痕<潟tレイン 〜真夏の夜の夢〜   中編


  * 痕を中心としたクロスオーバーSSです。
    好みが分かれると思いますので、閲覧の際にはそれらの点を了承して頂いた上でお願いします。





 時間は止まらない。いつも流れいくものだったから。同じ風景は二度も見ることはできない。いつだって風は吹いているのだから。
 ふと空を見上げたら、茜色の残光が目の奥を貫いた。
 悲しい色合。胸に圧し掛かる。
(きっと、分かってはいるんだろうな……)
 押しては引いていく波のように想いもまた留まってはいられない。どんなに触れ合っていても、その存在が雲よりも遠くに感じてしまうのは、どうしてだろうか。
 考えることは無限にできた。出来たはずだった――少なくても一年前までは。
 しかし梓はその事実を認めたくなかった。砂浜に落ちる影は自分自身のものでしかなく、梓が振り返った先に姉と従兄弟のシルエットが見えたとしても、やはり理解してしまうわけにはいかない。
(仲のよろしいことで……)
 茜色に染まる砂浜を梓は意味もなく歩き出していた。本当になんとなく。目的もなく歩を進めるのは思った以上に労力を必要として、足元が覚束なかった。だからといって、それに文句も言えなかったが、吐き出してしまうのは、やはり溜息に他ならない。
 閑散とした海岸。賑やかだった風景はすでに思い出の中に消えていた。確かに合ったはずの光景が手に届かない。本当は分かっていた。そうだ。分かっていたから空虚なのだ。
 もう想いは届かない――
 海を見つめることもしなくはない。水面に反射するのは空の色。眩しい光沢を放つのは暮れていく陽の光。すべてが紅く染まっていく。
 赤い。夕焼けが赤い。海も赤い。空も赤い。視界が赤い。血のように赤い。もちろん自分も例外なく――世界は赤い。
 手の平をかざして光を遮ろうとする梓だったが、胸にこみ上げてきて熱いものが、無理矢理に視界を閉じさせる。ぎゅっと目を瞑って祈ろう。瞳から零れるものがありませんように。明日も笑顔でいれますように。
(耕一……)
 ただ、聞こえてくるのは波の音。ゆったりと寄せては引いて、風も切っていく。梓の栗色の髪も梳かれていく。そこにある声音と一緒に――
「梓さんでしたっけ?」
 目を閉じていたのは本当に一瞬のことだった。周りだって見晴らしのいい浜辺だったので、梓は余計に驚きを隠せなかった。しかし事実は事実で――何を見落としていたのか、こちらに向かって微笑みかけている少年に、梓は声を掛けられるまで気づくことが出来なかった。
 どうしてか、と梓は自問した。静かに左右を見回して、意味もなく目を伏せてみる。足元にある白浜が目に付いて、砂でも掛けてやろうか、とわけの分からないに衝動に陥ったりもしたが、梓は首を振って……とりあえず出来たのは、目の前にいるやつを睨み付けることだった。
「気配を消して歩くのが今の流行りかよ?」
「そんなつもりはないですよ」
 不機嫌を体現したような梓の声に対して、少年は即答で返していた。見事だと言える。梓に凝視されては大の大人でも腰が引けてしまうのだから。いくら梓が本気で鬼≠放っていないとはいっても、これは賞賛に値した。少年が女性に睨まれ慣れているという馬鹿馬鹿しい思惑を別とすれば――確かに梓の思い過ごしだったのだろう。
 それほどまでに梓は悔しかったのだ。涙を見られたかもしれない、ということは……。
「わりぃ。忘れてくれ」
「はい。それより魅月のやつ知りません?」
 本当にどうでもいいように少年はさらりと流していた。実際のところ八つ当たりされたとは思いも寄らないほど鈍感なのかもしれないが。
「さあ? 初音たちと一緒だとは思うけど?」
「そうですか。そろそろ日も暮れる頃なので、ホテルに戻ろうかと思いまして」
 落ち付いた物腰と端的に用件を述べるところを見て、梓が抱いている不信感以上に、もしかしたら少年の方が、自分たちのことを警戒しているのかも知れない、と思ってしまった。どうしてそんなふうに感じたのかまでは分からなかったが。
「あたしらもそろそろ戻らないとなぁ……」
「そうですね……」
 当り障りのない会話。他人行儀ではあるが、馴れ馴れしくされるわけにもいかない。梓は昼間の件で少年に対し負い目も合ったが、それだけは譲れない。
「あ、それと――」
 話が途切れそうになったところで、そっと少年が言う。思い出したかのように――ではあったが、どちらかと言うと出だしを待っていたような感じで、紡ぐ。
「お昼ご馳走になりました。美味しかったですよ」
「……どういたしまして」
 屈託のない笑顔だった。少なくても梓にこう≠ヘ笑えないだろう。初音みたいに無邪気というわけでもなかったが、それは優しい笑みだった。
 どうしてそんなふうに笑えるのかという、ちょっとした好奇心もあって、梓はそのとき初めて、少年――神咲刹那とか言った――を意識して見ることにした。
 顔は幼かったが、整ってはいる。年齢は十七歳だと言っていたような気もするが、梓は自分よりは年下だと思っていたので、正確には記憶していない。ただ、初音と同じ年であることに少年が驚いていたことだけは僅かに覚えていた。身体的な特徴は――まあ、これといってなかった。体に傷があるわけでもないし、痣だってないし、中肉中背の――どこにでもいそうな普通の男の子だった。温和そう、というのが褒め言葉になるかどうかは分からないが、それだけは断言できるかも知れない。
「……どうかしましたか?」
「いや、別に……」
 しかし、と梓は思っていた。
 どこかでこんな表情をするやつを見たことがあった。ごく身近にいて、気づかないくらいそいつ似ているのだ、多分……。
(誰だったろう?)
 自問してみるがはっきりとした答えは出なかった。どこかで心が揺れる。思い出さないといけないようで、思い出すことを止められているようで、明確なビジョンは瞼の裏にいつまでたっても出て来てくれなかった。
(ま、いいけどさ)
 短絡的といえばそうなのだろうが、考えても仕方ないことは仕方ないのだろう、と梓は頭を振った。思い出せないなら、それでも別に構いはしない。
「それより、初音たちが居るところなら大体分かるけど一緒に来るか?」
 なぜか不思議そうな眼差しで少年、刹那は口元に手を当てた。仕草自体に意味がなかったことは梓にだって分かる……が、だったらどこに戸惑う意味が存在するのか。
 刹那はただ一言、これまた相変わらずの笑みで、
「はい、よろしく」
 とだけ短く言った。
「ああ、付いて来いよ」
 どこか違和感を消せない梓だったが、もう気にしてなんかやらない。
(こういうやつだってことを知った後なら尚更だよ)
 もうすぐ夕陽は水平線の向こうに沈んでいこうとしていた。
 一日が、過ぎていく。

