ONE

茜SS

『もう傘は要りません』

 

 

 ふと、夜に目を覚ます。

 また夢を見た。何度、同じ夢を見ただろう。

 頬を伝い、瞼に残る涙の雫が悲しかった。

 窓にはカーテンが敷かれ、月の光も通さない。

 私の泣き顔は、窓ガラスにすら映りはしない。

 儚い、儚い涙だ。

 忘れることなど出来るはずも無く、毎夜のように夢を見た。

 見ている時は、余りにも美しく夢のようなひと時。けれど、覚めて気付く。

 夢のような、ではなく夢なのだと。分かりたくは無い、悲しい事実。

 一体、何度枕を涙で濡らしたろう。

 私は、体を反転させベッドにうつ伏せになり、枕を抱き枕のように抱いた。

「こうへい…」

 私は、枕を強く抱きしめた。

 部屋の中には、私の声と、喉の奥からくる嗚咽が静かに響き渡った。

 溢れ出る涙は、止める事ができなかった。

 私は、弱いです。

「あなたを忘れます。名前も、顔も、声も、温もりも……思い出も、全部、忘れます」

 何故、あんな事を言ったのだろう。一体何のために。

 忘れられるはずなどないのに。

 名前はもちろん、顔も、声も、思い出も、思い起こせば昨日のことのように思い出せる。

 ただ、温もりだけは感じることはできない。

 そのことが、余計に茜を悲しくさせた。

「わがままで、嘘つきで…自分勝手で、子供っぽくて、人の気持ちなんて考えなくて…」

 どうして、好きになってしまったのだろう。

 好きにさえならなければ、こんなにも苦しい思いをすることもないのに。

 分かって、分かっていたのに。苦しい思いをするということは。

 自分で好きになれる相手が選べればいいのに。そんな風に一瞬思ってしまう程、私はその人がどうしようもない位に好きで。

 どうしようもないのに、もう会えるはずもないのに、最後の希望にすがって、傷つくだけだって分かっているのに、分かっているはずなのに、今日という流れ行く時間の中を過ごす。

 涙を手の甲で拭い、ベッドから身を起こす。

 窓まで歩いていき、カーテンを開ける。

 空には綺麗な月が出ており、部屋には柔らかな月光が満ちた。

 窓ガラスに、薄く自分の顔が映る。

 ひどい泣き顔だった。

「そんな最低な人なのに…、どうして私は大好きなんでしょう…」

 声が聞きたかった。慰めて欲しかった。大好きな、大好きなあの人に。

 止まったはずの涙が、再び零れ落ちるのが窓ガラスに映って見えた。

 もう拭う気にもならなかった。

 一つだけ分かったことがあった。

 涙は、瞳は潤すけれど、決して心は潤さない。

 分かりたくない、悲しいことだった。

 私は、涙が枯れるまで窓ガラスに映るひどい自分の顔と、綺麗な月とを見比べた。

 そして、ベッドのすぐ横に置いてある目覚し時計を見た。

「二時…寝ないと」

 私は、最愛の少年にあげるはずだった、いや、あげたはずだった時計を見ると言った。

 その日の夜もなかなか寝付けず、気が付くと朝だった。鳥の囀りが聞こえる。

 何時間眠れたのかは分からないが、とりあえず眠りはしたようだった。

 この胸の痛みも、眠りに就いてしまえばいいのに…。

 朝が来ると、私はいつものように学校へと向かった。

 そんな毎日の繰返しだった。

 

 

 

 

 彼がいなくなってから、季節は巡った。

 気が付けば、もう春だった。あと一息もすれば私も卒業だ。

 その日は晴れだった。いや、雨でも関係なかったかもしれない。

 もう、私には待つ場所さえ残されていなかったのだから。

 私が、雨が降るたびに立ち尽くしていた空き地には、家を建てるための工事がされている。

 私には、何もなかった。待つ場所さえ、無情にも奪われた。神様は、私のような女の子に意地悪をして、何か楽しいのだろうか。

 それでも、早めに家を出てしまう自分がどこか嫌だった。

 雲はほとんど無く、快晴に近い青空の下を必要以上にゆっくりと歩いた。

 いつも考え事をしてしまう。どんなに空が晴れようとも、私の心は曇るばかりで決して晴れなかった。私の心には今も、雨が降っていた。傘を差し出してくれる人など、いよう筈も無かった。

