痕<潟tレイン 〜真夏の夜の夢〜   後編


  * 痕を中心としたクロスオーバーSSです。
    好みが分かれると思いますので、閲覧の際にはそれらの点を了承して頂いた上でお願いします。





 夜空は雲に覆われて森の中を照らす月の影も今はなく静謐に時間は流れていく。刻が有限であることを忘却してしまうほど夜に変化は訪れない。闇夜は未だ世界を覆い尽くしていた。が、もし雲に晴れ間が見えて幾億の星々が頭上に現れたとしても、一体どれほどのことであろうかと青年は苦笑を漏らしてしまう。
 痕が体を蝕んだ。紅い血の海を形成して地面に吸収されることもない。この木が桜であったなら、と思わず口元を歪めてしまう。他愛もないことを思うのは死期の近さゆえであろうか。自分も随分とこの星に感化させられたものだ。
 哀れみなど要らなかった。もし同情しようものなら、その者を殺しかねないほど誇り高い生き物であったから。この星において鬼と呼ばれたほどの存在であったから。
 しかしどうしたものか、今どうしてこんな風に地面に倒れているのか思い出せない。
 薄れていく意識。記憶さえも例外ではなく、自分が誰であったのかさえも忘却している。死に行く時に見るという走馬灯さえもそこにはない。
 ただ、憎い。感情として存在していたのはそれくらいであった。
 ――コワシタイ。コロシタイ。
 彼らの生きる意味とは何だったのだろう。
 憎しみとは何なのだろう。
 エルクゥと呼ばれていた狩猟種の末裔? それとも、原点か。そう、彼らの根源とは何なのか。自分を突き動かすこの衝動とは一体何なのだろうか。
 いや、今更だろう。
 もうすぐ命という蝋燭は尽きる。そこに待つのは新しい闇だ。そして永劫の。
 雲が晴れていく。
 終わりいく。
 口惜しいのはあいつ≠フことだった。
 自分を裏切った唯一の存在。
(ああ、何と言ったか……あいつの名を……)
 脳が溶けていくような感覚の中で青年はあいつ≠フことを思い出そうとした。
 この命を閉ざす要因になったものの名を――
 だがしかし、風の音も虫の声もなかったこの場所にひとりの侵入者が割って入る。
 青年の思考はそこで停止した。
「このまま朽ちていくか?」
 晴れた雲の合間から漏れた月の光が僅かに瞼を差して周囲に色を付けていく。
 最初に瞳に映ったのは黒い外套を羽織った男だった。
「ダレだ……キサマ……ハ?」
 青年の問いを返すことなく男は険しく厳しい眼差しをもって、こちらを見据えていた。
 無粋に、告げてくる。
「私の名を知る前に――このまま朽ちていくか。それとも、汝が根源を呼び起こして更なる高みを目指すか否かを、私は問おう」
 その男から吐き出された言葉はどれひとつとっても重たく大気を振動させた。普通の人間なら恐怖を抱くほどに声は威圧感に満ちている。が、それがどれほどのものかと青年はふっと笑みを零した。
「ダレかに……スクイをモトメるくらいなら、オレは死をエラぼう……」
 瞳を凝らすと月が見えた。
 現実には有り得ないだろう紅い月。
 不確かな現実。
 この男は何もかも――自然現象さえも狂わせるのだろうか。
 いや、と青年は男を睨んだ。
 己の瞳が血で赤く染まっているだけなのだ、と。
「――ソウカ」
 外套の男は静かに頷いた。青年には、ソワカ、と聞こえたが。
「契約は破棄された。根源は互いの同意をもとに呼び起こされる。が、しかし――」
 何かしら思うところあってか、男は困惑の眼差しでこちらを見つめた。
「紅赤朱? 先祖還りか? いや……どちらも当て嵌まらぬか。吸血種というわけでもあるまい。ただ……軋間の当主に近いものを感じるが、また異質だな。だからこそ――生き残れたか。汝の力、死徒に勝るとも劣らぬ。だが人間でもなく、紅赤朱でもなく、死徒でもなく、何故に――斯様な力を奮えたか?」
 愚問だった。
 発せられた単語の意味は分からなかったが、青年は「バカめ」と力なく唇を動かした。
 もう、声にはならなかったが。
「オレ……ハ、狩猟者ダ……」
 何の表情の変化もなく外套の男は静かに頷いた。
「汝が衝動は狩猟≠ゥ。なるほど――その誇りの高さ、私は理解した。無双の力、私は理解した。では、再び――私は問おう」
 一拍、開いた。
「汝は私の呼び掛けに応えるか?」
「……何……ダと?」
「死≠望んでいるわけではなかろう? 私は気に入った。汝の憎しみの炎が。思う存分、狩りを楽しもうではないか。汝の――尤も憎き仇を討とうではないか。それこそ――根源に近づく唯一の方法なら、私はそれを観測したい」
 青年は目を閉じた。
 その闇の中で浮かんで来たのは黒い外套の男が言うように、自分の――いや、種の仇だった。アレを狩らないでナニを今まで狩って来たというのか。
 憎い。憎い。どうして、こんなにも胸を締め付けるのか。
 狩ろう。狩ろう。この想いを、鎮めたい。
 ――ようやく、思い出せた。
 この込み上げる憎しみの炎の向こう側にアイツの姿が見てとれる。
 悠久の年月を駆け抜けた、この想い――
(……リネット……)
 もう青年には衝動≠ニやらが抑えられなかった。
 何かに操られたように頷くのみ。
 男の言葉には魔力でも籠もっていたのか憎しみの炎が更に激しく燃え上がる。
「――契約は為された。が、根源への回帰は一度、否定されている。では……アレしかあるまい」
 狂気は今ここより始まった。
 エルクゥとしての誇りをかなぐり捨ててでも求めていたものは何だったのだろうか。男の問いに頷いた時、何かを無くしてしまったように思えるのは何故なのだろうか。抑えられない衝動が自我を上回ってしまったとでもいうのか。
(いや、あいつをこの手で狩れるのなら……エルクゥの誇りさえオレは捨てよう……)
 自分という存在が希薄になっていく。
 そして、消えていく。
 それこそ、永劫の夢ではないか。
「ふむ――汝の問いに、まだ私の方は答えていなかったな」 
 黒い外套の男は言葉した。
「魔術師――荒耶宋漣」
 言霊のように吐き出された名前は重苦しく月夜の空の下に響き渡る。

