痕<潟tレイン 〜真夏の夜の夢〜   前編


  * 痕を中心としたクロスオーバーSSです。
    好みが分かれると思いますので、閲覧の際にはそれらの点を了承して頂いた上でお願いします。





 波打つ潮騒の音が心地好い音色となって耳に響く。遠い海上から運ばれてきた潮の香りが鼻腔に付いた。海はどこまでも広く、見上げる空は夏の海にしか見られないような蒼さで浜辺を包み込んでいた。
「耕一さん」
 千鶴の声を聞いて我に返った耕一は、いつもの笑顔でその声に応えていた。
「どうかした、千鶴さん?」
「ええ。耕一さん、何だか、嬉しそうだなって思えて」
 千鶴に言われるまで気づかなかったが確かにそんな顔をしていたのかもしれない。あまり海とは――特に家族で来ることに――縁のなかった耕一は、不思議な感覚を覚えて、少しこの潮風に当てられてしまった。
 それに従兄弟の美人姉妹と一緒に海に来ることに何の不満があろうか。
 耕一でなくても今から千鶴やその姉妹達の水着姿を拝見できることに胸の高鳴りを押さえられないことだろう。
「それじゃどこか適当なところに場所取っておくんで先に着替えて待ってます」
 女性よりも男性の方が着替えるのが遥かに早い。それに時間帯のせいかまだ浜辺は閑散としていた。これなら迷うことなく見つけられるだろうと思い耕一は言った。ここには車で来たのだが渋滞を避けるため早く家を出たのが功を奏したようだ。
「それではお言葉に甘えて」
 軽く会釈をする千鶴に「いいよ」と声を掛けて耕一も鶴来屋お抱えである浜茶屋の男子更衣室に向かった。
 そして――やはり女性の着替えは遅いものだと、耕一は備え付けたパラソルの下で、ひとり噛み締めることになった。

