こみっくパーティーSS
『私の描く本』
その人は笑っていてくれた気がする。
とっても優しい微笑み。
見ているこっちが安らぐような微笑。
そう、私はその笑顔が見たくて本を、漫画を描き始めた。
きっと同人誌なんて自己満足の延長でしかないのだろうけど、それが私が漫画を描く理由。
その人は、私の描いた漫画を読んで心から微笑んでくれていた。
心からの笑顔を見せてくれていた。
自分に向けられた微笑を見て、私の心は満たされていた。
私は夢を見ていた。
夢の中では、私は少女だった。少女の私も、その人の笑顔につられて心から微笑んでいた。
無邪気な少女の笑顔。
ひどく懐かしい夢。
忘れてはいけないこと。
それは私の原点だから。
けれど、私はそれを忘れてしまっていた。
ううん、その事を故意に忘れてしまおうとしてしまったのか知れない。
大切な人の傍にいる為に。
それが間違っている事にも気が付かずに――
「うん…」
私はゆっくりと目を覚ます。
夢を見ていた気もするが、内容までは思い出せない。元々、夢など見ていないかも知れないし。
周りを見渡して現在の状況を確認する。
右手に握られたままの丸ペン。テーブルの上に散乱している数枚のスクリーントーン。そして、私の右膝元には描き終えた原稿用紙が綺麗にまとめられて置いてあった。
ああ、私描いている途中で眠っちゃったんだ。
カリカリという音が聞こえて、そちらに視線を移す。
視線を移すと、そこにはテーブルではなく椅子に座り、机の上で原稿を描いている彼の姿があった。
私は声を掛けようとして、立ち上がろうとする。
その時、つい手に握っていたペンを落としてしまい、カランという乾いた音が静かな室内に響いた。
「…ん?」
その音で気が付いたのだろう、彼がこちらを振り向く。
「あっ、起こしちゃったか? ごめんな」
「いえ、そんな事ないです」
彼は椅子の向きをこちらに換えて話を続けた。
「今日はもう疲れているみたいだから、休んだほうがいいよ。疲れていると、線が歪んじゃったりするからね」
「あ、はい……」
言われて、私はゆっくりと立ち上がる。
体が寝ぼけているのか、少し重い。
立ち上がり、ファサ、と何かがフローリングの床に落ちる音を聞いて、その時初めて私の体に毛布が掛けられていた事に気がついた。
「これ」
と言って、私は毛布を拾い上げる。
「ああ、本当はベッドに寝かせてあげれば良かったと思うんだけど、何だか気持ちよさそうに眠っていたから、もし起こしたら悪いなと思って」
そう言って、彼は少し申し訳なさそうに、照れくさそうにしながら頭を掻いた。
何気ない、彼の優しさが嬉しかった。
「いいえ……ありがとうございます」
私は軽くお辞儀をした。彼の顔を見ていると、自然と心が和んで顔がほころんだ。
「進み具合は……どうですか?」
そう言って、私はベッドではなく彼の場所まで移動した。
「えっと、上々だよ。このペースで行けば、明後日には仕上がるかな」
机の上に広げられている原稿を見てみる。
今日一日で随分進んだようで、残りのページの量はかなり少なくなっているようだった。細かい仕上げや、修正もあるかもしれないので、実際あとやらなければならない仕事がどれくらいなのかは一概には言えないだろうが。
「随分……今回はペースが早いんですね…」
「うん、今回はね。ペンが軽く進んでね。ただ…」
「ただ…?」
「今回はもう一つ原稿をあげなきゃいけないんだ」
彼はそう言って、短く溜息をついた。
「もう一つ…ですか?」
彼は今、ある漫画雑誌に連載を一つ持っている。これはその原稿だ。一体、他に何を描くのだろう。
「何だか、読み切りを頼まれちゃってね。内容は特に問わないらしいんだけど…。32ページ以上お願いとか言ってたかなぁ」
「読みきり…ですか…」
なかなかキツイよ。
そう苦笑しながら言う彼の顔を、私は見つめる。困ったようにも見えるけど、どこか嬉しそうだ。
「どんなお話にするかは…決めてあるんですか…?」
「うん、一応はね。ただある人をモチーフにして描こうと思うから、その人の了解を得ないといけないんだけど」
まぁ、とりあえずは目の前の原稿を上げないとね。担当の人や、編集長の怒られちゃうからね。
そう言って、今度は誰が見ても楽しそうに見えるであろう微笑を洩らした。