 ……今より一年前の出来事だった。

     *

「…………」
 千鶴は周囲の様子を冷静に覗っていた。
 木々から木々へと連なっている糸は細くも見えたし太くも見えた。空を見上げても天蓋として存在しているのを察するに、どうやら少年の言葉通り逃げ道はなさそうだった。張り巡らされた糸は確かに蜘蛛の巣を連想させて簡単には突破出来そうにない。ただし鬼の力を使うなら例外になるのだが、無論――今、鬼を見せることなど論外でしかない。
 さて、どうしようか、と千鶴は思う。
 リズエルの名を出されるとは意外だったが相手にしている暇はない。柏木の秘密が漏洩したと確実には言い切れない。誤魔化すか、それとも強引に押し切るか――だが、この結界とやらは何なのか。まさか本当に呪術とやらの類なのか。疑問は尽きない。打つべき次の手が見つからない。不確定要素が多すぎる。
 見るに、少年こと――神咲刹那はこちらに向かって刀を隙なく構えていた。千鶴は剣術に詳しくはなかったが素人目に見ても伝わってくる威圧感は否めない。やはり、かなりの手練れのようだった。誤魔化しは利きそうにない。では、どうするか――
 吐く息にさえ気を払い、千鶴はゆるりと唇を動かした。
「リズエル、か……少しは雨月山の鬼の伝承を知っているみたいね」
「…………仕事、ですから」
 牽制として、まずひとつ。余裕の姿勢は崩さないように、千鶴は続けた。
「仕事? 便利な言葉よね。でも、リズエルという名前くらい雨月山の伝承を調べたら出てくるでしょう? 知っている人ってほとんど皆無だけど、絶対ではないわ。ただ、私がそのことで驚いたとしても、まあ……信じられないことじゃないと思うけど?」
 頭の回転を早めて、諭す。
 昼間は容易に出来たこと、今でもそれは変わらない、と千鶴は考える。
 が、しかし――
「ええ、詳しくは載っていません。そして……アズエル、エディフェル、リネットでしたっけ? これらも文献には記されてはいませんね。ヨークなんてその最たるものでしょう? ただ記憶の底に埋もれるのみです。それに西洋的な名を日本の歴史で記すことはしないですし……物語であるのなら、尚更ですか」
「じゃあ、あなたはどうして、そのことを知っているのかしら?」
 出鱈目でしょう、というニュアンスを含んで、千鶴はにっこりと微笑み掛けた。昼間の時とは状況が異なっているのか、少年は冷静に受け答えしている。瞳に宿っている眼差しは別人のように鋭く、刃物のように冷たい。月夜のせいだろうかと本気で疑いたくなる。狂月夜――ルナティックとでも言うのか、少年の発した言葉の中には、エルクゥにとって決定的なものまでも含まれていたのだから。
(……ほんもの?)
 笑顔を保ってはいたが砂上の楼閣に等しいと自分でも思う。
 千鶴は唇を噛み締めた。今度、口を開いたのは少年の方が先だったが。
「僕ではなく……魅月が知っていたんです」
「…………え?」
 千鶴にしては珍しく繕えないで普通に驚いてしまった。
 それほど予想外な名前を出されたから。
「何を誤魔化そうとしているのか、分かりません――とは言いません。逆でしょう? 僕も同類でしょうから、ね。周りから見たら、同じなんですよ。……魅月のこと覚えていますか?」
「……何が言いたいの?」
「そう、存在は覚えてくれているみたいですね。そのことには、感謝したいくらいです。魅月は、希薄ですから。現世との関わりが薄いんですよ。本当は、すでに存在しないはずの魂ですし……じゃあ、もう一度、千鶴さんに問いますね。魅月の顔、声、髪、眼、背丈……何でもいいですけど、覚えています?」
「え?」
 はっとする。記憶力には自信がある……が、昼間に見かけた女の子のことが千鶴にはまったく思い出せなかった。ほんの少しの面影も脳裏には残されてはいない。
 さすがに鶴来屋に迎えた客全員を記憶できるとは言わないが、滞在期間中は「こんなお客さんもいたわね」くらいには覚えている。朧げにしても印象というのは残るもの。気弱そう、だとか、可愛らしい、とか、目がくりくりしていた、だとか。付け加えるなら、初音のお気に入りということも合わせて記憶していたのだ。千鶴はそうそう忘れることはないと断言できる。だと言うのに、どうしたことか、本当に記憶にない。これは再び道端で会ったとしても気付かないで通り過ぎてしまう、ということではないのか。
 在るのは、女の子と言うことと、名前だけ……。
(いえ、もしかして、そう認識できているのは、初音がいたから? 初音がいなかったら、存在さえも無かった≠ニいうことになる?)
 今、感じていることを千鶴はそのまま、漏れ出すように唇に乗せていた。
「……幽霊?」
 少年は、静かに首を振った。
「精霊、ですよ」
 そして、続ける。
「覚えていないわけじゃないですよ。認識していないだけです。見えていると錯覚して、そこにいるのだと勘違いして、本質を見ていない。こんなの普通じゃない」
 ただ、あなたの妹さんには本当の魅月が見えているかもしれませんね、と少年は笑っているような、困っているような――どちらとも取れる、複雑そうな笑みを浮かべてみせた。
「じゃあ、最初から――覚えるどころか、見えていない? まさか――」
 千鶴は魔術や呪術といった類のものを信じたことはない。
 人知の及ばない力を自分が持っていたとしても、これはエルクゥという種族の持つ可能性であったから。生まれてすぐに特別であったからこそ、物語の創造性は現実において有り得ないことだと判断していた。
 何よりエルクゥはこの星の規格外である。
 世の中は平凡でしかない。夢見ることなく今を見る。
 千鶴が心理学を専攻していたのも、他の学生がそうするように――人の心の動きを知ろうとしたから……というよりは、エルクゥの湧き上がる衝動を抑えるのに強靭なココロを探していたからだ。
 だが今は、自分の築き上げてきた牙城が脆くも崩壊しようとしている。
「降山から出なかったのが正解だったのかも知れませんね……高野にも神咲にも知られようなく外界から遮断されていて、不備があったとしても身内の中で片を付ける……」
 少年は、詰まらなそうに呟いた。
「……降山猟奇殺人のような事件がなければ隠れ通せていたでしょうに」
 千鶴は、ごくっと息を呑んだ。
 動揺しているつもりは、まったくなかった。少なくても今までは。だが、永遠に変わらない約束事であるかのように、少年の刀の刃先は千鶴に向けられている。
 静まり返る闇夜の中の、森の中、少年はくすっと微笑んだ。ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
「さて、時間もないことですし……千鶴さんもそうでしょう? 早く片を付けましょうよ? じゃないとオレは――」
僕≠ゥら俺≠ヨ。
 口調を変えると、目つきも変わるのか――細かい変化だったが見逃さずに、千鶴は少年の一言一句を聞き取る。
「夜が明けるまでに終わらせられなくなる。鬼は千鶴さんだけではないですからね」
「……どういうこと?」
「そこまで言わせる気ですか? まあ、いいでしょう……アズエル、エディフェル、リネット――ほら、まだ三人も今夜中に討伐するんですよ? オレの身にもなってください」
「…………」
 聞くべきかどうかを思案することは馬鹿げていた。だが、敢えて訊く。誰であっても禁忌というものは存在するもの。千鶴にとっての禁忌は、もちろん――
「……それって、誰のことかしら?」
「何を言ってるんですか……千鶴さんの血縁のものですよ。鬼は、ひとり残らず討ち取りますよ、例え……この命に代えたとしても……」
「そうですか……」
 それを聞いても、千鶴に怒りといった類のものは生まれて来なかった。そんなものでは生ぬるい。今まで繕っていた笑顔の分だけ純粋に、今度は笑うことが出来たから。
「……え?」
 少年は眼を丸くした。
 風が吹いたと思ったら唇が切れて血が滴り落ちていた。いや、風で切ったわけではないと少年は分かっていたが、何という早業か。
「あなた……神咲刹那君だっけ? もう……言い残すことはないわよね? 充分に吠えてくれたんだから……」
 月明かりに照らされて、とても穏やかに千鶴は微笑んでいた。紅く光る双眸は鬼であることの証明。すでに隠す必要はなくなっているのだろう、惜しげもなくそれを見せる。
 ここで、少年は終わりを迎えるのだから。
「あなたを、殺します」
 冷気――
 そして、戦いの予感。
 死への道標。