     *

 陽炎が揺らめいていた。風もまた穏やかに吹いている。夕焼けの眩しさに眼は自然と細まった。こうやって海を見ていると時間が止まったような錯覚もまた抱いてしまう。
「不思議なものね……」
 果てしない空。薄闇の向こうには星が見えた。懐かしい思い出の欠片が心をくすぐっている。星の海。真なるレザム。数え切れないくらい明滅を繰り返す星空のどこかには、もう二度と還ることのない故郷の星もあるのだろうか。いいや、きっとある。無限の広がりを空は見せているのだから。
「……大切なのは今でしょう?」
 誰に言うわけでもなく楓は呟いていた。そして苦笑してしまう。なんとなく膝の上で寝息を立てている魅月の髪を撫でていた。
 胸を締め付けるこの想いは、エディフェルが泣いているせいかもしれない。
「……大丈夫です。忘れたりはしませんから……」
 胸に手を当ててそっと彼女に語りかける。もう星に還ることがないのなら、せめて思い出として記憶を伝えていこう。いつか時が巡り、来るべく時が来たなら、レザムは降り立つ。エルクゥを受け入れることが出来るかどうかは、この星に住まうもの次第なのだから。それまでは、夢想に耽っていても構いはしない。
「……どうかしたの、お姉ちゃん?」
 ふとした声。リネット? じゃなくて初音だった。記憶が混乱している。
「……綺麗な夕焼けだと思っていただけよ」
「うん、わたしもそう思うよ」
 嘘を付いたつもりはなかったのに胸が痛んだ。初音は頷くだけで、何を言うわけでもなく前を向いている。そこに憂いのようなものは見えない。そう、繕うことには慣れていたから、初音の様子は楓にとっては思惑通りだった。
(それを寂しいと思うのは、私の勝手な思いなのでしょうか?)
 楓が、エディフェルではないわたし≠ナあるのなら、リネットではないはつね≠ェそこにいるのは至極当然だったので、この感傷は自分だけのものだと言えた。
(……何を期待して、何をほっとしているのかしら?)
 自問自答しようとするが、それでは余計に身勝手になるような気がして、楓は今出来ることをしようとした。笑うこと。不自然にならない程度に、初音に向かって微笑みかけることが最善だと……いや、そうしたいと楓は思った。が、自分にとっては何よりも、そうすることが難しくて、溜息しか出てこない。苦悩――
(……所詮は、彼女のことを切り捨てるなんて出来はしないのに……)
 まずは認めるところから始めてみよう。自分が自分であるのなら、彼女も彼女でしか有り得ない。類似点を見つけるなら、同じ人を好きになったところだろう。いや、彼も彼でしかないのだから、エディフェルと自分はまったくの別人であって、そして似たもの同士になるのではないか? それさえ見失わなければ、彼女が自分であるのも頷ける。
「……あとは、どうやって手を取り合って歩いていくか、でしょう?」
 風が吹いていた。南から北に向かって吹いていく。流れる雲が風任せであるように、流れていく時に人は身を委ねてしまう。いつか気づくのだろうか。振り返ったなら、同じ時間を過ごせた日々の思い出が、とても素敵なことであり、掛け替えのない瞬間だったということに。千年経っても決して忘れえない絆だということに。
「そういうのって、きっと素敵なことなんだよね」
「……初音?」
 どこか遠くを見つめるように初音は風にさらわれないよう髪を掻き揚げていた。きらきらと茜色の光を反射してか神秘的に見える。これも、また赤い。
「風、出てきたね……」
「……そうね、そろそろ戻りましょうか?」
 楓の言葉に初音は元気よく頷いた。
(どちらがお姉さんなんだか、これじゃあ分からないわね……)
 ふと、楓はそんなことを思ってしまう。
 人は成長して、時は止まらなくて駆け抜けて、いつまでも同じところには居られなくて、それでも変わらない絆があったなら、幾星霜の月日を重ねても、想いだけは胸に秘めていけるものだから。
「夕焼けに当てられたのかも知れないわね……」
 沈んでいく陽光は一日を邂逅させるだけではなく、過去にまで光を届けたのか。誰にも分からない。誰だって見つからない。海はただ飛沫を上げるだけだった。
 それこそ感傷なのだろう。
「おーい。楓ーっ、初音ーっ!」
 唐突に、それは響く。長くは浸っていられない思い出に別れを言い渡して、楓は自分の名を呼ぶ声へと向き直った。もちろん、誰の声か知っている。
「梓姉さん?」
 本来の自分に戻れる瞬間が今だった。呼びかける声と応える声と。
 日常とは、それでいい。
「よう、初音もやっぱり一緒か。で、あの子は?」
「魅月ちゃんでしたら」
 楓はそこでくすっと微笑んで、
「私の膝の上です」
 この子は警戒心の強い子なんだ、と楓は何とはなしに思った。いつでも魅月が存在を希薄にしていることにそれとなく気づいたから。
(それとも、人見知りなのかもしれないな……)
 私みたいに、と苦笑を漏らす。
「随分、懐かれてるんだな、楓は……」
「懐かれてるって……梓お姉ちゃん、動物じゃないんだからっ!」
 ちょっとだけ怒ったように初音が言う。
「ああ、そうだよな、あたしが悪かったよ」
 梓は言って、魅月の頭を撫でる。破格の笑みだ。梓にとっては極上と言える謝罪の現れでもあったが、それは、当人にとっては自然の行為でしかなく――
「……神咲さんは、どうしたんですか?」
 楓にとって魅月の兄の名前を出すことは、本当のところ少し憚れた。理由までは分からないが。
「うん? あー、アイツか……途中までは一緒だったんだけど、なんか知り合いを見つけたとか何とか言って、どっかに行ったんだよ。勝手なヤツだぜ。あたしに道案内やらせたくせに……なんかいけ好かねーよ」
 と、そこまで勢いに任せて口にしたところで、非難がましい視線が突き刺さっていることに梓は気づいた。初音だった。その意味合いは単純で、誰しも家族のことを悪くは言われたくない。魅月のことを友達だとしている初音には、兄の神咲刹那のことも同じ思いやりでいたいのだ。
「……と、まあ、話は戻るけど、そろそろ上がろうぜ。日も暮れるしな」
 しどろもどろではないにしろ、梓の動揺は見て取れた。先ほどとは違い刹那のことで謝ることをしなかったのは、彼女らしいことだった。しかし、そういうことは、もう表立っては口にはしないだろう。初音の想いが分かるから。
「……行きましょうか?」
 耕一さんのところへ。家族のもとへ。そこが私の居場所だったから。星よりも羨望してやまない、帰るべき場所だったから。
「そうだな……でも、その子はどうする?」
「はい。寝かしておいて、ホテルも同じようですし、あとで神咲さんの部屋に……というのはどうでしょうか?」
「まあ、妹をまかせっきりのアイツがいけないんだろうし、置いていくわけにもいかねーから、それでいいと思うぜ。初音は?」
「うん、わたしは元々そうするつもりだったよ」
「よーし、話は決まりだな」
 梓はそっと魅月を抱いた。寝る子はそのまま揺り籠のように柔らかい背中に移される。陽は暮れていく。夜は、もう……すぐそこに。

