世にも奇妙な光景が待ち受けていた。
「……誰が机をロープで天井から吊れと言った?」
「ゆ、祐一が言ったんだよ〜……」
「……スマン、名古屋に住んでた頃の癖が出た」
 転勤族を親に持つ祐一が、尾張地方に住んでいたときもあっただろう。

 机を移動させることを『机をつる』という――名古屋弁だった。



第4楽章【思い出せないモノ】

 夕暮れの商店街を、肩を並べて歩く二人。
 いつも来てくれるから、と百花屋のマスターにイチゴサンデーをひとつおまけしてもら
って、名雪はかなり上機嫌だった。
「よかったな」
「うん、死んでもいいくらい幸せだったよ〜」
「本当に安上がりなヤツだよなぁ」
 苦笑いしつつも、夕焼けに染まった笑顔につい見とれてしまう。
「ん、私の顔、何かついてる?」
「えっ? い、いやっ、別に何も……」
 あゆだったら『泥がついてるぞ』とか言ってからかうところだが、相手が名雪なので、
適当に誤魔化しておく。
 まさか、正直に言えるはずもなかった。
「なーんだ。てっきり、祐一が昔のことでも思い出してくれたのかと思ったよ……」
 名雪の暖かな笑顔が、表情が、急にフッと翳(かげ)る。
 突然の言葉に俺はどう対応したらいいのか判らなかった。
「なゆ…き……」
 その寂しそうな様子に罪悪感を感じて、祐一はしどろもどろに弁解をしようとした。
「あっ、羽だ」
 だが、名雪は雑踏の中にそれを見つけると、

「あゆちゃ〜〜〜んっ」

「あっ、名雪さんっ」
 先程の表情はどこへやら、笑顔であゆに手を振っていた。
 俺の気のせいなのだろうか、自意識過剰なのだろうか。
 結局は俺のひとり相撲で、ただの片想いなのだろうか。
「祐一く〜〜〜んっ、名雪さ〜〜〜んっ!」
 あゆは人の気も知らず、本当に脳天気かつ無邪気に駆け寄ってくる。
 パタパタパタ……ズルッ!
「うぐっ!?」
 道端にかき寄せられた雪に足を取られたあゆが、そのままの速度でバランスを崩す。
「わ、わっ、わわっ……どいてっ、どいてぇええぇぇ〜〜〜っ!」
 そしてあゆはそのままの速度で、俺に向かって突っ込ん……って、何ですとぅっ!?
 ドカッ……ベシャアァアアァァーーーッ!
 地面に固まった雪のせいで制動が利かず、数メートル引きずられたあと、積まれた雪山
をクッションに衝突して俺たちはようやく止まった。
「いってぇ〜〜〜……雪のせいで転けて、雪のおかげで助かったな……」
 何とか現状を把握し立ち上がって辺りを見回してみる。
 と。周りにあるのは街の喧噪ではなく、嘲笑の渦と奇異の視線。
「うぐぅ……鼻ぶつけたよぉ、痛いよぉ……」
 あゆが上半身だけ、やっとのことで起こしながら呟いた。
 涙目で、鼻をミトンの手袋の両手でさするあゆを見ていると、その違和感のない子ども
っぽい仕草に思わず笑ってしまう。
「うぐぅ、笑わないでよぉ……どいて、って言ったのにぃ……」
「いや、だから。急に言われても避けられないって。それに、どうして何もないところで
転けられるんだよ、お前は?」
 器用だなぁと笑いながら、内心恥ずかしくて、慌ててあゆの手を引っ張り上げる。
「うぐぅ……あ、あれ? 祐一君、手から血が出てるよっ!」
 言われて右手の甲を見ていると、転けたときに擦りむいたのだろう、確かにあゆの言う
通り、右手から血が滴って地面を濡らしていた。
「祐一君っ、早く血、止めないとっ! どうしよう、どうしよう……っ!?」
 自分が怪我した訳でもないのに、あゆが俺の血を見て混乱していた。
 いや……混乱しているというより、何か、怯えているような感さえある。
 そこでようやく、事態を把握した名雪が俺たちの元へ駆け寄ってきた。
「うわ、痛そう……」
 相変わらず反応が少し鈍いような気もするが、それでも普段よりは驚いているようだ。
 それ以上は何も言わずにハンカチを取り出すと、右手に優しく巻き付けてくれる。
 名雪らしい、純白で可愛らしいハンカチ。
「……そんなことしたら汚いぞ」
 いとこはそんな俺の言葉に首を横に振ると、
「汚くないよっ、だって……祐一、怪我してるんだもん……」
 理由になっていないような気もしたが、俺はその優しさ、暖かさに素直に感謝した。
「名雪……」
「……うん?」
「新しいハンカチ……あとで買ってやるから……」
 最初はきょとんとしていたが、俺の言葉を理解するなり嬉しそうに微笑むと、
「うんっ」
 少女の笑顔が夕暮れの赤に溶け込んでいた。
 俺は手の痛みも忘れて、その笑顔に魅入っていた。
 だが……。

 ドクンッ!