     *

「――うん?」
 闇の中に怪しい人影を見つけて声を上げたのは、パトロール中の警察官だった。
 そいつの見た目は中肉中背で、どこにでもいそうな青年だったが、ぼろぼろの服装をして足元も覚束なければ、否応なく目に留まるというもの。
「酔っ払いか?」
 腹の出た中年の警官が目を細めて影を見る。同僚の警官も倣ってそうする。ひとりは巡査長。もうひとりは巡査のようだ。襟元の星がそれを告げている。よくあるパトロールの組み合わせだった。
「何だか……薬でもキメテそうですね」
「ああ、在り得るな」
 職務質問するか、と言って中年の警察官は相手の方に近づいた。
 もちろん最近は何かと物騒であったし、隣町では昨年のこととは言え、未解決の猟奇殺人事件も起こっている。当然、彼らに油断しているつもりはなかった。ただし、獣の狩場にいて警戒も何もあったものでもなかったが……。
「君、ちょっと、いいか――」
 言葉を最後まで言い終えることなく二人の警察官は瞬時に沈黙した。悲鳴すら上げる暇もないくらいの神業。敢えて言うなら、芸術の域であろう。だが、殺した相手にしてみれば通り道にあった石ころを蹴る感覚しかなかった。
「…………」
 青年の向かう先はホテルだった。あいつ≠フ存在を感じ取れる場所。最高クラスの獲物がそこに在る。
 犬歯というには余りにも獣――肉食獣にも似た牙を唇からはみ出しながら、青年は月に向かって声もなく慟哭した。
(……あれって、柳川さんじゃないか?)
 薄れいく意識の中で巡査の警察官は、若くして昇進した刑事のことを思い出していた。
 しかし皮肉なことに、彼はこの後、二階級特進することになる。

