BGMは『雨』


 

 ――昨日の夜、降り始めた雨がまだ止まない。

 早朝。
 窓の外に静かに厚く立ちこめる、今にも泣き出しそうな灰色の雲を目にし、名雪がため息をつくと、窓ガラスが小さく曇った。
 彼女の背後から、香里のいらだった声が聞こえてくる。

「ほら、相沢君と北川君。朝だから、いいかげん起きなさいよ。お父さんも、早く」

 振り返ると、コタツで雑魚寝をしていた3人が、もそもそと起き出していた。
 夕べはクリスマスパーティーだった。
 …始めのうちは。
 受験勉強の息抜きにと、仲間内で小さく開催された祭りだったはずなのだが、その途中に面白半分で飲み始めたシャンパンがいけなかった。
 酔っぱらった祐一と北川が、娘の友達に挨拶をしに来た香里の父親を問答無用で巻き込み、いつのまにやらただの宴会となりはててしまったのだ。
 やむなく給仕係をするはめになってしまった名雪と香里の母親は、酔うどころの騒ぎではなかったが、がんがん他のアルコールまで摂取しだしていた北川と香里の父親は、朝っぱらから真っ青な顔色で生ける屍と化していた。
 酔っぱらってはいたが、実際の所はそれほど飲んでいなかった祐一と香里は、見た目は普段通りのようだ。

「みんな今日も予定があるのでしょう? 早く家に帰らないと。ほら、お父さんも、そろそろ会社に行く時間だし、とっとと着替えてきなさいよ」

 と、名雪越しに窓の外を一瞥した香里が、すぐにでも降り出しそうな天気に表情を曇らす。

「あー、みんなに貸す傘が足りないわね」

 香里にたたき起こされた祐一が、窓辺に歩み寄り外を見やる。

「この程度なら別に傘はいらないだろう。なあ?」

 振り返り名雪に問いかけた。
 名雪は、再び景色に目を向け、そこから視線を外さず刹那の黙考のあと答える。

「…そうだね。もうしばらく保ちそうだし」
「分かった。北川君は、どうする?」

 香里に呼びかけられるが、彼はコタツのテーブルに突っ伏したまま、微動だにしない。

「ちょっと、起きてるの?」
「…あー」
「なんだ、起きているならすぐに返事をしなさいよね。傘どうするの?」
「うー」
「北川君?」
「えうえー」
「…道具を使う知能も残っていなさそうね」

 香里はこめかみを指で押さえ、このゾンビをどうしたものかと苦り切った顔をした。

 ──昨日の夜、降り始めた雨が心に凍みる。

 祐一の背中を必死になって追いかける名雪。
 商店街の軒下を、義経の八艘飛びよろしく次々と駆け抜ける二人の姿がそこにあった。

「──次! 三軒先対面側の靴屋にスペースを発見! 行くぞ、名雪!」
「わー! 冷たい、冷たい!」
「無事到着、被害軽微! …ちっ、次は10メートルほど、無防備になるな。全力で駆け抜けるぞ。ガンホー! ガンホー! ガンホー!」
「濡れちゃう〜、濡れちゃうよ〜」

 傍から見ると遊んでいるようにしか見えない二人だが、当人達は結構真剣だった。
 香里の家を後にして十分ほど歩いただろうか。
 祐一達の思惑が外れ、ポツリポツリと雨が降り始めてしまった。
 今から引き返して傘を借りるか、これ以上強くならないことを期待して、急いで家を目指すのか悩んだが、濡れる度合いはどちらも変わりなさそうだと、結局は強行軍を二人で選んだ。
 が、裏目に出る時は裏目に出るもので、夕立とまでは行かないが、黙って五分も突っ立っていたら濡れ鼠の出来上がりになるくらいに、雨脚が強まってきてしまった。
 このまま雨宿りをしようにも、雨がやまなかったら援軍の来ない籠城戦と同じくジリ貧になってしまう。
 それならばと、出来る限り雨をよけつつ行ける所まで行こうと駆け出したのだが、商店街の端にあるコンビニで、ついに二人は行き詰まってしまった。
 ここから先は、雨よけが出来そうな建物がなくなってしまうのだ。
 自宅へと続く道へ目を凝らすが、地面で次々と弾ける雨粒で、あたりは靄が掛かったように見える。

