痕<潟tレイン 〜真夏の夜の夢〜   終編


  * 痕を中心としたクロスオーバーSSです。
    好みが分かれると思いますので、閲覧の際にはそれらの点を了承して頂いた上でお願いします。





「――え?」
 千鶴の服の切れ目から大量の血が流れ出していた。
 戦い慣れていない千鶴は、それがどれほどの傷なのかすぐには判断できなかった。止血をするにも服の袖を切って巻く程度のことしか考えが及ばない。
 胸が熱い。肩乳房が見え隠れしていた。つまり心臓への一撃。どう斬られたのか千鶴は思い出そうとしたが、まったく記憶に残っていない。いつ斬られたのかも分からない。攻撃そのものが見えなかった。このエルクゥの動体視力を持ってしても。
 少年の動きは緩慢だった。事実、エルクゥより速く動くなど彼には出来ないのだから。例え霊剣の力をもってしても不可能だろう。それは分かる。だが――
 彼は無傷だった。
 こちらを見下ろす瞳は、自分と同じくらい冷徹。実に、己とは違う生き物を見ている感傷しか瞳には籠められていない。
「さあ、とどめと行きましょう」
 かちゃり。刃を起こして少年はこちらに向かってくる。
 足取りは遅くもなく、早くもない。だが単調というわけでもない。ここに来て暗殺者特有の『暗歩』である事に千鶴は気付いた。刀の切っ先も見せなければ、足音を立てることもしないのだ。今になってようやく神咲刹那が生粋の暗殺者≠セと千鶴は知った。
「…………」
 しかし、時は遅かった。
 刀が振り下ろされるのが、瞳に映る。下ろされたら、それで何もかもが終わる。
 エルクゥが人間に敗北した。喜劇にもなりはしない。
 それでも、どんなに格好悪くても「待って」と千鶴は言った。お願いだから妹には手を出さないで、と。
 彼は言った。冷徹に。
 あなたのこと好きでした、と。
「……え?」
 それが、彼の千鶴の問いに関する返答だったのか、刃は再び動き出す。
 意識が遠くなった。死に行く時に眼にする走馬灯すらそこにはない。眼に映るのは眩い光。見えるのは真っ白な世界。天国への扉かしら? と千鶴は笑いたくなった。そこに、偽善はなかった。ただ、可笑しかったのだ。そう思った、自分の心が。
(鬼でも天国に憧れるか……)
 千鶴は目を閉じた。ゆっくりと。覚悟を決めたわけではない。考えてみたかった。自分のしてきたことを。柏木の血筋の成れの果てを。まずは両親のこと。父親は鬼の血に負けそうになり、自らその命を断った。母親もそれを追い掛けた。そして叔父のこと。耕一のことよりも、まず姉妹のために駆けつけてくれたこと。平和だった日々の思い出。それが、永遠だと信じていた、あの頃。でも、すぐに壊れた日常。柏木の血。鬼の血統。
 それ――エルクゥ。
 誰かを信じることなど出来なかった。鬼の血の葛藤を持たない人間などに何が分かるというのか。
 今回は、どうだ? また柏木というだけで死にいく運命に過ぎないのか。
(どうして戦っていたんだろう?)
 今更、思う。
 生まれては消えていく、命。
 神咲。退魔の家系。霊刀。善の如き呼び名。柏木は鬼。
 鬼は負の総称だった。吐き気がする。
(どうして……)
 運命なのか。こうなることは宿命だったのか。柏木の血筋はそれほど呪われているのか。こうした生き方を誰が望むものか。
 生きることは罪? 断じて違う。
(ただ、わたしは人並みの幸せを願っていただけ……)
 怯えて生きていた。怖いのは鬼などではなく、人の方だ。
 窮屈な会長職。権力あるものに対しての嫉妬。憎悪。卑屈。それらは妹達にも向けられた。何のために仮面を被ったか。誰のせいだと思っているのか。鶴来屋の会長職を狙うもの。耕一の父親の死を殺害だと邪推してその犯人を千鶴だと疑った刑事。逆に甘い汁を啜ろうと近寄ってくる男たち。馬鹿げている。どれもこれも。何もかも。
(そして、わたしを殺しにやって来た、少年……)
 もう一度、問う。
 ――柏木千鶴は何をしてきたのか。
 答えは簡単だった。
 ただ、何もしてこなかった。それだけだった。
 流されてきた。この優しくない世界に。
 すべてを諦め。絶望して。
 エルクゥには未来などないと知っていたから。
 両親の死の先で知ってしまったから。
「…………」
 今、目を開けるか閉じるか、問題はそれだろうか。
 このまま、死にたい? これも答えは簡単に出た。
 眼を開けることにした。やはり、死を受け入れたくはなかったから。足掻いてみよう。生きることに。
 だって――まだ、生きていたいから。
「……わたしは、死にたくない」
 千鶴の脳裏に、柏木耕一の顔が浮かんだ。
 どうして、こんな時に……と初めは思ったが、こんな時だからこそだ。
 誰よりも望んでいた、柏木千鶴という本人のすべてを晒し出せる唯一の存在。掛け替えのない人。わたしは、彼を愛している。
 だから、生きたい。
 それこそが、リズエルの願いでもある。
 平穏に生きるということが。
 姉妹とともに。
 前世では届かなかった願い。
 現世、叶った思い。
 あとは、護っていけばいい。
(ああ、なんて――)
 月は綺麗なんだろう。
 千年の時すら越えてそこに在る。
 同じ輝き。
 そして、同じ星。
「……耕一さん」
 星に願いを込めて、千鶴は呟く。
 届かないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
 だって、それこそが自分の願いだったから――
 星に願いが届くというのなら、どうか応えてほしい。
「…………耕一さん」
 呼び掛けたい。何度でもいい。滑稽でもいい。大切な人の名前なのだ。恥じ入ることは何もなかった。
 どうせなら、叫んでしまおうか。千鶴は、そう思い――笑った。
「…………」
 そして、いとも容易く願いは星に届く。
 頭上から、ぱりんと硝子を割ったような音が聞こえた途端、彼はその場に降り立った。
「ごめん、遅くなった……」
 千鶴の肩に触れて、彼は優しく笑みを浮かべた。
「……耕一さん?」
「ああ、そうだよ」
 耕一の笑顔を見つけて千鶴は可笑しくなった。
 ピンチだと分かっているのに、今こうして自分も笑顔を零してしまうなんて。
「もう遅刻です。大遅刻です」
 勝手なこと言っている。でも唯一、我侭を言える人だから。聞いてくれる人だから。彼の前でだけは、千鶴は自分でいられるから。
 言ってもいいんだ、我侭を……。
「うん、分かった。今度、埋め合わせするから、許して」
「……絶対ですよ?」
 千鶴の手を取って耕一は指を絡ませる。
 約束。永遠の。そして、永劫の。
 時すら越えて誓い合ったというなら、星に願いが届いたのは、きっと偶然のくれた奇跡なのだろう。
 運命は、もしくは星は、千鶴の死を望んでいない。
「茶番はそこまでにしてください」
 そして敵対する彼は、不機嫌そうに言う。が、耕一は冷淡に返した。
「ああ、悪い。忘れてた」
「……そうですか」
 耕一が目を向けた先に佇んでいたのは、白い式服を千鶴の血によって赤く変化させたもの。
 神咲刹那――
「結界を、破りましたか……」
「案外、脆かったよ」
「……でしょうね」
 鬼化した手を刹那に見せびらかして耕一は笑う。刹那の目が鋭くなる。しかし、それ以上に耕一の目が赤く光り輝いている。
「この代償は高くつくぜ?」
 そんな鬼の言動にも物動じることなく刹那は言葉を返した。
「踏み倒しますよ、全力でね」
 一触即発、耕一と刹那の生死を懸けた戦いが今まさに始まらんとしていた。