 辛い事を忘れようとしているはずなのに、頭に浮かぶのは彼のことばかりだった。

 忘れることができず、忘れれば楽だとは知りながら、何よりも忘れてしまうことを恐れて、いつも彼を想う。

 せめて、自分だけでも覚えていてあげたかった。

 彼が存在したことを、私だけしか分からないとしても、それを証明するために。

 僅かな、ほんの小さな風が吹いただけで消えてしまいそうな希望にすがりながら。

 浩平と交わした約束。

 それだけを頼りに今日までを過ごしてきた。

「それなら君の誕生日に何かプレゼントする。誕生日、いつだ?」

「私の誕生日は…」

 私が言う前に、彼はいなくなってしまった。

 彼は私の誕生日なんて知るはずも無い。

 私は、青い空を見上げる。

 伝える術も無い。

 彼は遠い人になってしまったから。

 もしもこの空に、大きな虹が架かれば、雲の上にまで架かるような大きな虹が架かれば、あなたに会えるでしょうか。

 もしもこの空に…。

 私は哀しくなってきた。自分が惨めだった。

 そこまで、儚い希望にすがるしかない自分が情けなかった。

 会えるはずが無い。

 何て、私は弱い人間なのだろう。

 視界が滲んだ。

 すぐに泣いてしまう。弱い、弱いんだ。そう、自分で想う。

 支えてくれる人は誰もいない。

 頼っていた、頼りすぎていた。何もかも彼に。

 いなくなって気付いた。

 どれほどまでに、彼が私にとって大きな存在だったのか。自分は、情けない人間なのか。

 何も分かってはいなかった。

 司の時も、浩平の時も。

 何もすることができなかった。

 伝えたいことはたくさんあったのに、言いたい事はたくさんあったのに。

 思いは言葉にならず、口は動かず、口は言葉を紡がず、想いだけが虚空に虚しく舞った。

 救われたのは私。今はそうではなくても、あの時は間違いなく。

 あの人はどうだったろう。救われたのだろうか。

 いや、答えは分かっている。

 救われなかった、だからここにはいないのだ。

 私は何もしてあげれなかったのだ。

 いつだって、見守っていてくれていたのに。

 いつだって、私を癒してくれていたのに。

 私は、なにも…。

 だからこそ、還ってきて欲しい。

 私が、あなたの支えになれるよう。

 あなたの支えになりたいから。

 司の時よりも、胸が苦しい。

 彼が私を愛してくれていたから。

 私が彼を愛していたから。

 好きという言葉では表せないくらい、お互いを想っていたから。

 だから、余計に哀しい。

 だから、涙は止まらなかった。

 どれだけ泣いても枯れない涙が、切なかった。

 彼を愛しているという事に気が付けば、気が付く程、私の心を見えない鎖は締め付けた。

 潤う瞳と、乾いていく心。

 忘れることはできず、誰かに話すことはできず、自分胸の奥にだけしまい込み、流れ行く日々を過ごす毎日。

 僅かな希望にでもすがらなければ、弱い私は駄目だった。

 学校へと続く道の途中、そんな道路の片隅で朝から泣いている自分が恥ずかしかった。

 ふと、頬を涙ではない何かが濡らした。

 ぽつ、ぽつ、と降り始めたそれは、雨だった。

「晴れているのに…天気雨?」

 私は、涙を拭いながら空を見上げた。

 空はやはり晴れていて、少し眩しかった。

 雨は短い間、本当に短い間、ざぁー、という音と共に地面へと降り注いだ。

 十数秒もすると、雨はカラっと上がった。

 まるで、今雨が降ったのが嘘だったかのように。不思議な雨だった。

 優しい春風が頬を撫でた。

 濡れて重くなった髪は、あまり揺れなかった。

 濡れた頬を撫でながら、私は雨が上がった空を見上げた。

「虹…」

 大きな、大きな虹だった。そして、綺麗だった。くっきりと七色が見てとれた。

 そんな虹を見たのは、生まれて初めてだった。

「浩平…、会いたいです…」

 私はそう、虹に向かって呟いた。

 

 

 

 

 

 