「あの…」
「ん、あぁ。ベッドは使っていいから。俺は朝までやって、そこのソファででも眠るからさ。お母さんには今日は泊まってくるって言ったんだろ?」
「いえ…」
「え、言ってきてないの?」
驚いた声を彼が上げる。
「あ…、そうじゃなくて。言ってきては…あります」
「そうだよね。じゃなに?」
不思議そうに私の顔を見つめる。
「私が…出来ることだったらお手伝いしますから…あの、何かあったら…言って下さいね」
「あぁ、ありがと。読み切りのほうではお願いするよ。こっちはもうすぐ終わるけど、読みきりは手もつけてないからね。背景とかトーンとか、いろいろお願いすると思う。彩も忙しいのに、ごめんな」
「いえ…私が和樹さんにアシスタントをお願いしたんですから…。もっと…使ってください……」
「いや、この原稿でも本当に助かったよ。効果線に、背景に…点描なんかは俺苦手だったから、本当に助かったよ、ありがとな、彩」
そう言って、微笑みかけてくれる。
この人はいつもそうだ。
そして、その微笑を見る度に私は嬉しい気持ちで一杯になる。
「読みきりの方は、もっと頼むと思うけど大丈夫?」
「はい…」
あなたの為なら、私は頑張れるから。
胸中でだけ呟く。
「じゃ、今日はお休み」
そう言って、彼は私に背を向けて原稿に再び取り掛かり始めようとする。
「あの…」
そんな彼に、私はまだ声を掛ける。
「どうした?」
彼は声だけを返してくる。
手はもう原稿に取り掛かり始めている。
あぁ、もうプロなんだなぁ。そう後ろ姿を見て何となく思う。
「傍で…見ていていいですか? あの…、寝むっちゃうと思うんですけど…あの…」
傍にいたかったから。
きっと、そうなんだと思う。根が淋しがりやなのかもしれない。
私が、もじもじしていると彼は立ち上がって。
「ああ、いいよ。その時は今度はベッドに運んでいってあげるよ。椅子を持ってくるな」
そう言って、優しい微笑を私に向けてくれるのでした。
カリカリという音と共に、忙しなく動く和樹さんの手を見ていました。
大きな手、そんな事を思いながら。
椅子を横に並べて、普段はあまり気が付かないけれど、傍から見て大きな背中だと思う。
(まるで、お父さんみたい…)
私の中で、昔の懐かしい思い出が頭をよぎる。
和樹さんが、見開きのページの仕上げに入った時だったろうか、その辺りで私は眠ってしまったようだった。
気が付くと、ベッドの中に私はいたから。
見開きのページ、いわゆる見せゴマというやつなのだが、を半分ほど描き終えた所で、すぅすぅ、という静かな寝息に気付く。
机の隅で申し訳なさそうにしながら、可愛らしい寝顔で眠っている彩が見えた。
(寝ちゃったか。ベッドまで運んでやらないとな)
なるべく音を立てないように、椅子から立ち上がる。
そっと、彩を抱き上げてベッドまで運ぶ。
(やっぱり軽いな。女の子なんだから、同じ徹夜をすれば当然彩の方が疲れるよな)
そんなことを思う。
(もっと、気を使ってやらないとな)
ベッドの目の前まで来た所で、彩が俺の服をきゅっと掴んできた。
「お父さん…」
そんな寝言を言いながら。
優しく、彩の頭を撫でる。
彩は気持ちよさそうにして、そっと掴んだ服を離してくれた。
ゆっくりとベッドに横たえて、毛布を掛けてやる。
「わたし、また描いてくるからね…。また、読んでね…」
寝言を言っている彩は、本当に嬉しそうな顔をしていた。
自然と、俺の表情もほころんだ。
この娘を見ていると、自然と心が温かくなる。
「読んだのが思い出になるような本が描きたい、だったよな。きっと描けるよ、彩なら。読んだ人の心を暖かくするような、読んでよかったと思えるような本が」
もう一度、優しく彩の頭を撫でる。子供をあやすように。
「わたし…頑張るからね…」
昔の夢を見ているであろう、彩に俺は話し掛ける。
「俺も手伝ってやるからな。二人で叶えような、彩の夢を…。きっと、彩になら出来るからさ」
そして、部屋の明かりを消す。
おやすみ。
そう優しく言い残して。
俺は、机のスタンドの明かりを頼りにもうしばらく原稿に取り掛かった。
小一時間するかしないかという内に、睡魔に負けてソファで眠りに就いてしまったが。
どうにも体力が落ちている気がする。やはり日頃の運動不足のせいだろうか?