 両者に動きは見られなかった。
 あくまで冷静にことを運ぼうとしているのは耕一の方だった。片腕だけを鬼化した状態で神咲の者と向き合う。千鶴を圧倒した力を理解していないわけではないだろうが、完全に鬼になろうとは思っていないらしい。それで勝てるのか、千鶴は思った。だが、彼女が口出しすることはない。二人の戦いを見つめている。冷静に――ではなく、鳴り止まない胸の鼓動を押さえ付けて、見守ることしかできない自分を悔やむように。
「そのまま、でいいんですか?」
 嘆息を漏らし刹那は言う。耕一はそれに応えない。
「今更、勘違いもないと思いますが……見ての通り、彼女――柏木千鶴を傷つけたのはオレですよ。ええ、そうです。殺そうとしました。だってそうでしょう? 化け物に生きる価値はないんですから……」
 耕一は尚も鬼に変化しようとはしない。憐憫の眼を持って彼を見つめるのみ。それが、神咲刹那の気に障った。歯軋りの音が静かな闇夜の中、鳴り響く。
「あなたは、鬼だ」
「俺は……」
 迷うことなく、耕一は告げた。
「俺は、人間だよ」
「…………!」
「お前と同じように弱い人間さ。誰かを憎み、妬み、世の中が嫌いで……自分だけが頼りだと思っていても、他人がいなければどうしようもない……ただの人間さ」
「オレと同じ? どの口がそれを言う!」
 耕一の変化した鬼の腕を睨み付け、刹那は激昂した。
「化け物だ! 鬼だ! 見れば分かるだろうがっ!」
「……いや、人間だよ」
 首を軽く左右に振って耕一は刹那を見つめる。
「お前と同じだ」
「オレは、貴方とは違う! 断じて違う! どうして同等だと考える!」
 霊剣を構えて、神咲刹那は吠えた。先ほどまであった余裕の欠片も見られないのは何故だろうか? いや、それこそ――年相応の、少年の顔であったのは皮肉なのだろうか。
「神咲一灯流……」
 刹那の声に応えて、月明かりを存分に受けながら刀は鋭く輝きを増していく。
 千鶴を追い詰めた必殺の剣。
「……悲しいな、お前は」
 その耕一の声に、刹那の瞳が大きく見開き『知った口を――すぐに黙らせてやる!』と語っていた。それでも耕一は、言葉を付け足す。
「無理だよ。俺も千鶴さんも人間だからな。人に人は殺せない」
 例え、ココロを凍りつかせても――
 千鶴は、その耕一の言葉に何とも言えない深い悲しみを見た。
 鬼というのは、つまり――体ではなく、心に宿る魂のことではないか。人は誰しも、心の中に鬼を住まわせている。それを惜しみなく、理由もなく、解放すること――それこそ、鬼を鬼とたらしめているのではないか。
 千鶴は泣いた。どうして、それほどまでに――自分は、鬼という言葉に執着していたのだろう。
(心に宿る鬼こそ、本当の――)
 だが、神咲刹那は貸す耳を持たなかったのか、力を放った。
「裏$^威――月影斬!」
 きぃぃぃぃん。
 刀が振動して風を裂いた。淡い光の粒子がその冷たい鉄の周りを浮遊して飛び散る。何故だろう? その光景が千鶴の瞳にはとても悲しいものであるかのように映った。
 常人なら捉えられないほどの速度を持って、刹那の刃は振り下ろされる。が――
「この程度!」
 耕一は、鬼の目を真っ赤に滾らせて、瞬間――それを見切った。
 刹那の刃は、耕一に容易く往なされる。渾身の一撃とは確かに必殺の技にもなるが、その分、隙も大きい。素早く、耕一は間合いを詰めた。
「……あ」
 形勢はどう見ても耕一に有利なはずだが、駄目だ、と千鶴は予感した。
 ここまで自分の時と同じだったから。千鶴もここで勝利を確信したのだ。鬼の眼なら捉え切れないものはない。銃弾でさえ発射後にかわせる。
 だが、次の一撃は――そんなことを問題にはしないのだ。
 きぃぃぃぃん。
 また、神咲の霊刀が鳴っていた。本当に、悲しそうに泣いている。刀身を取り巻く淡い光の粒子は、確実にその密度を増しているというのに……。
「追の太刀――朧=I」
 瞬時に神咲刹那の二撃目が耕一を捉えた。だが、すでに耕一はその光り輝く刀身を目で追っている。
 見切っているのだから、当然、これも余裕で往なせる。耕一はそう考えた。それは傲慢ではなく、自分の力に対する自信の表れだった。それは、千鶴も同じであったのだろう。油断はしていないし敵を甘くも見ていなかった。だからこそ――千鶴は、この太刀を避けられなかった。見ていたはずなのに、わけの分からないまま、いつの間にか切り裂かれていた。
 このままでは耕一もその二の舞になるかも、と千鶴の背筋が冷たくなった。
 どうすれば、と千鶴は錯乱する。
 目に入った刹那の顔は、今となっては泣いても笑ってもいなかった。
 無表情に、刃を奮っている。
 その時、ふと思い起こされたのは、今までの彼の顔だった。
 満月の下、稚児のように笑みを浮かべていた彼、
『魅月のこと覚えています?』
 何故か、あの時の言葉が脳裏を横切る。
 あの哀しみに満ちた音を奏でている霊剣を見ると、更に強く頭の中で反芻される。
『覚えていないわけじゃないですよ。認識していないだけです。見えていると錯覚して、そこにいるのだと勘違いして、本質を見ていない。こんなの普通じゃない』
 見えていない? 消える? その存在を……。
 まさか、とは思ったが千鶴は、それこそ咄嗟に声を上げていた。
「耕一さん避けて、その刃――消えますっ!」
「――――!」
 何の躊躇いも無く耕一は千鶴の言葉に従った。二人の信頼のなせる業だ。戦いの中にあっても聞こえてくる声というのは。
 そして、千鶴の言葉通り刹那の刀は消えた。
 耕一は紙一重の差でかわし刹那にカウンターを入れようとしていたのを急遽止めて大きく回避したというのに、それでも頬に赤い線が走った。でも、それだけで済んだというべきなのだろう。背中に嫌な汗を掻く、久し振りのことだった。あの柳川と戦った時以来の冷や汗。
 千鶴のアドバイスが無かったと思うとぞっとしない。熱くかった体が急速に冷えて行くのを感じていた。
「よく、かわせたものです……!」
 肩で息をしながら、刹那は殺意を込めた眼で耕一を見ていた。
「だけど、見えない刃……そっちから攻撃のしようはないでしょう? 結果は変わりません。一撃で、というのが無理なら、数回に分けて斬り刻むまでです……」
 柄しか見えない刀。だが、刀身は確かに残っているのだろう。かちゃり、と音が鳴り刹那は意気揚揚にそれを掲げ上げて見せた。
 満月と、霊刀とが重なる。しかし、今は煌きもしない。切っ先の暗黒。
「霊剣魅月=\―オレの切り札ですよ」
 薄く笑う彼は、すでに狂っていたのかもしれない。
 何のために戦っていたのか、恐らく思い出せないのだろう。
 殺ス為ニ殺ス――
 彼は人間であるというのに、鬼であるというのだろうか。
 いや、鬼になってしまったのか。
 鬼とは、負の総称。そして、魂の御名。思想化されると、鬼は現実として存在するに至ると言う。
「…………さあ、殺しあいましょう!」
 血塗れの彼の顔は、鬼よりも赤い双眸を持ち始めていた。

