『私はお姉ちゃん!』
うちの弟はとっても生意気です。
私のほうが年上で「お姉ちゃん」だって言うのに、「イリヤは妹だろ?」なんて私の頭を撫でながら言うのです。
立派な淑女である私に対して、「妹」で更に、頭を撫でるなんていう子ども扱いはないと思うの。
確かに背は低いし、体もちっちゃい。胸は……。む、胸はこれからよ、これからおっきくなるんだから。リンやサクラなんて目じゃないんだから!
いやでも、サクラのあれには勝てないだろうか…。
ううん、大丈夫。私は年上の魅力でシロウをめろめろにしちゃうんだから。
こほん、まぁそれらはともかく。
これはある日曜の朝のお話で、私ことイリヤスフィール・フォン・アインツベルンは、衛宮士郎の「お姉ちゃん」なのだというお話。
「だから、私はお姉ちゃんなの! そう呼びなさいシロウ」
私はエプロン姿のシロウに話し掛ける。これは先日から言い続けていることで、最早自分でも何度言ったか分からない。
「お姉ちゃんって言われてもなぁ…」
最初の頃は「お姉ちゃんと呼びなさい」と言った時は、それなりに狼狽してみせてくれたシロウだったのだが。最近はやりとりに慣れてしまったのか、全く落ち着いて朝食の準備を続けている。
ちなみにこのやりとりは日課のように毎日続けられているので、いつもの衛宮家の朝の風景と化してしまっている。茶の間で朝食を待っている、タイガやサクラなどは。
「またやってますね、先生」
「そうねー。イリヤちゃんもなかなか頑固だからねー」
苦笑しながら、そんな会話をしている。
ちなみに、日曜だというのに二人が(私も含めると三人だ)ここにいるのは、今日は新都へ5人で映画を見に行く予定だからだ。どうせなら、朝食をシロウの家で食べて、そのまま皆一緒に駅まで行こうということになったのだ。あと一人はリンなのだが、まだ来ていない。あのリンのことだ、どうせ寝坊だろう。
シロウがその台詞を言ったのは、朝食のメニューを全て作り終え、それを運ぼうとした時だった。
「―だって、イリヤは小さくて可愛いから、妹って感じなんだよな」
可愛い、可愛い、可愛い、可愛い――
な、な、何を言い出すのだ! この朴念仁の弟は。
「あれ? イリヤ顔が赤いぞ?」
風邪か? 何て聞いてくる。
ちなみに私は全くの健康体だ。寒がりとは言え、祖国に比べればこの国のなんと暖かなことか。この程度の気候で風邪に倒れるほど柔ではない。
え? だったら何で赤いって。
ち、違う。照れてなどいない。ただ年上の女性に対して可愛いはないだろうと思っただけだ。
しかしこの朴念仁の二つ名を関する弟は(主に私やサクラ、リンがそう呼ぶことがある)、更なる攻撃を繰り出してきたのである。
ぴた。
そんな擬音語が聞こえてきそうな密着率だ。
「な、な、な!?」
一寸先にシロウの顔がある。
「ほら、動くなってイリヤ」
確かに両手には料理を持っていて、手は塞がっているけれど。
「う、うん…」
流石に、おでこをぴったんこは反則だと思うのだ。
自分でも、顔に血がどんどん巡ってくるのが分かる。
「いち、に、さん…」
なんて、きっかり五秒計ってからシロウはおでこを離した。
顔と顔があんな至近距離にあるのはもの凄く恥ずかしかったが、シロウのおでこが離れていくのもまた残念だなと思った。私は割りと正直者なのかも知れない。
「熱があるな」
言いながら料理を茶の間のテーブルに運ぶ。
熱が出たのは誰のせいだと思っているのだろうか。この朴念仁は絶対に気づいていないのだろうけど。全く、本当にシロウはいろんな意味で手間のかかる弟だ。
「藤ねえ、桜」
「なによ、士郎?」
「なんでしょう先輩?」
「先に食べててくれ。俺はちょっとしてくることが出来たから」
何て言って、シロウは部屋を出て行ってしまった。
シロウが何をしに何処へ行ったのかよく分からなかったが、とりあえず私も茶の間に座ってタイガとサクラの三人で朝食を先に食べていることにした。
思い起こせば。
「どう思う、桜ちゃん?」
「あとはもう何を言っても聞かないと思いますよ。先輩、一度こうと決めると頑固なとこありますから」
「あー、そういう意味合いでは確かにキョウダイよねー。どう見ても士郎の方が年上に見えるけど」
「ふふ、そうですね」
「でも士郎がそうするってことはさ、三人よ。どうする?」