     *

「どうして、アンタがここにいるんだ?」
 努めて平静を装った声だった。夕焼けに満ちた浜辺。そのどこか。誰も気にも留めないような空間がそこにある。それは、人為的に創られた軋み≠セった。
「言葉を返すようですが、貴方こそどうしてここに? こういう事象は、わたしたちの管轄ですよ。教会からの正式な依頼ではないですが、見つけたら即座に滅すべき存在があったなら、それらすべてをわたしたちは取り除きます」
 返答は長かったが、まだ反論の余地は残っている。向こうもこれで納得するとは思っていないようだった。背景に取り込むように、彼女は続けた。
「神咲一灯流も、貴方なんかを遣わせたところを見ると、あまりこの件に関して表沙汰にしたくはないのでしょう?」
「否定はしない。当主は、神咲の使い手をこんなことに派遣はしない。リスクもある。ただ、だからこそオレが来た……それが、すべてだよ」
「……捨て駒ですか? 死徒に勝てるとでも思っています?」
「神咲は祓いの方がいい。汚れ役は分家がやるのが道理だろう。今まで発覚しなかったのが誤算だと言うのなら、敢えて……オレが受け止めるよ」
「……貴方は、分家ですらないのでしょう?」
「だから、捨て駒なんだよ」
「ああ、そういうことですか。じゃあ、命拾いでしたね、わたしがいて」
「……手を引けとは言わない。が、邪魔になったら、どうなるかは保証できない」
「また、言葉を返します。そのまま、をね」
 凍った空間に、風が吹き始める。世界が色付き始める。話し合いはここまでだった。
「終わりは、すぐに訪れる。朝になったら、悪夢は終わるものだから……」
「今夜、すべてを終わらせると?」
「気持ちが逸るんだ。刀を振るっていた方が良い夢を見られそうだよ」
「……それなら、便乗させてもらいますよ。せいぜい囮役を買って出てください」
「ああ、早く終わらせたいからな」
 どこからか喧騒が沸いてくる。夕焼けはどこにも見えない。茜色の残光すら消えた夜の下で、彼は踵を返す。月明かり。眼に映ったのは大きな満月だった。
「魅月……迎えに行かないと……」
 発した言葉は、夜の闇へと消えていく。
 その行方は誰にも分からない。