     *

「…………」
 楓は話すこともなく二人の後を付いていく。
 前にいるのは姉の梓とシエルと名乗った女性だった。シエルは見た目麗しく、年の方は自分と同じくらいに見えたが、どうにも確信が持てないでいた。もちろん、若作りということでもないのだろうが。途中、何度か話し掛けられたのだが、姉の梓が不機嫌そうに話を一言で終わらせるので、シエルのことをなかなか掴めない。まあ、それでも笑顔を絶やさないところを見ると、大人だとは思う。
 ……とは言っても、姉の胸中も楓は分かっていた。初音の無事を確認できるまで警戒を解くことはしないのだろう。楓が、梓にこの地の不浄性を語ったばかりなのだから。本当は人見知りしやすい自分とは違って、姉は誰からも慕われる性格というか、姉御肌という気質を持っている。それに、ざっくばらんな性格は同姓からも受けがよく誰とでも仲良くできるのだし、もちろんシエルとも打ち解けられるはずなのだが、初音のことを思って油断はなしということだろう。だったら、楓も気安くシエルと話すことはできない。
「はい、こちらですよ」
 曲がり角でシエルが道を示してくれる。ホテルの間取りはほとんど同じで見分けを付けるのは困難だった。部屋番号だけが己の位置を知る唯一の方法なのかもしれない。まるで迷路のようだ。窓から外を覗いただけでは自分が何階にいるかも分からない。楓はそのことに不安を覚え掛けたが、すぐに気持ちを切り替えた。初音を思う気持ちは梓にも負けていないから。今、心配なのは初音の方だから。
「まあ、あんまり気を張られても困るんですけどね……」
「す、すみません」
 シエルの言葉に思わず謝ってしまう。彼女の厚意で初音を預かって貰っているのを自覚しているから。
 こういう心の矛盾は苦手だった。とてもじゃないが千鶴のように繕えないし、梓のように頑なにもなれない。初音のように、無邪気にもか。
「あ、いえ……こちらの方こそ、申し訳ありません。ですけど……」
「御託はいいよ。初音のところに案内してくれたらいい」
「……ふう、にべもないですね」
 シエルは肩を撫で下ろす。楓は思わずもう一度、頭を下げたくなった。
「でもまあ、あの小憎たらしい吸血姫よりはマシですけど……」
「え、あの……」
「ああ、こちらのことです。気にしないでください」
 誤魔化すようにシエルは笑う。と、横目でちらりと楓の方を見て頷いて、なにが可笑しいのかひとり苦笑し、やがて立ち止まった。
「あははっ、何だかんだ言っているうちに、着いたみたいですね」
「……だったら、早く開けてくれないか」
「はいはい、せっかちさんですね」
 ここに来て更に警戒を強めたのか梓の口調は厳しいものになっていた。シエルはやれやれといった感じで開錠を済ます。
 ドアが角度をつけてゆっくりと開いていった。
「……初音?」
 声を上げたのは楓だった。部屋の中は未だ暗く月明かりだけが頼りなので、ベッドに横たわっている少女の存在を初音だと視認するのは難しい。
 自然、声音は低くなる。
「……よかったです」
 が、楓はほっと息を吐いた。分かるのだ、彼女には。姉妹ゆえに、姉ゆえに。楓の言葉を受け取って、梓もまた胸を撫で下ろす。
「まったく心配かけやがって」
 ぶっきらぼうな言い方とは裏腹に梓の目元は優しさで溢れていた。ここでようやく梓の張り詰めていた緊迫感も解けていったのか、シエルに真正面から向き直る。
「ありがとう、シエル」
「え? ええ、どういたしまして」
 何の毒気もなく自然とシエルに対して礼を述べる梓。彼女から快く思われていないことをシエルは当に悟っていたのか、感謝の言葉を聞かされたことに逆に目を丸くしている。だが、すぐに思い直すことだろう。何て気持ちのいい人なんだろう、と。
 シエルはくすっと笑みを漏らした。そのことで、自然、楓も笑った。それを受けて、梓は気まずそうに頬を掻き、俯きかあっと赤くなった顔を見られないように、
「じゃあ、寝てるみたいだし、部屋まで担いで行ってやるかーっ!」
 わざと大きな声を出して言う。それは梓なりの照れ隠しと言ったところか。シエルの目を気にしていたので、どうにも不自然な口調になってはいたが、それも梓らしいの一言に尽きるだろう。
(……よかった)
 二人が笑っているのを見て楓は嬉しくなった。
 誇れる姉だと思う。本当に。
「――――?」
 だが、途端に肌寒くなり嫌な空気が身を包み込んだ。気配か、場の雰囲気か、予感だったのか、今となっては知る由もないが……その何か≠ェ警鐘を鳴らして止まらなかった。
「姉さん、初音を――早く!」
 それが、楓の叫び声に繋がった。

     *

 森の中、風が吹いていた。
 わたしは待っていた。ずっと、ずっと待っていた。
 あなたのことを、信じていたから。
 もう、争わないでほしい。
 姉さんが、わたしにそれを教えてくれた。
 戦うことの、無意味さを――
 月の夜、待ち人の到来。
 そして、誰かの声。
 宴の始まり。狂気の始まり。
 ああ、そうだろう。
 彼は、姉さんを本当に、愛していたのだから。
 わたし達を、憎むのは当然のことだった。
 人と鬼との、虚しい会談。
 月は、尚、明るい。
 跳ねた血を受けるように、赤く見えた。

