ひかり 2000.6.4 すなふ
なんでこんなに顔が映り込むくらい磨くんだろうな。
そんなことを考えながらリノリウムの床をきゅっきゅっと鳴らしながら歩く。
いつもはぱたぱたと忙しそうに走り回る看護婦や、散策している患者達は今日は一人もいない。
この長い廊下にいるのは自分一人。
抱えた花束が時折がさっと揺れ、静かな廊下に必要以上にその音が響いている気がした。
『315 川名みさき』
そのプレートの掛かったドアの前で2回ノックする。
コツコツと固い音が響いた。
「どうぞ」
その声を待って、ノブを右に回す。
小さくカチャリと音を立てて、扉が押し開けられる。
廊下と同じように白い室内に陽の光が立ちこめて、眩しさに一瞬目を細めた。
ベッドから上体を起こした部屋の主が振り返る。窓からの光を背に、長い黒髪が浮かび上がった。
「やあ」
「こんにちは、浩平君」
答えて、にっこりと笑う。
「先輩。ほらっ、今日は花を持ってきたんだ」
その眼は包帯をぐるぐるに巻かれて見ることは出来ない。
「マジか?」
随分と素っ頓狂な声だったに違いない。
なにしろ、先輩の視力を取り戻せるかも知れないと言うのだから。
「うん。ただね、新しい治療法で、まだよくわかってないことも多いんだって」
隣に座る先輩が頷いた。
みさき先輩の場合、眼自体に傷があるわけじゃなくて、眼から伸びている視神経が切れているだけらしい。
だから、神経線維をつなぎ合わせれば視力が回復する可能性がある。
ただ、成功率は決して高くない。
というよりむしろ低い。
そう淡々と話すのをオレは横でじっと聞いていた。
「それでも、手術したいのか?」
「うん、ダメ元のつもりでやってみるよ」
そう笑って告げる瞳の奥に、怯えが混じっている気がする。
「本当に大丈夫か? 怖いんじゃないのか?」
「うん、確かに怖いよ。手術してみても、治らないかも知れないわけだからね。それに、お医者さんは大丈夫って言うんだけど、やっぱり頭に近いところを手術するわけだから」
「無理しないでもいいと思うぞ。何が起こるかわからないわけだから。それに……」
一度言葉を区切って、頭を振った。
少し考えて、次の言葉を整理する。
「それに、先輩が普段眼が見えないことを引け目を感じて、人に迷惑を掛けたくないからっていう理由で手術を受けたいんだったら、そんな理由ならオレは止める」
「もちろん、そういう理由もあるに決まってるよ」
「なら……」
止めてくれ、そう言おうとした。
「でもね、それよりも何よりも、私自身が新しい世界を見てみたいんだよ。新しい世界に踏み出すこと、そのことの価値を浩平君が教えてくれたよね」
その言葉に、オレは喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまう。
先輩が立ち上がり、夕陽に向かって歩き出した。
「浩平君の笑顔を見ることが出来るなら、二人で一緒に夕焼けを眺められるんなら、それだけで賭けてみる価値はあると思うんだ」
「もしも失敗したら?」
酷だったかもしれない。でも、オレは怖かった。
「きっと眼が見えないままだよ」
「さっきは頭の近くをって……」
「それ以上のことなんて起こらないと信じてる」
きっぱりと言い切った背中に、それ以上酷な問いかけは出来なかった。
さらさらと風に髪がなびく。
「……金もかかるんだろ?」
「うん、しばらく節約しないといけないね」
先輩の声は、相変わらず快活だったと思う。
もちろん無理はしているんだろう。でも、それでも先輩が望むのなら……。
なら、いいかな。
なんてことを思ったりもする。
「成功してオレの顔を見ても幻滅するだけだぞ」
「ふふっ、浩平君のこと嫌いになるかね」
「ひでぇ……」
「冗談だよ。絶対にそんなこと無いよ。浩平君は、私の眼が見えても見えなくても浩平君なんだから、大好きな浩平君なんだから」
「……いい年してあんまり恥ずかしいこと言わない方がいいと思うぞ」
「怖いけど、私、わくわくしてるんだよ。楽しみなんだ」
振り返った先輩は、今度は確かに満面の笑顔だった。
手術は成功した。
それは本当に有り難いことだった。
先輩がオレの中であまりに大きくなっていることに今更ながら気づく。