「うーむ、悔しいがここいらが潮時か」
「どうする? 我慢して走っていく?」

 出来ればそれは避けたい。
 12月の冷たい雨水に浸かっていたら、間違いなく風邪を引くだろう。
 受験に向け大事な時期に、体調を崩している暇はないのだ。

「…名雪、持ち合わせはあるか?」
「えと、三百円」
「俺も二百円しか持っていない」
「その辺を歩いている小学生以下だね、わたし達って」
「しかし二人で力を合わせれば、ここのコンビニで傘を手に入れられるぞ」

 ガラス越しに店内を覗きながら祐一が言った。
 同じく覗き込みながら、名雪が手と手を合わせ嬉しそうに応える。
 一番安いビニール傘が目に付いたからだ。

「あ、そうか。その手があったね」
「ならば話は早い。俺が店員の気を引いているうちに、仕事を終えるんだ」
「…え?」
「いいか、平然とするのがポイントだ。首尾良く傘を手にしても、決して店内で駆け出すんじゃない。ダッシュは店を出た直後だぞ」
「…祐一?」

 名雪にジト目で見つめられ、祐一は咳払いをする。

「冗談だ」
「ホント?」
「もちろんだぞ。さあ、資本主義経済に貢献してこようじゃないか」

 返事を待たずに祐一は、先に店内に入った。
 その背中を眺めつつ、疲れたようなため息を一つついて、名雪は彼に続いた。
 そして、数分後。
 相変わらずコンビニの軒下にぽつねんと佇む二人の姿があった。
 祐一は、遠い目をしながらポツリとつぶやく。

「許すまじ資本主義経済…!」

 名雪が、苦笑する。

「あはは…、消費税は盲点だったよ。ところで、祐一」

 前を見たまま名雪は、横に立つ祐一へ問いかける。

「うん?」
「仮に傘を買えたとして、その後どうするつもりだったの?」

 彼女の質問の意図を測りかねて、祐一は首を傾げる。

「そりゃ、家に帰るつもりだったが。それとも、スワローズの応援にでも行った方が良かったか?」
「そうじゃなくて。一人が先に帰ってもう一つの傘を取ってくるのか、もしくは相合い傘をするつもりだったのかってこと」
「ふむ、一緒の傘で帰るつもりだったな」

 彼は気負いもなくあっさり応えてくる。
 名雪は目を伏せて、言葉を選ぶように口を開く。

「それで祐一は、特に気にならない? 知らない人に勘違いされたら恥ずかしいとかさ」「恋人同士とかに?」

 名雪が頷くのを見て祐一は、腕を組み考える素振りを見せるが、すぐに回答してくる。
「知らないヤツにどう勘違いされようと知ったコトじゃないし、知っているヤツなら勘違いはしないだろうから、どちらにせよ大した問題じゃない。名雪とは、今更つまらない遠慮をする仲でもないしな」
「…確かに気心が知れた同士だものね。昔からの縁はこれからも変わらないだろうし」

 ――でも、気付けば雨雲がこんなにも拡がっていた。

 祐一は、ついと傍らの名雪を見やる。
 どうもいつもに比べて、沈んでいるように見受けられた。

「ひょっとして、夕べのアルコールが抜けきってないのか? 元気がないぞ」

 言われた名雪はきょとんと見返し、慌てて首を振る。

「そうか? なら寝冷えでもして風邪を引いたか?」
「いたって健康だよ。いつのまにかリビングで寝ちゃったわたしに、香里が毛布を掛けてくれていたからね。祐一こそコタツで寝ていたけど大丈夫なの?」
「ああ、問題ない。朝、香里に起こされるまで熟睡していたが、体調は良好だ」
「ふーん…」

 名雪は、生返事を返す。

 ――昨日の夜、降り始めた雨が胸を締め付ける。

「…そんなことよりさ祐一、これからどうする? このままじゃ家に帰れないよ」

 名雪に無理矢理話題を変えられたような気がしたが、確かに言っていることはもっともなので、祐一は頭を掻きつつ空を見上げた。
 遠く彼方の山向こうまで目を凝らすが、灰色の雲に途切れは無い。

「だめだこりゃ。当分、雨はやみそうにないぞ」
「じゃあさ、お母さんに傘を持ってきてもらおうか?」
「ふむ…、迷惑をかけるのは心苦しいが、背に腹は代えられないか。しょうがない、名雪、頼めるか?」
「分かったよ。ちょっと待って」