あぁ、また瑞希に何やら言われそうだな。
『全く、オタク(お宅)なんて文字通り、家に閉じこもってばっかだからそんなんなっちゃうのよ。たまには外に出て、運動もしなさいよね』
何て台詞を思い浮かぶ。
まぁ、あながち間違っていないというか、大筋その通りなのだが、…全く持ってやれやれである。
俺だって、好き好んで運動不足をやっているわけではない。なかなか、運動するという機会がないだけだ。
瑞希に言えば、それこそ家に篭っているせいだ、と言われるののは目に見えているのだが。
そのうち運動もしよう。
そんな事を思いながら、眠りに就いた。
和樹が目を覚ますと、彩は既に原稿を書き始めていた。
ここからでは背になっていて良く見えないが、忙しなく彩の手がペン軸と共に動いている。ペン入れの途中なのだろう。
「う〜ん」
大きく伸びをして、節々の関節をゴキゴキと鳴らす。
(運動不足だなぁ、こりゃあやっぱり)
ゴキゴキという音を立ててなる関節に対して、そう思う。
気付かないうちに、肉体はどんどん老化していっているのかも知れない。
彩はこちらに気がつかないのだろう、黙々と原稿に取り掛かっている。
(相変わらずの集中力だなぁ)
この集中力にはいつもながら感心させられる。
例えるならば、スタート前の短距離走者だとか、大事な一打を打つ前のゴルファー辺りか。
とにかくこの状態に入ると余計なものや、多少の雑音は彼女の耳に入らなくなる。
とりあえず、コーヒーでも目覚めに飲もうかと思い、のそのそと和樹は台所に向かう。
その間も、やはり彩は気付かない。
ただ、コーヒーを煎れて(無論、インスタントである)、砂糖や寝起きなので胃に気を使いミルクなどを入れかき混ぜていると、彩が立ち上がったであろう音が和樹には聞こえた。
「あ…」
そんな声と共に、台所までやって来る。
「おはよう、彩」
欠伸交じりに、和樹は答える。
「おはよう…ございます。あの…コーヒー…」
あぁ、コーヒーの匂いで気が付いたのか。
さすがに嗅覚は普通に働いてるよな。
何て事を和樹は思う。
「コーヒー飲む? 飲むなら入れるけど…」
「…は、はい。……たのに」
「…ん?」
もう一杯、彩のためにコーヒーを煎れながらよく聞こえなかった彩の呟きに対して、声を出す。
「言って…くれたら、コーヒー煎れたのに…」
「あぁ、ごめん。邪魔しちゃ悪いかなと思って」
いつもは、お茶だとかコーヒーを煎れるのは彩の仕事だった。
今回もどうやら、和樹に対して煎れてあげたかったようだ。そんな顔をしていた。
彩との付き合いも長くなってきた。どういう事を思っているのか、大抵の事は表情で分かるように和樹はなっていた。
「変に気を使っちゃったかな。次からはまたお願いするよ」
「…はい」
微笑んで、彩は頷いた。
その笑顔を見て、和樹も薄く微笑する。
良い朝だと思った。(もっとも時間は昼近くだったりしたが)
簡単に昼食を済ませ、休憩をとる。
「いやぁ、あのスパゲティ賞味期限切れてなくて良かった」
「あの…和樹さんお料理しないんですか…?」
「うん、普段はというか、まず、いや絶対というか…」
そう言って、困ったように笑う。
「ちゃんと…三食たべないと駄目ですよ。栄養も…バランス良く摂らないと…」
「う〜ん、分かってはいるんだけど…。さっき見た通り、やたらと使っていないせいで鍋とか新品の様に光り輝いてるし、ジャーすらも最近は稼動していない気もするな…。今日みたいに、彩が作ってくると助かるかな、なんてね、はは」