「先輩は気を使われるのを嫌いますから、残念ですけど私たちだけで行きましょう」
こんな二人の会話を聞きながら、何故シロウが何をしようとしているのか私は気が付かなかったのだろうか。
数分でシロウは茶の間に戻ってきて、一緒に朝食を摂りはじめた。食事の間、シロウは何故か定期的に私の顔を見ていたような気がした。
正直に言うと、おでこのぴったんこと、その視線が相余って食事の味などろくに分からないまま、顔にずっと熱を感じたまま気が付いたら食事を終えていた。
「あぁ、桜」
「はい、分かってます。片付けは私たちがしますね」
「私はお皿を運ぶから、桜ちゃん洗って」
二人はそれぞれ、食器の片付けを始める。
む、何故たった一言で意思が伝わっているのだろう。
二人は一体何を分かっているというのか。
何だか、サクラとシロウ、タイガとシロウ、その二つの間にある絆のようなものが、私とシロウのはそれとは細いような気がして悔しかった。
そんなことを思っている私を知ってか知らずか。
「イリヤ立てるか?」
なんてシロウは、私に手を差し伸べてきた。
「え?」
私は目を瞬く、状況をいまいち把握しきれていない。何故そのようなことを尋ねるのか考えて、すぐにはその手を取る事が出来なかった。
しかしまさか、私が風邪を引いていると勘違いしたのだとしても。
「きゃっ」
お姫様抱っこで、布団まで運ぶ必要は無いと思うのだ。
それはその、嬉しかったけど…。
運ばれていく私を見ながら。
「今日はイリヤちゃん一人に士郎はレンタルねー」
「先輩、私たちは三人で映画に行ってきます。ですから、気にしないで下さいね」
なんて二人は笑顔で言った。
つまり分かったことと言えば、シロウのしてくることとは病人の為に寝床を用意することだったわけで。そして、こともあろうに折角の日曜日をシロウは看病に費やそうというのである。
何て馬鹿なんだシロウは。つい呆れてしまった。
いつもシロウは人のことばかりだ。こんなんじゃ、いつか痛い目に遭う。まぁ、以前痛い目に遭わせたことのある私が言えることじゃないのだけれど。
そんな事を思ったのだけれど。
二人の笑顔を見て、胸に手を当てて。
私たちは、シロウのそんなところも全部ひっくるめて好きなんだと気付いた。
シロウを馬鹿だと笑う者もいるだろう、愚かだと嘲る者もいるだろう。
けれど、私たちは決してそんなことはしない。
だって、シロウの手は、胸はこんなにも暖かい。
私を布団に寝かせると、シロウはすぐに部屋を出て行こうとした。意識するよりも早く、私の体は動いていた。
「すぐに戻ってくるよ、濡れタオルを持ってくるだけだから」
シロウにそう言われて、私は自分がシロウの服の袖を掴んでいることに気付いた。
私のこの行動をシロウはどう思っただろうか。やっぱり、手間のかかる「妹」とでも思っただろうか。
時々、何の前触れも無く寂しさが襲ってくることがある。
たった二ヶ月間程でしかなかったが、寝ても起きても共に日々を過ごしたバーサーカーがいなくなってしまったせいかも知れない。
朝だというせいもあるだろう、ここは締め切られていて音が無い。それも私を弱気にさせた一つの原因だろう。
「いかないで…」
私はそう呟いていた。
私は弟に依存してしまっている。
駄目だ、間違いない。どう考えても、「お姉ちゃん」なんて失格だ。
そう思ったけれど、シロウは私を寝かし直すと、黙って手を握ってくれた。
「大丈夫、どこにもいかない」
優しくシロウは笑った。
そんなシロウを見ていたら、もうお姉ちゃんと呼ばせるなんてことはどうでも良くなってしまった。
私はそんな事を思いながら、静かで暗いけれど優しいまどろみに落ちていった。きっと、シロウが傍にいてくれたからだろう。
私が目を覚ました時にもシロウは手を握ったままだった。
シロウが目を覚まさないように、ゆっくりと手を離す。
私がどれくらいの時間をかけて眠りに落ちたのかは分からないけれど、何時の間にかシロウも眠ってしまったようだった。
窓際まで歩いて障子戸を開ける。もう日は高く、障子越しにでも明るさを主張していた光が差し込んでくる。
窓も開ける。吹き込んでくる風が私の髪を躍らせる。