 そのとき、記憶の片隅で何かが動いた。
 名雪が巻き付けてくれた真っ白なハンカチが、血によって真っ赤に染まっていく。
 何か映像がフラッシュバックするが、それがどこなのか、誰が居たのか、分からない。
 心臓が大きな音を立てて脈を打つのが判った。
「どうしたの、祐一君っ!」
「祐一、大丈夫?」
 声を掛けられて思わずふたりを見る。
 心配そうに俺を見上げる視線がふたつ。
 ドクンッッ!!
 その瞬間、ひときわ大きく心臓が脈打って、視界がぐるっと反転した。

 意識が、深く暗い湖の底へと沈んでいく……。



第5楽章【紐解かれるモノ】

 ……夢。
 夢を見ていた。
 その日も少年は駅前に向かっていた。
 大切な人を失い、悲しみの中で自分と出逢った、あの少女のために。
 寂しさを紛らわせてやりたい、少しでも早く安心させてやりたい、その一心で。
 大きなリボンの似合う少女は、今日も駅前のベンチに浅く腰掛け、誰かを待ちながら
手持ちぶさたに足をブラブラさせていた。近づく存在にも気づかない。
 その姿はひどく儚げに見え、道行く顔のない人々は無関心のまま通り過ぎていく。
 だが、その寂しげな表情も、少年の姿を確認するとすぐに笑顔に取って代わる。
「よぅ、待たせたな、あゆあゆ」
「……あゆあゆじゃないもん」
 せっかくの笑顔が、少年の一言のせいでまた崩れていく。
「冗談だ。悪かったよ」
「あゆあゆじゃ、なぃ、もん……うぐっ、えぐっ……」
 少年の弁解も間に合わず、少女はとうとう泣き出してしまった。
 出逢った頃、母親が消えたと言って泣きじゃくったように。
「ゴメン……俺が悪かった。タイヤキ買ってやるから、もう泣くなよ」
 さすがに反省したのか、少年は優しく諭すように言った。
「……うん、タイヤキ」
 満足したのか、少女はようやく泣きやんで再び笑顔を覗かせた。
 その笑顔が失われないように。少女を悲しみではなく、自分に繋ぎ留めておくために、
少年はその手をしっかりと握って、商店街の外れのタイヤキ屋へと向かった。

 少女を引き連れて、いつもの場所へ向かっていた。
「ねえ、何でタイヤキ三人分も買ったの?」
「俺が二人分も食うとでも思ってるのか?」
「うん。違うの?」
 少女は嘘をつけない性格らしい。少年は肩を落としてその場に轟沈しそうになった。
「ちがう、ちょっと紹介したいヤツがいるんだ」
「あはは、そうなんだ。楽しみだよ〜」
 少女は胸の前で小さく手を合わせると、納得したように頷いた。

 いつもの場所。秘密の場所。
 それは鬱蒼(うっそう)とした森の中にあった。
 昼間なのに真っ暗な樹の長いトンネルを抜けると、不意に開ける視界。
 そこだけ本当に何もない開けた空間の中に、樹齢何百年、何千年という大木がある。
 降り積もった雪に反射する日光と大木とが同調した、その神秘的な光景が、幼いふたり
の瞳にどう写ったのだろうか。既視感のような不思議な感覚だったに違いない。
 その大木の根本にひとり、別の少女がちょこんと座っていた。
 蒼い髪の少女は、ふたりの姿を確認すると複雑な表情を見せた。
「よぅ、名雪」
「あっ、祐一、早かったね」
 待ち合わせの時間を考えればそんなに早く来たつもりはないのだが、それは以前に名雪
を商店街で待たせてしまったことに対しての、彼女なりのあてつけなのだろうか。
 ふたりのやり取りを見ていたあゆが、怪訝そうな顔で様子を窺っていた。
「あぁ、こいつの名前は水瀬名雪。俺にこの場所を教えてくれたヤツで、俺のいとこだ」
 そして、と今度は名雪に向き直って、
「こいつは月宮あゆ。最近、よくココで一緒に遊んでるんだ」
 知ってるよ、と拗ねた目で祐一を睨む名雪。恨めしそうに。少し。
「こんにちは、あゆちゃん、でいいんだよね?」
「うん、じゃあ……ボクは、なゆちゃんって」
「待て」
 すかさず横から口を挟む。
 あゆちゃんと、なゆちゃん。あゆちゃん、なゆちゃん。あゆ、なゆ、あゆなゆ……。
「ややこしいから、やめてくれ」
「だったら……なっちゃん、って呼ばせてもらうよ」
「うん、分かったよ〜」
 あゆと名雪が心から笑い合えるまで、そう時間は掛からなかった。
 まるで、それが当たり前かのように、ずっと昔から幼なじみだったかのように。
 それから、三人は飽きることなく毎日遊んだ。

