ONE

〜永遠の盟約〜

プロローグ

 

 いやだ、消えたくない。

 心の奥底から思う。もちろん、都合のいい事だとは分かっていた。

 自分がその昔、望んだことなのだから。

 それでも耐えられなかった。何とも言えない、空虚な感じが胸を締め付ける。

 怖い、嫌だ。

 自分がいなくなるのが怖かった。皆に忘れられるのが。家族に、友達に、そして大切な人に。

 思い出の中ですら生きられない。いなかった人間になってしまうのだ、折原 浩平という人物は。

 そう、それは『死ぬ』のではなく『消える』ということ。

 元々、いなかった人間だと認識されること。

 全てが否定されるという事。

 自分が今まで生きてきたことが、成し遂げてきた事が全て否定されるという事。

 だから、怖かった。

 

 

 

 

 

 永遠。

 それを俺は在ることを知っていたし、何より逆に存在し得ないことも同じように理解していた。

 現在を、今生きている世界を肯定する事、それは永遠を否定する事にほかならない。

 永遠を肯定する事、それは今生きているこの世界を否定することにほかならない。

 だからなのだろう、二つの世界に同じ人間が存在することはできない。

 だから俺は今、消えようとしているのだ。

 この現実の世界から…。

 不思議なものだと思う。誰よりも自分が望んだ結末の筈なのに、気が付けば否定したい気持ちが、何よりも強く湧き上がってくる。

 不安、恐怖、絶望、怯え。似ているように異なる、様々な哀の感情が湧きあがってきて耐えられなかった。

 怯えるだけで何もできない自分、嫌だった。

 けれど、自分に対して湧き上がる憤りすらも虚しく感じてしまう自分の心があって、俺はどうすることもできなかった。

 それでも、じっとしているのは嫌だった。

 自分で、自分の存在を否定しているようだったから…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一章

『鳥の自由』

 

 此処には長くいられない。

 もう、此処は俺の家ではないのだ。

 帰る所は、自分にはもうない。

 感傷気味に、そんな事を思う。

 昔、自由の定義について考えてみた事があった。

 服を着替え、財布だけをポケットにねじり込み、自分の家だったところから外に出る。玄関のドアを閉めながらそんな事を思い出す。

「もし、鳥が自由だと仮定するのなら、俺は自由を手に入れたのかもな」

 そんな事を、呟き洩らす。

 自分に対する皮肉だったかもしれない。

 よく、テレビでも何でも、鳥は自由だ何だと耳にするので、昔少し考えてみたことがあった。その事について思い出してみる。

 考えついた結果を一言でいうなら、それは悲しいことだった。

 鳥が自由だと、多くの人々が考えるのは、空を自由に飛べるからだ。だが、その多くの人達は知らないのだ。

 俺達が言う自由を手に入れると同時に、鳥が何を失うのかを。

 鳥は、全てを失うのだ。

「帰るべき家、血の繋がった親、兄弟。生きていく術すら…」

 鳥は、全てを失う。

 鳥は自分の翼で飛べるようになると。大空を自由に翔けれるようになると、全てを失う。

 それは代償だろうか?

 もしそうならば、それはあまりにもやりきれない。

 今まで、面倒を見てくれた親は知らん顔をするようになる。家という、巣に戻ろうとしようものなら、実力行使により叩き出される。まるで、不法に進入してきた外敵を追い出すかのように。