 暫くすると白い砂浜を彩るように様々なビーチパラソルが咲き乱れるようになった。
 千鶴たちと合流し初めの内は耕一も、楓や初音と海辺で遊んでいたが、梓に焚き付けられて沖に浮かんだブイまで競争したのが仇となった。その結果、勝ちはしたものの体力尽きてパラソルの作った影の下で一休みすることになってしまった。耕一は勝ったといっても僅かな差だったかせいか梓に「だらしねえの」と溜め息を付かれ、まさしく『試合に負けて勝負に勝った』と言わんばかりの口振りで悪態を吐かれる羽目になった。しかし、その梓も「お兄ちゃんを独り占めにした」とか「耕一さん、梓姉さんの相手をして疲れてしまったみたいですね」とか言われ、妹達から手痛い仕打ちを受けることになっていたが。
 それを遠目から見ていた耕一は、どこか微笑ましくその様子を見守っていた。
(あれから一年か……)
 長かったのか短かったのかは耕一自身よく分からなかった。
 柏木家。鬼の血。両親の死。千鶴。その姉妹。猟奇事件。そのどれもが夢のようで自分とは関係のないようなものだと思えた。
 今瞼を閉じても鮮明に思い出せるのに、恋焦がれていた千鶴と心が通じ合ったのが嘘のように思えてならない。すべてが白昼夢のように、目が覚めたら今の自分はここには居らず、今もアパートの下で間抜け面して布団に包まっているのではないか、と。それを容易に想像できたので耕一は少し寂しそうに苦笑した。
 悲しむことなら誰にでも出来る。苦しむだけなら生きているだけで死んでいるのと同じ。耕一はそう自分に言い聞かせて現在(いま)を生きていた。欲しかったものは内にある。本当に手に入れたかったものはここにある。それを護ってこその男だ。
 この一年間たくさんの経験をした。多くて語り尽くせないほどの苦労を重ねたつもりだ。努力は知識となって現れ、その過程は経験となり自信に繋がった。だが、それらが自分の空回りだったのではないかと思うほど千鶴といることに安心感を覚えた。愛し合い、次に会った時は千鶴に相応しい自分になるためにと躍起になっていたのが馬鹿馬鹿しくなるほど千鶴は耕一を愛してくれていたし、耕一もそうであった。この人となら大丈夫だと耕一は心からそう思った。耕一は千鶴と千鶴の背負っていたものすべてを受け入れたのだ。
「あまり深刻な顔をなさらないで下さい」
 ふと気づくと千鶴が隣に寄り添ってくれていた。その手に差し伸べられた冷たい飲み物を耕一は受け取る。真昼からビールとは些か抵抗があったが――実はまったく無いが世間体という意味で――それも平和なればこそと思い耕一は喉を潤した。
 そこには、千鶴に自分の考えを見透かされたような恥ずかしさも同居していたのだが、耕一はアルコールでそれを誤魔化そうとした。そのせい――というのも可笑しいが、ビールはすぐさま空になった。
 千鶴は呆れたように耕一を見つめていたが目元は優しいままだった。いつものように笑顔を浮かべて「飲みすぎは駄目ですよ」と言いながら、もう一本、耕一にキンキンに冷えたビールを手渡し、千鶴も慣れない手つきで缶ビールの蓋を開けた。
「まるで夢みたいですね」
 そうやって耕一に微笑み掛ける千鶴はどこか儚く。耕一と同じような心持ちなのかその存在を確かめるように耕一の手を掴んでいた。
 艶やかな黒髪。滑らかな曲線をつくる腰のライン。白いビキニが悩ましいほど千鶴に似合っていた。耕一はそれを見て綺麗な人だと改めて思った。そして、自分を見つめて笑いかけてくれる度に、それ以上に可愛い人だと耕一はその手を握り返す。場所が場所であったなら耕一はこのまま千鶴を押し倒していたかもしれない。それに今触れ合えることこそが現実であった。
 ――そんな甘い雰囲気が壊されるのは一瞬だった。
「いい加減しつこいんだよ!」
 梓の怒声が耕一と千鶴の耳を突き抜ける。その声だけでふたりとも梓達に何が起きているのか理解した。いわゆる軟派というやつだ。梓だけなら見物するなりそれをネタに梓をからかったりする耕一だが、こと、初音や楓まで巻き込んでいるのでは高みの見物などしている場合ではない。ふたりにはせっかくのバカンスをこんなことで失意の念が混じるものにしてほしくは無かったし、耕一自身もふたりを軟派するような輩は許せなかった。
 耕一が立ち上がると、千鶴もそうしようとする――のを、軽く首を振って制止する。千鶴をそんな奴らの視線に晒したくは無かったし、千鶴が来ると梓以上にケガ人が増えそうだったからだ。
 そんな耕一の意図を理解したわけではないだろうが、千鶴はそれに従って、茣蓙の上に置いてあった水着と同じ色したパーカーを羽織る。後は耕一に任せるという意思表示と、もうひとつは耕一がいなくなったら走ってきそうな他の軟派への拒否表示でもあった
 千鶴さん綺麗だからそれくらいじゃあ、と思いながら周囲に鬼気を叩き付けて、梓達の許に歩み寄ろうとする――と、その三人の中に見知らぬ女の子の姿があった。
 柏木四姉妹の中で末っ子の初音よりもさらに二つ三つは年下だろう女の子。中学生くらいだろうか。いつもなら知らない男の子に声を掛けられたら、それだけで萎縮してしまうような初音が、今はその子を怖がらせないよう精一杯の笑みを向けて『大丈夫だよ』と抱きしめる後ろ姿は、初音も立派に成長していることを耕一達に示していた。
 耕一は思わず千鶴の方に目をやる。千鶴もその姿に感動しているのか嬉しそうに涙を拭うような仕草まで見せた。梓に言わせるとそれが偽善チックな振る舞いなのだろうが、当の本人はお構い無しだった。
 それはそれで耕一は困ってしまった。
 このまま三人に事を任せて置きたくなる気持ちもあったが、その強さはもっと別の場面で示してもらいたいと耕一は高鳴る気持ちを押さえて初音達の許に向かった。
「その辺にしとけよ」
 静かな怒りに包まれた声が、大学生くらいの相手三人を萎縮させる。それでも強がっているのか言葉してきた相手に対して「うるせーよ」とか言っていた。その様子を少し離れた場所から見ていた耕一は唖然となった。
 そう。梓達の助けに入ったのは耕一ではなく別の男子だった。耕一はそれを見て学生風の男達が虚勢を張らないわけにはいかないだろうと思った。何せ軟派を止めに入ったのは、まだ容姿に幼さ残る高校生くらいの少年だったからだ。それなのに、その少年から感じる気迫は、常人を射抜いただけで凍りつかせるのに充分なものがあった。そうでなければ無視されているか、とっくに男達を怒らせて酷い目に合っているかのどちらかだろう。
「お前に俺らが何かしたのかよ」
 三人の中でもリーダー風の男が言う。耕一にはそれは無謀な行為にしか映らなかった。耕一の身体に流れる鬼の血が、彼らでは少年の相手にならないことを教えていた。少年が拳法か空手でもやっているのかと耕一は訝ったが、その気迫は何か実戦の中でしか手に入らないようなものに思えてならない。
 まあ、とにもかくにも――
「俺の出る幕じゃなくなってきたな……」
 耕一は悲しそうに呟いて成り行きを見守ることにした。