 ……夢は更けていく。



第6楽章【交わされぬ想い】

 眼を開ければ、どこまでも続く暗闇。
 どこか知らない場所に捨て去られたような恐怖感。
 しかし何てことはない、目が慣れてしまえば……そこは自分の部屋だった。
「夢を、見てたのか……」
 いや、むしろ過去の記憶との邂逅(かいこう)とでもいうべきか。
 しかしその内容はおぼろげで、儚くて、あまり思い出すことはできない。
 かといって無理に引き出そうとすれば、記憶が湖の底へと沈んでいってしまう。
 まるで現在の俺が、過去の俺に弄ばれているようで――、
「畜生ッ!」
 思わず右手で握り拳をつくる。その瞬間。
「いたたたたっ!!」
 あまりの激痛に悲鳴を上げながら半身を起こす。
 と。下半身に重みがあった。
 その物体はのそのそと起き上がると、俺の顔を一目見て、
「うにゅ……あれ、ゆういち?」

 ……名雪、だった。 

 俺が何も言えずにいると、名雪は立ち上がって電気をつけた。
 時計を見る。もう深夜に近い。
 ゆっくりと振り返るその瞳には、涙が溜まっていた。
 それでも必死に笑顔をつくろうとして、
「よかった……ずっと起きないから、心配したんだよ……」
 どうやらずっと看病してくれていたらしい。
 普段の名雪なら、とっくに寝ている時間だというのに。
「あゆちゃんとふたりで、ここまで担いで……大変だったんだから……」
「そっか、ゴメンな」
「でも……どうしたの、祐一?」
「何がだ?」
 感謝しながらも、照れ臭くて、つい素っ気のない返事をしてしまう。
「急に倒れたから、びっくりしたよ」
「ゴメン、名雪」
「わたし、祐一に謝られるようなこと……他に何もしてないよ?」
 分からない。ただ、急に罪悪感を感じたからだ。
「昔のこと思い出せなくて……本当に、ゴメン」
 漠然と、だが確かにある、名雪への罪悪感。
 それは先程の夢を見てから、より強く、より深くなっている。
 正体不明の罪悪感が、俺を苛ませ、名雪への想いを邪魔している。
 だからこそ、どうしても思い出したかった。

「……もぅ、いぃよ……」

 震える言葉に導かれて、ゆっくりと少女を見遣(みや)る。
 悲しみと絶望に打ちひしがれたような、大切な何かを諦めたような表情。
「わたしが……ゆういちを、くるしめてるんだよね」
 自分の言葉を、自分で確認するように。
 幼い子供が泣くのを必死に堪えるように。
 違う。違うぞ名雪、俺は……。
「くるしぃのなら……もぅ、おもいださなくてもいぃからっ……」
「ち、ちがッ」
 否定するより早く、名雪は部屋を飛び出していた。