     *

 何であれ思惑というものはある。
 千鶴はベッドに横たわりながら溜息をついていた。休暇は短かったと言わざるを得ないだろう。時計を見ると八時を少し回ったところだった。
(本当にそう≠セったなんて付いてないわ)
 もう一度、溜息をつく。今のは長く吐き出された。
 枕をぎゅっと掴んでみる。柔らかい。羽毛であることに疑いもない。ふと引き裂いてみたい衝動に駆られてしまうがじっと我慢してみる。ヒステリーはみっともない。次に呼吸を整える。これに数分ほど取られたがまあいい。もう時計は見ないことにしよう。
 暗い部屋の中で千鶴は思った。
 勘だと言ってもいい。どちらにしろ最悪の事態になろうとしているのだから。
(雨月山の鬼は、まだ死んでいなかった……)
 本当は的外れになるはずだった思考が現実のものに変わろうとしている。
 夏場の書き入れ時だ。本来なら女将である千鶴が鶴来屋を離れることなどこの時期に出来るはずもない。まだ夏はこれからなのだから。只でさえ他の重役連中に煙たがられているというのに。
(それを差し引いても余りあるものがなければ、ね……)
 もう溜息は付かなかった。千鶴は冷静に分析するために自制心を強めた。
 始まりは恐怖からだった。一年ほど前になる。『猟奇殺人事件』がこの降山で起きたのは。そして今に至っても未解決。これだけでも頭を抱えたくなるのに、まだ出ているのだ。行方不明者が。
 旅行客然り。地元民然り。共通しているのは若い女性ということ。
 しかし、少数。これまた分かりづらい。
 家出かもしれないし、言ってしまえば水難事故の類かもしれない。駆け落ちなんて線はどうだ。今も昔も自殺をするなら海岸からか。それとも森の中か。この辺りはどちらも兼ね備えている。まったく洒落にならない予想だった。どれも有り得そうであるのがまた笑えない。
(まったく、噂をほこり払いにするのにどれだけ苦労したと思ってるのよっ!)
 少しだけ枕が破れた。千鶴自身は気づいていないようだが瞳が鬼化して紅く染まっている。だが、それも仕方ないことだろう。一度、風評というものが染み込んだら、拭い去るのは並の努力では到底できない。『殺人事件』となれば尚更だった。千鶴は思う。何が悲しくて『美人の会長さん』というテレビ番組に出演しなくちゃいけないのか。後で思い切り梓に馬鹿にされたものだ。それでも鶴来屋のイメージアップになるならと行ったことなのだ。本当に気苦労が絶えない。耕一が居なかったらと思うとぞっとしない。更に自分は心を凍りつかせていただろうから。誰も信じない。誰も頼らない。そんな状況で再建と復興がどうにかなるわけもない。もしかしたら鶴来屋を手放すことになっていたのかもしれないのだから。
 よくやったと思う。この一年で何とか自分の足場を固めることが出来た。表情が柔らかくなったね、と経営の片腕である足立に言われた時は、びっくりしたものだ。
 氷は陽の光で解ける。氷が千鶴なら太陽は耕一だった。耕一が側に居てくれるだけで千鶴は頑張れたし気持ちも落ちついた。感謝している。だからこそ今回の事に関して相談できなかった。
(……狂気は今も続いている、か……)
 このホテルは鶴来屋グループの傘下にある。経営面で気になることはない。苦情もそれといって聞いていない。出来た部類に入る。しかし気になること――鬼≠見たという証言があった。ひとりやふたりじゃない。それは大勢であり、従業員以外からも囁く声は遠のかない。
(つまりは……)
 目が細まった。月の光がこうこうと入り込んでくる。 
「甘い考えだったと言うことね……」
 口に出した言葉は自分に対する叱責の念を伴って、如何ともし難い状況に唇を噛みしめさせた。
 柳川裕也。調べさせて分かったことだが彼もまた柏木家の血を継いでいるらしい。耕一の父親の自殺について訊き込みに来た若い方の刑事だった。あの事件の犯人はこいつで間違いないだろう。
 祖父にも困ったものだ。柏木家の血は容易ではない。種付けには気をつけてほしい。いや、いっそうのこと……と、千鶴は思ったが、それから先は口にしてはいけなかった。
 自分自身を否定してはならない。分かっている……そうした想いは自分以外をも否定するから。
 話を戻そう。柳川裕也はあれから蒸発したというのが公式の見解となっていた。友人も少ないのか、何かに悩んでいたようには見えたけど、と口にしたのは同僚のひとり。他のものは気にも留めていなかった。キャリア組みにしてみればひとりでも多く競争相手が減った方がいいのだろう。
 とりあえず報告書に目は通したが、あまり気分のいいものじゃない。人の人生を覗き見している気分になるからだ。
 結論からして柳川は鬼≠ナあり、ふとしたきかっけで理性を失ったのは明白である。そして今回、尤も問題にすべき点は、柳川の死体が見つかっていないということだ。
 千鶴としては、どこかで人知れず土に還っていると思っていた。いや、思おうとしていた。
「…………」
 曖昧にして置きたかった部分は脆くも崩れ去ってしまった。それが、今回のこと。本来なら噂として聞き流すつもりだった。こんなもの降山では珍しくもなんともない。が――肌で感じてしまった。この界隈に張り巡らされた違和感を。夜なって更に感じる。緊張の糸――
 血が呼び合っている。
 実のところ千鶴は神咲≠フ名を知っていた。刹那のことではない。神咲≠フ姓を知っていた。有名な退魔≠フ家系であり、優秀な祓い師≠ナあるらしい。大学時代、こういう文献を調べていた時、家の蔵から出て来た書物にそう記されてあった。
 これは偶然か? 偶然で済ませられることなのか。それこそ楽観的に過ぎない。
(……梓たちを連れてきたのは間違いだったわね……)
 認めよう。柳川は生きている。殺戮は今も続いている。この地は不浄であると。だとしたら、覚悟を決めるのは千鶴の方だった。現・柏木家当主は千鶴でしかない。当主の役目――鬼となったものを討つ。今まで柏木家の人間がそうしてきたように。
 朝は遠い。夜明けは来ない。夜は長い。殺戮は続いている。昨日も。今日も。今、この瞬間も。しかし明日はない。鬼に未来などない。
「……柏木千鶴の名に懸けて……」  
 今宵は満月だった。ベッドから身を起こして月を見上げる。
神咲≠ェ本当に退魔をしにこの地を訪れたというなら、とんだ物笑いの種になるだろう。人間にアレ≠どうにかできるはずもない。千鶴はまじないごとを信じない。呪われているのは柏木の血筋。これ以上に何を――神は望もうとしているのか。
 狂気は終わらない。どこまでも、どこまでも続く無限の回廊。
 輪廻の輪は途切れない――

