WHITE ALBUM
『I want to love. I want to believe』
~only you~
Rina Ogata
いつからだろう。どうしてだろう。何がきっかけだったのか。何がこうさせたのか。
分かっていた。こうなることは。考えても、もう仕方のないことだとは。
いつからだったのだろう、彼女を見る目が変わっていったのは。
いつからだったのだろう、彼女が俺を見る目が変わっていったのは。
きっと、出会いなんてものはどれだって特別で、きっかけなんてものも知らぬ間に生まれているのだろう。
だからきっと、考えても無駄なんだ。
俺はそう、自分に言い聞かせた。
言い訳だと、詭弁だと、そう分かっていながらも。
そうしなければ駄目だった。自分を保つ自信が無かった。
そうしなければ、由綺に対する裏切りに耐えられなかった。
誰かを愛し、誰かを思うことで、誰かが傷つけねばならないのだろうか。
その誰かが、俺ならばよい。俺が傷つくことで、他の人が救われるなら俺は喜んで犠牲となろう。悪いのは俺なのだから。
俺が彼女を好きにならなければ、誰も傷つくことは無かったのだ。
そして、彼女が俺を好きになることもなければ、彼女も傷つくことは無かったのだ。
俺は信じることができなかったのだろうか、愛し続けることができなかったのだろうか。
小さな不安はいつしか、黒く重い暗雲へと変化し、俺に不安、疑念という雨を浴びせ続けた。
俺の由綺に対する愛情は、いつしか薄れていった。
いや、薄れていったのではないだろう、その向く先が変わっていったのだ。自分ですら、気付かぬうちに。
それが良い事だったのか、悪いことだったのかは分からない。
きっと、恋愛なんかに答えは無い。考えるだけ無駄なのかもしれない。
全ては背中合わせなのだ。愛と憎しみも、希望と絶望も、友情と裏切りも。癒すことと傷つけることさえも。
それらは、とてもアンバランスな天秤の上で常に揺れ動いているのだ。
誰にも、その俺の心の天秤を支えることはできない。
抑えられぬもの、それは誰にだってあるだろう。
抑えれぬ欲求、人によって形は様々だと思う。
けれど、誰にだってこれは抑えられぬものの一つではないだろうか。
『愛情』という感情。人を好きになるということは、理屈ではない。煩悩といえばそれまでかも知れないが、俺はそんな風に思いたくはない。邪な感情が無いといえば嘘になるだろう。だが、それが目的ではないのだ。それは、一つの手段に過ぎないのだ。根底にあるものは、純粋な愛、そう思いたい。
せめて、そうでなければ余りにも由綺に対して申し訳ない。そして、自分自身のことを許せない。
決して、一時の気の迷いなどで彼女を抱いたのではない。
俺は彼女を愛している。
自信を持ってそう言える。
だからこそ、後ろめたかった。だからこそ、辛かった。
由綺を裏切らなければならない、ということに。
大切な人が叩かれていても、倒れていても、手を差し伸べることが許されない自分が。
「私、冬弥君と寝たの―」
パアァン…。
ひどく乾いた音が響いた。
誰もいないスタジオで。
私と由綺。
二人きりのスタジオで。
「どうして…! どうして、理奈ちゃん! 理奈ちゃん、私と冬弥君のこと知ってたのに、どうして…」
由綺の悲痛な叫びが、大気を震わせる。
彼女の想いが胸に痛い。
私は、由綺に叩かれた頬を手で抑える。
『知っていたのに』
知らなければ、私は苦しまなくて済んだのだろうか。
私も、冬弥君も。
そして、由綺も。
きっと、綺麗事なんだってことは分かってる。誰も傷付かないで済むなんてことは。
誰もが傷付き、そしてその傷を乗り越えていかねばならないのだ。
けれど、誰しもその傷に耐えられるわけではない。
私はどうだろう、由綺は? そして、冬弥君は?