だから、毎日が本当に怖かった。
とはいえ、先輩の視力が本当に回復しているのかどうかは、実際に包帯を取るまでわからない。
今日はその包帯が取れる日。といっても、包帯を交換するだけだから、仮に視力が戻ったとしても、世界を見ることが出来るのはほんのちょっとの間だけ。
それでも、最初に先輩の瞳に映るのが殺風景な病室では寂しいから、だから今日は花束を持ってきた。
初めて入る花屋に戸惑いながら、店員に言われるまま花を選ってもらう。
唯一出した注文が「とびきり大きな花束にして下さい」だった。
気づいたときには随分大きな花束になっていた。
「こんな素敵な花束を贈られる方は幸せですね」
眼鏡の奥で、その店員の眼が微笑んでいた。
花束を渡すと、先輩がくすっと笑う。
「ん、どうしたんだ?」
「うん、浩平君が花束抱えてるところ想像して、悪いと思ったけど笑っちゃった」
「……やっぱりこの花束は美樹ちゃんに持っていこう」
隣の病室の6歳の女の子の名前だ。
いつの間にか先輩と仲良くなっていて、何度かオレも交えて遊んだことがある。
「あっ、嘘嘘っ、冗談だよ。花束なんて浩平君には似合わないなんて、全然思ってもないからね」
「……」
「と、とにかく、もう私が貰ったんだからっ」
ぎゅっと花束を抱きしめる先輩に、思わず苦笑してしまう。
「ま、いいや。確かに柄じゃないしな」
実際先輩の言うとおりで、ここに来るまでの視線がやけに恥ずかしかったのは確かだ。
「でもほんとに嬉しいよ。ありがとう。なんていう花なの?」
「ええっと……適当に包んで貰ったからな。忘れた」
苦笑いして頭を掻き、ベッドサイドに腰掛けた。
「相変わらずいい加減だよね。仮にもプレゼントだよ」
「ははっ、そんな大げさなものじゃないって」
「ううん、大切なプレゼントだよ」
「そうか?」
「気持ちの問題だよ」
花束を抱いて、顔を寄せる。
「いい匂いがするね」
「匂いだけじゃなくて、もうすぐ目でも見えるようになるから、さ」
「うん。どんな花なのかな。楽しみだよ」
先輩が顔を傾けてたおやかに微笑んだ。
その笑顔だけで持って来る甲斐があった、心底からそう思った。
「でもどうしよう。この部屋に花瓶ないよ?」
「いや、窓際に花瓶らしいものがあるんだけど」
「えっ?」
「ほら」
その手を取り、そっと触れさせてやる。
「あ、ほんとだ。今まで気づかなかったよ」
自分の室内にあるものさえ把握できない。でも、そんな生活もうまく行けば終わりだ。
「浩平君、お花が可哀相だから、お水酌んで花瓶に挿してあげてくれる?」
黙って立ち上がり、花瓶をもって部屋の隅の水道で水を酌む。
静かな室内にじゃーっと水音だけが響く。
それから戻って、花束を受け取った。
「でも、ほんとに手術が成功して良かったな」
花束の包みを解き、一本ずつ花瓶に挿していく。
「うん。でもね、ほらっ、こんなに髪の毛切られちゃったんだよ」
悲しそうに俯きながら、先輩が長い髪をかき上げて、こめかみから後頭部にかけての剃毛の跡を見せる。
「わははっ、先輩、見事な若ハゲだな」
「うーっ、浩平君のいじわる……」
それからいつものように二人でお喋りに興じる。
内容は何でもいい。大学の授業がどんなにつまらないか、バイト先で気の合う友人が出来た、昨日見たテレビが意外に面白かった、そんなたわいのない話。
でも、みさき先輩は本当に楽しそうに聞いてくれる。
もちろんオレも楽しかった。
ノックが聞こえた。
「はい。どうぞ」
その声を聞いてから、カチャリとノブが回る。
「やあ」
眼鏡を掛けた若い男とが手を挙げて笑顔を作った。
「あ、先生」
先輩が反応して会釈した。
先輩の主治医だった。白衣を着ていなければ、とても医師には見えないだろう。快活な明るい先生で、この病院内にもファンが多いという。
「でもね。あの先生、奥さんに頭が上がらないんだよ」
そんな耳打ちを思い出し、少し可笑しくなった。
「失礼してます」
椅子から立ち上がろうとするオレ手で制し、こちらもベッドの傍らの丸椅子に腰掛ける。
「さて、川名さん、具合はどうですか?」
「ええ、おかげさまでこんなに元気ですよ」
ぐっと右手で力こぶを作るふりをして、先輩が笑う。
「そうですか、それは良かった」
