それぞれの歩み


 

 ピピピ、ピピピ、ピピピ
 無機質な電子音が、少女の枕元で鳴り響く。
「う〜〜……ん」
 のろのろと少女の手が目覚ましを探るが、なかなか届かない。
 ピピピ、ピピッ カチッ
 目覚めを告げる目覚ましを止め、ゆっくりと起き上がった。
 長い髪は寝癖で好き放題な方向に跳ね、その目はまだ半分以上眠っている。
「……ふあっ……ふぅ」
 大きなあくびをして、のろのろと制服に着替え始めた。


 着替えを終え、部屋から出て行く。
「おはよ〜」
 精彩を欠いた挨拶に、誰も返事をしてはくれなかった。
「あれ?」
 しばし首を傾げてみる。
 キッチンには一応朝食が用意されていた。
「ああ。そっか」
 昨日の晩、両親が朝から出かけると言っていた事を、たっぷり5分かけて思い出した。
「ま、どうでもいいけど……って、いっけない!」
 時計を見ると、もう家を出る時間だった。
 急いで寝癖を整え、家を飛び出した。


「おはよう。七瀬さん」
「おはよ。瑞佳」
 クラスメートとの朝の挨拶、少女、七瀬がにこやかに応じる。
「ねえ。七瀬さん。今日の放課後、商店街にお買い物に行かない?」
「ごめん。わるいけど……」
「今日も? 七瀬さん。大変だね」
「ううん。自分で決めた事だから」
「そうかな? でも、もう少し他の人にも付き合ったほうがいいと思うよ」
「ありがと。でも、やっぱりこれだけは譲れないから」
 頑なな七瀬に、瑞佳が小さくため息を吐く。
「……分かったよ。七瀬さんがそこまでしてやり通そうとしてるんだもん。私は応援するしかないよ」
「うん。がんばるから」
 何気ない瑞佳の応援が、七瀬の心にちくりと刺さった。
「でも、七瀬さんがずっと待ってるのに、薄情な彼だね」
「ええ。薄情で、意地が悪いやつだったから……」
 七瀬のあまりに力無い微笑みに、瑞佳が心配そうな顔をする。
「七瀬さ……」
「うーし。お前ら席につけ〜」
 瑞佳の言葉はヒゲの乱入によって遮られ、それからその日は話す事は無かった。


「……ふぅ」
 帰宅途中の道すがら、朝の瑞佳との会話が脳裏によぎる。
「七瀬さんがずっと待ってるのに……か」
 待つ事は苦痛ではない。けれど瑞佳にそんな風に言われるのは、やはり悲しかった。
「やっぱり覚えていないんだよね」
 七瀬の恋人、折原浩平が消えて、どのくらいになったのだろうか?
 あの日、消えてしまった浩平。
 浩平と幼馴染だった瑞佳でさえ、浩平の事を覚えていない。
 本当に帰ってくるのだろうか?
「……いけない」
 弱気になりかける気持ちを、懸命に振り払う。
(私が信じないと、覚えていないと、浩平は本当に居なくなっちゃう)
 信じていれば帰ってくる。
 覚えていれば帰ってくる。
 それは夢に過ぎないのかもしれないが、七瀬はそれに縋った。
「浩平は帰ってくる。浩平は帰ってくる。浩平は帰ってくる」
 念じるように繰り返していたとき、ふと見慣れた制服が目に入った。
 学校の制服。いつもなら、ただの帰宅途中の生徒と気にも留めなかっただろう。
 しかし、なんだか妙に引っかかった。
 気がついたときには、ふらふらとその女生徒を追いかけていた。
 その女生徒は幾つかの路地を曲がり、やがて小さな原っぱに着いた。
(こんなところがあったんだ…)
 感心する七瀬の前で、女生徒は原っぱでぼんやりと立ち尽くしている。
 十分…二十分…。
 女生徒はただ何をするでもなく、立ち尽くしている。
「ねえ……」
 耐えかねて七瀬がその女生徒に声をかけた。
「…………」
 振り向いた女生徒に、七瀬は見覚えがあった。
「えっと……」
「なんでしょう?」
 女生徒は非難する様に七瀬を見つめる。
「あの……私、七瀬留美」
「知ってます」
「だよね。おんなじクラスだもんね」
「…………」
「でね、悪いんだけど。名前、何だっけ?」
「……里村、里村茜です」
「あ、うん。よろしくね。里村さん」
 握手を求めようと手を伸ばすが、茜はその手をじっと見つめるだけだった。
「あ、ごめんね」
「いえ」
「…………」
「…………」
 そのまま会話が途絶える。
 気まずい空気が辺りを包んだ。
「あの……」
「あ、なに?」
 先に口を開いたのは、茜だった。
「……何か用事でも?」
「えっ、あ、それは……」
「…………」
 ひとしきり、どもった後、一つ大きく息を吐く。
「……何をしてるのかなって」
 七瀬の言葉に、茜がついっと視線を原っぱに戻した。
「……待っているんです」
「待ってるって、誰を?」
「……大切な、人です」
「大切な…人」
 茜の言葉を繰り返す。
 そしてふいに、七瀬は思った。
 このクラスメイトは、自分と同じなんじゃないかと。
「……早く来るといいね」
「ええ。そうですね」
 まるで人事のように答える茜。
 その瞳は七瀬に対する興味を失っているかのようだった。
「それじゃ、私は行くね」
「…………」
 期待していた訳ではなかったが、返事は無い。
「さようなら」
 背を向けて歩き出した七瀬に、小さな声が届いた。
「うん。さよなら」


