WHITE ALBUM

「処女雪」

 

 

 

 

 子供の頃は、雪が降ればそれだけで嬉しかった。

 素直に降り注ぐ白い雪が綺麗だと思えた。

 はじめは誰もが純白と言える心を持っているのだろう。

 それは少しづつ、少しづつ汚れていく。

 まるで踏み固められていく雪のように。多くの人に踏まれて。

 けれどそれには確固とした意志があるわけではなくて、ただ固められ汚れていくだけ。

 少しづつ泥にまみれ、汚れていくのが大人になるということなのだと誰かに言われれば、どんなに楽だろう。

 けれどそうじゃない。

 あの頃に戻ろう。

 雪が嬉しかったあの頃、二人が出会った頃に

 ――処女雪のような、傷付きやすくも純粋だった頃に。

 傷付いたって構わない、汚れる事を恐れてはいけない。

 それでは雪は降り積もれないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつから、だったろう。

 気が付けば、少しずつ離れていた。

 いつから避け始めたのだろう。

 互いに愛を語ることから、肌を重ねる事から。

 きっと、怖かった。

 心が砂で作られた城のように壊れてしまうのが。音も無く崩れてしまうのが。

 互いに信じる事ができなかった。

 いや、信じる事すら怖かったのだ。

 互いの心が、そこに無い気がして信じる事ができなかった。

 信じる事はできなくて、だからといって裏切る事もできなくて、ただ苦しんだ。

 まるで、浜に打ち上げられて水を求める魚のように。

 愛したくとも、愛せず、ただ湧き起こる行き場のない感情だけが自分を支配した。

 疑念、それを肯定させるだけの疑惑。

 それでも信じたくなく、信じたいと思う自分がいる。

 いつでも矛盾した自分達がせめぎあう。

 他の女性に心惹かれる自分を押さえ込む自分。

 他の女性を愛そうとする自分。

 どちらが本当の自分なのか、時々分からなくなるくらいだった。

 どちらもが自分に決まっているのに。

 だけど何よりも、もう一人の自分がいた。

 誰かを愛そうとする自分より、押さえ込もうとする自分より、もう一人の自分が。

 森川 由綺、彼女を愛そうとする自分が。

 強く信じようと、愛そうとする自分が。

 けれど思う。疑う事を知らぬような、澄んだ心を持っていれば俺も由綺も互いに苦しむ必要は無かったのか、と。

 雪は降り積もる。優しく粉雪は舞う。

 懐かしく思う、理由も無く雪が降ると嬉しかったあの頃を。

 いや、思うほどそんな昔じゃなかった。雪が降ると嬉しく思えた頃は。

 いつからだったろう、雪が降ってもそれほど嬉しく感じなくなったのは。むしろ、寒いだけで大して感慨を感じなくなったのは。

「ううん…冬弥くん…」

 由綺が寝ながら俺の名を呼ぶ。

 意識が、現実の世界へ引き戻される。

 俺がベッドに戻ってきた時には既に、由綺は眠っていた。

 きっと疲れていたのだろう。無理も無い、コンサートが終わったばかりなのだ。それまでもレッスンだ、なんだと過密スケジュールだったのだ、こんなか細い体で今まで頑張ってきたのだから、疲れて眠ってしまうのも必然だろう。