暖かな春の風を身に浴びながら私は、シロウは何時の間にかではなく、もしかしたら本当に私が起きるまで「どこにもいかない」つもりだったのではないか。そんな事を思って、くすりと笑った。
だからもう本当に、シロウが兄や弟とか、私が妹だとか姉だとか、そんなことはどうだって良くて。ただ私はこの時、シロウに何かお返しをしてあげようと思ったのだ。
ん、と声を上げながら僅かに身じろぎをする。
何時の間にか、眠ってしまっていたらしい。しかも、何故か俺は横になっているようだ。頭は、柔らかくて温かいものに乗っかっている。
あぁ、もしかして膝枕されているんだろうか。
何て思いながら、ゆっくりと瞼を開ける。
イリヤが開けたのだろう、窓は開け放たれ、高く上った太陽の陽光が差し込んで来ているのを感じる。
季節は春。陽射しは暖かく、小鳥の囀りも聞こえる。優しく吹き込んでくる風は、僅かに花の香りまでも運んでくる。
皮膚が、目が、耳が、鼻が、それぞれ世界を順次知覚し心を穏やかにしてくれる。
世界ってやつはこんなにも美しい。
生死を何度も彷徨ったせいだろうか、聖杯戦争を駆け抜けてからというもの、よくそんな風に感じるようになった。
だというのに、俺は半端に口を開けたまま、言葉を紡ぐことも出来ずに、世界よりも「それ」に見入ってしまったのだ。
風で揺れている髪は銀糸、瞳は紅玉、光を反射している透けるような白い肌は穢れのない処女雪のようだ。
自分が膝枕をされているということも、世界の美しさも、その瞬間どこかに吹き飛んでしまった。
髪の色も、瞳の色も、何もかもが彼女が日本人であることを否定しているというのに。もともと、一人っ子だった上に、幼い時に本当の両親を失ってから一度も想像したことだってないというのに。
気高さを身に纏い、光を浴びながら何処か遠くを見つめているその横顔に幼さなどなく。けれど、大人びているというのもまた違う。その美しさは世界に祝福を受けているように見えた。まるで、伝説の中の聖女のようにすら見える。
だけれど、俺は「それ」を表現する言葉を一つしか思い浮かばなかった。
「姉…さん…」
無意識に発した言葉だった。その声は、か細く、鳥の囀りや風にかき消されてしまうほどに。
自分に兄弟が、姉妹がいたらなんてこと想像したことなんてない。けれど、確かにこの瞬間、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは衛宮士郎の「姉」であったのだ。
シロウが身じろぎをした。
目を覚ましたのだろうか?
窓の外へ向けていた視線をシロウへとゆっくりと戻す。
「…さん…」
ん? 何か言ったようだが、よく聞こえなかった。
「シロウ、何て言ったの?」
シロウは何故か酷く驚いた顔をした後、恥ずかしそうに私から顔を背けて。
「姉さんって言ったんだよ…」
小さく、か細い声だったが確かにそう言った。
シロウのその顔は赤かったが、私も似たようなものだったかも知れない。
嬉しさと恥ずかしさがない交ぜになって、自分がどんな顔をしているのか分からない。そんな顔を見られるのが嫌で、お姉ちゃんである私は。
「わっ!?」
シロウの顔を抱え込むように抱きしめた。
最初の内はジタバタしたけれど、シロウはすぐに大人しくなった。
数秒の時を経て、お互いに体の力を抜く。
シロウの顔を覗き込むようにして。
「ありがとう、シロウ」
私は微笑んだ。
シロウもまた、嬉しそうに優しく微笑んでくれた。
こんな時を過ごした私たちは、恥ずかしいよりも嬉しいという感情が勝っていたのだけれど。
余りにも互いに嬉しすぎて、その事に気付かなかったのだ。魔術師である私たちが、二人揃って他人の足音にすら気付かなかったのだというのだから、不覚としか言いようがない。
朝一で映画を見に行ったのだ、昼までには当然見終えている。日が高くなっているこの時間に、三人が帰ってくることなど充分に予想出来たはずなのに。そんなことにすら気付けなかったことは、今でも悔やまれる。
もっと、こんな時間を過ごしていたかったのに――
「衛宮くん、お昼ご飯をご馳走になりに来たのだけれ…ど?」
部屋の襖を開け、こちらを見たリンが硬直する。次の反応は大よその予想がつく。
「な な なにしてんのよアンタらはーー!」
もの凄い爆音だ。リンは近所迷惑という言葉を知らないのだろうか。