 いつものドレスを着て、いつもの木の下に立つ。
 ドレスはもう、大分色褪せてしまっているが、七瀬は気にしない。
 毎日の儀式となっている待ち合わせは、もう長いこと果たされていない。
 浩平は、来ない。
 いつも通り、浩平の事を思い浮かべながら立ち尽くす。
 漫画みたいな出会い。
 美少女コンテスト。
 嫌がらせの犯人探し。
 キムチラーメン。
 二人だけのダンスパーティ。
 そして……。
 突然の別れ。
 なぜ?
 ……分からない。
 色々と考えてみても、七瀬にはどうしようもなかった。
「待つしかないのよね……」
 ため息が出る。
 自分にできる事は、なんと少ないのだろう。
 そんな事を考えているうちに、いつの間にか日が沈んでいた。
「……今日はもう帰ろう」
 落胆しながら、七瀬は公園を後にした。



「七瀬さん。商店街に行かない?」
「ごめん……」
「そっか、しょうがないよね」
「ごめんね。瑞佳」
「ううん。気にしないでいいよ。それじゃね」
「うん、それじゃ」
 少し心配そうな瑞佳と別れて、家路を急ぐ。



「……あれ?」
 家路を急いでいたはずなのに、なぜか昨日の原っぱに来てしまっていた。
 目の前には、昨日見た背中。
「あ、あはは。こんにちは」
「…………」
 引きつった笑いを浮かべる七瀬に、茜はちらりと視線を走らせただけで、特に反応らしい反応をしない。
(何でここに来てるのよ。あたし……)
 自分に悪態をつきながら、何とか会話を試みる。
「今日も、待ってるの?」
「……はい」
 少し遅かったが、今度は返事が帰ってきた。
「昨日も待ってたよね?」
「はい」
「待ってる相手って、ひょっとして恋人とか?」
「…………」
 場凌ぎの言葉に、自分で凍りつく。
「あ、えっと、ごめんね。込みいっ――」
「……違います」
 七瀬の返事をさえぎり、茜が首を振った。
「あれ? でも、この前、大切な人って……」
「ええ。大切な人です」
「そうなの?」
「はい。恋人では、ありません」
「……そう」
 なんだか少し残念だった。
「私が、好きだった人でした」
 どくんっ。
 鼓動が七瀬の耳に響いていった。
「でも、片思いでしたから、恋人じゃありません」
「そう……なんだ」
「彼は――」
 茜が何か話そうとしたとき。
「茜っ!」
 見知らぬ少女が七瀬の後ろに立っていた。
「……詩子」
 茜の知り合いらしいその少女は、茜に飛びつくように近づいた。
「茜っ。どうして連絡も何もしてくれなかったのよ。心配してたんだからっ」
「…………」
「私たち親友でしょう? ずっと前から二人一緒だったじゃな――」
 詩子が言い終わる前に、茜がその場を駆け出した。
「あ、ちょっ、待って!」
 詩子の呼び声もむなしく、茜は意外と速い速度で走り去っていった。
「……茜……」
「ねぇ」
 差し伸べた手を空しく降ろす詩子に、何となく申し訳ない気持ちになりながら、七瀬が声をかける。
「あ、はい」
「えっと……里村さんの知り合い?」
「? 一応親友だけど、あなたはどちら様?」
「あ、クラスメイトの七瀬留美」