     *

「鬼と、死徒のブレンド……そういうことか。面白いわね、シエル」
 おもむろに部屋に入ってきた人影は、シエルに告げる。いつからそこに存在していたのか。それは、特に問題ではなった。どうして自分の名前を知っているのか、シエルにとってはそれこそが問題である。
 小奇麗な格好をした妙齢の女性は、煙草の紫煙を吐き出して検分するように部屋の中を歩き回っていた。それに飽きると、次は床に倒れていた梓を拾い上げて、ベッドに落とす。文字通り寝かせたのではなく、落としたのだ。
 ひとまず煙草を携帯灰皿に捨て置いて、彼女は眼鏡を取る。その素顔が顕になった。
「骨が折れてるか。まあ、アラヤ絡みの一件だ、安く済んだ方だろう。私に非が無いのはもちろんだが、死人が黄泉の国から還って傷を治すと言うのも考えものか。私が治癒してやることにしよう」
「あ、あなたは……」
「ふむ。お前のことだ、私の顔くらい知ってるだろう?」
「アオザキトウコ!」
「いや、知ってるからと言って、フルネームで呼ばれても困るが……まあ、いい」
 シエルの驚きは他所にトウコと呼ばれた女性は梓に対して、「代わりの骨は無かったか」と持っていた鞄から人形の手のようなものを取り出していた。
 それを見てシエルは冗談じゃないと、
「梓なら、わたしが癒します」
 怒りを顕わにして告げる。トウコは面白くないのか眉を顰めた。
「……相変わらず、教会の人間は融通が利かん。お前の怪我も軽くは無いのだろう? 無理はしない方が良いと思うがな」
「大きなお世話です」
「あの、シエルさん……」
 突然の侵入者に驚いたのだろう、しどろもどろ楓が声を出す。
「ああ、私か?」
 しかし、返事をしたのはトウコの方だった。
「名乗るほどのものではないが、すでにシエルが私の名をばらした後だし、構わんか――青崎橙子、魔術師だ。人形師と言ってもいいがな。いや、やはりどうでもいいか。それにしても、なかなか興味深いな、君は」
「……え?」
「鬼か。日本でそういう概念があったのは知っていたが、こうも顕著だと逆に鬼という言葉に付いての考えを改めねばならんよ。魂ではなく、あれは負に属する。しかし、『吸血』の下に『鬼』を付け足すことで、ヴァンパイアだろう? 日本語は難しいが、その分、意味を持たせるには効果的だ。覚えるのに難儀はしたが、収穫は充分にある。今度、日本語をベースにした呪文を創ってみるのも面白い」
「は、はあ……」
 楓は曖昧に頷く。
 トウコの言っていることは逸脱し過ぎていて、どうも理解するには困難だった。
 見かねてシエルが口を挟む。
「噂通りですね、物事を自分でひとり納得し話すところは」
「……失敬な」
 それ以上、言い返さないということは図星を指してもいるのだろう。トウコは煙草を口に咥えて、不機嫌そうに火を灯ける。梓を癒していたシエルは、ふうと溜息を吐いた。
 ただ、それで何も言い返さないトウコでもないようだ。
「教会の人間が魔術を使うか。なるほど、異端だな。それで良く埋葬期間でやっていけるものだ。ナルバレック当たりが五月蝿いんじゃないか、そういうところ」
「…………少し黙っていてください」
「くくく……まあ、それはいいとして、式どうだ? やれそうか?」
 部屋のドアの手前に、ひとりの少年がいた。いや、女性なのかも知れないが。中性的な容姿のせいで、どちらか掴めない。暗がりと言うことに関係なく、楓にはその人物を男か女かの枠で括れないような気がした。
「いや、問題ない」
「そうか。じゃあ、始末して来い」
 式と呼ばれた――声からして女性は、トウコを見つめ返した。
「問題ないって言ったろ? あいつは、オレがやるまでもない。他の目的を持っているみたいだ。殺すのは、どうやらオレの役目じゃないらしい」
「そういうものか……しかし、シエル。神咲と手を組んで、このざまとはな。まあ、あの鬼は私も一瞬だったが、視認した。死徒とやりあう準備までしてなかった、私が言うのも何だがね」
「神咲と手を組んだ覚えはありません」 
 シエルは心外だ、と口を尖らせた。
「互いに利用しあっただけです」
「なるほど……獲物を誘い出す算段――あの鬼が狙っていた子供を餌とするために、保護者を引き離すか。それを、神咲の者がするとはね。シエルはのこのこやって来た鬼を始末するのが役割か。確かに、利害関係がある」
「嫌味ですか、それ」
 獲物を逃したシエルは不機嫌そうに目を細める。
「……え?」
 そして、楓は目を丸くした。もしかして、神咲とはあの神咲刹那のことなのか、と。それに、保護者とは千鶴と耕一だろう。じゃあ今、二人が居ないと言うことは? 引き離したと言うのは、刹那が意図的にそうしたというのか。