本人は軽い冗談のつもりなのか、軽く笑った。
「……ろしければ」
「え?」
「和樹さんさえ……よろしければ、また作らせて…貰えますか?」
本来逆なのだろうが、彩から和樹に頼んできた。
「う、うん。助かるよ」
一瞬、呆気に取られた和樹だったが、すぐに笑顔で返事をする。
それを見て、彩も笑顔になる。
「はい…」
自分が和樹の役に立っているんだ、傍に居ていいんだ。
そんな事を、実感していた。
ただ、居て欲しい。好きだから、傍に居て欲しい。
和樹はそう言ってくれた。
けれど、好きだからこそ役に立ちたかった。
傍にいる、自分も役に立っているんだという実感が欲しかった。
自分が彼に愛されてもよいという資格を得るかのように、自分が彼を愛してよいという資格を得るかのように。
また一つ、お役に立てた。
そんな事を彼女は思っていた。
そんな彩に気が付いたのか。
「彩、ありがとな」
和樹はそんな事を言った。
「え…。こっちこそ…いつもありがとうございます…。わたし迷惑……かけてばっかりで…」
「そんな事ない、いつも本当に助かってる。ありがとうなんて言葉じゃ片付けられないくらいに、本当にありがとう」
和樹は、感謝の思いを込めて言葉を紡いだ。
「私が…好きでやってることですから……お礼なんて…あっ」
小さなテーブルに向かい合うように座っていた彩を、左手で胸元に優しく抱き寄せる。右手で優しく髪を撫でるようにいじる。
「俺はいつだって、彩の傍にいる。彩が倒れそうになったら、いつでも支えてやる。だから、彩も同じ様に俺の傍にいて、俺を支えてくれな」
そう言って、唇と唇とを優しく重ねた。軽く触れるだけの、本当に優しいキス。
「……はい」
彩は頬を紅くして、静かに返事をした。
「私……いつまでも、いつでも…和樹さんの傍にいます…」
「ありがとな」
「……はい」
そう言って、二人で微笑みあった。多少、ぎこちなさはあったかも知れないが。
「それじゃ、そろそろ原稿に取り掛かろうか」
「はい…」
言って、和樹は抱いていた手を離し立ち上がる。
「ははっ、『はい』ばっかりだな、彩は」
「…はい。…そうですね」
心から屈託なく笑う。幸せだと感じる事ができる。
こんな時、彩は思う。
昔の、少女だった頃の自分も同じように屈託なく笑っていたのだろうと。
今、笑顔でいれている自分。そんな自分にしてくれた彼に、お礼を言おうと口を開く。
ゆったりと立ち上がる。
「和樹さん…」
「ん?」
「…ありがとう…ございます……いままで。…わたし…感謝してます…和樹さんのお陰でわたし…」
今日まで頑張れてます。
小さな声で、それでもはっきりと話す。
和樹は、一瞬きょとんとした顔をした後、
「…いや、俺が好きでやってる事だし、やったことだから。きっと、お礼を言わなきゃならないのは俺の方だよ」
そう言った。
それでも、
「それでも…ありがとう…ございます…」
繰り返す彩に、
「そっか、それじゃありがたく気持ちを受け取っておくよ」
和樹はそう言った。
暖かな、優しい昼だった。
お互いが、幸せに良く似た居心地の良さのようなものを肌に感じていた。
「…和樹さん。修正終わりましたよ…」
「ん、ありがと。これで一区切りだな…っと。そろそろこのペンも変えないとなぁ、寿命かな」
「…あ、私お茶煎れますね…。…何がいいですか…?」
「あ、それじゃ紅茶お願いするよ」
「はい…」
彩は台所へと立ち上がる。