「ああ、クラスメイト。私は柚木詩子。茜の親友をやってる」
 よろしく。と詩子が手を差し出した。
 握手を求めているようだ。
「それはさっきも聞いたけど」
 握手に応じながら、困ったように鼻を掻く。
「そうだ。クラスメイトなら、茜の事、少しは分かるよね?」
「少しって?」
「どこの学校のどこのクラスにいるか。とか」
「それはクラスメイトだし。それを知らないクラスメイトはいないんじゃ?」
「いや、世の中わからないよ。一人や二人はクラスメイトがどこのクラスかも分からない奴がいるかも」
「いるわけ無いじゃない」
 力説する詩子に、七瀬は脱力感を感じた。
「結局、何が聞きたいの?」
「ん? やっぱり学校とクラス」
「聞いてどうするの?」
「直接乗り込んで尋ねる」
「やめなさいよ。そんな非常識な事」
「常識に縛られては、新しい発見は出来ないのよ」
「そういう問題じゃないでしょ」
 何となく懐かしさを感じながら、七瀬が突っ込みを入れる。
「いいから、教えてよ」
「……分かった」
「ありがと。留美ちゃん。お礼に熱いベーゼを」
「それはいらない」
「ちぇっ。つまんない」
 面白く無さそうに足元の小石を蹴る詩子に、七瀬はツッコミを入れることを諦めた。
「ともかく、教えてあげる」
「何だか、やらしい言い方だね」
 相変わらずボケを入れてくるが、とにかく無視する事にする。
 そうしないと話が進まないだろうから。
「でも、教えて欲しい事があるの」
「スリーサイズは秘密よ」
「里村さんに何があったのか」
「…………」
 ふっと詩子から笑みが消えた。
「……知ってどうするの?」
「別に。もしくは聞いてから考える」
「……しょうがないか」
 ふうっと、小さなため息を吐いた後、詩子が原っぱの方に数歩進んだ。
「本当のところ。私はほとんど何も知らない」
「何も?」
「うん。ただ、中学のとき、ちょっと親しい先生が事故で亡くなったの」
「…………」
 無言のまま先を促す七瀬。
「それから少しして、茜の様子がおかしくなった」
「というと?」
「ある日突然。全然知らない男の子の事を私に聞いてきたの」
「全然知らない?」
「うん。茜が言うには、私たちはよく三人で遊んでたんだって」
「詩子はまったく身に覚えが無いの?」
「うん。全然。それを茜に言ったら、それ以来、私の事を避け出したのよ」
「……そう。だいたい分かった」
「へ?」
「もういい」
「そんな、ここから一大スペクタルロマンが始まるのに」
「それには興味ないから、それじゃ」
「え?」
 きょとんとした詩子を置いて、原っぱを後にする。
「あ、里村さんには、一応話をしておくから、それまであんまり強引な手段に出ないで」
「う、うん」
 そのまま、振り向く事無く原っぱを離れた。。
 ある程度歩いた後。
「しまったぁぁぁぁっ。茜の事聞きそびれたぁぁぁぁっ」
 という声が聞こえてきたが、気にしない。



 早く行かないと……。
 ドレスに着替えて、公園に急ぐ。
 焦る意識の端で、茜の事がちらついた
 やっぱり、同じなんだろうか?