 人々のざわめきが聞こえる。嬉しそうな、楽しそうな声。

 私は学校が終わった後、いつものように公園へとやってきた。

 私は、独りベンチに座っていた。

 今の私の心とは、非常に不釣合いな場所にこの公園は思えた。

 人々の明るい声は、私を悲しくさせる。

 明るい、楽しそうな風景は否が応でも、浩平との日々を思い出させた。

 一緒にお弁当を食べて、ワッフルを食べて、商店街を歩いて、ケーキを一緒に作ったこともあった。普通にいる恋人達と何ら変わらないデートもした。

 何も変わらないはずだった。

 その他大勢の、どこにでもいる恋人のはずだった。私達は。

 彼が消えてしまう、その日までは。

 何が狂わせてしまったのだろう、私達の歯車を。

 前兆はあった。あったはずなのに、私は気付いてあげられなかったのだ。

 今日は私の誕生日。

 今日で、儚い希望にすがる日々に終止符を打たなければならなかった。

 そんなものが自分にとっての、18歳の誕生日プレゼントになるとは何とも皮肉だった。

 私の鞄の中には、詩子から貰った誕生日プレゼントが入っていた。

 プレゼントは袋に入って、可愛らしく包装されており中を見ていない私には、一体何が入っているのか分からなかった。

「ふふ、帰ってから開けてみてね」

 と、詩子は言っていたが、詩子には悪いがプレゼントを正直に喜べるような心境では無かった。

 私が本当に欲しいものは、誰にも貰えるものではないから。

 後悔や、優しさの意味を履き違えたまま、いくつもの季節をやり過ごしてきた。

 悲しみを残したまま、私は次の場所へと進まねばならないのだろうか。

 そんなのは嫌だ。

 彼の声が聞きたい。

 彼に会いたい。

 彼の温もりを感じたい。

 例え、私独りのエゴだとしても。

 私は、思い出だけで生きていける程強くも、純粋でも無かった。

 私は、いつの間にか顔を俯けていた。

 顔を上げる。

 すると、目の前に小さな可愛らしい少女が立っていた。年の頃は、見た感じ小学校低学年という感じなので、7、8歳だろうか。

 不思議そうに、少女は私の顔を覗き込んでいた。

「どうかしたの?」

 私は、少女に優しく笑いかけた。

「お姉ちゃん、泣いてるの?」

 少女は、心配そうに私に言った。

「え?」

 私は驚いて、目元を手で触る。

 知らない間に涙を流してしまっていたのだろうか。

 けれど、触ってみても涙の後は感じられなかった。

「泣いてなんていないよ、どうしてそんな風に思ったの?」

 私は少女に聞いてみた。

「お姉ちゃんが、悲しそうな顔をしてたから…」

 少女は言った。

「ううん、ごめんね。心配させちゃったみたいで」

 そんなことないから、私は少女に優しく言った。

 どうやら、見ず知らずの少女にまで心配をかけてしまったらしい。

「誕生日なんだから、もっと笑ったほうがいいよ」

 少女は、微笑みながら言った。

「え?」

 私は、疑問の声を上げる。何故、私の誕生日をこの少女は知っているのだろう。初対面のはずなのだが…。

 私が困惑していると、少女は空を指差した。

「空がどうかしたの?」

 少女は頷いた。

 私は空を見上げた。見事なまでの快晴だ。今はもう、雲ひとつ無かった。

「今日、おっきな虹が出たでしょ。私から、お姉ちゃんにプレゼントだよ」

「うん、出たけど…。プレゼントって…」

 どういう事? と聞こうとして私は更に困惑した。

 空から視点を下に戻すと、そこに少女はいなかった。

 私は夢でも見ていたのだろうか。

 ベンチから立ち上がり、辺りを見回してみる。どこにもそれらしい少女は見えなかった。

 その時、声が聞こえた気がした。その声は、私にこう言った。

「お兄ちゃん、もう還ってくるから。お姉ちゃんの為に、還ってくるから」

「みさお…ちゃん?」

 さっきの少女は、浩平の妹のみさおちゃんだったのだ。そうとしか考えられなかった。

 だが、そのような不可解なことよりも、私はもっと驚いていてそのようなことは大して気にはならなかった。

「浩平が…還ってくる?」

 例え嘘だとしても、そう言ってくれる人がいることが嬉しかった。

 私以外の人が、浩平の名前を口にしてくれたことが嬉しかった。

(だから、もっと笑って。ね?)