 無意識なのだろうが、由綺の腕は俺を捉えて放さない。

 閉じられている瞳からは、僅かに涙が零れ落ちているのが見てとれる。

「…どこにも行かないで。…ここに…いて」

 由綺の無意識な寝言が、俺の心に心底染み渡る。

 寂しいと思っていたのは自分だけではなかった。

 俺が由綺が遠くへ行ってしまうと思っていたように、由綺もまた俺が何処か遠くへ行ってしまうのではないかと不安だったのだ。

「ここにいる。何処にもいかないよ」

 そっと由綺の涙の雫を指で拭き取りながら、優しく言う。

 そう言うと、由綺は腕を離してくれた。表情も僅かに微笑んだように見える。

 互いに余りにも不安な心は態度には表れても、言葉には表れなかった。

 会える機会と時間は、季節の移り変わりと共に減っていき、ぎくしゃくした態度だけが、いたずらに俺達の心を不安という雲が覆った。

 そっと、由綺を抱き寄せる。

 よほど疲れていたのだろう、全く目を覚ます気配は無い。いつも「大丈夫、大丈夫、私は平気だよ」なんて笑顔で言っていても、疲れは溜まっているのだろう、どんなアイドルとて人間だ。由綺なんて、か細い女の子なのだから尚更なのかもしれない。森川由綺としての、アイドルとしての責任感が疲れを通り越して彼女を突き動かしているのだろう。

 それでも今、目の前で眠っている由綺を見て思う。これは森川由綺であって、森川由綺じゃない。多くの人間が見ている、ブラウン管の向こう側のアイドルではない。

 疲れや、苦しみを見せず、スポットライトを浴びて華やかさだけを見せているアイドルの森川由綺ではない。

 こうやって辛ければ涙を見せて、泣き言だっていったりする。時には、俺に甘えたりして、寄りかかってくるときだってある。

 何を不安に思っていたのだろう、俺は。

 こうして由綺を直に感じて思う。

 由綺は変わらない、変わってなんかいない。俺の知っている森川由綺だ。

 俺の大好きな森川由綺だ。

 俺を好きでいてくれる森川由綺だ。

 アイドルの森川由綺なんかじゃない。

 決して変わらない。

 俺も、由綺も。二人の関係も。

 お互いに、確かに気持ちは揺れ動いてはいたけれど、何にも変わっちゃいなかったんだ。

 俺はありのままの由綺が好きで、由綺もそんな俺を好きでいてくれる。

 これ以上の答えは、俺には必要なかったし、きっと由綺にも必要ないだろう。

 肌を重ねあい、一つになることはできなかったけれど、その時俺達の気持ちは一つになった。

 きっと、心は重なり合った。俺の独りよがりかもしれないけど、そう思った。

 クリスマスの夜、由綺の家で、由綺のベッドの中で。

 俺はそっと毛布を由綺に掛け直す。

 由綺の寝顔は、子供のように愛らしかった。

 起こさないように頬にそっと口付けをして、静かに外に出る。

「おやすみ、由綺」

 そう言い残して。

 冷たい冬の風が体を撫でる。

「外がやけに静かだと思ったら…」

 空には柔らかな雪がちらちらと舞っていた。道路にも、うっすらと白く積もっている。

「珍しいな…、少しだけど積もりそうだな」

 はぁ、と冷たくなる手に息を吹きかけるがそれも白い。

「処女雪か…」

 うっすらと道路に積もった雪を見て、何処ともなしに呟く。

 きっとこれで良かったんだと思う。

 急ぐ必要なんて何もない。

 必要だったのは、お互いの気持ちを確かめる事だったんだ。

 そして、変わらない気持ちがそこにあった。

 男と女の関係っていうのにはなれなかったけど、世間一般で言う恋人同士っていう関係に今日初めてなれた気がした。

 そっと手のひらを、空に向かってかざす。雪は手に触れると柔らかに溶けた。

「雪は本当にまっさらだな」

 言って俺は、柔らかな街灯が照らすなか道を歩き始めた。溶けた柔らかな雪の感触を噛み締めながら。

 今度、由綺に会ったら何て言ってやろう。少しからかってやろうかな。

 そんな事を思いながら。

 そして、そっと口ずさむ。あいつの歌を。

「すれ違う毎日が、増えていくけれど――」

 

お互いの気持ちはいつも 傍にいるよ――

 夜道にそっと歌声が響いた。

 心無し優しい音色で、優しい歌が。

 明日へと続く歌が。

 粉雪が舞う中、曲名は、そう

『WHITE ALBUM』――

 

 

 

 

「処女雪」

〜FIN〜