     *

「お、おう!」
 梓は一瞬たじろいだが、楓の言葉に気迫の一声を返して駆ようとする。
 こういう時の楓の言葉は信じるに足りた。が、すでに遅かったのか、カーテンの向こう側にはすでに得体の知れない何かが存在している。月明かりを遮って大きく影をなしたそれは窓ガラスを粉砕して部屋に侵入してきた。
「なんて――こと! 封じていたんですよ、この空間!」
「退いてろよ!」
 シエルを押しのけるように梓が前に出る。いや、庇うようにか。眼前に迫り来る存在を梓は嫌になるくらい知っていたからだ。
「――鬼!」
 そして、見覚えのある顔でもあった。
「てめー生きてたのか! 柳川!」
 月の光を反射して皮肉にも硝子の破片が美しく、柳川裕也を照らし出す。
 その姿は、あの若者だった柳川裕也の面影もなく、眼鏡は片レンズで割れているし、服装も路上生活者そのもので、髭もだらしなく伸びてはいるが、見違いようもなかった。
 鬼の眼。血のように赤い。猛禽類の、捕食側の瞳。
「くくくっ……」
 薄ら笑いを浮かべて初音に手を伸ばそうとする柳川。させまいと梓は鬼を解放して柳川に向かって行った。全精力を右手に込めて柳川に一撃を入れる。が、砕けたのは柳川の顔面を殴りつけた梓の手の方だった。
「――くそっ!」
 残った片手を返す刃の如く下から突き上げる。
「…………」
 しかし、それすら柳川には蚊が刺すほどにも利いた様子は見られない。
 狂ったような眼差しで、初音の首を締め上げる。
「リ……ネット」
「てめー、初音からその薄汚ねー手を放しやがれ!」
「リネット、リネット、リネット……」
 柳川には見えていないのか梓のことなど歯牙にも掛けず、にたり、と口の端を歪めて何度も何度も、初音の前世の名を呼び掛けた。
「リネット……リネット……リネットリネットリネットリネットリネットリネットリネットリネットリネットリネット――リネット!」
「放しなさい!」
 更に深く初音の喉に爪が喰い込もうとした時、楓が吠えた。
 ぴくっと反応し柳川が、楓を見やる。
「もう一度、言います……放しなさい、さもなくば――」
「…………」
 またも柳川は、にたり、と笑った。
 片腕で初音を掴み上げると楓に向かって口汚く言葉を吐き出した。
「……くく、エディフェルか」
 楓は柳川のことを知らなかったし、梓は前世の記憶を持ち合わせていなかった。しかし時の悪戯なのか鬼の目を見て、そこに知った面影があることに楓はおろか梓も気づいてしまう。
 自分を一番だと信じて疑わない、エルクゥの中でも尤も力に秀でた長の名を――
「あなた……もしかして、ダリエリ?」
「ダリエリなのか……え、なぜ……あたしはその名を知っている……?」
「……オレは」
 月明かりの中、人の姿をしていた柳川が、異形の者への進化を遂げる。
 もう人間とは言えないそれは、熊より一回りも二回りも大きくて、爪は虎よりも強靭であり、赤く光る双眸は野生の狼よりも正確に獲物を捕らえる――そう、それこそまさに――人知を超えた存在、鬼だった。
「――狩猟者だ!」
「…………!」
 鬼が動いた。
 巨大な体を軽やかに跳躍させて、大きく開いた口から牙を覗かせながら、楓の喉元に喰らい付こうとする。楓は、呻いた。間合いを計算するのも馬鹿げていたからだ。自分よりずっと早く動けるのなら、どうやっても追い付かれてしまうではないか。
(――殺られる?)
 楓は、実のところ千鶴や耕一に対して力及ばないと感じたことはない。降山猟奇殺人以降、逆に力は増してきている。いや、それとも戻ってきていると言った方が正しいか。今の体にエディフェルの強さが備わって来ていた。だが、それでも太刀打ち出来ないと思わされるほど、鬼の力は強い――動かなければ確実に殺られるが、動けなかった。
 攻撃は、凄まじく鋭い。
「楓ー!」
 声は容易に音速に達するので楓の耳に届く。でも、それ以上はどうすればいいかなど、梓には分からなかった。
 ダリエリの名のことなど、関係ない。記憶の乱れも、困惑もそうだ。
 ただ、妹が殺される様を見ていたくはなかった。それが皮肉にも、無意識に梓の中のアズエルを呼び覚ました。
「あたしの鬼は、まだ終わってない!」
 だんっ! その衝撃音とともに、梓の足元の床が沈んだ。硬かったフローリングが崩れたのだ。信じられないほどの脚力が生まれた証拠となって、梓もまた跳躍した。
「ダリエリ――――――――!」
 気合の一声。梓は砕けた利き腕を庇いもせずに放って、鬼の後頭部を一撃した。
 さすがに、この一撃は堪えたのか鬼は壁にまで吹き飛んだ。初音を掴んでいた手も弱まり、そのまま少女を床に落とす。どうだ、と言わんばかりに梓は強気に拳を振り上げて見せた。
 しかし、その表情はすぐにも凍りつくことになる。
「アズエルも、目覚めたか……しかし、貴様は前世においての絆が薄いようだな。力、戻り切っていないと見える……」
「……な、なんて」
 そこには、鬼がいた。
 昔話に出てくるような鬼そのままに、無敵であり、横暴であり、常識を超越してそこに君臨している。討ち勝てる気などまったくしない。それに、奴の見せる犬歯はどうだ。長く鋭く、獲物を捕食するに相応しい牙ではないか。
(喰われるのか……)
 ごくっと息を呑んだ。捕食する肉食動物を連想してしまい、その行為が梓を怒りよりも恐怖に駆らせてしまった。途端に、痛みが迸って右手を庇うように、床に膝をついた。
 アドレナリンが尽きてしまった。襲い来る痛みは、想像していたよりもきつい。まだ、やれるか。梓は冷静にそのことだけを思案した。
 楓、そして初音。ついでに言えば、シエルもか。何としてもこの三人だけは助ける。
(この命に代えても!)
 梓がそう決意した時、その後方から投剣が飛んできて柳川に突き刺さる。
 その数、八本。命中は、二本。鬼の右肩と、左足。まだ、致命傷ではないのか、鬼は微かに微笑んで、梓の後方に目をやった。それに倣って、梓も振り向く。
 そこにいたのは、黒衣の少女。
「さあ、狩猟者とやら――本場の狩りを見せてあげますよ」
 その少女は、口調こそおどけていたが瞳は真剣そのものに、鬼を睨み付けていた。その黒衣がシエルだということに気付いて、梓は驚きを隠せなかった。
 あまりにも表情なく鉄面皮で、しかも冷酷そのもの――殺気を隠そうともせず、彼女がそこに佇んでいたからだ。
「シエル……なのか?」
 珍しくか細い声、梓の問いからは自信の無さが覗えた。本音ではシエルであってほしくなかった。そんな顔をする奴には思えなかったから、悔しささえ感じる。
 黒衣の少女は振り向きもせず、答えた。
「埋葬機関が、其の七――<弓>のシエル!」
 そして、その眼差しを真っ直ぐに、鬼に向かって黒衣は駆け出した。