 どうして? それがどういった意味を持つのか、楓には分からない。
 無性に居ても立ってもいられなくなる。
「……行きます」
 楓は部屋から出て行こうとする。初音を助けるため。それと、耕一と千鶴に会うために。
「行って、どうします?」
 梓の治療を終えたシエルが立ち上がって、彼女を見やった。
 その視線は、厳しい。
「私は……行かないといけないんです。妹を救うことに、理由はありません」
「あなた自身が、力不足だとしても?」
「はい」
 即答する楓を見てシエルは複雑そうに首を振った。
「……良い子ですね、貴女は。いえ、貴女方は……羨ましいくらいですよ」
「シエルさん、ごめんなさい」
「いえ、その代わりわたしも同行させて貰いますよ?」
 シエルは楓に微笑み掛ける。それは、どう取っても自分らしくない本当の笑みだと言えたが、関係ない。真夏の夜の一時、魔が差しても可笑しくは無いだろう。楓もそれに応えて嬉しそうに笑う。
 それを見たトウコが呆れたように、ぽろっと咥えていた煙草を落とした。
「いや待て。言い負かされてどうする? 甘いぞ、埋葬機関のセブン! お守りに付こうと言うなら、傷の程度と相談するんだな。それに君……楓と言ったか? が行ったところで、話しは始まらん。それくらいは、分かっているだろう? 感情を切り離せ。行動に責任を持て。個人で出来ることは多くはない。それと、式も言った通り、鬼の最終目標は別に在るらしい。それらが君の保護者なら、何の問題もないだろう? 信じているのなら攫われた子供の運命も、それらに任せると良い」
「…………」
「分かるな?」
「……はい」
 楓は、唇を噛んで同意を示した。
「ふむ、本当に良い子だ。黒桐とお似合いかもしれん」
「……おい」
「ああ、冗談だよ、式。そう睨むな、直死されそうで堪らん」
 その苦笑を残して、トウコは鞄を引っ提げて踵を返した。これは意外と、シエルはその背中に問い掛ける。
「……帰るんですか?」
「まあね、まず出遅れていたようだ。それに、教会……埋葬機関と相容れるつもりはないぞ? これはお互い様だろうがな。私がここに赴いた理由も、貴様らが果たすだろうし、帰ったとしても特に問題はあるまいよ。それに、この国のことは基本的に神咲や高野などに任せた方が良いからな。協会の介入はするまい。まあ、協会から追われてる身としては、説得力に欠けるかもしれんが、概ねそういうことだ」
「ええ、面倒ごとは御免です。颯爽とお帰り願いたいですね」
 きついね、とトウコは笑う。あの式と呼ばれた中性的な容姿を持つ少女は、すでに踵を返した後なのかドアの前にその姿は無かった。
「では、最後に忠告しておいてやる。神咲に付いてだが、あの刹那と言う少年にはくれぐれも気を許さないようにな。神咲は表向き、一族の当主が霊剣を用いて悪鬼を払う。だが、そこにはペテンがあるな。当然、避ける人員が少なすぎて、全国をカバーするのは不可能だ。そこで、分家を使う。……同じく数は多くないがね。技量も本家に劣るし、霊剣と言った優れた霊具の存在も少ない。式神や呪符がいいところだろう。そして、次の段階だ……力ある者を利用する。霊感があるって奴らだ。ああ、それが今回の件になる。神咲刹那――まあ、偽名だろうね。刹那は一瞬の理、仮の名だ。神咲の姓を名乗るのは、あくまで刹那の間だけ。しかし本名までは知らんが、本家と同じく霊剣を持つ退魔能力者だ。それも暗殺向きのエクスキューターだと言える」
「……そんなの、分かってます」
「知っていての利用か、笑えんな。いや、これは知らないだろう? 霊剣魅月を借る者の噂だが、鬼か妖狐だかに姉を殺された経験があるらしい。それ以来、魅月を借る者は悪しき血を根絶するために生きていると。……気をつけろ、お前は陽動のつもりで柏木の者を引き離す役目をそいつに担ったらしいが、奴は本気で柏木を殺るつもりだ。恨みがあるからな、鬼という存在そのものに」
 シエルは青ざめなかった。それより早く、動くことにした。失態であるかどうかは、問題ではない。これから、どう行動するかが問題になるからだ。
「よく調べ上げられましたね、そんなこと」
「優れた助手がいるからな」
 はい、そうですか。とシエルは頷き、駆け出そうとする。
「シエルさん……」
「楓、ごめんなさい。わたしひとりで行きます」
 窓から飛び降りる彼女を見て、楓は自分と一緒では足手まといなんだな、と思い知らされた。吹き抜ける風の通り道、開かれた窓の外の月を見て楓は祈る。
「エディフェル、護って耕一さんと姉さんを……」
 夜の帳は、まだ明けそうになかった。