     *

 ホテルのロビーは込み合っていた。
 初音は困ってしまう。ようするに耕一たちとはぐれてしまったのだ。ロビーは広くてとても捜し出せそうにない。ふと見上げれば今にも振ってきそうなシャンデリアがてかてかと光っていた。光沢を放つ分にはいいのだが、あまりデザインが過ぎると悪趣味になるもので、ここではその心配は要らないようだったが――やはり好きにはなれない。
 光の煌きは、なぜか星の海を連想してしまい、ひどく孤独に陥ってしまうから。
 少し胸を押さえて、初音は辺りの様子を伺った。
(……部屋に戻った方がいいのかな?)
 いくらなんでも部屋番くらいは記憶していた。姉もそこにいるだろう。ひと足先に疲れたと言って部屋に戻って行ったのだ。
 でも、と思う。
 食事も喉に通らなかった千鶴に簡単なものでも、と耕一は軽食を部屋に持って行ったのだ。これは、ついさっきのこと。気を利かしているわけではないが、ふたりきりにさせて上げたい。どうしてか分からないけど、きっとそうした方がいいと思う。
 初音自身、耕一のことは兄としてみているから。
 多分だけど……。
(そう、自分に言い聞かせてるなんて、ないと思うけど……いやだな、こういうの)
 早く姉たちに会いたい。ひとりでいると変な気持ちになる。自分がとても卑しい心を持っているような気になるのだ。好き、とか、嫌い、とかは分かりたくない。ただ、祝福したい――それだけだった。
(お兄ちゃんのことは好きに決まってるじゃない) 
 でも、でも、と思うのは何故だろう。
 位置の違い? そこにいるのはわたしであるべきで……それは、現実にあったことで……。誰よりも近くに居たのは……ずっと側に居たのは……。
『エディフェル姉さんの次でいいんです。わたしを見てください』
 今、何か見えたような気がした。誰かが泣いている。男の人が鬼のような形相でわたしを睨んでいた。憎まれていたのは誰だったか。首筋に刀を突き付けられたのは、どうしてだったのだろうか。
 それでも――好きだと言えたのは、やはり愛していたから。
「……え?」
 こういう感覚は前にもあった。瞳が今になくて過去にあるような錯覚。頭がくらくらする。光が歪んで見える。建物や柱はぐにゃぐにゃだった。
 例えば夕焼け。月明かり。強いては血。連想ゲームのように繋がっていく。
 翼が広がる。よ−く。ヨーク。おうけ。レザム。ほし。ダリエリ。かり。リズエル。ちづる。エルクゥ。じろうえもん。アズエル。あね。エディフェル。うらぎり。血。しゅくせい。リネット。ひかり。リネット。はつね。リネット。はつね。リネット。初音。リネ――
「どうですか、ご加減のほどは?」
 眼が開いた――途端に、入り込んだ光に心臓が跳ね上がった。
 頭の中のもやもやとした霧はまだ残っていたけど、しっかりと意識はあった。声を掛けてくれた人に何かを言わなくちゃと初音は思うのだが、まだ呼吸は乱れていて上手く言葉にならない。でも女の人は笑顔でいてくれて、頭を抱えてくれているのか冷たい手の感触が気持ちよかった。
「うーんと、そうですね……お名前とか言えます?」
「は、初音」
「わたしはシエルと言います。他には? 家族とか分かります?」
「……お姉ちゃん」
「そうですか。用事とかあったんですか?」
「お姉ちゃんたちとはぐれて……」
「どうして、はぐれたんですか?」
「ちょっと、ぼーっとしちゃってて……ほんとなんでかな?」
「気が付いたら、ここにいたと?」
「……そうなのかな? うん、そうかも」
「お姉さんの名前は?」
「千鶴お姉ちゃん。梓お姉ちゃん。楓お姉ちゃん」
「一緒に居たのは誰?」
「梓お姉ちゃんに、楓お姉ちゃん、それと魅月ちゃん」
「なるほど、混濁した意識に縛られてはいないようですね……」
「……え?」
「気にしないでこっちのことです。初音ちゃん、合ってますね?」
「う、うん」
「はい。もう大丈夫のようですね」
 シエルと名乗った女性は優しく微笑んでいてくれて、初音もやっとの思いで「えへへ」と笑顔を返すことができた。
 周囲を見渡すと、どこかの室内だということが分かった。客室の間取りはそうそう変化することはないから、シエルも初音と同じホテルの客ということが分かった。
 次に、シエルを見る。
 どことなく奥の深い瞳の色をしていた。もしかしたら日本人ではないのかもしれない。眼鏡を掛けていたのでそれほど自信はないが、こういう瞳は今まで見たことなく、遠い異国の地を初音に連想させた。
「わたしの顔に何か付いてます?」
「え? あの、ごめんなさい……そういうつもりじゃなくて」
 自分がじっと見つめていていたことに気づいて、初音は気恥ずかしそうに俯く。
「いえいえ。冗談です。そりゃあ心配になるでしょうから。少し散らかっていますし……ああ、ここはわたしの部屋ですよ。まあでも、くつろげるかどうかの自信はないですが、女の子ひとりくらい招いたとしても、恥ずかしくはないつもりです」
「……ありがとうございます」
 初音は少し笑ってみせて礼を述べる。シエルの言葉には迷惑でないことと、すでに自分のことをわたしは友人でありたいのですか、あなたはどうかしら?≠ニいう思いやりも見えて、それを否定することはできない。しない。
 シエルも初音の思いを汲み取って上機嫌に微笑んだ。
「そうそう、詳細を説明しますね。ロビーで倒れそうになった初音さんを――」
 と、シエルは言葉を止めて、
「初音をどういうわけか良いタイミングでわたしは見つけました。で、支えて声を掛けたのですが、反応なし。そうですね、本来なら医務室に連れて行くところなんですが、わたしも医学の心得はあったし、ここは柏木≠ナすし、大事になりそうだったから、こういう処置をとらせて頂きました」
「……柏木?」
 苗字を名乗ったことはなかったので初音は眉をひそめた。
「夜中にぴぽーぴぽーのドップラー効果は他の宿泊客には迷惑ですからね」
「……そうですね」
 いまいち納得の出来ない初音だったが素直に頷く。理由は――シエルが悪い人には見えないから、であった。
「もう、大丈夫ですから」
 初音はベッドから起き上がろうとするが、不意に眩暈がしてまた倒れてしまう。支えられた手はシエルのものだった。
「まだ、寝ていたほうがいいですよ」
「……でも、お姉ちゃんたち……わたしを探していると思うから」
 初音が言うと、シエルは黙り込んでしまった。
 どういうわけか格好良い人だな≠ニ初音は思っていた。場違いであるかもしれないが、若いのにしっかりとした感じが彼女にはある。
(千鶴お姉ちゃんみたい……)
 初音はくすっと苦笑した。
「やっぱり駄目です。……仕方ないですね、わたしがお姉ちゃんたちを連れてきましょう。うん、そうしましょうっ!」
「え、でも……」
「いいんですよ。乗りかかった船ですしね。梓さんに楓さん、初音を探しているのであれば、見つけるのは容易ですよ」
「でも、これ以上、ご迷惑は……」
「誰でもない、わたしがそう言っているんですよ? 納得してください。それと約束してください。この部屋には一応封式≠張ってあるので大丈夫だとは思いますが、絶対に部屋の外には出ないでください」
「ふうしき?」
「まあ、言うなれば邪念≠ェ迷い込まないようなおまじないをしてるってことです。約束できますか?」
 答えは決まっていた。
「うん、約束するよ」
「良い子ですね。十分ほどで戻って来ます。じゃあ、ゆっくりと休んでいてください」
 シエルは満面の笑みを浮かべて、部屋から出て行った。
 初音は毛布を羽織る。暖かい。どこまでも落ちていきそうな意識の喪失を感じる。
「ごめんね、お姉ちゃん……」
 初音は眼を閉じる。今度こそ夢の中へ。
 今だけは、優しい夢を――
 部屋の隅に置かれた角のある概念武装兵器≠烽サう願う。
『――散らかっている』
 腹立たしいが……まあ、そういうものかもしれない。