      *

 彼は、強かった。
 思いの外――という意味ではなく、千鶴が驚愕するほどに、その強さを遺憾なく発揮した。満月の光りを受けた刃が、千鶴の体を斬り刻む。鬼化した千鶴の動きを捉えるのは、常人では不可能。銃火器など狙いを定めているうちに、狩られてしまう。そのはずなのに、千鶴の鬼爪は神咲刹那を捉えるどころか、擦りもせずに空を切るのみ。相手の得物は刀。それは過去、唯一、彼女の体を傷つけた人の武器。次郎衛門と同じ。それこそ人の力の象徴だったのか、今ではたかが刀だと侮れなかった。戦慄してしまう。
 千鶴は、また動いた。何度も、何度も、何度も、人間に向かって突進を繰り返した。無意味ではない。認めてはならない。次郎衛門は、あの時、鬼の血を受け入れていた。今とは状況が異なる。ただの人間相手に力が通用しないなんてことは、あってはならない事態ではないか。
 そして神咲刹那は、千鶴の想いとは裏腹にそれを幾度となく受け流してみせた。
 流水の動き。刹那の足が円を描く。最小の動作で千鶴の攻撃を往なしていた。尋常ならざる千鶴の速度をすでに見切っている。その面は、冷徹そのもの。感情の色は灯していない。そんなもの戦いには邪魔だというように。
「オレは、貴女のように速く動くことも、跳ねることも出来ない……」
 まだ言葉を交わす余裕があるのか、刹那は続けた。
「が、しかし――訓練されていない、人の動きなど見切るのは容易い。そう、貴女の持っているオレへの疑問など、この程度に過ぎません。百獣の王ライオンは、最強の力を持って生まれてきます。故に、鍛錬の必要なし。学習など、それこそ獣程度。あとは本能、習性ですか? だとして、人に敵うはずもない。人は弱いです。だから、進化した。あなたほどの力を持っているとしたら、武術などお笑い種でしょう? でも実際、オレは貴女を凌駕している。それが、すべて。神に届くかも知れない唯一の生物、人間です」
 千鶴は、心を静めようとした。
 刹那の言葉、それは長ったらしい挑発に過ぎない。単なる嫌味だ。自分はエルクゥ。獣などと同程度の評価をするなど、それこそお笑い種だ。よし、動揺はもうない。まずは乱れた呼吸を戻すことに努める。そして、静かに目を伏せて――開ける。
 戦局だけを、千鶴は冷静に見つめることにした。
 相手の力は強かったが、まったく手も足もでないというわけでもない。通用しないのは、自分の中に傲慢があるからだろう。人間風情に全力を出し戦うことは、エルクゥの沽券に関わる。赤子に剥きになる大人が居ないのと同様。だが、人間という範疇を神咲刹那が越えているのには理由がある、と仮定すれば自分を納得させることはできた。人は人。鬼は鬼。その差を埋めているものが必ずあるはずだ。
 千鶴の目に付いたのは、刹那の持っている刀だった。
「それ……ただの刀というわけではないのでしょう?」
「ええ、霊剣ですよ」
 刹那がその問いに答えるかどうかというのは一種の賭けだったが、即答で返される。千鶴は馬鹿にされた子供のように目を細め、神咲刹那を睨み付けた。
「……素直ね、貴方。意外だったわ」
「別に、知ったところでどうしようもないですから」
 でもね、と千鶴は薄く笑う。
 人知を超えた人間の存在よりも霊剣の有無の方が納得できるものだ。
 理由の発生。今まで全力を出せなかったのは、相手を弱者と見ていたからだ。最早、人間だと侮ることはしない。神咲刹那を敵と見なす。エルクゥの脅威として取り除く。千鶴の眼が、よりいっそう赤く光り輝いた。
「本気、で行くわよ」
「…………」
 その時、神咲刹那は嬉しそうに笑った。
 それは、初めて森の中で月を眺めていた時の、稚児のように純粋な笑顔だった。
 今まで――昼から夜にかけて彼の笑みは幾度と無く見てきたのに、千鶴には何故か目の前にいる少年の笑顔を、初めて見たような気持ちになった。
 神咲刹那は、その少年のような笑顔のまま、
「ありがとう……」
 と、零した。
 気後れはしなかったと思う。
 どうして感謝の言葉を投げ掛けられるのかなんて分かるはずもなかったが、奇妙な薄気味悪さだけは強く感じる。だが、ここで臆病風に流されるなんて論外だ。仕留めなければ妹達に危害が及ぶことになる。
 そして、人はこういう時、真実――鬼になる。
「悪く思わないで頂戴ね」
 千鶴は、自分の中に在る鬼の力を極限にまで高めた。
 ――殺ス為ニ殺ス。
 エルクゥは欲望の赴くままそうしてきた。
 今更、難しいことでもない。
 ただ、スマートに勝ちを得ようとは思わない。殺すなら殺される覚悟があって然るべきなのだから。しかし、傷つき倒れたとしても、最愛のものは護る。護り抜く――
 これこそ、柏木にある鬼という力の存在意義ではないか。
 迷いはもう無い、千鶴は駆けた。
「…………」
 その牙を避けようともせず、刹那は刀を構えた。
 虚ろで、純粋な、稚児の笑みのまま、彼は薄く唇を開く。
「神咲一灯流裏$^威――月影斬!」
 漆黒の風景に眩い光が生まれ、千鶴の姿を埋め尽くしていった。