「考えてみると、まるで忘れたみたいだな。親が自分の事を…」

 そうなのかもな。

 そんな事を思ってしまう。

 実際のそれは、親の厳しい愛情表現であり、一人で巣立て、自分ひとりで生きていけ、と自立を促しているのだ。

 けれど、その時はそう考えたかった。

 そう考えれば、今の自分と重なり合ったからだ。

 それでも、決定的に違う事があった。

 鳥は厳しい弱肉強食の世界の中で、一人生きる糧を探し力強く生きていく。

 しかし、自分には何も無かった。

 この世界で生きていく術は無かった。

 大空を翔ける翼も、生きる糧の当ても。

 どこか遠くに飛んでいくことなど、できるはずもない。

 自分には、選択肢は何も無かった。

「この街のどこかで消えるんだろうな」

 余りにも悲しかった。自分が生きて生きた十数年間を、自分自身で否定する事になるのだ。それが、悲しくて堪らなかった。

 友達と泣いて、笑って、時にはケンカもして。

 自分にとって大切な人だってできた。

 こんな時に思い出すのは、良い思い出ばかりで余計に悲しくなるのは何故だろうか。

 それでも、涙は出なかった。

 それは何故だったのだろう。

 もしかすると何時消えるのか、という恐怖心が涙が出るのを押さえ込んでいたのかも知れない。

「あいつは、俺のことまだ覚えていてくれてるかな…」

 当てもなく、歩きながら言葉が洩れる。

 最後の希望でもあり、一番の不安でもある。もし、もうあいつさえも覚えていてくれていないのなら、その時こそ自分には何の存在意義もないことが証明されるのだから。

「俺が消えた時、俺の物も全て消えちまうのかな…」

 できれば、消えて欲しくないと思った。

 そうすれば、あいつに贈った自分のプレゼントは消えない。そうすれば、それこそが自分が消えた時に、自分がいた事の唯一の証明のような気がした。

 傍を歩く通行人達は、俺の言葉を気にもとめない。

 彼らには自分の姿は見えないし、声は聞こえていないのだ。

 それだけ自分の存在は、この世界において希薄になっている。何時消えても、不思議ではない。

プー

 車のクラクションやら、エンジン音が聞こえて、考え事から現実に引き戻される。

 気が付くと、街中の交差点まで来ていたようだ。

 あては無いが、とりあえず横断歩道を渡ろうと思う。

 赤信号なので、青になるまで少しの間待つ。

「青といいつつも、青信号って実は緑だよな」

 なんて冗談の、一つや二つが元気な状態ならポンポンと出てくるのだが、今はそんな元気も余裕も無い。

 何よりそんなくだらない冗談を、いつも隣で笑って聞いてくれる優しい幼馴染は今はいなかった。

 その時だった。横断歩道のちょうど向かい側に、見知った顔が見えた。

 いつもの学校の制服に、昔から変わらない長い髪。頭の後ろには、チャームポイントだと言っていた大きなリボンが見える。少し大きめの可愛らしい瞳は、こちらにはまだ気付いていなかった。

 やがて信号は赤から青へと変わる。それと同時に人は流れ出す。その流れに混じり、向かいの歩道へと歩き出す。

 ちょうど向かい側からくる幼馴染も、同じように流れに混じっている。

 声をかけようとした瞬間、その幼馴染と目が合う。

 けれど、その瞳はいつもとは違っていて、その瞳も、瞳に映る自分の姿も悲しそうに見えて、俺は声をかけることはできなかった。

 分かってしまったから。

 あの瞳は、知らない他人を見る瞳だって。

 もう、誰も自分の事を覚えてはいない。

 せめて覚えていて欲しかった、こいつだけには。

 誰よりも大切な人だから、覚えていて欲しかった。

 けれど、これが現実だったんだ。

 そう思って、隣をすれ違うしかなかった。

(さよなら、俺の幼馴染で一番大切だった、大好きだった人)

 それはもう過去の話。

 だって、俺はもう彼女の中に、この世界に存在しないのだから。

 痛くない、痛くないさ。

 自分に言い聞かせる。

 心なんて痛くない。それは、俺だけの痛みだから。だから、いいんだ。彼女はもう、俺のことを覚えてはいない。悲しいのは、苦しいのは自分だけだ。だから、自分さえこの痛みに耐えればいい、そして消え逝けばいいのだ。

 そう、自分に言い聞かせた。

 すれ違ったあと、数秒ほどして背中に強い衝撃を受けた。

 痛いけれど、それは痛くない。あまりにそれは温かいから。

 自分の背に、痛いほど欲しかった温もりだったから。

 誰かが、背中から抱きついているのが分かる。

 温もりと共に、良く聞き知った声がすぐ耳元で聞こえる。

 それは今にも、泣き出しそうな声だ。

「捕まえたっ…、やっと捕まえたっ…」

 よく知った女の子の声。ずっと聞きたかった声。それがすぐ耳元で聞こえた。

 それで終わりかと思ったが、彼女は言葉を続けた。

「浩平っ、捕まえたよっ」

 同じような事を、俺の名前を付け加えて繰り返す。まるで、その事実を確認しているかのようだった。

 声の主が誰なのか何てことは、最初の一声ですぐに分かった。

 聞き違えるはずの無い声。

 一番聞きたかった声。

 青信号が点滅を始めていた。視界の隅でそれを捉える。

 それでも大切な人の、一番愛しい人の言葉は終わらない。

「また逃げられないように、知らん顔してたんだよっ。すぐにも走って…正面から抱きしめたかったけどっ…ぐっと我慢してっ…。ぽろぽろ泣き出しそうだったけどっ…ぐっと堪えてっ…」