     *

 閉じられたドアの背にシエルはもたれ掛かってひと息ついた。
 順調に事は運んでいると言えた。問題はない。
「…………」
 冷たく振動する空気は奴の到来を予感させた。
 この辺りに張られた結界は神咲によるものだろうか、随分と慎重なことだ。どうやら神咲一灯流の者もすでに動き出しているらしい。しかし出し抜けは喰らわない。
 死徒を討つのは『埋葬機関』の役割だ。悪魔祓いのエクソシストではなく、悪魔殺しのエクスキューター。他国の退魔組織と決して相容れることのない、単独で行動することを好む絶対組織。わたしはその『埋葬機関』の第七位に当たるのだから。
「それなのに、人探しですか……」
 これには笑ってしまう。まったくの予定外だった。もちろん行動予測の修正範囲内なので自分はそうしようとしたのだが……いや、本当にそうなのだろうか。どうも調子が狂う。どうしてあんなにも純粋でいられるのだろう。あの瞳に見つめられては、どうにかしなければ、と思わされてしまう。損得抜きに助けたいと。
 ――あの子を今ひとりにするべきではない。
「分かってはいるんですけどね……」
 まだ猶予はあるはずだ。呼吸を整えて廊下を歩き出すことにする。初音の部屋はすでに調べてあるが、そこには誰もいないだろう。電話を掛けるだけ無駄なだけだ。でもまあ心当たりは幾つかあったので見つけるのは簡単だと思う……が、時間は掛けたくない。
 エレベーターの下りのボタンを押す。この瞬間でさえ惜しいと感じるのは焦っているせいだろうか。シエルは頷く。いや問題はないはずだ。
「ホテルだから……」
 と、シエルは自分の中にある違和感の正体に気づいた。
死徒<lロ・カオスの暴挙は記憶に新しい。奴は死徒の中でも卓抜した能力の持ち主、二十七祖として数えられるほどの能力を持った混沌≠フ吸血鬼だった。
 吸血鬼と一口に言っても色々あるが、人の血を吸うものの総称で構いはしない。
 ネロ・カオスは混沌≠フ力を持ってホテルを食い殺した。従業員と宿泊客すべてを跡形もなく食ったのだ。髪の毛一本残らないほど残酷に。犠牲者は二百人を越えた。
「どうして……」
 シエルは困惑した。額に汗をかいている。
 どうして、あの混沌≠ニ今の状況を結び付けたのか。ホテルは連想の果てに過ぎないはずだろうに。雨月山の鬼≠ニは吸血鬼のことだ。この感覚は他の怪には出せないことは経験上確かなこと。昨日、視認したこともある。ただ――
「鬼は、昔からいたとでも……」
 この地にある伝承は調べた。他愛もない物語。人と鬼との悲恋。吸血については何ひとつとして結びつかない、本当によくある風土の話に過ぎない。
 それなのに胸騒ぎがする。昨日の一戦で奴の強さは把握したつもりだったが、もし仮に奴が自分の想像を遥かに超えていて、二十七祖とタメを張れるほどの吸血鬼だとしたら、どうだろうか。この違和感には説明が付くかもしれない、が――
「まさか、有り得ない……」
 あの吸血鬼は元あった記憶や知性も知識も戻ってはいなかった。不死である二十七祖は何百年という時の中を生きて、力を得て来たのだ。この地に住まう死徒は良くて一年くらい。
 確かに人並みはずれたポテンシャルを持つものもいる。吸血鬼になる才能など笑い話にもならないだろうが、ごく稀に噛まれた親の吸血鬼に従わないで自我を持った吸血鬼が誕生するのは、否定できない事柄だった。
 でも、記憶や知性のない説明はどうする?
「…………」
 答えは出ない。シエルは前を向いた。エレベーターが降りてきたからだ。
 迷うことはもうしない。それは隙を生むことになる。隙は死に直結している。生きたいなら冷酷に鉄槌を下すだけだ。今までそうして来たように。
 ゆっくりとシエルは深呼吸した。
「もう、しょうがないですね……」
 リラックスして強張っていた表情を柔らかいものにする。
 明日は、明日の風が吹くように。

     *

「次は初音かよ……」
 梓はぼんやりと呟いていた。落ち付いているわけではなく実は焦っていた。しかし慌てても良いことはひとつもないと自制する。
 まずは状況整理だ。
 初音が居なくなったのは十五分ほど前。迷子かと思い至ったのはついさっき。気が付かなかったのはトイレかと思ってのこと。広いロビーなので少しくらい離れたとしても仕方ないのだが、そんなのは言い訳に過ぎないことも十分承知している。
 この焦燥感は一体なんなのだろうか?
 いつもとは異なった空気を感じて梓は少し苛立っていた。つまり弱気になっていた。何かが起きたとしても自分の力ではどうにもならないのではないか。
「姉さん」
 声を掛けたのは楓だった。そして首を振る。否定的な意味ではなく落ち付かせるかのように。
「ああ、そうだよな」
「はい……」
 不思議なことに姉妹とはそれで通じ合えるらしい。
「楓は、どう思う?」
「……まだ、分かりませんが大丈夫だとは思います。ただ、ほんの少し前です。誰かに呼ばれたような気がしました」
 楓の勘は鋭い。信頼に値すると梓は頷いて、先を促した。
「懐かしい声です。でもひどく弱い。私は過去の亡霊に捉われることはありませんでしたが、初音もそうであるとは……」
「過去?」
「そうですね……いえ、解釈の違いです。誘惑された、と言ったほうがいいかも知れません……」
「分かった。で、どうなる?」
「今まで気が付かなかったのが可笑しいくらい、ここには鬼≠フ匂いがするんです」
「…………」
 梓は押し黙ってしまった。
 鬼の匂いが何を意味しているのか分かっていたからだ。
 血だ。ここは異界との境界線だと言える。
「もしかしたら、耕一さんは逸早くこのことに気づいて、千鶴姉さんに相談しに行ったのかもしれません」
「水臭い話だな……」
「そして、千鶴姉さんはもっと早く気づいていた……」
「……え?」
 咄嗟に梓は拳を握っていた。汗ばんだ感触もそこにある。
「でも梓姉さん、二人とも私たちのことを思って、言わなかっただけだと……」
「――分かってる! で、危ない橋を自分らだけで渡ろうとしてるんだろう? 情けねーよ。なんだよ、そりゃあ! あたしらは単なるお荷物なのかよっ!」
 バン! ひときわ大きな音を立てて、コブシが壁を砕いた。ロビーにいた人達が何事かとこちらを見てきた。
 フロントからも人が来る。何か、と問われても、何と答えていいのやら。幸いにもさっきフロントでマネージャークラスのホテルマンに、自分が柏木≠ナあることを知らせていたのが功を奏したのか、頭ごなしに何かを言われることはなかった。 
 それに、まさか――コンクリートの壁を梓が砕いたとは思えない。普通なら。
「……すみません」
 楓は頭を下げるが逆に恐縮されてしまう。ここは私どもが何とかいたしますので、と言われ、楓はもう一度、頭を下げた。
「すまねえ……」
 事の起きた場所から少し離れたところで梓はそう零していた。ムキになったら我を忘れてしまう。幅寄せは回りに行く。梓は無性に悔しくなった。
「……姉さん」
 楓はそっと首を横に振った。それだけで梓は救われる。そうやったあと楓が笑ってくれるから。それに今は、何より初音のことが先決だった。
「初音が迷子になったのは偶然でしょう。問題はその後ですから……」
「偶然か……まあそそっかしいからな、意外に」
 そう笑い合う。
「でも、安心ですよ。まだ、このホテルに居ると思います。いやな空気もありますが、初音とは無関係でしょう、今のところ」
「そうか……良かったよ」
 と、言ったところで楓の服の袖を掴むものがいた。
 小さな手。どこか水晶を連想させる瞳。また存在を希薄にしていたらしい。
「魅月ちゃん?」
 楓に呼ばれた魅月はにこっと微笑んで、たたたっと走り出した。
「何だ?」
「……もしかして、付いて来いって」
 楓は言い終わらないうちに魅月を追い掛けていた。梓もすぐ後に続く。もともとロビーに来た理由は、神咲の部屋を知るためだった。
 フロントに行っても、普通の人には魅月を認識できないのかやけに苦労した。埒が明かないので柏木≠フ名を出したのは、不幸中の幸いになったが、やはり面白くはない。手の平を返したような扱いは見ていてこちらが恥ずかしくなる。
「…………」 
 魅月は身軽に駆けていた。まるで踊るように軽やかに、人の波を縫っていく。
 そして、ある場所で弧月を描くように、弾んで消えた。
「あ……」
 楓は立ちすくんだ。まるで夢の光景のように光の奔流が見えたから。梓もやっと人波を割って、楓の近くまで寄ってくる。
「……消えた?」
 本当に夢のよう。楓は虚ろを見るように魅月の消えたところまで来て、
「わっ」
 人とぶつかった。
 ここはエレベーターホールだったのでぼんやりしていたら、人と衝突してしまうのは至極当然のことだった。
「いたたっ」
「ご、ごめんなさい! 怪我とかないですか?」
 楓を庇うように相手が転んだので楓はしどろもどろになって声を荒立てた。でも相手も無事だったようなので、ほっと息をつく。
「こちらこそ、すみません。急いでいたもので」
「いえ、こちらこそ、申し訳ありません。人を探していたもので」
 楓がそう会釈すると、相手は目を丸くした。
「人探し……? もしかして、貴女が梓さん? それとも楓さん?」
「え? なぜ、それを?」
 お互い顔を見合わせて、眼をぱちくりとしていた。
「うん? どうしたんだ、楓?」
 そこに梓も加わる。
 人と人との出会いは時に偶然を超えた奇跡に近い。 
 この巡り合いもまたそうだった。
「わたし、シエルって言います」
 優しい笑みを浮かべて、彼女が言うのを楓と梓は聞いていた。
 深まる夜に何気ない出会いの一時を――
 