     *

 あなたは、泣いていた。
 殺しつくしも、殺し足りないのか、月に嘆いていた。
 あなたの瞳に、わたしの顔が映る。
 美しい鮮血の化粧を、否応無く施された醜い顔がそこにある。
 そう、許されるなら、わたしを殺してほしい。
 この屍の中に埋もれたい。
 すべて死んだ。そして、終わった。
 ならば、わたしが生きていても仕方の無いことだ。
 それなのに、あなたの慟哭は続いている。
 早く、わたしを殺してほしいのに……。
 姉さん達のところに、その手で送ってほしいのに……。
 あなたの薄汚れた手によって、運ばれたい。
 だから、あなたを抱き締める。
 あなたの耳元で、わたしは静かに呟き掛ける。

「あなたのこと、愛しています。だから、わたしを――」

 そして、狂月夜は終わりを迎える。

     *

 吸血鬼または吸血種とは、同じ生物の血を吸う者の総称であった。が、シエルはここにひとつの解答を出す。目の前にいる鬼は、本当の意味で――恐らく書いて字の如く血ヲ吸ウ鬼≠ナはないだろうか。
 大陸より来たりし伝承は、この島国において鬼という概念を作り出した。鬼はもともと幽霊のような得体の知れないものの総称に過ぎない。ただし概念は、思想化されると存在するに至ってしまう。そこに、鬼が生まれた。人間が恐怖したそのままの力を持って。
 とはいえ、鬼にこれほどの脅威があるとはどう考えても計算外でしかなかった。自分にとっても教会にとっても。あるいは埋葬機関にとってさえも。
(まあ、例外は何にでもあるものですけどね……)
 目前に鬼を置いてシエルは嘆息を漏らす。
 紅赤朱ではなく、先祖還りでもなく、死徒として卓抜とした能力を秘めた、島国の鬼。今宵……仮定として、取り逃がすようなことがあれば、空席となっている死徒二十七祖に数えられる可能性があるほどの、吸血鬼。
(いえ。まだ、死徒として未熟なのに……この力は脅威ですね、ほんと)
 さきほど垣間見た柏木姉妹の力を思い出し、眼は更に鋭く尖る。
(柏木――まさか、本当に人間∴ネ外との混血だったとは。しかも雑種ではなくサラブレッドの部類に入るほど優秀なんて思いもしませんでした。ついでに言えば、その力の恩恵を血として目の前の鬼が受け継いでいることも、ですね)
 さてさて、と思案する。
 柏木のことは優先事項ではないので不問にするのが道理だろう。教会にも埋葬機関にも報告する義理はない。今回の事件は、私的な要素が大きい。何故なら、目の前の鬼――ダリエリを噛んだ親の吸血鬼とは、ミハイル・ロア・バルダムヨォンなのだから。
 ある魔術師と何らかの契約をして、ロアはダリエリを吸血鬼にしたらしいが、最早、アカシャの蛇とも称された奴は死に絶えている。シエルは、その残党を狩っていたのだが、どうにも、その中に意思を持った吸血鬼が生まれつつあるのを感じ取った。それは、ロアとの関係深かったシエルならではの感覚であろう。
 そして、訪れた海辺の街の様相。
 直感した、とは言わない。半信半疑だった感は否めない。ただ誤算と言えば、僅か一年という歳月に過ぎないのに、予想外の力を目の前の吸血鬼が有していたことくらいなのだが……。
(……それが、決定的だったとは……)
 今、持てる最大の力を有して戦いに望むが当然だとシエルは考える。
 アカシャの蛇――確かに本体、転生無限者ミハイル・ロア・バルダムヨォンは直死の魔眼を持つものが殺し切った。だがしかし、目の前の鬼ダリエリはその血を得た吸血鬼。第七聖典を用いて滅ぼすべきなのだろう。
 二度と転生を繰り返さないように――
「……行きます!」
 ホテルの一室をシエルは駆ける。狭い室内だ、ひと呼吸のうちに戦いの決着は付くだろうことは想像に難くは無かった。
 ダリエリの瞳は赤い光を持ってシエルを見ている。だが、黒鍵が刺さった腕を簡単に動かせはしまい。影縫式典を黒鍵の付属効果として用いているからだ。生憎、火葬式典は部屋の中や森の中で使うことは躊躇われるが、他の付属魔術をロアの知識から引き出している。
 シエルは薄く微笑して黒衣を脱ぎ捨てた。その服の下から大銃口の武器が現れる。
「はああぁぁぁ――!」
 無抵抗な鬼に向かって銃口――第七聖典の角が突き刺ささった。
 その瞬間の出来事だった。
「……え?」
 無意識のうちに、シエルは退いていた。反射神経よりも早く戦いの勘がそう行動させる。
 目に付いたのは浅黒い鬼の手。引き裂かれたのは、己の腹部。掠めた程度の衝撃だったが、それは決して軽いものではなかった。
 無意識に、シエルは腹に手をやった。
「血?」
 まさかとは思ったが、事実なのだろう。
(……相打ち狙い?)
 信じられなかった。
 鬼は動けないように封じていた。だからと言うのか、鬼は自らの右肩を捨ててシエルに一撃を入れたらしい。暗がりでも、鬼の手が千切れかかっているのが、良く分かる。足もそうだ。ほとんど左足は原形を留めていなかった。右手と左足を犠牲にしての一撃。