     *

「もう、止めておけ……」
 耕一は無駄と分かっていたが、言葉を投げ掛けずにはいられなかった。ここまでして刹那が何を為そうと言うのか、理解し難かった。
「――――!」
 刹那は、無心に刀を振るっていた。
 そのことごとくを、耕一は目算を付けてかわす。刹那は見切れることは不可能だと言っていたが、実のところそうでもない。
 今の刹那は殺気の塊だった。狙いが何となく分かる。気持ちばかり逸って、刀より体が前に出すぎている。反撃することを考えなければ、かわすことは難しくなかった。
「どうして、鬼を眼の仇にする? 俺達が一体、お前に何をした?」
「……鬼は」
 刹那は、眼を紅く滾らせて答えた。
「鬼は、ただそこにいるというだけで、罪悪。それに、何をしたかではないよ。これから何をする? 問題はそれじゃないか。アンタ達の世代がそうでなくとも、血は受け継がれてしまう。去年の事件がそれを物語っているんじゃないのか。だから、血を絶やす! あなたのこと嫌いじゃない! 千鶴さんもそうだ! でも――でも、鬼は負の象徴になってしまった。いつか必ず、また事件は起きる。そして、人は死ぬ。オレはもうたくさんだ! 妖魔も、鬼も、吸血鬼も皆殺しにした方が世のためじゃないか!」
「だから、自分をも殺すのか?」
「……そうです」
 耕一は、問い掛けた。
 そのために修羅の道に走り、己という人格を殺して、ひたすらに血の匂いを体に纏わりつかせ、人間を止めるのかと。それに対して、刹那は即答で頷いた。決心は、もう何年も前に付いていたのかもしれない。
「でも、違うな。悪いが、今のは本音に聞こえなかった。つまりお前は、死にたいだけだろう!」
「オレは、いつでも命を投げ出す覚悟でいます」
「それが――建前に聞こえるんだよ!」
 耕一は吼えて、刹那の懐に一瞬にして入り鬼の手とは逆の手で思い切り殴り付けた。刹那も流石に、意識していた手とは反対だったのか、それをまともに貰ってしまう。
 唇を切ったのか、紅い滴が刹那の唇から滴り落ちていた。
 はあはあ、と刹那の荒い息遣いが聞こえる。刀を支えにして刹那はようやく立っている。それほどの手応えがあったわけではないのは、殴った耕一自身が一番良く分かっていた。だとしたら、刹那の中で何が起こっているのか。
 ゆっくりと刹那が顔を上げた。
 その形相は、すでに少年らしさを失って、言い知れない殺意に満ちている。
「そうだ――ああ、そうだよ!」
 刹那も吼えた。
「オレは、ただ姉さんの仇を打ちたいだけだ! 姉さんはオレの目の前で殺された。てめーらと同じ、化け物にな。だから、殺してやりてーだけだ! これは――そうさ、お前の思っている通り、単なる復讐だよ!」
 耕一は思う。
 復讐鬼。それも確かに鬼だ。神咲刹那の奥に住まう鬼とは、これだろう。だが、あまりに悲しすぎる。
 鬼とはやはり、心の中で生まれる。誰もが持っている感情に過ぎない。それが、こうまで人を変えてしまって良いわけがない。
「俺を殺しても、気持ちは晴れないんだろう?」
「当たり前だ、オレは生きてる限り殺し続ける――魔を討つものになってやる」
「だったら――」
 耕一は駆ける。
「絶対に負けてやることはできねー!」
 神咲刹那、海辺で出会った少年。話した時間はそれほど長くはなかったが、気さくに笑う彼のことを耕一は決して嫌いではなかった。
 千鶴を傷つけた件もそうだ。許せないとは思う。それでも、刹那のことを憎むことができない。何かに耐えてそれを吐露した瞬間、彼は脆くも崩れた。その姿はかつて、耕一のことを殺そうとした千鶴に似ていると感じた。
 偽りの笑顔もそっくりそのままに。
 だから、
(負けられない!)
 刹那のことを、千鶴に重ねたのなら。その心までも。
「神気発勝――」
 呪は発せられる。
 刹那が構えるのを見て、耕一は側に植えられていたブナの木に一撃を入れた。その大木が、刹那目掛けて倒れ掛かる。だが、刹那はそれを構いもせずに必殺の剣を放った。
「神咲一灯流裏$^威――桜月刃!」
 刀から一条の光が放たれて、大木を真っ二つに切り裂く。ドスンと地面に倒れて木の葉が舞い上がる。そのすぐ後ろに控えていた耕一が木の裂け目から飛び出し、刹那に向かって鬼の手を振り下ろした。だが刹那も、二撃目の準備は整っているようで、耕一は今一歩踏み込めない。
 初手は避けたが問題は、次――同じ手は二度も使えない。
「追の太刀――水月!」
 素早く二撃目が刹那から放たれる。『水』の字の如く、澱みのない連撃。もちろんその刃の行方も影に紛れて、見えはしない。それこそ朧月夜のように。だが、予感を確信に変えて耕一は笑った。
「俺の勝ちだ!」
 空中に浮遊する深緑の木の葉が刀に斬られ、闇に紛れた太刀筋を顕わにする。
 耕一は、それを見越していたのだ。
 しかし――刹那の無表情は、ここに来ても崩れない。刹那が何を考え言えるのかまでは理解できなかったが、耕一としても極限にまで力を蓄えての一撃だった。もう、こちらも止まることは出来ない。今ここで下手に躊躇えば自分も、そして刹那さえも無事ではいられないと分かっているからだ。
 耕一の狙いは、刹那の持っている刀を叩き壊すこと――人の力の象徴を折ることは、彼の信念を折る事に同義であると感じる。
 しかし、更に刹那は霊刀に向かい呼び掛ける。
「――終の剣、魅月!」
 刃が伸びた。
 木の葉を撒き散らして、刀が耕一の喉もと目指して伸びてくる。動きに規則性は見られない。真っ直ぐではなくそれは、曲解していた。
 霊剣魅月は消えるだけではなく自由に伸びて、しかも曲がるらしい。
 刀に入れようとした耕一の拳は、あっけなく空を切った。
(しまっ……)
 相手の方が一枚上手だった。認めなくてはいけない。
 自分は読み負けたのだ。
「耕一さん!」
 千鶴の悲鳴。張り裂けそうな想いを込めての。目の前の出来事はまるで夢のようだったが、いくつもの木の葉を切り裂いて、今まさに耕一の喉に刀が喰い込まんとしているのが、目に見えない現実であったとしても、事実であると認識してしまったから。
 怖いと感じている。耕一を失ったら千鶴は正気ではいられないだろう。
 力の限り千鶴は叫んだ。
「やめてー!」
 そして次の瞬間、本当に刀が消えた。
「……え?」
 刀の使い手の刹那だったが、自身にもわけが分からないのか、間の抜けた声が上がる。その刹那の腕には刀の柄も消えて無くなっていた。
 震える体を押さえ切れずに、刹那は両の手の平を開き見つめる。
「そ、そんな……」
 好機は見逃さない。
 耕一は、その刹那の声を悲鳴に変えようと動く。何が起こったのかは分からないが、ここに来て刹那が策を弄する必要性を感じなかったから、罠でもない。耕一の拳がきつく握られる。が、いつの間にか、耕一の目の前にひとりの少女が大の字になり、刹那を庇うように立っていた。
 年端も行かない、少女の姿に耕一は戸惑う。
(なっ――危ない!)
 慌てて、耕一はその手を引っ込めた。
 突然の乱入にわけも分からず毒気も抜かれて、耕一自身その少女を見て立ち尽くした。
『もう、やめて……お願い……』
 金色の髪を揺らした小柄な少女が口を閉ざして、耕一に懇願する。想いの言葉であろうか。直接、脳に響くようだ。それに、耕一はその少女に見覚えがあった。まさか、とは思ったが、それ以外には考えられない。
「……魅月ちゃん?」
 金色の髪の少女は悲しそうに頬を赤くさせて、しゃくり上げるように涙を零していた。