自問してみる。勿論、答えなんて出るはずがないけれど。
「………」
なかなか、言葉が出ない。
私は、「愛は奪うもの」だとかって、陳腐なドラマのようには考えられない。
けれど、結局は奪ってしまっているのだろう。
言い訳はしたくなかった。
「どうして…」
私は言葉を紡ぐ。
言い訳はしたくは無かったけれど、私の口からでた言葉は言い訳でしかなかった。きっと。
「どうしていつも…いつも人のものなの…? いつも、いつも…」
瞳が熱い。私の瞳からは、涙という雫が零れ落ちていた。
何故、涙を零したのだろう。
苦しくて? 寂しくて? 辛くて? 耐えられなくて?
耐えられなくて? 一体何に。
きっと、何もかもに…。
「私がんばった! がんばってきた! みんなに天才だって言われて、その期待を裏切らないようにしてきた! それなのに、どうしてみんな人のものなの!?」
私の悲痛な叫びは、僅かに、それでも確かにこのスタジオの大気を揺らした。
パアァン。
また、音がした。
痛い、痛い音だ。
あまりに乾いたその音は、人の心まで乾かしてしまうような錯覚すら覚える。
私は、由綺の頬を平手で叩いていた。
「どうしてみんなあなたのものなのよ!? 初めて、ほかに何も要らないって思ったのに、それなのに、兄さんも、冬弥君も…。どうして、私のものじゃいけないのよ!?」
周りから見れば、何もかもあるように見えたかも知れない。けれど、その実私には何も無かった。私が欲しいものは決して手に入らなかった。
いや、それはあったのだ。けれど、彼女が、由綺が私から奪い取っていってしまった。
親は無く、唯一の肉親である兄さんを…。
だから、私が冬弥君を由綺から奪っていいという訳ではないだろう。
それでも理屈ではないのだ。恋愛などというものは。
少なくとも、彼は与えてくれたのだ。私が、渇望してやまなかった『愛』を。
ふとしたきっかけで、ふとした瞬間に、恋に落ちて、愛を求め合ったとしても誰が私を責められるだろうか。
例え、その相手が親友の彼氏だとしても…。
(私の…エゴだってことは分かるけど…けど)
愛してしまったものは仕方が無い。私はそう思った。
止めどなく溢れる、熱い思いをどうして抑えられるだろう。
抑えようとはした、けれど駄目だった。
思いを忘れようとしても、すればするほど彼に対する思いは強くなっていった。
いけないことだとは知りながらも、いや知っているからこそかも知れない。私と冬弥君はお互いを熱く求め合った。
痛かった。
心が、体が。
でも、それよりも嬉しかった。
彼が、由綺よりも自分を選んでくれたことを。
そこに、愛を感じることができたことが。
パアァン。
乾いた音は、今一度スタジオに響いた。
流れる時間の早さが、やけに遅く感じる。流れる時の早さなど、いかなる時も変わらないというのに。
「うっ…うう…っ……」
由綺の嗚咽が聞こえる。
そして、彼女は非常口へと駆け出し、出ていった。
彼女に、私の思いを分かってもらおうとは思わない。きっと、お互いに辛いだけだから。
私は再び打たれた頬を抑えながら、床へと崩れ落ちた。
「うっ…うう…」
泣きながら。
泣いている理由は考えたくなかった。今は何も考えることができなかった。
ただ私は泣いた。
涙が枯れるまで。
私は、何事もなかったようにスタジオを後にする。
予感のようなものはあったような気がする。
そこには、誰よりも会いたくて、そして会いたくない彼がいた。
「あら、冬弥君。待っていてくれたの、ひょっとして?」
私は、いつものように微笑む。彼も同じように、微笑み返してくれる。
あんな事があった後でも、長い芸能生活というものは笑顔というものを可能にさせる。
それが、喜ばしいことなのかは分からないけど。