その後姿を見ながら、和樹は椅子に座ったまま大きく伸びをする。
(ほぼ、終わったなぁ)
残すところといえば、あとはトーンの貼り忘れや剥がれていないか、どこか線が抜けていないかなどの最終確認くらいである。
(ぼちぼち、もう一個の原稿もネームかかないとなぁ…)
上を見上げながら、椅子でくるくる回りながらそんな事を考える。
(まぁ、読み切りだから幾分かは気が楽だけど)
そんな事を考えていると、いい匂いが和樹の鼻腔を刺激した。
「お茶…はいりました…」
コトン、コトン、と丁寧にテーブルの上に二つの揃いのカップを彩が置く。
カップの中には湯気を立てている紅茶が注がれている。
「それじゃ、頂くかな」
椅子から降り、テーブルへと移動する。
「…どうぞ」
「うん、美味しい。そうだ、そう言えば彩の原稿はどうなんだ?」
「…あ、来週までには…終わると思います。…随分、進みましたから…」
「そっか、それじゃ来週はさ何処かに遊びに行かないか? 何だか、手伝いばっかりだっただろ、昨日今日とさ」
何処か行きたい所とかあるか?
和樹は、彩に尋ねた。
「どこでもいいぞ、遊園地でも、動物園でも、今なら植物園なんかも悪くないな」
「…どこでもいいです…。和樹さんが連れて行ってくれるなら…」
彩は嬉しそうに、にこやかに微笑んでそう言った。
和樹は、少し照れくさそうにする。
「そっか。それじゃ、来週は花でも眺めてゆっくりしようか。たまにはそういうのも良いよな」
「…はい」
変わらず嬉しそうな彩に、和樹は言う。
「随分と、彩の絵も変わってきたよな」
「そう…ですか?」
「うん、何て言うんだろ。線が少なくなってきてさ、漫画チックになってきたって言うと変だけどさ。ライトな絵柄になってきたっていうのかな?」
「和樹さんの…お陰です…」
「ははっ、彩の力だよみんなさ。この調子で行けば夢も叶えれるよきっとさ」
「……ゆ…め?」
ぼーっとしたように、彩が言葉を発する。
その様子は、どこか間が抜けていて可愛らしい。彩特有の魅力の一つかも知れない。見ていて、和樹は思った。この娘と一緒に居ると、心から安心できる。
「そう、言っただろ。『大好きな人と一緒に読めて、それが思い出になるような本』が描きたいって」
「…あ、はい…」
「どんな本だろうな、それって」
言いながら、和樹は少し悪戯っぽく笑った。そして、考えるように上を向いて視線を彷徨わせる。
「え…ほん…」
「え?」
彩の言葉に、和樹は視線を戻す。
「絵本を…描こうと思うんです…」
「そっか…。絵本っていうのもあったよな、そういえば。普段、少年漫画とかを読んでると忘れちゃいがちだけど、誰もが子供の頃に読むもんな…」
あれも立派な本だよな。
和樹はそう思った。
「…はい。大切な…お父さんや…お母さんと…一緒に……。…そして、思い出に残るような…そんな絵本が描きたいんです…。…それが…私の描きたい本…なんです…」
そう言って、少し恥ずかしそうに彩は俯いた。
「描けるさ。きっと彩なら、きっと出来るよ」
優しく、和樹は諭すように言った。
彩には、そんな和樹の声が遠い昔の父の声に聞こえた。
「…はい」
答える彩は微笑んでいて、それはまるで子供を見る母親のようにも見えた。
自分も、随分と大きくなったのだと思う。
不思議と今している自分の顔と、昔の少女の頃の自分との顔が頭の中に浮かんだ。
それは、数秒で消え、代わりに大好きだった父親の顔が浮かんでくる。
(お父さん…わたし頑張るね…)
