-白き妖精のワルツ-
季節は初冬。この時期に、この辺りでは珍しく柔らかな粉雪が舞い踊っている。
空を舞い、肌に触れたはしから溶けていく白き妖精達。
雪のようだと、髪を誉めて撫でてくれた父。
同じように、誉めてくれたシロウ。
彼と出会い、共に過ごした時間は大よそ一年を数える。
その時の中で私が理解したことは、二人を憎んでも憎みきれないということだった。
どうして、あの二人はあんなにも暖かく、優しいのだろう。
きっと、私なんて、そんな暖かな手で抱かれでもしたらたちまちに溶けてしまうだろう。
私は冷たいだろう。きっと、バーサーカーとなったヘラクレスよりも内に獰猛さを秘めていたに違いない。
だと言うのに、そんな私にシロウは臆面もなく、
「幸せになる権利が、義務がイリヤにはあるんだ」
と言い切ってみせた。
その言葉は嬉しさと同時に、悲しさを私に抱かせた。
幸せになる義務や権利が私に存在するというのなら、私が無残に奪ってきてしまった数々の命たちはどうなってしまうのだろう?
数々の幸せの権利を奪った私が幸せになることなど許されるのだろうか。否、許されるとは思わない。
縁側で、柔らかく舞う粉雪を目上にして、頭をシロウの膝に乗せ、私は弱々しく笑った。
「シロウ…」
手を伸ばすことなど愚か、声を出すことすら辛い。
もとよりこの体は、人としての機能など度外視されてつくれた聖杯としての器だ、もうとっくに消費期限など切れているといって過言じゃない。
そのことを考えるのならば、この一年間がどれだけ幸せという名の暖かさに包まれていたことか。大河がいて、凛がいて、桜がいる。振り向けばそこには何時だって、幾度か殺しかけたというのにも関わらず優しく微笑み私の名前を呼んでくれるシロウがいた。
優しすぎる。私にはその優しさは過ぎたものだったのかも知れない。
「イリヤ」
だって今、シロウのその声を聞くだけで涙が零れてしまいそうになるのだから。
そんな温もりに触れ続けていたから、私は弱くなってしまったのだ。
その声を聞いて。初めて死にたくないではなく、生きたいと私は心から願った。それが分不相応の願いだと分っていても。
終わりは近い。この瞬間にも私を形作る力は抜け落ちていく。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ――。ここからいなくなるなんて嫌だ。
魔力も微塵に残っていないこの体のどこにそんな力が残っていたのだろう、私はシロウの腕を掴んでいた。
私の恐怖に引きつっているであろう顔をシロウは優しく見下ろしながら、こう聞いた。
「イリヤはこの一年楽しかったか?」
当たり前だ、そんなの答えは決まってる。
シロウのその問いが、私の心に巣食う恐怖というものを全て払拭してしまった。
「すっごく、幸せだった。人間っていうのが暖かいんだって初めて知ったよ」
私は、自身すら気づかず微笑んだ。
「うん。イリヤは笑っているほうが可愛い」
何て、死の際にいる人間を赤面させるような台詞をシロウはいとも自然に言った。
「シロウの馬鹿は……きっと死んでも治ら…ないね」
私は笑う。
「かも知れないな――」
シロウは言葉を詰まらせる。
うん、間違いなくシロウの馬鹿は死んだって治りはしないのだ。
シロウは本当に馬鹿だ。
だって、私なんかのために涙を流しているのだもの。
「もったいないよ」
「何が」
「涙が。シロウが涙を流してあげるべき人はね、たくさん……たっくさん…いるの」
そう、シロウが涙を流してあげるべき人々はこの世界に数限りなく存在するはずだ。
シロウは瞼を指で抑え、涙を拭う。
「そんなことない。俺はそんな立派な人間なんかじゃない」
「そんなことあるの。だって…シロウは…正義の味方だもの」
違う、違うんだと。シロウはかぶりを振った。