 言ってすぐ側の公衆電話の受話器を手に取る。
 自宅の番号をコールすると、すぐに秋子が出た。
 用件を伝えると、快諾が返ってくる。
 と、受話器を置こうとした名雪に、電話の向こうの秋子が少し声をひそめて聞いてきた。

『…どこか具合が悪いの?』
「え? 別にそんなことはないよ」
『そう、なら夕べのパーティーで何かあったの? 声に覇気がないわよ』
「…それは、だって、雨が降っていてココ寒いし。それだけだよ」
『ならいいけど…。それでは、十五分ほどでそちらに着けると思うから、祐一さんにもよろしく』
「うん」

 そして、静かに受話器を置く。
 その様子を見ていた祐一が、不安そうに聞いてくる。

「秋子さん、ダメだって?」
「そんなことないよ? 何で?」
「いや、話している途中で名雪が、気落ちしたように見えたからさ」
「…気のせいだよ。お母さん、すぐに来るって」
「そうか…」

 まだ何か問いたげな祐一から目をそらし、名雪は、見渡す限りに広がる雨空を見上げ、独りごちた。

「明日は、晴れるかな…」

 ――心も晴れるかな。

 拭いきれない夕べの記憶が、よみがえる。
 寝静まった夜中に、名雪は人の気配を感じ目を覚ました。
 寝ぼけ眼で名雪が常夜灯の灯る薄闇を見やると、香里が寝こける皆に毛布を掛けてやっていた。
 カーテンの隙間から差す街灯の青い光が、香里の輪郭を逆光に滲ませている。
 夢うつつな名雪の意識には、それがどこか非現実的な光景にみえた。
 名雪が見守る中、香里はそれに気づかず最後に父親へ毛布を掛け終わると、立ち上がり全員を見渡し、腰に手をやり一仕事終わったと一息ついた。
 それから数瞬。
 少し躊躇をみせてから、スッと祐一の枕元に歩み寄る。
 逆光で滲むその姿は、どこか非現実的だった。
 彼女は、仰向けで寝息を立てる彼の傍らに膝をおろす。
 それでもまだ、名雪には実感の湧かない光景だった。
 是非もなく、ただ流れ込んでくる映像を受け止めている名雪の視界の中で――。

 香里は、そっと覆い被さるように、祐一に一度だけ口唇を重ねる。
 垂れ下がった香里の長い髪が、二人の表情を覆い隠した。

 変な夢だと思った。
 でも、夢だから唐突なのは仕方がない、とも。
 そのまますぐに自室へ引き上げていく香里の足音が、やけに鮮明に聞こえる。
 名雪は微動だにしない。
 皆の寝息、壁掛け時計の秒針、エアコンの作動音、どれもが完璧に聞き取れる。
 妙に現実感のある夢だと思った。
 これなら起きた後でも、夢の内容を忘れないのではないか。
 夢を見たことは覚えていても、その内容は忘れてしまうことが多い彼女にとって、それは珍しいことだ。
 もし忘れなかったら、みんなに話して聞かせるのも面白いかもしれないと、ぼんやり名雪は考える。
 が、彼女の意識はそのまま、香里が全員を起こしに来るまで、ついぞ途切れなかった。

 ――昨日の夜、降り始めた雨が心に響く。

「暇だな」
「暇だね」

 二人は、秋子が迎えに来るまでの間、手持ちぶさたになってしまった。
 しばし無言で、商店街の風景を一緒に眺める。
 何事も起こらずただ時間だけが緩やかに過ぎていく。
 肩が触れ合い温もりを感じられる距離にいても、気まずさはみじんも感じられなかった。
 互いの存在が、空気のように当たり前に感じられる、昔からの繋がりがあるからだ。
 言うなれば家族の絆に近いのだろうか。
 ひょっとしたら恋人の関係も有りかなと淡い夢を抱くことはあっても、基本的に二人の繋がりはいつまでも続くものだと、名雪は当たり前に信じていた。
 無邪気に。
 純粋に。
 …そして、愚かにも。
 気付いてみれば、そんな都合のいい話はないのだ。
 祐一には祐一の人生があるのだから、彼の未来の視野に自分が含まれていると、どうして断言できよう。
 名雪は、また雨空を見上げた。
 今まで過ごしてきた日々は、けっして嘘ではない。
 その証拠に、まがい物ではない二人の繋がりが、確かに存在しているではないか。
 それだけに、よけい実感出来てしまう。
 意図せず、ため息が漏れた。

 ――二人の糸、少しずつほどけ始めている…。

END