     *

「僕にじゃない。彼女達にしてるんだろう。話の論点を変えるなよ」
「なんだと!」
「軟派するなら相手を選べって事だね。それくらい分かれよ。それとも単なる木偶の坊かい? 伊達に長生きしてないんだろ」
「てめえ! 言ってくれたなっ!」
 怒りに身を震わす相手に対して少年は涼しい顔で「ふん」と鼻を鳴らした。こうなったら後は暴力に訴えるしか場の決着を付けられない――と思われたが、それを黙って見ていられる梓ではなかった。
「あーもう五月蝿い! お前ら人を無視して話し進めるなよ! お前もだ、お前も! いきなり出て来て話しややこしくしやがって!」
「……あの、それって僕のことですか?」
 自分の顔を指差しながら少年は改まった声を出す。
「ああ、そうだよ。それに僕≠セって? その年になって僕≠ネんて言ってんじゃね! 男なら男らしくしろよ。その嫌味ったらしい言葉使いも含めてだ!」
「この喋り方ですか? これには理由があって……」
「男なら言い訳するな! それにお前は関係ないだろ! こういう奴等には――」
 言って梓は男達に向き直る。
「こうすりゃいいんだよ!」
 梓は素早く一番近くにいた軟派男に殴り掛かる。あまりのことに反応しきれなかった男は、まともに喰らって砂浜の上に倒れ込んでしまった。
「…………!」
 少年はポカンと目を見開いて、青い空の下で繰り広げられる残酷な光景を目の当たりにした。梓の(ほとんど一方的な)戦いの火蓋が切って降ろされていたからだ。

「へーん、どんなもんだい!」
 ぱっぱっ、と手を打ちながら、倒れ伏した三人に向かって得意げに言う。その様子を周囲の野次馬に紛れて見ていた耕一は呆れて言葉も出なかった。
(……楽しんでないか、あいつ?)
 軟派で声を掛けてくる奴等は梓にとっていい遊び相手かも知れない。と耕一はちょっぴり同情してしまった。
「つーわけだ。あんたも分かっただろう。あたしらに助けは必要ないんだ」
「はあ……」
「さあ、あんたも帰った帰った。軟派目的であたしらを助けようとしてたなんて思われたくなかったらな」
「でも……そういうわけには……」
「なに!? もしかしてあんたも――えっ?」
「…………」
 梓の横を駆け抜ける小さな影。勢い良く少年に抱きつく女の子に耕一は見覚えがあった。その子は初音の後ろで怯えていた女の子だったからだ。
「すみません。妹がお世話になったみたいで」
 少年が軽く頭を下げて言うのを、梓は顔を真っ赤にさせて頷いていた。
 なぜ梓が顔を真っ赤にしていたかと言うと、梓の拳が少年の頬に見事なまでにヒットしていたからであった。