「正義の味方だっていうなら、何で俺は助けようと、守ろうと心に決めたものすら守れないんだ!」
まるで駄々っ子だ。本当に手間のかかる弟。そして、なんて優しく愛おしい弟なのだろうか。
シロウが思う以上に私だって、シロウを守りたい、助けたい。私だって自分のせいでシロウが傷つくなんて嫌だ。
「シロウ」
愛おしい、馬鹿正直で、自分の気持ちなど偽ることなど出来ず、ただ苦しみを苦しみとして受け入れて、涙以上に血を流したシロウ。
結局、血の繋がりなどなくても私たちは姉弟だったのだと理解した。
手を伸ばして、シロウの涙を指で拭う。
「シロウはね、私を助けてくれたよ。だって…この一年…ずっと…幸せだったんだから」
「足りない! 足りるわけ無い! イリヤが受けてきた苦しみの、悲しみの半分だってイリヤは幸せな時間を生きてない。俺は何も、何にも守れてない!!」
いつからそんなに強く手を握り締めていたのだろう。シロウの手はシロウ自身の爪が食い込み紅い血が流れていた。
なんとか手を動かし、掌をシロウの手に乗せる。
貴方は何も悪くないのだと、そう思い込めて。
出来るなら、その手を開かせたかったけれど、そんな力はもう入らなかった。
「ね、シロウは私と一年間一緒にいて…楽しかった?」
「そんなの…考えるまでも無い。楽しかったに決まってる」
掌に温もりが零れ落ちた。シロウの心も、涙も温かい。
だから、どんなに苦しくたって私は笑える。
「だったら笑ってシロウ。私は幸せだったんだから。この一年間、初めて生きていて良かったって思えたよ」
シロウは笑った。否、それは一瞬ですぐに悲しそうな顔へと変化した。
「そう思えたのに、なのに何で!? たった、たった一年で…」
死ななきゃならない、という続きの言葉はシロウは口にしなかった。代わりに涙を零し続ける。
私はこの手間のかかる弟を見上げながら、どうしたものかと思いを巡らせた。
結局、思い浮かんだのは余りにも楽しすぎた思い出達だった。
「春には桜、夏には海、秋には紅葉、冬には雪。私を家族として扱ってくれた皆との思い出は決して色褪せることなんてない、素敵なものよ。何年、何十年たったって、死んだって、私もシロウも忘れなんてしない」
舞い散る桜の下で皆でご飯を食べた。海で泳ぐのは初めてで凄く怖かった。吹雪のように舞う紅葉は美しかった。祖国とは違い、この国で降る雪は優しかった。
そして、全てに共通していたのは皆の弾けるような笑顔だ。
それを話したとき、私も同じように笑顔だったと言われて嬉しかった。
例え、それが私の見ていた死の際の夢だったのだとしても私は悲しいなどと思わないだろう。あまりにもそれは美しく、シロウの流す涙は暖かいのだから。
私は嘘が嫌いだ。でもこの瞬間、この世界には許されてしかるべき嘘があっても良いのではないかと思った。
そんな事を私は、かつて殺してしまいたいと思っていたほど憎んでいた父を思い浮かべながら思った。
父は何を想い生き、そして死んだのだろう。
少しだけ、それが分ったような気がした。
だって正直、誰かが自分の為に涙を流すなどと、自分が涙を流すなどとそんなこと思いもよらなかったことなのだから。
その思い出が嘘なのだとしても、ここにある思いは偽りなんかではない。心は暖かいのだから。
だから、私はシロウがほんの少しでも安堵できるように微笑みながら言うのだ。
「確かに、ほんの一瞬の煌きだったのかも知れない。でもね、私はシロウに会えて、短い時間でも一緒に生きれた。同じ時間を共有できたことを嬉しく思うの」
そう優しく言って。ほんの僅かだけれど安堵したような様子を見せたシロウを見て。
「だから、笑いなさい!」
そう弟に出来る限りの力を振り絞って怒鳴ってやった。
一瞬きょとんとした表情を見せてその後、ようやく不肖の弟は笑って見せたのだった。