 今だって、泣き出しそうじゃないか。俺はそう思う。

 彼女は明らかに涙声だった。

 信号は赤に変わっていた。

 けれど彼女は離してはくれない。俺は口を開く。

「痛い…離してくれよ…」

 しかし、それを否定するかのように、自分を後ろから抱きしめる力は強められた。

 華奢な腕で、泣き出しそうな声で、大切な人は言う。

「いやだよっ…また私だけ置いて逃げちゃうもんっ…」

プー プー

 耳をつんざくようなクラクションの音。

 それはそうだろう、赤信号だというのに横断歩道のど真ん中に突っ立っているのだから。俺たちは、大した交通の妨げになっていることだろう。

 それはかなり滑稽な姿だったかもしれない、けれどそんなことはどうだって良かった。

「大丈夫…逃げないよ」

 逃げなんてしないよ。

 できるだけ優しい声で言う。

 自分を抱きしめる相手と同じように、おもわず涙しそうになるのを押さえ込みながら。

 どれだけ恐怖しても、絶望しても出なかった涙が出そうなのだから不思議だった。

 それでも哀しい事ではなく、嬉しい事で涙する事ができるのは素敵な事だと素直に思えた。

「ほんとう?」

 不安そうな声で聞いてくる幼馴染に、同じ言葉に同じ言葉で答えてあげる。

「ほんとう」

 本当だよ。逃げなんてしない。

 ただ…正面から抱きしめたいだけなのだから。

 抱きしめている手を恐る恐る離してくれた次の瞬間、俺は正面から幼馴染を抱きしめていた。誰より愛しい女の子を。

 耳をつんざくようなクラクションも、浴びせられる罵倒の声も関係無かった。通行人達が向ける奇異の視線も気にはならなかった。

 俺は、ただ温もりを感じていたかった。

 優しさを、存在を。自分という存在、自分にとって一番大切な人の温もりを―。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風がそよいでいる。優しい木々の香りが、ずっと知っていた香りが、長森の香りが鼻腔を微かにだが擽る。

 もうすぐ、春なのだ。少しまだ肌寒いながらも、天気が良いせいなのか、心無しそう思う。

(ふぅ、気持ちが良い)

 大好きな人のひざの上でごろごろできるとは。

 いつも怒鳴られて起こされていたけど、今日は違う。

 もう、眠っていいのだ。

 ただ、それまでの時間、ゆっくりと話をする。

 「なぁ、長森…」

 「うん…」

 長森は優しく答えてくれる。今は、どんな些細なことも俺には嬉しかった。

「お好み焼き食いたいなぁ…」

「どうしたの、急に」

  俺のよく分からない話の切り出し方に、当然の反応をしてくれる。そんな瑞佳が今の自分には何よりも嬉しかった。

「いや、ただそう思っただけ」

 瞼を閉じながらそう言葉を返す。

「お好み焼きね…。そうだね、食べたいね」

「あの駅前の…」

「うん。前に一度行ったことあるところだよね」

 話をしていると、そのときの事を思い出してくる。そのときの事を思い出しながら話をする。

「そう。あそこのな…」

 駅前と言っても、一体駅からどちらの方向に店はあっただろう。どんな、種類のお好み焼きがあっただろう。どんな味だっただろう。その時、俺たちはどんな話をしただろう。

「美味しかったよね」

 懐かしそうに話す、瑞佳。

「そう、美味いんだ。行こうな、絶対…」

 世の中に絶対が無いことを知りながらも、そう口にしてしまう。永遠と同じ様に、この世の中には無いのだ。絶対なんて…。

「うん、いこうね。絶対」

 知ってか知らずかは分からないが、同じように長森は言葉を返してくれる。

「……」

 最後の最後まで、俺たちは日常を装った。それこそが俺の望んでいたものだと、長森も知っていたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 例えば、それは夏の夜。