     *

 一体どういった事になったのかしら。梓達の様子をひとりパラソルの下から見ていた千鶴はどうも事情が良く分からない。軟派していた男達を梓が問答無用で蹴散らしたのは分かる。妹の梓ならやりそうな事だったし、これが初めてと言うこともないだろう。分からないのは、耕一が止めに行ったにも関わらず、見知らぬ少年が出て来て、結局、梓が暴力に訴える結果になったことだ。その梓はと言えば、耕一に頭を下げるのを促されて、少し躊躇った後、申し訳程度にぺこりと少年に対して、頭を上下させていた。
 千鶴はちょっとした疎外感を味わいながらも、その経過を何となく理解した。少年は妹達を助けに入っただけで、別に梓達を軟派しようとしていた訳ではないようだ。そして初音達と一緒にいた女の子が少年の妹であるらしい。聡明な千鶴ならすぐに分かりそうなことだったが、妹達に近づく男達は――耕一を除いて――誰であっても排除の対象にしか思っていない千鶴らしい鈍さだった。
(まあ、一応は助けてもらったわけだし、私が行って礼を述べるのが当然よね)
 助けなんて必要なかったけど、と千鶴は思いながら耕一達の許に向かった。
 空から降り注ぐ太陽の光を浴びて、そろそろお昼の時間よね、と別の事を考えながら。

     *

 楓は人が多いところは苦手だった。それに夏の海はもっと苦手だった。海は好きだし、泳ぐのは得意じゃなくても、浮輪で波間に漂うことができたなら、それはとても気持ちの良いことだった。だけど、自分はなぜか知らない人から声を掛けられることが多い。断っても切りがないくらい多いので、あまり海に来なくなっていた。それは初音も同じだったようだけど、初音には元気な友達がたくさんいるので、偶に海へ出掛けていた。楓にはそれが少し羨ましかった。それは、海に行くことができるからなのか、誘ってくれる友達がいることなのか、楓自身あまり考えないようにしていた。
(……友達なら私にもいる……)
 けど、物静かな性格のせいか学校以外での付き合いは、ほとんどなかった。
(……でも、それは私が距離を置いたから……)
 エディフェルとしての記憶――時折フラッシュバックのように甦ってしまう。それは時に涙が零れ落ちるほど辛い。その記憶を背負ったまま上手く学園生活を過ごせるほど自分は器用ではなかった。初音が自分と同じ高校に通いたいと言った時も、楓はそんな自分の姿を見せたくなくて、その申し出を断っていた。
(……あの時はお説教みたいなことになったっけ……)
 義務教育を終えて、初めて自分で進路を選ぶのに、私を理由にそれを決めるのは良くないことだ――と。
(……ごめんね、初音。そんなの私が言えた義理じゃないよね……)
 ふと、目を瞑る。エルクゥとしての血がそうさせるのか、風を感じる時、意識が鮮明になって総ての世界を見通せるような錯覚に陥った。
 そして、音。
 赤色のビーチボールが風に流されて楓の足元に転がってきた。楓は戸惑いながらもそれを拾い上げる。そして顔を上げると楓の前に女の子が立っていた。無言でこちらを見つめている――とは言っても無表情ではなく、むしろ優しい感じのする不思議な表情だった。
 ――こんにちは。
 その女の子は言葉を発していないと言うのに、楓にはそう言っているような気がした。
「楓お姉ちゃん!」
 妹の声が聞こえたのは、そのすぐ後のことだった。