「きゃっ」
そして、こともあろうに姉である私をこの弟はお姫様抱っこなんかをした。
「そうだな、俺なんかがしけた面していたって、誰も救えない」
言いながら庭先へと、弟は気でも違ったのか裸足で歩き始めた。
庭にはうっすらとだが雪だって積もっている。足なんて痛いに違いないというのに。
「痛く…ないの?」
私は、最早ぼんやりとしか見えない視線を向けて問い掛ける。
「痛いけどね、そんなのイリヤに比べたらどってことない。だから、俺は笑える。笑わなきゃならないんだって、ようやく気づいた」
だというのなら。
「降ろして…」
そう私は言った。
抱き上げられているのが嫌だったのではない。シロウが痛みを我慢しているのが嫌だったわけでもない。
ただ、シロウが笑っているのなら、最後の最後の瞬間までそれを共有したいと思っただけだ。
何も言わず、優しさに満ちた微笑で私たちは向かい合った。
手を取り合う。ゆっくりとお辞儀をする。
私は自分ひとりでは最早立つことさえおぼつかない。
たったそれだけの動作ですら、何度もシロウに支えられなければならなかった。
けれど、いつかシロウが言ってくれた言葉。
雪のような髪、雪がよく似合う。まるで妖精みたいだ、と。
シロウにとって、私の弟にとって、それが私にとって一番似合う姿であるのなら、出会ったのが雪の下であったのだから、その下で互いにそれを焼き付けたかったのだ。
よほど近づかなければシロウの顔を確認することもおぼつかない。足取りなど、千鳥足と呼ばれるものよりも酷いだろう。
それでも、静かに降り続く雪の音だけをBGMに私たちは拙いワルツを踊った。
よろけながら、何度も倒れながら、私たちは裸足で踊った。互いによりかかりながら、言葉も無く。
楽しかった日々、いつまでも続けばいいとさえ思った日々。走馬灯のように駆け巡る思い出達。人として生きれたこのかけがえのない時間。
きっと、この肌に頬に触れては一瞬で溶けていく雪のような時間だったのだろう。けれど、いかに短い時間であろうとも、決して輝きは失われはしない。むしろ、だからこそ光り輝くのだ。
「ね、シロウ。私は確かに恵まれていなかったのかも知れない。けれど…ね、私は幸せだったの」
私が不幸であったはずがない。
もう足が動かない。
拙いワルツは終わりを告げる。儚い夢が終わろうとしている。
もう力なんて微塵も入らない。私はシロウにもたれれかかり、シロウは私を抱きしめる。
シロウは何も言わない。けれど、この優しすぎる弟は歯を食いしばって悲しみを堪えているのが、体の震えから分ってしまう。
「だって…私は…シロウや皆に、世界がこんなに綺麗で……人間が暖かいんだって…教えて貰えたんだもの…」
憎しみや痛みしか知らず育って生きてきた私が、最後の最後に幸せな気持ちで、暖かな温もりに抱きしめられて終わりを迎えられるのだ。これ以上のことを望むことなんて出来ない。
何日も前から、ずっとずっとそう思ってきたのに。
体の力が抜けていく。私を微かに繋ぎとめているものが全て抜け落ちていく。もう、瞼を開けているだけの力もろくにありはしない。
「イリヤ! イリヤ!」
駄目だ、この本当に手間のかかる弟はもう泣き叫んでしまっている。
弟であるシロウが、弟でありながら、お兄ちゃんであるシロウがこんなんだから、私は弱音を吐くのが抑えられないのだ。私も弱くなってしまうのだ。
駄目だ、涙が零れて来る。止まらない。
「やだよ…もっとここに居たいよ。素敵なこの場所に……いたいよ」
けれど、そんな願いは決して叶わない。
その事を私は知っている。
だから、泣いたまま死んでなんてやらない。私は誇り高い、アインツベルンであり、ただひたすらに強さを追い求めたキリツグの娘。そして、この泣き虫な弟のお姉ちゃんなのだ。