胸中で呟くと、父親は笑ってくれた気がした。
今はまだ無理だろう。
それでも、諦めない限り道はきっと開かれる。
一人じゃない、だから頑張れる。
彼の傍には、いつだって私がいる。
私の傍には、いつだって彼がいてくれる。
Dreams come true(夢はいつかきっと叶う)
安っぽい言葉かも知れない。
けれど、自分が諦めない限り夢へと続く道が閉ざされる事はない。
そしてきっと、そのゴールまで今なら行けると思っていた。
目の前に居るこの人は、自分の事のように応援してくれるだろうから、手伝ってくれるだろうから。
大切な事を思い出させてくれたこの人は。
「私…頑張ります…」
「ああ。俺も出来ることなら、何でも手伝うからな」
ほぼ予想通りの事を言う、目の前の最愛の人を前に。
「ありがとう…ございます」
彩は、本日三度目になる『ありがとう』を口にした。
夕日も傾きかける時間、彩はオレンジ色に染まる空のように、自分の胸の内が温かく満たされている事を感じた。
エピローグ
喫茶店で、向かい合い座っている男女二人が話をしていた。
「この間の読み切り評判良いわよ」
「そうですか、ありがとうございます」
「珍しくて、面白いテーマだったわよね。『絵本』だったわよね?」
「ええ。誰もが昔は読んだよなって、以前思いまして…」
「そうよね。誰もが昔は読んだはずなのに、何だか自然に忘れていくわね…。言われれば思い出すんだけど」
そう言って、薄く笑い注文してあったレモンティーを口に運ぶ。
「そうですよね」
男も相槌を打ち、同じように注文してあったミルクティーを口に運ぶ。
「そういえば、何だか作中では終わりの方で、はぐらかしてあったけど、あの子はあの後どうなるのかしら?」
「気になりますか?」
「そりゃあね。確かに、構成だとかキャラの見せ方、いろいろと修正の余地はある作品だったと思うけど、私だって素直に良作だったと思ってるんだから」
「いろいろと修正の余地がある、で素直に良作と言って貰えてると受け取って本当に良いんですかね? 相変わらず、編集長は厳しいですね」
男は、ふぅ、と溜息混じりに軽く笑った。
「あなたはまだ成長の過程にいるもの、まだまだ伸びるわ。だから妥協はして欲しくないのよ。…ってあら?」
編集長と呼ばれた女は、どうやら話の内容が入れ替わってきていることに気が付いたようだった。
「ごめんなさいね、話が横に逸れちゃったわね」
「いえ、もう慣れましたよ。編集長がそういう人だって事はよく分かってますから」
「あら、皮肉?」
そう言って、女は悪戯っぽく笑みを見せる。
「まさか、そんなんじゃありませんよ。そんなこと言って、連載落とされたくないですから」
男も笑う。
「そんなことしないわよ。あなたはダイヤの原石のようなものだもの。ただ、ページ量が増加するかもね」
ふふっ、と女は笑いながらレモンティーを口に運ぶ。
「打ち切りより、ある意味ひどいなぁそりゃ…」
勘弁してくださいよ、と目で男は訴える。
「冗談よ、冗談。で、あの子はどうなるのか教えてくれない?」
女が尋ねると、男は外を見るようにして、少しだけ遠い目をして言った。
「…きっと、未来なんて誰にも分からないんですよ」
「え?」
「あの子次第なんだと思うんですよ、結局。本を描く理由を思い出した、見出した。だからといって、必ずしも結果がついてくるわけじゃない。言うなれば、読者さんの思う未来が答えなんだと思います」
こんな答えはずるいですかね?