けれど、私は何事もなかったように、いつものように振舞った。
「い、いや。別に待ってたってわけじゃないんだけど、帰る前に挨拶だけしていこうと思ったから」
彼もまた、いつものように言葉を返してくれる。
いや、いつもではないのは私だけだ。彼にとってはいつも、なのだから。
彼は、私と由綺があんなことをしたのを知らないのだから。
「あははっ、そうだったの。冬弥君、真面目すぎるわよ。私なんか構わないで帰っちゃってよかったのに」
私は笑う。
私の笑顔は良くも悪くも完璧で、いつも通りのはずだった。
いや、間違いなく完璧だった。
おかしいのは彼の方だった。
笑顔ではあるけれど、どこかぎこちない感じがした。
「冬弥君…?」
私は疑問の声をあげる。一体どうしたのだろうか。
私が声を掛けると、彼の瞳から涙が零れ落ちた。
気が付くと、私は冬弥君に抱きしめられていた。
強く、強く抱きしめてくれた。
私がそうしたかったように。
「あはは…。ど、どうしたの、冬弥君…? 急にそんな、驚いちゃうじゃない…」
私は言ったけど、もう分かっていた。
(冬弥君…、私と由綺の事見てたんだ…)
その上で、何事もなかったかのように振舞おうとしてくれたのだろう。
私のように、演技は上手くはないみたいだけど。
私は、冬弥君からそっと離れる。
弱々しく微笑む。本当は、いつもの笑顔をしたかったけど、いつもの笑顔はできなかった。
「ごめん…。いや、なんでもないんだ。ただ、音楽祭がんばって欲しいなって思って、それで…」
冬弥君も弱々しく微笑んだ。
「うん…。がんばるから、私」
いろんな意味での、がんばる、だった。
私自身の事、由綺ちゃんの事、兄さんの事、そして冬弥君のこと。
私は微笑んだけど、それはいつもの笑顔じゃなかった。
けれど、弱々しい微笑みなんかでもない。
ずっと、忘れていた。芸能界に入って、カメラに追われて、気が付くと忘れていた、私の本当の微笑み。
「ほら、行かないと…。英二さん、待ってるんじゃないの?」
冬弥君は、私の表情を見て少し安心したように、そう言った。
「ええ…」
とだけ、私は短く返した。
そして、冬弥君に背を向けて廊下を歩いていく。
明日の音楽祭へ向けて。
まだ誰にも言っていない、心の奥にある決心に向けて。
私の新しい人生を、新しいアルバムを、『ホワイトアルバム』を開くために―。
音楽祭が終わってしばらくした後、俺は由綺に街中で偶然会った。
喫茶店に入って、少し話をした。
気まずいということは確かにあったけど、きちんと話はするべきだろう。俺はそう思って話をした。
その時、一つのCDアルバムを貰った。『WHITE ALBUM』、ジャケットにはそう書いてあった。
森川由綺のファーストアルバムにして、緒方理奈のファイナルアルバム。
そう、理奈ちゃんは歌手をやめる。そう、由綺は言った。
「理奈ちゃん…歌手、やめるって…。もう決めたんだって…。理奈ちゃん…そんなにまで冬弥君のこと…好きになっっちゃったんだね…」
そう言った、由綺の肩は小刻みに震えていた。
「私…そこまでされたら…何もいえないもの…」
そして、そう言った。
その後、俺達は正式に別れの話のようなものをした。
そして、最後に由綺は。
「…もし、理奈ちゃんに会ったら、私が謝ってた…って、言ってくれるかな…?」
そう、申し訳なさそうに俺に言った。
「どうして…?」
「だって私…理奈ちゃんのこと…ぶっちゃったから…」
「………。そうなんだ…」
俺はそれだけ答えた。他に俺は、答える言葉を見つけられなかった。
「そうなの…」
由綺もそれだけ答えた。
その後、俺達は二人で小さく笑った。
沈んだ気持ちで、悲しい声しか出なかったけど、とにかく笑った。
これ以上涙を流してしまわないように、とにかく笑った…。