「イリヤはずっといる。ずっとここに…いる。例え、イリヤのことを誰もが忘れたって、イリヤが嫌だって言ったって忘れてなんてやるもんか」
うん、例え私の存在が消えてなくなったとしても。私が拒んだとしても、私はシロウの中で生き続けるのだろう。
嬉しい、幸せだ。それは何て素敵なことだろう。夢にすら見たことも無い、夢のようなことだ。
けれど、一つだけお願い事をさせて欲しい。
もし今でも、私に聖杯としての力が欠片ほどにでもあるのなら。
この美しい世界よ、地球という名の星よ。優しさと冷たさを、同居させているこの世界よ。
ほんの僅かでいい、気づけないほど些細でいい。
人のことばかり気にかける、この大馬鹿な弟に優しさを、温もりを与えてあげて。
私なんかでも、愛してくれる人が沢山いた。
なら、私なんかより何倍もシロウを愛してくれる、気に掛けてくれる人がいるはずなのだ。
お願い。
私には出来なかった。
私は結局のところ、この子に守られ助けられただけだ。
だから、この愛しい弟の心を救ってあげて。
そう願い、私は弱くて頼りなくて、情けない、けれど誰よりも愛しいシロウに、さいっこうの笑顔を見せてあげた。
「シロウは――」
「イリ……ヤ…」
雪のような少女はもう動かない。ころころと目まぐるしく変化したあの表情を見ることももう出来ない。小さく、愛らしい唇から言葉が紡がれることは最早ない。
「イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ、イリヤ――!」
壊れたレコードみたいに、狂ったように何度も何度もそう叫んだ。
雪は止まない。涙も溢れては零れていき、止まることなど無い。
何て皮肉だ。自分がこんなにも涙を流すことが出来る人間なのだと初めて気づいた。そして、どれほどイリヤが大切な人であったのかを。
涙を受け止めていたイリヤの体が、徐々に薄れていく。
駄目だ、駄目だ、そんなの駄目だ。
刹那の瞬間、イリヤの魔術回路が浮き上がり、そして光の粒子となり霧散した。
温もりはおろか、重さすらもう感じることが出来ない。
文字通り、イリヤという存在が消え去った。
行き場を失った両腕で自分を抱く。
「あぁ…あぁ――!」
膝から崩れ落ちるようにして、雪が僅かに積もった土に額を擦り付ける。
雪は肌に触れたその瞬間にそのほとんどが溶け、そこには無かったかのように消えた。まるで、イリヤのように。
「何も、何も出来なかった!! もっと、もっとずっと、イリヤは幸せに貪欲になって良かったんだ。だって言うのに―」
最後の最後に、優しさに触れてしまった彼女は。
終わりに口にした言葉は。
「シロウは――
幸せに生きて。だって、世界はこんなにも美しいんだから」
憎み続けていた、親父の恨み言をいうのでもなく、ただ世界を愛しているのだと。
生きたいという自己への望みではなく、生きてと、他者を思う言葉を口にして、微笑みながら気高く逝った。
少年は立ち上がった。
涙でぐちゃぐちゃな眼を乱暴に手で拭う。
少年は誓った。彼女が最後に愛したこの世界に。時にお兄ちゃんと呼び、弟扱いをし、時に恋人のように扱った彼女自身に。
決して、この世界の美しさに、彼女の気高さに恥じぬように歩み続けようと。
その誓いを曇らせ、錆付かせることがないことを。
何事も無かったかのように降り続ける雪を見上げながら、彼は自らに誓いという名の剣を突き立てた。
その剣は曇ることなどなく、朽ちることも錆びることも愚か、折れることなど有り得ない。
最早、その瞳に曇りなど無い。
あるだけで美しい、気高いこの世界を。そこに生きる人々を守るために彼はその足を踏み出したのだ。
彼は生涯、決してイリヤスフィール・フォン・アインツベルンという名の気高き少女を忘れることはない。
共に拙く踊り、生きた気高き白き妖精のことを――