 祭囃子を遠くに、縁側に腰掛け、花火に興じる。

 じっと、線香花火を見つめる。そして、それが消えたとき…

「はい、まだまだあるよ」

 そう言って、花火を差し出してくれる君が傍にいる。

 

 

 

 

 

 例えば、秋の夕暮れ。

 川縁を歩いて、家路を辿る。

 とんぼがつがいで飛んでゆく。

 仲の良いとんぼを見て、つい心が和む。

 そう思うのは、きっと俺一人じゃない。

 傍には君がいる。

 今日は終わりだけど、終わりじゃない。

「ねぇ、明日はさぁっ…」

 そんな話を君とする。

 

 

 

 

 

 例えば、凍てつく冬。

 白い町。

 白く積もった雪は、どこか幻想的ですらある。

 つるつる滑って学校へ向かう。

 お互いに、転ばないように気をつける。

 はぁはぁ白い息を吐いて、他愛ない話をする。

「それでね、それからねっ…」

「………」

「聞いてる…?」

「あぁ、聞いてるよ」

「うんっ…あのね、それからねっ…」

 本当に、他愛の無い話を。

 

 

 

 

 

 

 例えば、春。

 緑萌ゆ春。

 全ては陽光を受け、きらきらと輝きだす。

 まばゆく。

 出会って、色んな人と出会って。

 ひとつひとつが小さな幸せだ。

 それを集めて、たくさん集めて。

「知ってる…?」

「ああ、知ってる」

 それが、大きな一つの幸せになる。

 君と僕との宝物になる。

 

 

 

 

 

 

 中心にはいつも君がいる。

 かけがえない。どの瞬間も。時を経て、大きくなって…

 それでも変わらないふたりでいられたらいい。

 そのときになって初めて、それが嬉しく思える。

 移りゆく時間の中で、変わらないものが。

 時間が経って、言えることはひとつだ…

「同じ時間を過ごせて良かったよ」

 そう君に伝えたい。

 過ぎてゆくものだから、それは素敵なこと。

 かけがえのないものだから。

 

 

 

 失う。

 そんな日常を失ってしまうのか…。

 そんな日常はやっては来ない。日常という事柄を自身が否定してしまったから。それなのに、それこそが今一番、自分が望んでいるもの。

 皮肉としか言えなかった。

「う…」

 長森が悲しそうな声を出す。

「どうした、長森…」

 俺は聞いてやる。

 本当は、長森が悲しげな声を出す理由なんて分かっている。

「ううん…」

 けれど、長森は答えない。きっと答え辛いのだろう、だから俺もそれ以上は聞かない。

 それが優しさだとか、愛情なのだとかは分からない。 

 ただ、俺はそうしたほうがいいと思っただけだ。

「………」

「笑顔で、いれてるかな、わたし」

 すると長森は聞いてきた。

 俺は優しく微笑みながら答える。

「ああ、笑顔でいれてるよ」

「そう…よかった」

 ほっとした声で、顔を少し緩ませながら答える長森。そんな、長森が俺はいとおしくてたまらなかった。

「で、なんだっけ…」

 長い考え事をしていたせいで、何の話をしていたのか忘れてしまった。

「お好み焼き」

「そう、お好み焼きだな…」

 そうだ、お好み焼きの話をしてたんだな。その事を思い出す。

「………」

 長森は口を開かない。きっと、この後起こることが分かっているからだろう。

(ごめんな、長森)

 心の中で謝罪をする。口に出しては謝らない。きっと、余計に悲しませるだけだから。だから、もう話はしない。別れの言葉も言わない。言ってしまうと自分で自分の存在を否定するようで嫌だった。

 それに、あともう少しだけ、彼女に甘えていたかったから。

 ばさっと音をたて、木々のこずえから鳥達が発った。

 彼らは自由を手に入れたのだろうか?

 それは、自らが求めていたものなのだろうか?

 誰にもそんなことは、答えは分からない。

 分からないからこそ、答えを知りたいと思う。

 薄れゆく意識の中で俺は思った。

(俺は、こんな永遠を欲しくはなかった……)

 その次の瞬間、俺は現実から消えていた……。大好きな人の膝の温もりを感じながら……。

(さよなら、長森。ごめんな……)

 俺は胸中で最後に、静かにそう呟いた。

 意識はそこで途切れた。

 

to be continued

 

 

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