「じゃあ、冬弥君。さようなら…」
喫茶店を出ると、由綺は言った。
色んな意味の、さようなら、なのだろう。
「うん…」
そう思いながら、俺はそっと手を振る。
そして、最後に言い残していた事を思い出すと、俺は由綺に言った。
「由綺…!」
「え…?」
もう後ろを向けて、歩いていた由綺が振り返る。
「来年は絶対に音楽祭で最優秀賞とりなよ!」
結局、今年の音楽祭は理奈ちゃんが最優秀賞だった。由綺は僅差で理奈ちゃんに詰め寄ったらしいが、惜しくも二番目の確か優秀賞だったか、になってしまったらしい。
「………」
しばらく沈黙していたが。
「うん!」
と言うと、由綺は俺が昔見た、とびきりの笑顔で笑った。
それから、数日後。由綺の言った通りに、理奈ちゃんは突然に引退宣言をして、芸能界から姿を消した。
俺もテレビで、その記者会見を見たが、全く現実味を感じなかった。
俺はただ、
(理奈ちゃん…会いたいよ…)
そう、思った。
そして、数ヶ月過ぎた。
芸能界から引退した彼女に、いくら俺が会いたいと思っても、結局なんの手がかりもなくて諦めようと思いながら、それでも諦められず、忘れられぬ日々を過ごしていた時。
唐突にその時は訪れた。
「冬弥君」
「はい?」
自宅のマンションの前で誰かに呼ばれて、返事をする。
ひどく懐かしいような気がした。そんな綺麗な声だった。
まだ、ほんの数ヶ月しかたっていないのに、余りにもその声は懐かしく聞こえて。
そして、俺は声の方向に振り向いた。
そこには、今までずっと会いたい人がいて。
「理奈ちゃん…!」
俺は言って、彼女に近づく。
彼女もまた、俺にまっすぐと近づいてくる。
そして俺は、彼女は、互いを強く抱きしめた。
ずっと、感じたかった温もりを俺達は互いに感じ合った。
「いつまでだってここにいたい感じね…」
名前も聞かぬ、南の小島で彼女は呟く。
少し熱を持った、砂浜が肌に優しい。波が静かに歌を歌う。静かに緩やかに。
怖いくらいに、美しい夜空を見上げながら俺は言う。
「そうだね…」
緒方理奈というビッグネーム、突発すぎた引退宣言、そしてその影に常に亡霊みたいについてまわった謎の男性との噂。全ての要素が声を大にして、全ての電波に『騒げ』と命令していた。
そんなマスコミを彼女は上手くかわし続けてきた。
「本当は、すぐにでも冬弥君の所へ行きたかったけれど、そうも行かなかったの」
彼女は、俺と再会した日、俺に抱かれながらそう言った。
「あ…」
その時、一筋の光が夜空に走った。
「流れ星…」
理奈ちゃんも見つけたようだった。
「お願いしましょ」
理奈ちゃんは俺にそう言った。
俺はただ頷いて、すぐに頭の中で願い事を三回言った。
星の軌跡が消えないうちに。
「ふふ、何をお願いしたの?」
理奈ちゃんは、俺に聞いてきた。
「理奈ちゃんこそ、何をお願いしたのさ?」
逆に俺は聞き返す。
「私の願いは…」
「俺の願いは…」
言葉の途中でどちらからともなく、キスを交わす。
熱く、そして長いキスを。強い抱擁と共に。
歌のフレーズが頭をかすめる。
星が今 運命を描くよ 無数の光輝く
今一つだけ決めたことがある あなたとは離れない
今、一つだけ星に願ったことがある。
そう、それは―
「あなたと―」
「君と―」
『―離れない』
曲名は、『SOUND OF DISTINY』、そう音楽祭で最優秀賞を獲った曲だ。
美しい夜空の中、星が瞬く中、俺達はいつまでも抱き合った。
例え、どんなに傷付いても、裏切られても。
あなただけを信じたい。
あなただけを愛したい。
さあ、私達の『白いアルバム』を1ページずつ埋めていこう―
I want to love. I want to believe
~only
you~
Rina Ogata