「……初音?」
 こちらに向かって手を振る少女の名前を確認するように呟く。淡いライトブルーの水着が陽光を反射するように煌めいていた。耕一が「可愛いよ」と初音の水着姿を誉めていたのを思い出す。楓も手放しで頷けるほど初音によく似合っていた。
 楓は少し複雑な気分だった。楓が着ているのは紺色のワンピースで平凡と言えば平凡な水着だった。それでも耕一は同じように誉めてくれたが、今の初音を見た後では自分に対する耕一の言葉が社交的なものに思えてしまう。
(……そんなはずないのにね……)
 妹に対してコンプレックスを感じていると思う。明るく元気に笑えること。耕一に無邪気に甘えられること。人見知りしてしまう自分とは雲泥の差だった。
(……それでも……)
 駆け寄ってくる初音に優しく微笑み掛ける。それは他人から見たら分からないようなほんの少しの笑顔。でも初音や耕一達になら分かる充分な心の表れだった。
(……私は初音のこと、好きだから……)
 いつものように笑えることができるから。初音の笑顔に幾度も救われてきたから。たったひとりの大切な妹だから。初音が私の妹でいてくれるから――
(……私はお姉ちゃんでいられるんだよ……)
 側まで来た初音の頭をそっと撫でる。
「楓お姉ちゃん……?」
 少し自分らしからぬ行動だったかもしれない。それでも楓は触れ合いを求めて、初音を愛していることを何か形にして伝えたかった。
「おーい。初音どこ行った? 楓は見つかったのか?」
 視界の奥に姉の姿が見えた。
(……私を探していたの……?)
 耕一さんを独り占めにしたことで、まだ怒っていると思われたのかな。そう考えると顔が赤くなる。人込みを避けていたら自然とふたりから離れていたみたいだ。
「梓お姉ちゃん。こっちだよ」
 梓に向かって手を振る初音。その傍らで楓は気づいたように声を上げる。
「……あ」
 手の中にあるビーチボールを今更ながらに思い出す。あの少女が居たところを見ると、そこにはもう、誰の姿も無くなっていた。
「…………」
 渡し損ねてしまった。そう楓が思った時に一際強い浜風が吹いた。手の平から死守する間もなくビーチボールが浜をころころと転がっていく。楓が慌てて取りに行こうとすると誰かの足元にビーチボールが引っ掛かった。
「…………」
 そこには、先ほどと変わらない不思議な表情で立ちすくむ、少女の姿があった。
「楓お姉ちゃん。どうしたの?」
 初音が同じように隣に立つ。自分に見えているものが初音に見えない訳がない。そのはずなのに初音は不思議そうに声を出した。
「……そこに誰かいるの?」
「……え?」
 一瞬――どころかまったく理解のできない初音の言葉。女の子は今もそこにいるというのに。楓は信じられない気持ちで、恐る恐る声を出していた。
「……見えないの?」
「……え? あれーっ!?」
 初音は恥ずかしそうに声を上げた。
 楓が見ているものと同じところに初音の目線が移ると、その戸惑いを受け止めるかのように、女の子の顔に初めて表情らしい表情――笑顔が灯った。
「やっと見つけたー!」
「あ……」
「梓お姉ちゃん!?」
 突然の声にふたりが同時に振り返る。
「なんだ!? ふたりとも素っ頓狂な声出すなよ。まるで幽霊にでも遭ったみたいじゃないか」
 梓は本当に驚いたのか大声を上げる。それでも楓も初音も無事なことを一通り確認すると、ほっと胸を撫で下ろして安堵の息を漏らした。
「楓。あっちこっち探したんだぞ」
「……ごめんなさい」
「いや。いいんだけどな。今度からどっか行く時は一言くらい声掛けてくれよ」
「……はい」
 ぼうっとしていてはぐれたんです、と言うよりは素直に頷く楓であった。
「あはっ。今の梓お姉ちゃん、千鶴お姉ちゃんみたいだったよ」
 縁起でもない、と梓はぱたぱたと手を振る。
「ん?」
 初音と楓の他に見知らぬ女の子がいるのを見て、梓が声を掛ける。
「よう」
 その声に応えて少女がたおやかに微笑む。それに気を良くしたのか、梓も普段以上に笑顔となった。
「あたしは梓。よろしくな」
「……魅月(みつき)」
「魅月か。いい名前だな」
 こくん。と少女が頷く。
(……喋れたんだ……)
 楓はごく純粋にそう思ってしまった。
(……ばかね。そんなの当たり前じゃない……)
 心の中で謝罪の言葉を述べて、楓もその女の子・魅月に微笑み掛けた。
「それじゃあ一緒に遊ぶか?」
「…………」
 梓の問いに、少女はもう一度ゆっくりと首を上下させる。
「え?」
 そのやり取りを見ていた初音が不思議そうに疑問符を浮かべた。それに気づいた梓も不思議そうに訊ねる。
「あれ? お前らの友達だろ?……もしかして違ったか?」
 楓と初音は顔を見合わせて、ふたり仲良く頷き合った。
「うん」
「……友達です」
 そのふたりの様子に、魅月は幸せそうに笑顔を零していた。