「何て――精神力……」
 しかしシエルとてダリエリの体に第七聖典を打ち込むことには成功している。ダリエリは賭けに負けたのだ。すぐにも鬼の体は崩壊して灰に還るだろう。
 前世の魂をも消滅させる第七聖典の効果によって戦いの決着は付いた。
 はずだった――
「おい、うそだろ……?」
 惚けた顔をして梓はダリエリを見ている。
 シエルも胸中、信じられない思いでダリエリを見ていた。自分の顔は多分凍り付いていると判断できる。
「くくくく……」
 不気味なほどに口の端を曲げて鬼は笑っていた。
 穿った胸の穴を見て愉快そうに。
 堪え切れない衝動を慟哭と言う形で満たすように。
「くくくはははははああああぁぁあぁああああーーーーーー!」
 狂おしいほどの咆哮を上げる。
「……なにあれ?」
 楓も呆気に取られたのかぽつりと漏らした。
 手がもげて、足が崩れて、体に穴を開けてまでも、鬼は狂気を演じて笑っている。
 それは、どれほど不気味な光景であろうか。三流のホラーも良いところの描写なのに現実で目の当たりにすると、恐怖に体を蝕まれてしまう。匂いだ。この生臭い血が鼻に付く。これこそが、現実だと脳を刺激する。
「だって、私はあれと……あれと、同じ血を……」
 楓はその場に膝を付いた。よほどショックだったのだろう、あれと同じ血が自分の体の中に流れていると言う事実が。鬼とは、どういう意味を持つのかを改めて突きつけられたように、当惑を隠し切れないでいる。
 鬼とは即ち――人が恐怖するその対象。
 だから、シエルは言った。
「あれは――吸血鬼です!」
 もう貴女とは違う存在だと言うために口を開く。が、その後に出てきたのは吐血だった。はらわたを抉られた代償か。自分でも意識して無かったが、立っているのもやっとの状態だったらしい。
「おい、シエル!」
 シエルの体を支えようと梓が手を伸ばしてくれる。お蔭で倒れなくて済んだが、自分のだらしなさを見られたようで、シエルは口惜しくなり唇を噛み締めた。
 もう矛盾した存在ではないのだ自分は……。殺されれば死ぬ。傷も癒さなくてはならない。生きていく人間には当然のことだった。しかし今になって、このやわな体を悔やむことになるとは思いもしなかった。
(防御にも気を付けないといけませんね、これからは……)
 しかし第七聖典の効力についての疑問もある。
 ダリエリの体に打ち込まれた聖典は、やつの存在理由を消してしまうはずなのに。どうして、何も起こらないのか。鬼は、どうして無事でいられるのか。
 シエルは舌打ちした。まだ、倒れられない。梓の手を払って、自分の力で床を踏みしめる。
 そこで、鬼が嘲るように口を開いた。
「第七聖典か……くくく、いや確かに効果はあったよ」
 言って、鬼は動いた。シエルの眼でさえ捉えるのがやっとの速度で移動する。しかしその巨躯も関係ないのか、風も起きなかった。あまりに静か過ぎる凶行。鬼の行動目的は、床に倒れていた少女にあったらしく、それを拾い上げる。
「……初音?」
 誰もがある種、冗談のような場の雰囲気に呑まれて動けなかった。
「ダリエリの魂の消滅までだ」
「…………え?」
「オレの死はそこまでしか至らなかった、と説明している」
「この! 初音を放しやがれっ!」
 梓は怒りに任せて突進するが、鬼は人差し指でその拳を止めた。
「……退いてろ」
 鬼はそのまま梓の拳に中指を弾く。単なる指先の力で梓は壁際にまで吹っ飛ばされた。それはどう贔屓目に見ても、今までダリエリと呼ばれていた鬼以上に力を強く感じさせる。
「つまりだ……」
 梓のことなど蚊を払った感覚しかないのか、鬼は続けた。
「このオレ、柳川裕也を死滅させるには至らなかった……ということだ」
 鬼は、すでに三人に興味は失せていたのだろう。柳川は初音を抱き上げると十数階はあろう高さから窓を破って下界に飛び降りた。
 腹部の傷が酷かったのか、シエルはその柳川裕也の行動を制止することも出来ずに、ただ見送るだけに終わってしまった。いや、仮に動けたとしても満身創痍の自分に何が出来たのだろうか。
(……見逃してもらった?)
 何と言う屈辱だろう。甘く見ていたとは最早言い訳にはならない。認めよう。柳川裕也は卓抜した死徒なのだ。ただ今は、重荷が圧し掛かる。悔しかった。自分を信じて初音は身を預けてくれたのに護れないなんて。
「そ、そんな……」
 楓の声すらもう初音には届かない。
 月夜の下、断言出来ることがあるなら、それはひとつだけ――今、この時を持って吸血鬼*川裕也は、完全に覚醒した。










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