 俺の足も、無意識の内にそれを追っていた。



第7楽章【想うが故に】

 自室に飛び込もうとする名雪を、すんでのところで抱き留める。
「はなして……離してよ、祐一ッ!」
「人の話はちゃんと聞けッ!」
 死に物狂いで俺の腕を引き剥がそうとする名雪を懸命に押さえて、説得を試みる。
 ここで放してしまえば、名雪はもう二度と心を開いてはくれない、そんな気がした。
「俺は思い出したいんだ、昔のこと……7年前のことッ!!」
「いいよ、私が我慢すれば済むことなんだから……」
 逃れるのを諦めたのか、ようやく落ち着いてくれた名雪が、まだ震える声で言う。
 まるで廊下の薄暗い闇にその存在ごと消え入ってしまいそうな……。
「我慢、って……」
「わたし……祐一のこと、好きだから」
「!!」
 突然の告白。
 どこかで分かっていたこと。
 いつからか分かっていたこと。
 そして、双方にとってあまり好ましくないシチュエーション。
「だから、祐一のこと……苦しめたくないの」
 俺は何も言えなくなった。
 そのまま両腕を解いて、それも力無く中空に垂れて。
 名雪は逃げなかったが、必死に嗚咽を殺しているようにも見えた。
 小刻みに、しかし時折大きく肩を震わせて、ただ立ち尽くしていた。
 さっきから何も考えることができない。
 手がジットリと汗ばんでいた。
 心臓が爆発しそうだった。
 名雪が俺のことを好きでいてくれたという事実。
 その名雪を、間違いなく俺が悲しませているという事実。
 言うべきか、言わぬべきか、散々迷った。
 あと一秒沈黙が永かったら限界というところで、俺は心を決めた。

「俺も名雪のこと、好きだから……だからこそ、思い出したいんだ」

 大きく肩を震わせて、息を呑む音が聞こえて……。
 それが名雪のなのか、それとも俺のなのか、それすら判らなくて……。
「いや、思い出さないといけないんだ」
 そして過去の清算をしない限り、俺は苦しみ続ける。
 それは名雪にしても同じことのはずだった。
 しかし……。

「……ダメ、だよ」

 名雪の、いまにも目の前から消えてしまいそうな声。
 名雪の、拠り所を失ったかのような弱々しい声。
 名雪の、小さいが確かな拒絶。

「祐一は……あゆちゃんの気持ち、考えたこと……って、ある?」
「え……あゆの、気持ち……?」
 そこでようやく振り向いてくれた瞳が、俺の視線を真芯から捉える。
 眼を逸らすことができなかった。
 ここで眼を逸らせば、一生名雪に避けられそうな……そんな気がした。
「あゆちゃん、祐一のこと、ずっと、待ってたんだよ」
 ゆっくりと、一節ごとに言葉を区切って。
「あの駅前のベンチで、7年ものあいだ……ずっと、待ってたんだよ……」
 名雪の一言一言がいまの俺に重くのしかかってくる。
 この街を頑なに拒絶し続けて、のうのうと平穏に暮らした7年。
 数少ない心許せる友達を待ち続けて、ずっと泣き暮らした7年。
 前者は俺自身、後者はあゆ……もしかしたら、名雪もそうだったのかもしれない。

「なぁ、だったら……教えてくれよ」

 言葉とともに、俺は一歩詰め寄った。
「……えっ!?」
 ビクリ。肩を大きく震わせて、名雪も一歩後退した。
「俺が名雪にしてしまったことは自分で思い出す……だから、せめて俺たち三人の……」
「いや……」
 俺が一歩詰め寄ると……名雪も、一歩後退。
 俺が一歩詰め寄ると、名雪も、一歩後退。
 俺が一歩詰め寄ると名雪も一歩後退。
 トンッ。
 名雪が退路を失い、背中が自室の扉に当たった音。
「俺たち三人に、何があったのか……それだけでもいいから、教えてくれよッ!」
「いやぁ……ッ!!」
 ドンッ!
 突き飛ばされる。両手で、渾身の力で。
 祐一が廊下に尻餅をつくと同時に、大きく音を立てて名雪の部屋の扉が閉まった。
 そして、カチャリ……鍵の閉められる音。

「……どうしたんですか、ご近所に迷惑ですよ」

 階段の下から秋子さんの声。響く。
「何でもないです、済みません」
 謝って、祐一は立ち上がった。
 ズキンッ!
「いててててっ……忘れてた、怪我してたんだっ」
 と。いつのまにか右手には包帯が丁寧に巻かれていた。
 もしかしたら、名雪がしてくれたのか……?
「そういや、介抱の礼もちゃんと言ってなかったな」
 トントン、扉をノックする。
 ……返事がなかった。
「ありがとな」
 それだけ言って、俺は自分の部屋に戻った。
 いまの名雪に過去を訊き出すことは、イコール、彼女自身を傷つけることになる。
 何故だかそう確信できた。
 そう、現に、俺は名雪を傷つけてしまったのだから。

 右手の傷の痛み、一向に消える気配もなく……。



<次回予告>

 名雪との距離。あゆとの距離。
 それは祐一を傷つけ、また癒してゆく。
 陽の傾く商店街で、ふたりの七年越しの想いが解け合うとき…。

 …別れの歴程は、突然その終焉を見せた…。

 

 

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