「先生には本当に良くしていただいて」
先輩の言葉に、オレも軽く頭を下げた。
「いやいや、とんでもない。川名さんこそ、とても良い患者さんでしたよ。食欲以外はね」
「そりゃ大変だったでしょう」
はっはっと笑う医師につられて、オレも笑った。
それから、先輩の病院食つまみ食いやら、お見舞いの果物詰め合わせがわずか3時間で空になっていた事など、オレも知らなかった事実がどんどん暴露される。
そんなエピソード一つ一つに敢えて声をあげて笑った。
オレもこのあとが不安だったから。
「ひどいよ、先生も、浩平君も」
先輩も、口を尖らせながら笑っていた。
「さて、何ともなければ包帯を交換しましょうか」
その声に、場が引き締まる。
「もちろん、その間に視力が戻ったかどうか確かめさせてもらいます。ただし、これだけは心に留めて置いて下さい。幸いにして手術は成功しましたし、術後もとても良好です」
穏やかに話し続ける。
「しかし、だからといって、必ずしも光を取り戻せているわけではありません。何度も説明したとおり、視力が回復するかどうかは、神経の接合がどれだけうまく行っているか、どれだけ再生したかによりますから。私たちはそのお手伝いをしただけで、その後は、川名さん、あなたの回復力次第です」
口調とは裏腹に、話の内容は厳しい。
「それだけです」
「あ、あの……」
そこで遠慮がちに先輩が口を挟んだ。
「すいません。自分で包帯を取っても、いいですか?」
「は?」
少し驚いた顔で医師が聞き返す。
オレも驚いた。
「それから、先生。本当に勝手なお願いなんですけど、その間はしばらく二人にしていただきたいんです」
「いや、でも……」
「もちろん取るだけです。自分で包帯を巻く自信はありませんから」
顔を赤く染めて、そして小さく続ける。
「……新しい扉は、二人で開きたいですから」
その後は俯いてしまった。
「なるほど。ふむ」
医師が腕組みをすると、顔を上げてオレを見てにやっと笑う。
思わずオレも顔が熱くなる。
「そうですか、わかりました。ちゃんと自分で取れますよね?」
「はい、多分」
「まあ折原君もいることだし、大丈夫でしょう。ただ、くり返しになりますけど、視力が回復していなかったとしても、本当に気を落とさないで下さいね」
「……わかってます」
「まあ、あなたは強い方だし、彼がいるなら大丈夫でしょう。用が済んだら呼んで下さい。外にいますから」
そして、オレに小さくウインクして、それから白衣を翻してドアの向こうに消えた。
ぱたんと扉が閉まった。途端に訪れる静寂。
窓の外は赤く染まっている。いつの間にか、夕暮れ時を迎えていた。
決意したように先輩が顔を上げた。
「浩平君、いるんだよね」
赤い光を背に問いかける。
真っ直ぐこちらを向いて、でも包帯を巻いた顔で、その眼は見えない。
けれど、その表情はとても不安そうに見えた。
だから、オレはそっとその肩を抱いた。
「先輩……」
「うん、大丈夫だよ」
優しく背中を叩いて、そっと身体を離す。
「浩平君、そこにいてね」
「心細いんだったら、オレが包帯、解こうか?」
「ううん」
立ち上がろうとしたオレを先輩が制した。
「自分で……取るから」
そう言って、包帯の結び目を摘んで、しかしその手が止まる。
ゆっくりと両手が降ろされる。
「先輩?」
よく見ると、その両手が震えていた。
「ご、ごめんね。ちょっと待って」
「私、やっぱり怖いんだよ。手術の跡が残って醜い顔になってるかも知れないし」
「大丈夫だ。オレはそんなことで先輩のことを嫌いになんか……」
「でも、ほんとは一番怖いのは浩平君の顔を見ることなんだよ」
「……」
咄嗟に掛ける言葉が見つからなかった。
「おかしいよね。ほんとは、まだ見えるかどうかもわからないのにね」
声が少し震えていた。
「だって、浩平君のイメージは眼が見えない私が作ったものなんだよ。一目見た瞬間に、そのイメージがガラガラっと崩れちゃうのかも知れない。ひょっとしたら、今の気持ちが醒めちゃうのかも知れない。そんなことを考える私が怖いんだよ」
心細そうに俯いて、最後にぽつりと呟いた。
「眼が見えるようになると、元の私じゃなくなっちゃうのかな……」
その手をゆっくりと取って、励ますように言った。