「ふぅっ」
 いつもより三十分ほど遅く、公園に着いた。
「何とか間に合った」
 息を整えながら、いつもの木の下に行く。
 歩きながら、さっきの事を思い出した。
 自分と同じように、待ち続けるクラスメイト。
 ここに立って、浩平以外のことを思い出したのは、随分と久しぶりだ。
 それだけ、疲れてきてるのかもしれない。
 いや、自分と同じだから、気になるんだ。
「って、本当に同じ……なのかな?」。
「何をされているんですか?」
 ふいに尋ねられ、七瀬が顔を跳ね上げた。
 目の前には、先ほど思い浮かべていたクラスメイトがいた。
 既視感。
 以前とは立場が逆だったが、昨日と同じ光景だ。
「待ってるのよ」
「どなたをですか?」
「大切な人」
 それきり、茜は口を閉じてしまう。
 少し、考え込むように目を閉じる。
「何か用でも?」
「いえ、ただ、何をしているのか気になっただけです」
「そう……」
 七瀬の相槌に茜が目を開いた。
「いつから、待っているんですか?」
「……随分前かな? もうすぐ一年」
「そうですか……」
 二人を静寂が包んだ。
「待っている相手は、ひょっとして恋人だったりします?」
「うん。実は」
「そうですか」
 心なしか残念そうに、茜が頷いた。
「何でここに来てるの?」
「詩子に追い出されたので」
「あの原っぱから?」
「ええ」
「あれは逃げたって言うんじゃないかな?」
「追い出されたんです」
「…………」
「…………」
 強情な茜に、七瀬がため息を吐いた。
「詩子。心配していたわよ」
「そうですか」
「大切に思われてるんじゃない。幸せ者」
「そうなんでしょうね。でも――」
「心配されるほど、辛い?」
「……はい」
 茜が視線を降ろしながら頷く。
「ねぇ。待ち合わせの相手、誰も知らないんだよね?」
「はい」
「その相手を知っているのは、覚えているのは、自分だけ」
「その通りです」
「親友を遠ざけたのは、ひょっとして、その人の事を忘れている詩子が、見たくなかったから?」
「はい」
「……そう」
「…………」
「…………」
 それきり、七瀬も黙ってしまった。
 かわりに、茜が口を開いた。
「あなたの待ち合わせの相手を知っている人は、何人いますか?」
「私だけ、かな?」
「ここは、最後に別れた場所ですか?」
「最後に待ち合わせた場所。かな?」
「待ち合わせ相手は、私が知っていた人ですか?」
「……うん」
「…………」
「…………」
 そこで茜が口を閉じた。
「……ともかく、私が言うのもなんだけど、詩子に連絡入れてあげなよ」
「確かにあなたに言われるのも妙ですね」
「そう言わないでよ。あれだけ心配してくれてるんだから、少しは応えてあげないと」
「あなたなら、出来ますか?」
 七瀬の眼を、じっと見つめる。
「正直、難しいとは思う。けど、せめて不安にさせない位にはしておきたいかな」
 問いに答えながら、七瀬が苦笑を浮かべた。
「自分は瑞佳に心配させているのにね」
「正直ですね」
「不器用なのかも」
 首をすくめて見せる七瀬に、茜がくすりと笑う。
「そうかもしれません。でも……」
「でも?」
「確かに、そろそろ潮時なのかもしれませんね」
「それじゃ……」
「心配させないくらいには、連絡しておきます」
「そうしておきなさい」
「ええ。今日は、もう帰ります」
「うん。それじゃね」
「はい。それでは……」
 立ち去りかけた茜が、ふいに足を止める。
「ああ、そういえば」
「ん?」
「いつの間に、詩子と仲良くなったんですか?」
「へ? 今日はじめて会ったとこだけど? なんで?」
「……詩子と呼んでいたものですから」
「ん? ああ、そういえば……なんでだろう?」
「よければ、私も名前でかまいませんよ?」
「いいの?」
「はい。私も留美と呼びますから」
「分かった。さよなら。茜」
「ええ。さようなら。留美」