ちなみにリンの顔は凄い真っ赤なのだけれど、これは怒っているというよりも照れているせいだと思う。うん、リンは時々恋愛初心者みたいな反応を見せるので間違いない。
まぁ、こんな体勢でいたら誤解されるのも無理はないと思うのだけれど。私たち自身、他者の突然の登場に驚いていてこちらの反応が遅れた。
「何、どうしたのよ遠坂さん。そんな大声を出したらご近所が迷惑よ?」
何て言うタイガの言葉が近づいてくる。たまには教師らしい発言をしたりもするようだ。
「先輩たちがどうかしたんですか?」
サクラも一緒のようだ。
「――」
「――」
こちらを覗き込んで、タイガとサクラが同時に凍り付く。
「うわーん、士郎がロリ○ンになっちゃったよーー!」
大きな声で騒ぎ出すタイガ。
その言葉に、不肖の弟であるシロウが私の膝から跳ね起きる。
「待て、誤解だ藤ねえ。ていうか、そんなことを大きな声で叫ぶな!」
ぽかり、とタイガの頭を叩くシロウ。確かにそんなことを叫ばれては、世間体というものが悪くなるだろう。いや、ていうかだから私は立派な淑女なんだってばタイガ。幼女などと呼ばれるのは甚だ心外である。
「…ですね」
「ん、なんだ桜?」
「キスしてたんですね」
桜は胸に手を抱きながら言う。その瞳は潤んでいる。
「ご、誤解だ桜」
慌てふためくシロウ、もっとしっかりして欲しいものだ。
「分かりました…私は先輩のことを信じますから」
何て笑顔で言うサクラ。
「良かった、桜だったらわかって貰えると―」
思った、と胸を撫で下ろしながら付け加えようとしたシロウはそこで硬直した。サクラは笑顔だったが、その目はミリグラム程度にも笑っていなかったからだ。
「では先輩?」
「ハ、ハイ、ナンデショウサクラサン?」
喋り方が滅茶苦茶怪しいシロウ。
「先輩はお忙しいようですから、昼食は私が作りますね」
お忙しい、の部分に全力で悪意が篭っていた。サクラを含めた三人には後でなんとかフォローを入れておかねばなるまい。
「お願いします…」
がっくりとうな垂れるシロウ。
しかしながら、当然のようにこの朴念仁の弟は何故私ではなく、自分だけが槍玉に挙げられるのかなんて、ちっとも分かっていないのだろう。
この後出された昼食はカレーだったのだが、シロウのだけ「宴歳館・泰山」の麻婆並みの辛さだったりして、それをシロウは泣きながら食べていたりしたのだが、それはまた別の話である。
ちなみに、その後数時間に及ぶ説明をしてキス疑惑は晴れた。なんとか、膝枕をしていただけなのだという事を信じて貰えたようである。まぁ、私としては別にどちらでも良かったのだけれど。
そんなこんなで、日曜の一日は過ぎて、静かだったのか騒がしかったのかよく分からないまま日暮れを迎えた。
「それじゃ、また明日学校でね衛宮くん」
「明日の朝にまた来ますね」
「またね〜、士郎」
三者三様の言葉を残し、衛宮邸を後にする。
「うん、遠坂に桜、藤ねえまた明日。皆気をつけてな」
私は一番最後に衛宮邸を出る。
「それじゃ、私も帰ろうかな」
「ああ、イリヤも気をつけ―」
精一杯背伸びをして、シロウの口に指を当てて言葉を塞ぐ。私の意図に気が付いたのか、シロウは恥ずかしそうな顔になる。先に出た三人は、玄関先で不思議そうな顔でこちらを見ている。
シロウに改めて、帰りの挨拶をする。
「それじゃ、私も帰るわね」
「うん、『姉さん』も気をつけて」
その言葉を受けて、目を白黒させている三人を尻目に私は満面の笑顔で帰路につく。
「えっ、ちょっ、イリヤどういうことよ?」
「どういうことですか、イリヤちゃん?」
「士郎に何したのよ? この悪魔っこ〜」
シロウの『姉さん』発言に驚いたのだろう、三人の声が追いかけてくる。
「ふふ、秘密♪」
一言だけ返事をして、わたしはついスキップをしながら現在の住みかである藤村家へと向かった。家路の途中、一度だけ衛宮邸を振り返る。
今日は、とても素敵な一日だった。
シロウが初めて「姉さん」と呼んでくれた日。
夕暮れの柔らかな陽射しを浴びながら、これからも続いていくであろう暖かい日々に思いを馳せる。
優しい風が頬を撫で、髪を揺らす。そっと風に乗って運ばれてくる花の香りを感じながら、目を閉じて呟く。
シロウ、これからもお姉ちゃんをよろしくね―