「大丈夫、今までも先輩はたくさんの新しい世界に足を踏み出してきただろ。オレは、また一歩先輩が次を踏み出すのを手伝いたいからな」
一言一言、しっかりと言う。言葉に力がこもるように、自信を持てるように。
「それに、オレは先輩の言葉を信じてる。眼が見えても見えなくても、先輩の中のオレはオレで変わらない、そう言ったよな。先輩が不安なら、代わりに自信を持って言うよ。眼が見えなくても、眼が見えても、先輩の中にいるオレは変わらないから。絶対にだ」
それは自分自身を励ましたのかもしれなかったけれど。
「それに、眼が見えようが見えまいが、先輩は先輩だ。何が変わるもんか」
ぎゅっと握った手に力を込めた。
「だからさ、先輩も自信を持ってくれ」
「……ありがとう。ごめんね。こんな話して」
「ま、実際は想像よりもちょっとばかし格好悪いかも知れないけどな」
最後に冗談めかしたのは、今にも先輩が泣き出しそうだったからだ。
でも、その努力は無駄だったのかもしれない。
「本当に、本当にありがとう。嬉しい……」
声が、震えていた。
つんと鼻を鳴らして、その後は小さな嗚咽が漏れ続ける。
オレはその側によって、じっと背中をさすっていた。
俯いていたみさきが顔を上げる。
鼻を鳴らしながら、でも嗚咽は止まっていた。
「浩平君の顔をもう一度だけ確かめてさせて……」
震える手がゆっくりと宙に伸びる。
「ああ」
その手を取って俺の頬へとあてる。
オレの顔をなで回していく先輩の手。
驚くほど冷たくて、でも暖かいと思った。
「これが浩平君の目……鼻……唇……髪の毛……耳たぶ……」
一つ一つ、確認するように触ったところを口に出す。
「ああ、目は二つだし鼻は一つ、口も一つだろ?」
「うんっ、しっかり浩平君の顔を確認したから、大丈夫だよ」
最後にもう一度唇をなぞって、先輩が手を離した。
「それじゃ、取るね」
少し俯いて、固く縛った包帯をほどいていく。一周二周と解くと、やがてはらりと包帯が落ちた。
こめかみにガーゼが貼り付けてあるものの、いつも通りの先輩の顔。
そのまぶたは、まだぎゅっと閉じられたまま。
「どう?」
「どうって……いつもの先輩の顔だ」
やがて、まつ毛が揺れ、ゆっくりとまぶたが開かれていく。
顔をゆっくり上げると、澄んだ瞳が姿を現した。
そのまま視線が止まった。
どちらも眼を逸らさないまま、時間だけが流れる。
赤い部屋が、心なしかいっそう深く、赤くなっている気がした。
やがて、先輩がぽつりと呟いた。
「浩平君……だよね?」
そして、微かに笑うと窓の外に顔を向けた。
「ぐぁっ……」
時計を見て思わず飛び上がった。
「なんで目覚ましが止まってるんだ?」
もちろん俺が止めたからだ、なんて一人ツッコミをしてる場合じゃない。
身支度を整え、慌てて家を飛び出すと、自転車に飛び乗る。
「やばい……」
って既に遅刻は確定しているのだが。
長森と毎朝駆けた道を、風を切って通り過ぎていく。
「しかし、高校を卒業してもこの道を急ぐのか……」
ため息をついて、ペダルに力を込める。
やがて、見慣れた高校の白い校舎が目に入った。
ラストスパート。坂道を立ち漕ぎで一気に駆け上る。
ようやく校門が見える。
その前の家に、一人の女性が立っていた。
ききーっとブレーキを軋ませ、自転車を飛び下りてぜえぜえと息をつく。
「みさき先輩。お待たせ」
「遅いよ〜」
彼女は予想通りむくれていた。
「すまん」
自転車を止めながら謝る。
「言い訳は?」
「低血圧で朝には弱いんだ」
「待ち合わせは1時だったんだけど」
「生理痛で昼にも弱いんだ」
「ふうん……」
眼が険しかった。
そりゃあ30分も待たされれば怒るだろう。
素直に頭を下げることにする。
「ごめん。ただの寝坊だ」
「今何時?」
先輩が尋ねる。
「1時25分」
「なんでこんな時間まで寝てるの?」
「いや、せっかくの休みだから……」
しばらく言葉が途切れる。
「あの、怒って……ます? みさきさん?」
恐る恐る聞く俺に、先輩が吹き出した。
「ど、どうした?」
「はぁっ……。怒るフリって難しいね。大丈夫、怒ってないよ」
先輩は笑っていた。
「30分遅刻したんだぞ?」
逆に勘ぐってしまうのは男の哀しい性だろうか?