     *

 霊剣、魅月――
 神咲刹那は霊剣のことを精霊と言った。精霊とは物に宿ると言われる魂の御名。それに、死霊の魂でもある。霊剣とは、まさしく死者の魂を特別の製造法にて刀のような器に封じ込めると言うもの。魅月は、刀である。故に、これは魂の姿である。千鶴を初めとした一般人には見つけられない存在のはずだった。しかし霊感あるものは、魅月の本質を見極めて視ることも可能。楓、初音はそういう要素が強く、また梓には邪気が無く見るものすべてを受け入れている節があった。それは分かる。が、耕一に見えて――しかも、姿を覚えていたとは、刹那にはどうしても信じられなかった。
 その分、苛立ちが増す。胸の奥に嫌なものが湧いてくる。
「……戻れ、魅月」
 刹那は低く命じた。それは、霊剣の使用者の言であり、魅月には絶対の理でもある。真実、戦いの最中、魅月が姿を顕わにするなど、今まででなく、これは使用者に対しての裏切り行為でもあった。
 それなのに、魅月は首を横に振った。
「魅月!」
 今度は、低くではなく大声を刹那は張り上げた。魅月はそれでも、いやいやと首を振る。
 それを見た刹那は、魅月の頬を平手で張った。
「刀に戻れ。二度はない!」
「貴方、自分の妹に手を上げるなんて、何を考えてるの!?」
 千鶴が抗議の声を上げる。
 意外そうに刹那は千鶴の顔を見ていたが、唐突に口の端を歪ませてせせら笑った。
「……妹? はん! 見ての通りだよ。こいつはてめーらと化け物だ!」
 言い捨てて、魅月に向き直る。
「さあ、早く戻れ、魅月。オレの道具に戻るんだ。貴様は、十六夜や御架月とは違う。完全型の霊剣だ。刀に宿るものが貴様じゃない。刀そのものこそ貴様の存在だ。故に、霊力は他の融合型の霊剣とは別格なんだ。その分、意識は軽薄だが……そんなの問題じゃない。もう一度言うぞ、貴様はオレの道具だ。戻れ、魅月。見捨てられたくなかったらなっ!」
「てめー!」
 刹那の発言に怒りを覚えたのか耕一が言葉を吐き出した。だが、魅月は耕一の怒りを静めるかのように「えへへ」と笑顔を向けて、更には千鶴の方に頭下げる。謝罪の意思を込めて。そして、ようやく刹那と向かい合った。
 刹那の方に足を進めて、口を開ける。
「ごめんね、辛い想いをさせて……」
 魅月は優しく刹那を抱き締めた。その時、すとんと憑き物が落ちたように、刹那の顔つきが変わった。
 事実、今まで何か幽霊にでも取り憑かれていたように。
「……姉さん」
 足から力も抜けたのか、刹那は地面に膝を付いた。
「姉さんの声、聞こえるの……僕にも?」
 魅月は、ただ優しく微笑んで、その姿を刀へと戻した。霊剣、魅月をその胸に抱いて、刹那は顔を伏せる。
「僕、本当は……本当は、分かっていた。こんなことしても姉さんは喜ばないって分かっていた」
 その刹那の姿は、年相応か。いや、それ以上に幼い少年の顔を見せて、一筋の涙を流してみせた。それでも、刹那は泣いてはいなかったのだろう。零れた涙は、それだけだったから。今ここで涙することは、ずるいことだと感じて。必死に目を閉じ我慢して。
「自分のしてきたこと分かってる。何をしてきたか覚えてる。だって、魅月姉さんの声が僕には聞こえなかったから。僕は、魅月の姿は見えても、魅月の心まで聞き取れなかったから。僕は、殺し続けた」
 刹那の瞳が、虚ろに千鶴を捉えた。
「……殺し続けようと思ったんです」
 千鶴は、今度は気後れもせずに刹那の視線を受け止めた。
「ひとつは、霊力を高めるためでした。魅月姉さんの声が聞こえないのは、単純に僕の力不足だと思ったから。もうひとつは、姉さんを殺した妖怪どもへの復讐でした。そうしないと、僕は生きる理由も無かったから。でも、何年たっても僕には姉さんの声が聞こえなかった。悔しかった。苦しかった。どうして、姉さんの声が聞こえないのか。僕に、語りかけてくれないのか。それなのに、どうして――あなた方は、魅月を見つけられたのか。どうして、楽しそうに遊べたのか。嫉妬しました。それ以上に、羨ましかった。千鶴さんを見ても、悪鬼だとは感じませんでした。信じられないでしょうけど、初めは殺す気もありませんでした。でも、でも……妹を思うあなたの気持ち。姉を慕う妹たちの想い。それが無性に悔しくて、苦しくて、どうしようもなくなって……気が付いたら、僕は自分を留められなくなっていた」
 長い独白のあとに、刹那は薄く笑った。月を見上げて、嬉しそうに目を細める。
「やっぱり耕一さんの言葉は間違っていますよ。貴方と僕とでは同じじゃない。鬼は、僕の方でした」
 刹那は、その言葉を最後にして立ち上がる。懐から、短刀を取り出して耕一に刃先を向ける。
「だから、耕一さん。僕と戦ってください。最後まで僕と戦ってください」
 どうして、まだ戦おうというのか、耕一には分からない。当然、千鶴に理解できるものではない。
「いいだろう」
 しかし、耕一は頷く。
「耕一さん!」
「ごめん、千鶴さん。もう少し、あいつの我侭に付き合ってやりたいんだ」
 それを聞いては、もう千鶴には何も言えなかった。
 傷付けられたとは言え、千鶴は刹那の事をすでに許していた。
 父親の死。母親の死。そして、耕一の叔父の死。会長職のこと。誰からも疎まれていたこと。誰も彼も憎んだ日のこと。それらを思い出しても、千鶴はひとりではなかった。妹たちが居てくれた。そこには、笑顔があった。耕一も側に居てくれた。目に見えるものすべてを恨んでいたのに、優しくなれた。
 神咲刹那にはそれらが無かった。いや、あったのに触れられなかった。もしかしたら、それは何もないことよりも辛いことなのではないだろうか。
 千鶴の今の想いは、感傷でも同情の類でもなかった。
 柏木千鶴のもうひとつの可能性。自分も、そうなったのではないか。そこにいるのは、もしかして自分なのではないか。そう思ったら、刹那のことは恨めなくなっていた。
 ただ純粋に千鶴は願う。早くこんな夜は終わってほしい、と。
「行きます!」
 声を上げたのは、刹那。短刀を手に持って、耕一との間合いを詰める。耕一は、それに対して動かない。刹那は、そこで唐突に後ろに飛び退いた。予測範囲外の行動、ぎくりと耕一も警戒してしまう。
「最後の、理由です」
 間合いを離した刹那が優しく笑う。耕一は一瞬、何のことだが分からなかった。
「魅月は、完全型の霊剣です。だから、霊力の少ない人間でも操れる」
「刹那君、何を言ってるんだ……?」
「でも、逆に使用者の霊力も分けて上げられないんです。だから、相手の――妖怪の力を切り捨てて奪う。今、魅月を使わないのは、耕一さんと殺し合う気がないのは、もちろんですけど……もう、駄目なんです。力を使い果たした霊剣は、機能を停止して消滅してしまうんです。今日は、無茶をさせ過ぎました。使用者の意思に反して人型に戻る。これが、どれほどのことか。僕のせいです。自分を見失った僕の責任ですよ」
 胸元に短刀を当てて刹那は満足そうに言った。
「あと、詫びです。僕は、千鶴さんを傷つけました。ひどいことも言いました。僕、馬鹿ですから……償いは、これくらいしか思いつきませんでした」
 刹那が何をしようとしているのか、すぐに耕一は悟った。
 間に合うのか。耕一は、闇を駆ける。
「……止めてくれると思いました。いい人たちです」
 だから、決闘の真似事をして耕一を離した。瞬時にそれを理解して、耕一は自分の甘さを呪った。
「馬鹿やろう!」
「ありがとう。そして、ごめんなさい」
 次の瞬間、刹那の血が無残にも周囲に飛び散った。