     *

「……と、まあ、そんな事情で……」
 梓は事の顛末を耕一と千鶴に話して聞かせた。その口調は重い。それも当然だろう。一目見ただけで、姉の不機嫌さを悟ってしまったからだ。
 人前――それも耕一がいるおかげだが、そうでなければ千鶴は笑顔を保っていなかったと容易に想像できる。今はにこにこと梓の方を見つめて、いけない子ね、とか言って耳をつねる程度に抑えているが、後で折檻を喰らうのは間違いなかった。
 耳をつねられているだけでも、かなり痛いんだけど、と梓は溜息をついた。
「申し訳ありません。妹の早とちりで迷惑をお掛けしたようで」
 深々とお辞儀をする。非は礼する。少年は慌てて言った。
「あ、いえ、こちらこそ妹がお世話になっていたようで、実を言うと、謝罪……というか、お礼を言いたいのは、僕の方なんですよ」
 と、少年も千鶴に負けないくらいの作法をもって笑ってみせた。
「そう言ってもらえると、幸いです」
 千鶴もまた笑う。今まで培ってきた百戦錬磨の営業スマイル≠セった。確かに少年に対して申し訳ないと思っているのだが、鶴来屋という囲いの中で過ごしている千鶴にとっては、どうしても他人に対して笑うことが出来ない。それは仕方ないと千鶴は思う。その上で、応対には不自然にならないよう努めてきたつもりだ。それはこのような時でも。
「ですけど、その頬の傷……痣になるかも。姉の私から言うのもなんですが、妹の梓は馬鹿力で……いつも私たちを困らせるんですよ?」
 梓に目配せをして、千鶴は本当≠ノ困ったように言いはぐらかす。そろそろ話題を逸らして、このような遣り取りは早く終わらせたかったのだ。せっかくの休暇なのに厄介事は御免だった。しかし、だからといって――非はやはりこちらにある。まあ、後は商談よりも簡単な一件であるからして、話術を用いて相手から聞きたい言葉を出して貰うだけだったのだが。
「姉として恥ずかしい限りです」
 もちろんこういう言い方をして梓への牽制も忘れない。親に叱られた子供のように梓は詰まらなさそうに俯くだけだった。
「そ、そんなことないですよ。だって、梓さんは本当に妹さんたちの為にしたことなんですから。結果は、まあ……こうなってしまいましたけど、別にそれほど気にすることじゃないですよ。少なくても僕は気にしてませんから、そんな風に畏まれてしまうと、こっちが困っちゃいますよ」
 少年は明るくそう言った。気にしていない、という言葉に嘘はないだろう。だったら、もう頃合だった。
「でも、怪我の方が……」
 男なら一発で伸せそうな極上の上目遣いで千鶴は言った。もちろん演技だ。隣から小さな声で、偽善者、と呟くのが聞こえてきたが、今はこちらの方が優先だった。
(後で覚えてらっしゃいよ)
 と、そんなことを思いつつも、笑顔は崩さない。
「あはは、大丈夫ですよ、これくらい。それに、こういうことは、結構、慣れっこだったりするんですよ。何にでも首を突っ込む性格って言うのかな、こういうのも」
「うふふっ。それじゃあ、うちの梓と同じじゃないですか」
「そんなこと言ったら、梓さんに失礼ですよ」
 談笑する二人を見つめながら、おいおい、と突っ込みを入れたい梓だったが止めておいた。賢明な判断だろう。後で姉から受ける説教の時間を長いものにしたくはない。
「それじゃあ、魅月が帰ってきたら、失礼させて頂きますね」
「はい、お世話を掛けました」
 そうして会話は千鶴の笑顔で締めくくられる。見事なものだと梓は思った。それにタイミングも良かったのか、海から上がってくる三人の姿も視界に入る。そこには耕一も一緒だった。子供達には海で遊んで貰っていて、耕一は、これじゃあ、あんまりだから、と――先の軟派男どもを医務室まで担いでやっていたのだ。三人のそれなりに屈強な男を軽々と担いでいく姿は、まさに圧巻だった。
「千鶴お姉ちゃん!」
 大きく手を振ってくる初音に千鶴は屈託のない笑みで手を振り返す。切ないまでの笑顔。彼女の優しさが向けられるのは家族だけでしかあり得ない。特に末っ子の初音には甘いのだが、まあ、それは何も千鶴だけではなくて、どうして耕一がこちらに向かって手を合わせて、ごめん、のポーズを取っているのか千鶴には分からなかった。が、すぐに――
「あのね、魅月ちゃんって、わたしたちと同じホテルで泊まるんだって」
「あら、そうなの?」
 鶴来屋のリゾートホテルはこの界隈では有名なので驚くことはない。それでも千鶴は初音に合わせて目を丸くして見せた。
「それでね、一緒にお昼してね、遊ぶことになったんだよ」
「……えーと、それって?」
 思わず視線を――今度こそ丸くさせて、耕一に向ける。
「えーと、なんというか……言葉通りというか……つまりは、そういうことになって」
「はあ……」
 曖昧に言葉を濁す耕一に、これまた曖昧に返事をする千鶴。
「いや、でも、ご迷惑なんじゃあ……」
 二人の心中を察したのか、少年は戸惑ったかのように言葉してくる。しかし、千鶴も耕一も、すでに諦めの溜息をついていた。初音には甘いのだ、二人とも。
「あ、いや、その……こら、魅月っ」
 なんとなく事の次第を自分の妹に見極めた少年は、そちらを見やる。いつも――というのも可笑しくあるのだが――魅月は、焦点の定まらない虚ろな瞳で、楓という女の子にじゃれ付いていた。そのおかっぱの女の子は、構いません、という視線を送ってきたので、それ以上は何も言えなくなってしまった。
 陽光は未だ衰えを見せない。限りなく広がる空すらも終わりは見せない。波の音も途絶えなく、夏はどこまでも続いている。ゆっくりとした動作で息を吐き出して、深呼吸するように天高くその手を伸ばし、少年は言った。
「神咲刹那って言います」
 誰に向けて言っているのか、最初は分からなかったが、それが自分であるという事に気づいて、彼女……千鶴も会釈して、名乗ることにした。仕方なく。
「柏木千鶴です。そして――」
 他の姉妹と婚約者である耕一のことも紹介する。時間が過ぎ去っていく。風は止むことなく、遠くから潮の匂いを運んで来ていた。