「うん。でもいい天気だからね。許してあげるよ」
確かに、こんなことで時間を費やすのはもったいないくらいのいい天気だった。
それなら、一日をめいっぱい楽しまなきゃな。
「よし。じゃあ今日はどこへ行こうか?」
「もーっ、忘れちゃった? 今日は髪を切るのについて来てくれる約束だよ」
「先輩が仏門に入るなんて聞いてないぞ」
「美容院だよっ」
「って、ほんとにそういう予定だったっけ?」
「うん、病院で髪の毛切られちゃったからね。きちんと揃えようと思うんだ」
「そういや見事な若ハゲが出来てたよな」
「うー、浩平君いじわるだよ」
文句を言う先輩を自転車の後ろに乗せ、走りだす。
「で、どっちに……どわっ、首を絞めるなっ!」
思わずバランスを崩し、自転車がよろける。
「締めてないよ、抱きついたんだよ〜」
「どっちにしろ自転車こいでるときに危ないって」
「ごめんごめん。わざとだよ」
「余計たち悪いわっ!」
ふらふらとよれながら青空の下走りだす。
やがて、街を見下ろす坂の上に立つ。
「よし、突っ走るか」
「うんっ」
長い坂道を一気に駆け下りて行く。
「わっ、わっ」
なびく髪を慌てて手で押さえながら、先輩はやっぱり楽しそうだった。
「突き抜けるような青空って、こういう空のことをいうんだろうな」
「うん。風が気持ちいいね」
河原に自転車を止め、手のひらを枕に並んで横たわる。
見事な五月晴れだった。
「ほらっ、あの雲、バナナの形してるぞ」
「バナナも好きだけど、今はカツカレーの気分かな」
「難しい注文だな。あ、でもあれなんかはそう見えなくもない気がする」
「美味しそう?」
「……白いとカレーに見えないな」
「そっか。残念だよ」
「残念だけど、でもこれで良かったよ」
じっと空を眺めていると、先輩が呟いた。
「手術のことか?」
「うん」
結局先輩の光は戻らなかった。
でも、少なくとも表面上は、先輩は落ち込んだりはしなかった。
むしろ、すっきりとした面持ちで笑っていたと思う。
「プレゼントの包みを解くときみたいにわくわくしてたけど、でもね、やっぱり凄く不安だったんだ。眼が見える私が私でなくなるような気がして。私の眼で見た浩平君が浩平君でなくなるような気がして。そう言ったよね」
「うん」
相づちしか打てない。
オレ自身はまだ残念に思っていたから。
「でもね、浩平君が勇気づけてくれて。それから浩平君の顔をしっかりと覚えた……」
先輩の言葉に、空を見上げたまま、でもしっかりと耳を傾ける。
「それでね。包帯を取って、おそるおそる瞼を開けたとき、一瞬浩平君の笑顔が見えた気がしたんだ。ううん、きっと見えたんだよ。くっきりと見えた」
「そっか……」
笑顔のわけはなかった。オレは実はずっとびくびくしていたんだから。
先輩の中のオレは、随分完璧な奴らしいな。
偶像の自分に少し嫉妬してしまう。
「それに、今もはっきりと浩平君の顔が浮かんでくるよ。それでわたしは十分だよ」
白い雲が形を変えて行く。
「ちょっと……ほんとは残念だけど」
小さな呟きは、風にかき消されてオレの耳には届かなかった。
さわさわと揺れる草原に抱かれて、ずっと空を見上げていた。
先輩の瞳の奥の空はどんな空なんだろう。そんなことを考えながら。
突然その空が翳った。
「どわっ」
いつの間にか先輩が上体を起こし、被さってきたのだ。
「ふふっ、ほら、浩平君の唇だって、はっきりわかるからね」
人差し指で浩平の唇をなぞって、そしてゆっくりと顔を近づける。
それから、ぎゅっと首に手を回した。
唇と唇が触れた。
時間が止まったようだ。
でも、風は変わらずそよいでいる。
「ん……」
やがて吐息と共に唇は離れる。
「真っ暗でも、暖かいね……」
そうだ、目を閉じていても、暖かさを感じることは出来る。
なら、オレに出来るのはそれを与えることかな。
「春だからな」
でも、照れ隠しにわざとぶっきらぼうに答える。
「もーっ、そういうことじゃなくって……」
先輩が口を尖らせ、身体を起こした。
急に青空が戻り、空の明るさにか、それともその笑顔にか、眩しさにオレは眼を細めた。
「でも、うん、そういうことにしておくよ」
先輩が髪をかき上げて微笑んでいた。