     *

 耕一は、見た。
 刹那の御腹から浅黒い手が突き出ているのを。それは、見知った獣の手だ。自分と同じ種類のものだった。刹那は、目を閉じていた。覚悟は、すでに決まっていたとでも言うかのように。
「……詰まらん」
 肩慣らしの意味合いを込めていたのか、肩透かしを喰らった、とでも言うかのように刹那のはらわたを掴んでいた、鬼が吐き捨てる。ゴミでもほかすように鬼は、森の奥に刹那を投げ捨てた。
「……お前、何してる?」
 ぴくぴくと眉間を震わせて耕一は言った。
 目の前の獣、吸血鬼――柳川裕也に。
「生き返ったのさ。貴様との勝負に決着を付けるために」
 理性はそこで途切れた。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
 耕一は吼えた。
 異形の姿に変化するために。手が足が体が――質量に関係なく増大していく。
「くくく、そうでなくては意味が無い。あの、ゴミを捨てた甲斐もあるというもの。来いよ、もうオレは前のようにはいかないぜ。力を見せてやる。新しい、力を――吸血鬼としての力を!」
 びくっと震えたのは千鶴だった。柳川裕也の力はあの夜の時を凄まじく超えている。当時、断然だった耕一の力すら凌駕して、そこにある。今度は、刹那の時とはわけが違う。加勢しようと千鶴は動こうとするが、膠着してしまった。二人の力量が、千鶴の割り込みを許さない。隙がまるでない。
「どちらが最強の鬼か――決着を付けようぜ!」
 柳川は言うが早いか跳躍して、木々の間を凄まじい速度で動く。すぐに頂上まで上り詰めて、一気に降下する。人間の死角のひとつ上空からの攻撃。隼が獲物を捕らえるがの如く、柳川は滑空して狙いを定めた。
「…………」
 耕一は目を真っ直ぐ空に向けたまま、最小の動作で柳川のひと振りを避けた。柳川の着地後に土が大きく舞い上がる。それを目隠しに、柳川は更に耕一との間合いを詰めて、鬼の爪で引き裂こうとする。それを耕一は、ゆっくりと手で受け流した。とても大型獣の動きとは思えない正確さ機敏さだった。
 千鶴には、今の柳川の力は自分よりも、耕一よりも――悔しいが上だと認めていた。腕力も脚力も『鬼離れ』していて、もし一撃でも喰らったら自分は立てないだろう。耕一もその範疇外ではないと考えられる。だが、しかし――耕一はかわし続けていた。力に対して、耕一は決して力で対抗しようとはしていない。その動きは、あの神咲刹那のものに似ていた。
『が、しかし――訓練されていない、人の動きなど見切るのは容易い。そう、貴女の持っているオレへの疑問など、この程度に過ぎません。百獣の王ライオンは、最強の力を持って生まれてきます。故に、鍛錬の必要なし。学習など、それこそ獣程度。あとは本能、習性ですか? だとして、人に敵うはずもない。人は弱いです。だから、進化した。あなたほどの力を持っているとしたら、武術などお笑い種でしょう? でも実際、オレは貴女を凌駕している。それが、すべて。神に届くかも知れない唯一の生物、人間です』
 それは、刹那が千鶴に放った言葉だった。
 あの時は、単なる挑発だと感じていたが、もし仮に耕一が鬼の力に溺れることなく、その力をあくまで人間として使いこなせているのだとしたら。刹那と千鶴の間にあった差が、耕一と柳川の差になるのではないか。つまり、体と心の鍛練こそ鬼の衝動を封じる決め手になるのかもしれない。
 結論は、すぐ目の前の現実として現れた。
「右肩に左足を損傷してるのか。隠してても分かるよ。反応がひどいもんだ。だから、猪突猛進に短気決戦を望まざるを得なかった。そうだろう? でも、あまりにお粗末すぎるよ。それじゃあ、俺に勝てる要素はひとつもないぜ、柳川裕也。あいにく目に見えない戦いにも、さっき慣れたところだよ」
 あくまで力に任せて突進してくる柳川を、耕一は点ではなく線で捉えた。
 そして、その線上に爪を走らせて、鬼の体を引き裂いた。
「……何だと?」
「分かるよ。お前は、鬼であることを捨てた。刹那を後ろから貫いた時、狩猟者の誇りをも捨てた。もう、躊躇いはない。俺とお前は別の生き物だ。せめてもの慈悲を込めて、柳川裕也をこの手に掛ける。お前に怪我が無かったら勝敗は揺らいでたかもな。でも、今は俺の勝ちだ――」
 言い捨てて耕一は踵を返す。
「お前は、そこで乾いて行け……」
 呆気なく柳川裕也は地面に倒れ伏した。

     *

 ひとつの結末――
 神咲刹那は、闇を見ていた。
 幽霊の類を初見したのも闇の中だった。
 霊感のあるなしは当時子供の刹那には分からないし、両親もそれには気付かなかった。自分の見えているものと同じものを姉が見えていたことで世界に不協和音も感じなかった。
 刹那が霊力の高さに関係なく幽霊に取り憑かれることが多くあったのは、目に見える世界に警戒心が無かったせいだろう。刹那の姉も言えなかったのだ。幽霊も妖精も精霊も自分たち以外には見えないものだ、と。それとなく、霊のことを口止めするのが精一杯だった。
 普通ではないということ――それに関して刹那の姉、魅月は自閉症になるほどの迫害を受けたから。魅月はそんな想いを弟にしてほしく無かった。
 悲劇の到来は魅月十四歳、刹那十歳の時だった。
 精霊鎮魂祭、刹那の土地に伝わる物語。
 本来、それは他愛のない何処にでもある祭だった。
 精霊の慰安役として代々村の乙女がその役目を担うと言うことも含めて。
 そして、魅月がその年の慰安役に選ばれた。
 当時の惨劇を刹那はあまり覚えていない。脳が記憶する事を拒否したからだ。
 神咲と呼ばれる退魔師が荒れ狂った精霊を鎮魂した。
 覚えているのはそれだけだった。
 しかし、今ようやく思い出せた。
 それは死に際に目にするという走馬灯だったのかもしれない。
 その精霊鎮魂祭にて精霊に取り憑かれたのは姉ではなく刹那の方だった。
 精霊刹那は慰安役の魅月を蹂躙した。
 神咲に討伐されそうになった精霊刹那を魅月は身を呈して守り死去した。
 刹那はそれを慟哭し我を取り戻した。だが、正気ではなかった。
 姉を殺害したことに対しても。姉が居なくなることに対しても。
 故に、記憶を封印した。忘却することにした。
 それでも罪の意識は夢となって現れて刹那の生をも脅かした。
 魅月はそんな弟を見ていられなかった。
 今際の際、魅月は神咲の霊剣、十六夜と心を交わして自分もそうなることを望んだ。
 霊剣となり弟の側に付いていてやりたいと。
 もし弟が今日の事を思い出しても辛い想いをさせなくていいようにと。
 そして、弟に一言謝りたいと。
「ごめんね、辛い想いをさせて……」
 神咲刹那は、闇を見ていた。
 もう戻らない姉の姿に月を重ねて夜を見ていた。
「俺は、人間だよ」
「…………!」
「お前と同じように弱い人間さ」
 今なら分かる。
 耕一の言葉を聞いた時、もう自分は救われていたのだ、と。
 だから、自分は辛い過去を受け入れて姉の呼び声に耳を傾けることが出来たのだ、と。
 山間の森の中、夜の冷たい風が吹いていた。
 火照った体にとても心地よく大気は流れている。
 千鶴と姉妹たちのこと思い出してみた。
 仲のいい姉妹たち。
「…………」
 ほんの少し幸せな気持ちになれた。