 今度は、少女の声は、みさおちゃんの声は優しく頭の中に響いた。

(うん、ありがとう…)

 私は、胸の奥で心から感謝した。

 ふと、視界に人影が入った。

 誰かが、私の後ろに立ったようだ。

 私に何か用なのだろうか。

「あの…」

 予感はあった。

「…何て言えばいいのかな…」

 彼の妹が教えてくれたのだから。

「かえって来た人が言うことは決まっています…」

 私は、いつものように、変わらぬように、以前と同じ口調で言った。もしかしたら、声は震えていたかも知れないけれど。

「そう…だな」

 彼はそう言うと。少しの間、押し黙ってしまった。

 私は後ろを振り返らない。彼の次の言葉を待つ。

「…ただいま、茜」

 彼の優しい、ずっと待っていた、聞きたかった声が、言葉が聞こえた。

「おかえりなさい」

 私は後ろを振り返ると、彼に抱きついた。

「おか…えりなさい…」

 零れる涙が止まらない。

 でも、いつもと違い、今流れる涙は暖かいような気がした。

 嬉しいことで泣けるのは、どれ位ぶりだろう。

「約束…守ってくれたんですね」

 私は、彼の胸に顔を埋め泣きながら言った。

 彼は、泣いている私に多少狼狽しながらも、

「そう言えばいつなんだ、茜の誕生日」

 そう聞いてきた。

 私は、彼の胸の中で少し微笑みながら、

「今日です。詩子からはもうプレゼントを貰いました」

 と言った。

「うわっ、何も用意してないぞ」

 浩平は言った。

「大丈夫です。今度、買ってもらいますから」

「今はいいのか?」

 浩平は、不思議そうに聞いてきた。

「今は…何よりの誕生日プレゼントを貰いましたから…」

 言いながら、熱くなる自分の頬を感じていた。

「茜…」

「もう少し…このままでいさせて下さい」

 あなたを感じていたいから。茜は言った。

 浩平は、茜を強く抱きしめた。

 公共の公園なので、人目が気にならないといえば嘘になるが、そんなことは今はどうでもよかった。

 浩平も、茜をもっと強く感じていたかった。

「こう…へい」

 どちらかともなく、体を離す。

 浩平は体を少し屈め、茜はつま先で立つようにする。

 体を離した時のように、どちらかともなく唇と唇とを合わせる。茜はゆっくりと瞼を閉じた。

「んっ…」

 茜の口から、そんな呟きが漏れた。

 浩平は、また茜を強く抱きしめる。

「もう、どこにも行かない。ずっと、茜の傍にいる」

「今度、どこかに行ったら、ワッフル…100個買ってもらいますから…」

 茜は、浩平に抱かれながら本気とも、冗談ともとれる口調で言った。

「それは、怖いな」

「浩平にも、食べてもらいますから…」

 浩平は、苦笑しながら茜の頭を撫でた。茜の長い髪が少し揺れた。

 そして、

(練乳蜂蜜ワッフルだった日には、俺の人生が終わりだな)

 何てことを思ったりもした。

「浩平…」

「ん?」

 浩平は、茜の頭を優しく、あやすように撫でながら返事をした。

「私、商店街に出かけるたびに、駅に行くことがある度に、あなたを探してました…。街角で、見たことも無い細道で、駅のホームで、そんな所にいるはずなんて無いのに…」

 浩平は、黙って聞いていた。茜の言葉を聞きながら、瞳が潤んできて瞼を閉じる。

「いるはずなんて…無かったのに。そんな所にいるはずなんて無かったのに…。気が付くと、あなたを探していて…。もう…どこにも行きませんよね? ずっと、傍にいて…下さいね」

 茜の声は、涙声だった。

「どこにも…どこにも行くもんか。茜が嫌だって言ったって、傍にいてやる。どこにも…行かない」

 茜は、浩平は泣いた。

 虹がくれた、みさおちゃんがくれた奇跡の中で。

 刻み続ける時の中で、それぞれの思いが震えていた。

 嬉しくて、ただ嬉しくて。

 限りある時の中で、二人は抱き合った。

 二人を祝福するように、公園に春風が軽やかに舞った。

 明日へと向かう風が、街へと吹き抜けた。

「ずっと…ずっと一緒にいよう」

「はい…」

 ずっと一緒にいよう。

 何より、その言葉が嬉しかった。

 聞いた茜にとって、言えた浩平にとって。

 空には、薄くだが綺麗な虹が架かっていた。

 

 

 

 

 

 

いつまでも、いつまでも一緒にいよう。

最愛の人と共に歩んで行こう。

もう、傘は要りません。

私の心の雨は止んだから。

もし、降ったとしても、傘を差し出してくれるあなたがいつまでも傍にいてくれるから―

 

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