そう言って、はにかんで見せた。
「ふふ…。そういう事、いいんじゃないかしら? 誰にも未来なんて分からないものね。でも、あなたの想像の未来ではあの子はどうなっているの?」
「俺の…想像の未来では…」
「では?」
女は男の言葉を促す。
「立派な童話絵本作家になっていますよ」
そう言った男の顔は優しい笑顔だった。その目はその未来を見ているようにも見える。
「そう」
言うと、女は隣の椅子に置いてある自分の鞄から10は超えるであろう手紙を取り出した。
「これは?」
「ファンレターよ、感想。貴方宛のね」
「え!?」
「はいはい、大きな声を出さない」
「す、すいません。まさかこんなに早く、しかも読み切りなのにこんなに来るなんて思ってなかったので…」
「あなたの作品を楽しく読んでる人が、次の作品を心待ちにしてるっていう人が居るっていう証拠よ。もっと自信を持って良いわ」
「は、はい…」
多少、狼狽しながら男は頷く。
「そうそう、モデルがいるって言ってわよね、この話。その娘にも見せてあげなさい、そのファンレター。きっと喜ぶと思うわよ」
「はい」
「それじゃ、そろそろ時間だしこのくらいにしましょうか。締め切りはこれからも、ちゃんと守るようにね」
そう言って、女は立ち上がる。
「はい、今日はありがとうございました」
男も立ち上がり、軽くお辞儀をする。
「じゃあね」
そう言うと、テーブルの隅に置いてある伝票を持って行く。
「あの…」
「今日は私のおごりよ。ゆっくりして行きなさい」
「あ、はい…」
男は椅子に座り直す。
自分が持ってきている鞄に、手紙を丁寧に一通ずつ入れる。
入れ終えると、一冊の本を取り出した。
厚い本で、それは漫画雑誌だった。
未来は分からない、誰にも。
それでも、きっと。と思う。
漫画の表紙に目を落とす。
表紙には大きく、『千堂かずき、渾身の40P読み切り』などと大きく書いてある。
その文字の後ろには、更に大きく一人の少女が描かれている。
長い黒髪の少女だ。大人しそうな、控えめな印象を受ける。
(きっと、叶うさ。夢は…)
なぁ…、彩。
男は胸中で呟いた。
残っているミルクティーを一気に飲み干す。
すこし温くなっていたが、それは心に染み渡るような感じがした。
読み切りの作品の主人公は、表紙の少女だ。
少女は子供の頃から、本を描いていた。
一人の少女が、家庭の事情や、恋愛、その他いろいろな苦難を体験し、乗り越えて、その中で自分が本当に描きたい本、描く理由を見つけていくというものだった。
その漫画の作品名は、『私の描く本』。
パラパラとページをめくる。
最後のページ、1ページ一杯に少女が描かれ、大きく台詞が書かれている。
少女は、こちらを向いて微笑んでいる。
『本を…描きたいです。お母さんと…お父さんと…ずっと一緒に居たい…ずっと傍に居てもらいたい人と。…そんな大好きな人と読めて…それが思い出となるような本を描きたいです……』
そんな言葉と共に、その漫画は終わっていた。
きっと、描けるさ。
言葉には出さずに、僅かに口を動かすと男は本を閉じた。
その少女が原点を忘れない限り、本を描きたいと思った理由を忘れない限り、きっと描ける。
雑誌を鞄にしまい、かつぎ立ち上がる。
ふと、親子連れが目に入る。
父親に、母親、それに幼い少女が一人。
元気があり余っている娘を母親がなだめている様だった。
父親はその様子を見て、笑っている。
何とも微笑ましい光景だ。
正に温かい家庭の図、というやつだろう。
男は自分の大切な人の幼い頃を、その少女にかいま見た気がした。
少女と目が合い、笑いかける。
少女は一瞬きょとんとするが、同じように笑顔を返す。
人見知りしない、人懐っこい性格なのかも知れない。
男は、少女に見送られるように喫茶店を出る。
やわらかな日差しが体に降り注ぐ。
男は眩しさに僅かに目を細める。
きっと、描ける。子供に、親に思い出に残るような、読んだ人を笑顔に出来るような本が描ける。
男は今一度、胸中で呟く。
「さぁって、家にでも帰るか」
街はもう、暖かな春を迎えていて、優しく春風が男の頬を撫でた。
千堂和樹も、長谷部彩も、二人はまだ大学生で、二人の作家として人生は始まったばかりだった。