 茜が立ち去った後も、ぼんやりと待つ。
 いつも通り、来ない相手を。
「はぁ」
 思いがけずため息が出た。
 ひょっとしたら、もう疲れているのかもしれない。
 待つことに。
 さっき茜に言った事は、ひょっとしたら自分に言っていたのでは?
 自分の立場から言えば、正反対の事なのに。
 それでも、ああ言ったのは、もう疲れてしまったからだろうか?
 茜を諭して、自分もやめるつもりなのかもしれない。
「だめだめっ」
 必死に頭を振って、弱気になる心を奮い立たせる。
「きっと、帰ってくる」
 自分が信じなければ、誰も浩平の帰りを待っているものは居なくなってしまう。
 自分が信じなければ。



 ピピピ、ピピピ、ピピピ
 無機質な電子音が、七瀬の枕元で鳴り響く。
「う〜〜……ん」
 昨夜は遅く、未だに眠気は取れなかった。
 今日は休日なのだ、少しぐらい。
 そう思いながらも、もぞもぞとベッドから這い出る。
 大体三十分ほどかけて、食事など諸々を済ませる。
 いつも通りドレスに袖を通し、公園に向かった。



 今日もまた、来ない相手を待ち続ける。
 しばらく立ち尽くしていると、少しして真横に気配を感じた。
「茜」
「どうも」
 いつも通りの格好をした茜が、七瀬の横に立っていた。
「今日は待たなくていいの?」
「もう、待てないので」
「我慢の限界?」
 冗談めかして言う七瀬に、茜は小さく首を振った。
「あの原っぱに何か建てるそうです」
「……そう」
 二人とも、疲れたように押し黙った。
「ところでさ」
「なんでしょう?」
「茜が待ってた人って、どんな人?」
「どうでしょう? よく、分かりません」
「大切な人だったんでしょ?」
「ええ、でも、もう私も忘れてきているのかもしれません」
「いっそ。忘れたほうが楽なのかしら?」
「出来ない事は、言わないほうがいいと思いますよ」
「確かに。忘れたくも無いし、ね」
「そうでしょうね」
「うん。私が忘れたら、あいつの事、覚えている人居なくなっちゃうしね」
「その人は、どんな人でした?」
「しょうがないやつ、わがままで、自分勝手で、子供っぽくって……」
「出会いとか、聞いても良いですか?」
「別に構わないけど……面白いものじゃないと思う」
「構いません」
「……分かった」



 木にもたれかかりながら、七瀬は茜に浩平の思い出を話した。
 今までずっと胸に押さえていたものを、余す事無く伝える。
 人と話すことに、飢えていたのかも知れない。
 我ながら良くこれだけ喋ったものだと思う。
 ひょっとしたら、茜の持つ雰囲気が、いつもより余計に喋らせたのかも知れない。



「そうですか……」
「ね。困ったやつでしょう」
「ええ。困った方ですね。でも……」
 茜はそこで一旦言葉を切った。
「だから、好きなんですね」
 突拍子も無い台詞。
 一瞬きょとんとした後、七瀬が少し寂しそうな微笑みを浮かべる。
「うん。だから、好きになった」
 そこで会話が途切れ、七瀬の視界がゆがむ。
「どうしました?」
「ううん。なんでもないよ。何でも」
 首を振りながら、必死に押さえる。
 なぜだろう? こんなに苦しくなるのは。
 私は泣かない。
 泣くもんか。
「……ところで」
 七瀬の様子を感じ取ったのだろう、茜がカバンからなにやら取り出す。
「ワッフル。食べませんか?」
「……どこから出したのよ?」
「カバンです。公園で食べようと思いました」
「……ありがたく頂くわ」
 七瀬にワッフルを手渡し、茜も自分のワッフルを取り出した。
「私のお気に入りです」
「へえ。どんなかな……」
 ワッフルを一口含んだ瞬間。七瀬は猛烈な味覚に襲われた。
 蜂蜜と練乳と砂糖の味がした。
「……あ、甘すぎない?」
「そんなことないです」
 七瀬の問いに、茜は平然とした様子でワッフルをぱくつく。
 嫌がらせ……にしてはあまりに悪意が無い。
 違うワッフルというわけでも無さそうだ。
 ひょっとしなくても、本人は本気でおいしいと思っているのだろう。
「……ふぅ」
 ため息を吐いて、一息にワッフルを頬張る。
「っ!!」
 猛烈に甘いのを我慢して、何とか飲み下した。
「そんなに急いで食べなくても」
「い、いやぁ。少しお腹が空いてたから」
「そうですか。では、もう一つ差し上げましょうか?」
 カバンを探り出す茜を、七瀬は慌てて止める。
「いいっ。いいからっ」
「遠慮しないで構いませんよ?」
「ううん。ほら、あんまり食べ過ぎると太っちゃうし」
「そうですか」
 七瀬の懸命な説得に、茜は取り出しかけたワッフルを戻した。
「ところでさ」
「なんでしょう?」
「待ち合わせの相手、どこに行ったと思う?」
 七瀬の問いに、茜が複雑そうな顔をする。
「……分かりません」
「あははっ。だよね。分からないよね」
「留美は、どこに行ったと思いますか?」
「……分からないよ」
 そのまましばし、二人とも黙り込む。
「本当に、どこに行っちゃったんだろうね」
 その問いは自分にも投げられかけていた。
「……では、なぜ待っているんです?」
 しっかりと七瀬を見つめ、茜が尋ねた。
「……帰ってくるって、信じているから」
「そうですか」
「そういう茜は、何で待っていたの?」
 七瀬が尋ね返すと、茜は視線を逸らし、呟くように答える。
「私は……。私も、帰って来てくれると信じていたから」
「そう」
 相槌を打つ七瀬に、茜が前を見た。
「でも、もうやめようと思います」
「何で? 別に待つことは続けられるでしょ?」
「ええ。ですが、もう随分と待ちました。周りもどんどん変わっていきました」
 しっかりと正面を見つめ、茜が言葉を紡ぐ。