     *

「遅かったね、魅月」
 ホテルの外は暗く、森に近いこの場所は寂しい。風が吹くたびに山はざわめく。孤独に月を見上げていたのは余した時間を潰すためであったが、よほど気に入ったのか待ち人が来ても、神咲刹那は暫らくそうしていた。
「じゃあ、行こうか?」
 優しく声を掛ける。
 振り向いた先に誰かが居なかったとしても驚くことはない。呼んだ名前があったとしても返ってくる応えはないのだから。
 式服。そして腰に下げた黒い鞘。眼を閉じて刀の柄をそっと撫でる。
「鬼退治をしに、ね」
 準備は万端……とは言い難いが万全で望めることの方が実践では珍しい。所詮、何をどう施したとしても上手くいくかどうかは、運次第だろう。
 理解した。
 現実でただ言えること――
「今日は満月か」
 薄く唇を歪めて笑う。
 満ちてしまった月は、後は欠けていくしかないのだ、と――
 白い服の袖を翻して、刹那は森の中に消えていった。

     *

 胸騒ぎはいつものことだと耕一は自分に言い聞かせた。
 この凍りつくような感覚は未だ遠くにある。自分の力は自分だけのものだ。護るために身に付けた力ならきっと今回も助けになる。
「千鶴さん……」
 呼吸を整えてからドアをノックする。
 何かを隠している。この旅行に行く前からそれとなく耕一は感づいていた。今まで実感できなかったのは、あまりにも自然に千鶴が振舞っていたからだ。
 思い過ごしであることも有り得ないわけではない。
 ただ、事態が一変した。
 ホテルの支配人に挨拶に行った後、千鶴は気分が悪いと部屋に戻って行った。
 夕食のテーブルにも現れない。 
 それからだ。体に流れる鬼の血がざわめいて止まらなくなったのは。
 偶然の一致?
 次第に強くなっていく高鳴りは、いずれ梓達にも伝わってしまうことだろう。特に敏感な楓なら、もう気づいていて可笑しくない。
 この地は、狂気に満ちている。
 どうして昼間には気づかなかったのか、あの独特な血の匂いがこうも鼻腔に付く。今までは潮風に流されていたとでも? 冗談ではない。張り詰めた雰囲気は、強烈に鬼を呼び覚ます。惹かれあうのだ、狂気と狂気は。
「……千鶴さん?」 
 寝ているのだろうか、と耕一はノックする手を止めた。暫し迷ったが、預かっていたキーを使うことにする。あまり女性の部屋には無断で入りたくなかったのだが、そういうわけにも行かず、耕一は仕方なく部屋のドアを開けた。
「……ごめん、入るよ」
 覗き込むように顔からお邪魔して、次に足を前に踏み込ませる。どこからかラベンダーの香りがして、時計のかちかち音が聞こえて来たが、眼には何も見えて来なかった。
 耕一はドア手前のスイッチを探し出し、電気を灯す。
「……風?」
 ベッドにもどこにも千鶴の姿はなく、窓だけが開いていた。
 ここは十四階。まさか人が降りられるはずもないが、千鶴は普通の人間ではない。それこそ忌まわしきは柏木の血筋。
 気配は遠く。鬼の匂いはここにはない。だからこそ――
「……立ち向かう気か、ひとりで?」
 耕一はぎりっと歯を噛んで、すぐさま後を追いかけた。