     *

 シエルは口を尖らせた。
 初音を助けるために夜の森を駆けていたところ足元にひとりの少年が空から落ちて来た。
 この満身創痍の少年とは利用し合っていただけの関係しかない。
 無視しようかと思った。
 だが、それでは余計に彼女らに合わせる顔が無いような気がして仕方なく癒す事にした。
「まったく付いてません……」
 魔術の行使は今夜で二度目になる。体の疲労は深刻だった。もう戦う力は残っていそうにない。
「ほんと、付いてません……」
 良い夢でも見ているのか神咲刹那の顔に笑みが零れている。
 シエルは顔を引き攣らせた。物凄くむかつくからだ。
 シエルの手が高々と振り上げられる。
 刹那の頬に紅葉の痣が付くのは時間の問題だった。

     *

 リネットの夢は覚めていた。
 まだ意識は明確ではなかったが、起きた時に近くにいた紅い瞳を持つ獣がその眼で、彼女をじっくりと観察していたことは覚えている。
 その獣はリネットに向かってこう言った。
「ダリエリは貴様のことが好きだった。だから、あの夜に貴様に裏切られたのがショックだった。幽霊となりてヨークと一緒に眠りにつくことを望むほどに。貴様に復讐を誓ったのも事実だろうが、許してやれ。これは、嫉妬だったんだ。貴様を射止めた、次郎衛門に対しての、またはその生まれ変わりに対しての」
 獣は、リネットを覗き込むようにして、顔を近づけてきた。
「しかし、それもすべては消滅したダリエリの想いに過ぎないからな。オレは貴様に興味は無い。オレの好きな奴は別にいる。夢現か、聞こえていないのかは知らんが、リネット――いや、初音よ。分かるな? 今の次郎衛門がリネットではなく、リズエルを見ているように、今の貴様に柳川裕也の触手は動かない。それでも、貴様に手を掛けないのはダリエリへの手向けだよ。想いというのはそういうものだ。しかし、それだけのものに過ぎない。ただ――」
 獣は立ち上がり、リネットの前から姿を消した。
「ただ、ダリエリの感情が、その体を揺さぶった根源が……狩猟ではなく、愛情だったことは貴様だけでも信じてやってくれ」
 その獣こそ、鬼。鬼は慟哭を上げずに、前に突き進む。
 己の存在を唯一実感できる戦いに赴くために。
「…………」
 初音はその時初めて、ダリエリとリネットのことを思って涙を零した。
 そして自分と、耕一のことを思って、涙を止めた。
 夢から覚めたのだ。もう、泣いてはいられない。
 明日、また陽が昇るから。

     *

 梓の側に寄り添って楓は小さく微笑んだ。
 張り詰めていた嫌なものが晴れて行くのを敏感に感じ取っていたからだ。
 昇らない朝日はない。故に、闇夜は永遠ではない。
 気持ちの暗澹たるもそうだろう。
「…………」
 トウコに贈られた腕輪を楓は見つめる。
 トウコ曰く、これは自分たちの正当報酬であると言い残した。
 その腕輪はルーン文字で『忘却』と描かれているらしい。
「鬼の血で困っているようなのでな。これは吸血鬼化した魔術師が考案した方法で、何でも吸血衝動を抑えることは不可能だが、忘却――つまり、吸血衝動を忘れることは可能だとして、生涯の研究をコレに費やしたらしい。何と言う名前の魔術師だったかは、私もあいにく忘却の彼方だが……まあ、そういうものだろう。長く生きる吸血鬼とは異なり、君らの寿命は人間と同等のようだからな。忘却し続けることは難しくはないと思える。それに、ルーン文字の細工は私が施したものだ。効き目は保障するぞ?」
「ありがとうございます。でも……」
 これを使うことはないと楓は思う。
 耕一はもちろん、この先に生まれていく子供たちさえも。見つけていけばいいのだ。柏木の血を認めて、付き合う方法を。前世の魂、エディフェルもきっとそれに協力してくれるに違いない。忘れることは寂しいことだと思うから。
「……いい風ですね」
 窓辺から海を見つめて楓はほのかに笑う。
 もうすぐ夜は白み始める。
 今日もいい天気になりそうだった。

     *

 耕一は千鶴を見つめた。少し怒っているようだ。
 千鶴は耕一を見つめた。ぺろっと舌を出して誤魔化している。
 二人は何か口論をしていた。
 耕一は頭を掻いた。
 千鶴は柔らかく微笑んだ。
 二人の影が不意に重なる。
 真夏の夜の出来事(ゆめ)は幕を閉じようとしている。
 そこに優しい時間が流れていた。

     *

 もうひとつの結末――
 柳川裕也は夜を見ていた。
 あの時、見ていた夜の星々と変わらない月夜を見ていた。
 耕一は去った。
 千鶴も去った。
 残された自分は何をしようというのか。
 体の中で聖書がぱらぱらと開かれて溶け込んで行くのを感じる。
 第七聖典の効果は未だに体を蝕んでいる。
 助かりはしないだろう。
「いや、ようやく輪廻の輪から逃れることが出来るのだ……」
 ダリエリではない自分。
 柏木ではない自分。
 柳川は思う。鬼の衝動に負けない力とは何なのか。耕一を見てそれが分かったような気がする。
 幼少時に両親の愛情を一心に受けること――
 柳川の父親、柏木耕平はお世辞にも良い両親であったとは言い難い。鶴来屋グループのために耕一または千鶴の親もそれらの愛情を受けられなかったと柳川は推測する。故に両者は鬼化の阻止を出来ずに非業の最後を遂げたのではないか。
 しかし耕一は違う。親の愛情に気付いて両親の事を誇りにさえ思っている。四姉妹もそうだろう。
「オレ……は、どうだろうか……」
 柳川は耕一との能力に差がそれほどあったとは考えていない。それなのに、敗北したと言うことは――
「詰まるところ……オレの衝動は嫉妬だったのか、この狂気すらも……」
 今更、母親を捨てた父親を恨みはしまい。不自由なく育てられたことも恩には思うまい。こうなってしまったのは、弱い自分のせいだと知っていたから。これを忘却しては何も始まらないと思うから。
「…………」
 柳川裕也は夜を見ていた。
 もう還らない日々のことに涙して月夜を見ていた。
 そこにある月は大きく美しい真円を描いている。
「みつき……」
 誰かが自分に対して微笑んでくれたような気がした。
 目に見えない何かがそこにある。
 夜風に乗ってどこからか子守唄が聞こえてくる。
 懐かしい調べを風が運んでいる。
 柳川は静かに目を閉じた。
「……ありがとう」
 ほんの少し優しい気持ちになれた。

     *

 夢は終わる。
 夜は明ける。

 そして、朝日が昇る。今日も一日が始まる。










finish of the summers dream