「時間は残酷で優しかった。あの場所も無くなります」
 その眼は諦めでなく、転機を見つめていた。
「あの場所で詩子に会ったのに、私はただ驚いただけでした」
 その眼に悲しみは無く、先を見つめていた。
「あの人を待ち続けても、あの人は喜ばないんじゃないでしょうか?」
 七瀬は気圧される様に、そんな茜を見つめていた。
「だから、私も変わろうと思います」
 頬に伝った一筋のしずくは、決別の為だろうか?
「諦めではなく、先に進む為に」
 ただ言えるのは、何か吹っ切れた事。

「……強いね。茜は」
「いえ。ここまで来るのに、だいぶかかりました」
「私はそこまで強くなれないな」
「待つという点で、私はあなたの何倍か過ごしているんです。急にこんな考えは出来ませんよ」
「そうかな?」
「そうです。それに……」
「それに?」
 オウム返しに先を促す七瀬に、茜が微笑んで見せる。
「あなたと私は違います。あなたの待ってる人と私の待ってる人も」
「それは……」
「私の絆は弱かったのかもしれない。あなたは違う結末が待っているのかも知れない」
「……だったらいいな」
「そうだと信じて見ましょう」
「信じるべき……だよね」
 泣き笑いのような表情で、七瀬が頷く。
「応援しています。二人で待ってみれば、案外早く帰ってくるかもしれませんし」
 冗談めかして言ってから、くるりと反転し、茜が歩き出した。
「あ、どこに?」
「家に帰ります。今日は少し、話し過ぎました」
「……そう。それじゃあね」
「ええ。さようなら」
 遠ざかる茜の背中に、七瀬が呼びかける。
「あ、ちょっとまって」
「なんでしょう?」
「ありがとう」
 七瀬の言葉に、茜が立ち止まった。
「別にお礼を言われるような事はしていません」
 突っ返すように答えて、茜が公園を出て行った。
 口元に小さな笑みを浮かべながら。
「素直じゃないなぁ、もう」
 口を尖らせながら、七瀬が空を見上げた。
(信じないと、ね)
 帰って来なかった彼女の話。
 けれど、何故か、今なら信じられる気がする。
 普通なら反対に、不安になるはずなのかも知れないけど……。
 でも、信じられる。
 ひょっとしたら、信じる気持ちを彼女からもらったのかもしれない。
 絆は、奇跡を起こせるのかもしれない。
 今なら、信じられる。
 心から
「浩平は、帰ってくる」
 呟いた瞬間。ふいに背後に人の気配を感じた。









 錆付いた彼女の時計が、再び時を刻みだした。




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