     *

 夜が透き通っていた。
 月が映える。木々に囲まれた山陰までも照らしてくれる。
 踏み出した足の重みで地面が軋んだ。それが合図だったかのように彼は足を止めた。元より隠す気はなかったのだろう。こちらと同じだ。付けられていたのが分からなかったというのも馬鹿げている。
 瞳を凝らす。闇を突き刺すように、眼が変質していく。
 紅い。血のように赤い。獣が獲物を見出したように、ただ射抜く。
 紅く染まった双眸で――
「どうも、月夜の散歩ですか?」
 驚くべきことだろうか、彼は笑っていた。何が可笑しくてそんなにも彼が笑っているのか彼女には、すぐに分からなかった。いや、もしかすると永遠に。
「綺麗ですよね。ああ、本当にとても……形容の仕様もないほど、ただ、美しいです」
 稚児のように彼は夜空を見上げて、玩具のように手に持った銀色の刃を、くるくると弄んでいた。本当に呆れるほどの、笑顔で。
「満月は……月というのは、人の心を狂わせます。ルナティックと言うらしいですね」
「……ユングの心理学でも、確かにそういう事象は有り得るらしいです」
「そうですか。難しいですね、こういうのも」
 月夜の下で男と女の二人が色気もなく立っていた。今から起こることを思うと、とてもじゃないが優雅に過ごせそうにはない。服に付いた葉っぱを払う。汚れてもいいようにといつもの普段着で望んではいたが気に入ってはいるのだし、できれば無傷がいい。
「で、どうして僕の後を付けたりしてたんでしょうか?」
 月明かりの中、千鶴は嘆息した。言うほどのことはない。相手もそれが分からないほど馬鹿というわけでもないだろう。無駄な労力は要らない。
「……いつから尾行に気づいていたんですか?」
「聞きます?」
「そうね、興味はあるわ」
「初めからですよ。千鶴さんがホテルの窓から覗いていた時から、ずっと」
「そうか……見ているところから、ね。後を付ける以前の問題だったか……」
「いえ、嘘ですよ」
「……え?」
「もっともっと、初めから柏木千鶴のことは知っていました」
 フルネームで言うことの意味は、柏木家の長女として、鶴来屋グループの会長として。名前も顔も売れるのは、これだから困る。相手は自分のことを知っているのに、こちらは相手のことを何も知らないのだから。化かされた気になる。
「まあ、この界隈では仕方ないのよね……」
 ただ今は驚きもなく、動揺もなかった。呼吸に乱れもない。
「じゃあ、知ってて近づいたのかしら?」
 と、千鶴は訊くが、意外にも彼は首を横に振った。
「偶然です」
「……怪しいものね」
「そりゃあ、そうでしょう……でも、僕が神咲≠ニ名乗った意味も考えてください」
「情報はお互いに、分かち合うか……騙まし討ちは嫌いな方?」
「好きにはなれません」
 彼の口から漏れたのは本音だと千鶴は判断した。カマトトぶっているわけでもなさそうだ。どうやら――この件に関しては、信用しても良いらしい。
 元より神咲≠ェ本当に――それこそ物語のように祓い≠ェ出来るとは千鶴は思っていない。符術や呪術の類は存在さえ疑わしい。とても信じられない。
 ただ、千鶴は刹那を見て頷いた。
 腰に帯びた鞘は、彼が手に持った刀は、本物の煌きを発している。
(そういうことね……)
 世間で物の怪≠ニ呼ばれるものをあれで斬ってきたのだろう。恐らく存在しない事象≠あたかもあるように振舞う。物の怪≠フ正体など、実は動物などの見間違いで――しかし、それを物の怪≠セと言って切り捨てれば、場は収まるのだから。
 千鶴にとっては、眼に見えないまやかしよりも、こちらの方がよっぽど分かりやすく、世間でも肯定されやすいと思った。
 見たところ、この神咲刹那――多少は、武術に心得があるのかも知れないが、今は事態があまりにも酷だ。銃でも敵わない相手に、刀を振り回してどうなる?
 怖いもの見たさもあって彼を囮にしようとしたのは、間違いであったようだ。
 だったら、早く話を終わらせよう。
「神咲君の後を付けたのは……怒らないでね? 本当に貴方があの神咲≠ナ、もし仮にこの辺りで噂になっている、獣が出てきたら危ないと思って、そうしたのよ? 帰りましょうよ、ホテルに」
 千鶴としても、時間は惜しい。この説得で彼が帰らなくても、実際はどうでも良かった。断ったら、「あらそう? お祓いも大変ですね」とか言って、自分から去ればいいのだから。間違いなく、鬼は近くにいる。千鶴のターゲットはそれだった。
「いえ、心配は無用ですよ。もう見つかりましたから」
「……え?」
 繕えたとは思う。驚愕は顔に出なかったはずだ。
 ――見つかった?
 どういう意味だろうか?
 彼は何を言っているのだろうか?
「ど、どうしたの?」
 このどもりは演技だった。 
「怖いこと言わないでくださいよ」
 ささっと周囲を見て、千鶴は胸に手を当てて、安堵の息をついたりする。まさしく、大人をからかわないで、というような視線を彼に突きつける。鎌掛けには乗らない。すねた振りをして、千鶴は引き返そうとした。
「言葉というのは、演技をしようとすればするほど、それに溺れるものですよ」
 が、そんな千鶴を引き止めるように、彼は笑った。
「騙まし討ちは、嫌いです……でも、必要なら仕方ないとも思います」
「…………」 
 今度は振り返らないで、千鶴は足早に立ち去ろうとした。が、前方に張られた糸のようなものが蜘蛛の巣みたく広がり、千鶴の足を止めさせる。
 ――これ以上、前に進めない。
「僕の後を付けることに夢中になって、気づかなかったようですね? 結界を張らして貰いました。いえ簡単なものなんですが……結界の中心となった、僕を気絶でもさせれば、消えます。あと、外界からのショックにも弱いです」
「……あの、何の冗談かしら?」
 今度は繕えなかった。どうして彼が、何の目的でこうしているのか、まったく分からない。動揺が、顔に出ている。思わず、鬼の気が漏れそうになる。
「冗談? それこそ質の悪い冗談でしょう? 神咲の情報網を甘く見ないでください」
「だから、何のこと?」
 こんなのことをしている暇はない。何のトリックかは知らないが、鬼の力を解放すればこんなものは簡単に断ち切れる。でも、そうしたなら、彼に鬼を見せることになる。それは、彼の死を意味する。だが、そんなものは杞憂に終わる。
 彼はすでに柏木千鶴に対して、刃を向けていたのだから。
「降山の伝承、雨月山の鬼<潟Yエル――神咲刹那の名において、今宵ここに討たせて貰います!」
 刀が月明かりを受けて、鈍く光っていた。

     *

「付いて来てください」
 初音を預かっているといった女性にそう言われて、梓はしぶしぶ付き従うことにした。確かに悪い人には見えないが、そういう問題でもない。
 笑顔が気に喰わないのだ。
 どこかで見たような気がするし、取って繕った笑顔に思えて仕方ない。
「……あれ?」
 見た、確かに見た。知っている。
 梓は朧げながら、女性の見せた笑顔の存在を思い出していた。
(そうか……)
 胸のもやもやが晴れて、今はっきりと思い出す。
「千鶴姉に似てるんだ……」
 ぽつりと呟いた言葉は、誰にも聞き取られず、また反響もしない。
(そして、あいつにも)
 一日に三人も、同じ笑顔で笑うもの。
 無邪気に見えて、実はそれ――決して心から笑っていない。
 今の梓には、そこまで頭が回らない。
 今日は、満月だ。

     *

 初音の見る夢は狂気か、それとも――

     *

「ぐおぉぉぉぉ!」
 どこかで獣が月に吼えていた。
 長い、長い、常しえの夜はもうすぐ始まろうとしていた。










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