     *

 ――昨夜のことになる。
 ひとりの少女が姿を消した。家出ではない。失踪でもない。殺されたのである。いやもっと的確に表現するなら、血を吸われたのである。
 喰らわれた、そういうことだ。
 鬼は人気のない山の中にまで少女を運び込んでこれを喰らった。
「……よくも、やってくれました」
 降山には鬼がいる。古い伝承だ。冷酷で、貪欲、残忍で情などない。ただの化物。今は吸血鬼。しかし黒衣を纏った彼女は、鬼とは別の意味で冷酷だった。感情の灯らない瞳。まるで地に落ちているものは、単なるゴミだとでも言いたげに見下ろす。人は死んでまでも人ではいられない。これは彼女の理屈だった。鬼の理屈では食糧か? 苦笑してしまう。冷酷でなければ死ぬのは己ではないか。
「……滅します」
 話し合いを化物とするものはいない。動くのは彼女の方が早かった。手に持っていた黒鍵を投げ付ける。ドン、ドン、ドン、と乾いた衝撃音が虚空に響いた。
「…………」
 今も夜天から降り注ぐ月明かり中で彼女は眼を細めた。そして舌打ちする。認めざるを得ないことだった。
(……最悪ですね……)
 黒鍵とは楔のことだ。彼女はこれに投剣を用いて吸血鬼の体に軋みを生む。死に対して強い抵抗力を持つ吸血鬼の体を崩壊させる概念武装の一種だった。ひとつでも刺さったなら縫い付けられて、身動きを取れなくしてしまう。しかし、結果は結果だ。受け止めなくてはいけないだろう。
「……逃げられた?」
 これには笑ってしまう。すべての黒鍵をかわして、尚且つ、一瞬で彼女の視界から離脱できるほどの死徒≠ェ、逃げてしまったというのだ。
「完全ではない……ああ、そういうことですか?」
 月の光は美しい。この薄闇の森の中で彼女は嘲る。自分自身の不甲斐なさを叱責する。ここにいた死徒≠ヘ予想を上回って――強い。大きく見誤っていた。
「いいですよ、別に。近いうちに、どうせ……」
 吸血鬼を滅ぼす為の機関、彼女が属している組織を、『埋葬機関』といった。
 <弓>は笑う。見つかったのなら、もう逃げられはしないのだ、と。
「わたしは標的を外しそこないませんよ?」
 飛び道具を愛用する彼女は、組織では<弓>と呼ばれている。だが、もうひとつの由来は、弓で放った矢は標的を射抜くまでは止まらない。そこから来ていた。
 今宵が……ここで幕引きだったとしても、矢はすでに放たれている。
 明日は長い夜になりそうだった。










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