夏の夜の想い出



 
 
 
 
 
「――なぁ、耕一」

 夕食が終わって寝る前のこと。
 一緒に歯磨きをしていた梓が、急に目を輝かせて俺に囁いてきた。
 マンガやドラマの影響か、辺りをささっと見渡して周りに人がいないことを確認するあたり、どうやら何か新手の悪戯のアイデアが閃いたらしい。
 これまでの経験上、こんな顔をしている梓が持ちかけてくる話に関わるとろくでもない目に会う可能性が極めて高いとわかっていながら、俺はつい迂闊にも返事をしてしまった。

「なんだよ」
「今夜さ、夜中にジュース買いにいこうぜ」
「ジュース?」

 なんでだよジュースなんて冷蔵庫のなかにいつでも冷えてるじゃないか、とは俺は言わなかった。かわりに、この隆山の家の周辺の地図を思い浮かべながら言った。

「…どこに」

 思えばこのとき、俺はすでに梓の策略に乗せられていたのだ。
 俺も梓もジュースが飲みたかった訳じゃない。誰もが寝静まった夜の街を自分たちだけで歩くという行為自体が、小学生だった俺達にとってはとてつもなく刺激的で、新鮮で、耐え難く魅力的だった。

「坂の下にタバコ屋があるんだ。そこに自販機がある。――じゃ決まりな。今夜12時に」
「待てよ、俺は別に行くって決めたわけじゃないぞ」

 すると、梓はこちらの考えていることなぞ全部お見通しといった笑みをニヤリと浮かべて腕を組んだ。
 そして一言。

「弱虫」
「……なっ!」
「怖いんだろ〜。はぁ、まったく情けねーなあ耕一は。男のくせに」

 やれやれとばかりに首を振る梓の姿に、俺の男の尊厳は大いに傷つけられた。
 俺はムカッとして、思わず言い返していた。

「怖くなんかねえよ!」
「強がんないほうがいいって」
「ふん、お前こそな。泣いても知らねーからな」

 そうだ、大体こいつは俺より二つも下のくせに生意気なんだ。ここいらでびしっと上下関係を思い知らせておかなくては。
 対抗心に燃えてそう言い放った俺を、梓はしめしめと言わんばかりの目でみつめ返し鼻で笑った。

「あたしが泣くかよ――じゃあ、12時に合図するから。寝るなよな」
「了解」

 秘密を共有した者だけの排他的な笑顔を交わし、俺と梓は寝床に向かった。
 
 
 
 

 奥の座敷で柱時計が鳴っている。
 ひとつ…ふたつ…みっつ……
 12回目の残響が夜の静寂に溶けて消えた頃、俺の足をつんつんとつつくものがあった。
 隣で眠る初音ちゃんを起こさないように気を付けながら半身を起こし、つつかれた方を見ると、闇の向こうで梓が月明かりに目を細めながら同じように起き出しているのが見えた。

 俺がいる間限定の、蚊帳の吊された即席の子供用寝室に眠るのは、梓以下の三人と俺。千鶴さんも来たがっていたけれどスペースの問題で結局あきらめたのだった。おそらく入れたとしても、俺が恥ずかしがって結局は千鶴さんは入れなかっただろう。 
 その頃の俺は、俺のそういう態度が千鶴さんにどんな思いをさせているか想像すらしていなかった。

「いくぞ」

 ひどく低い声で梓がささやいた。
 俺は頷いて足もとのタオルケットをゆっくりと外した。
 横ですうすうと気持ちよさそうな寝息を立てる初音ちゃんと楓ちゃんに気付かれないように、すべては滑稽なほどのスローモーションで行われた。
 夜の屋敷は恐ろしいほど静かで、動く度に布団や衣服が立てる布擦れの音がひどく大きく聞こえる。網戸を張られた窓の外からは、りーり、りーりと鳴く夏虫の声が月明かりと共に忍び込んできており、俺はここがついさっきまでみんなと一緒に遊び回っていたのと同じ場所だとは思えなかった。

「…ううん…」

 蚊帳をめくって忍び出ようとする俺と梓の背後で突然そんな寝言が聞こえ、俺達二人の心臓は跳ね上がった。ここで気が付かれたら、今夜の素敵な計画はすべて水泡に帰す。
 どくんどくんどくんどくんどくんどくんどくんどくんどくんどくんどくんどくん。
 ええい、うるさいぞ心臓!静かにしろ!そんなに音を立てたら楓ちゃんが起きちゃうだろ!
 そんな無茶苦茶なことを思いながら、油の切れたロボットみたいな重たい動作でそおっと後ろを振り返る。

「じろ…えも……うにゅ」

 何の夢を見ているのか、楓ちゃんはそんなことをつぶやいてごろりと寝返りをうち、再び静かになった。
 俺と梓は顔を見合わせ大きくため息をついた。

「楓のやつ……びっくりさせやがって」
「急ごう。どこから出るんだよ」

 俺はすっかりこの夜の冒険行に魅せられていた。初音ちゃんや楓ちゃんとするおままごとやトランプも楽しいけれど、男の子はやっぱり冒険が好きなのだ。その点、梓は女ながら俺に似た感性を持った良き相棒だった。
 蚊帳から抜けた梓は障子際にすっと立ち、身振りだけでついてこいと合図してきた。
 抜き足差し足で屋敷の中を進む。月明かりが届かない屋敷の内部は恐ろしいほど暗く、板張りの廊下がかすかな軋みを上げるたびに俺は後ろを振り向かずにはいられなかった。

「ここだよ、耕一」

 梓が足を止めたのは裏庭に面した大きな窓で、そっと開けて見下ろしたそこにはなんと俺と梓の二人分のサンダルが用意してあった。
 あまりの手際の良さに俺は梓に対して尊敬の念を抱いた。というのは嘘で、こいつもしかして常習犯か、とその素行の悪さに呆れ返った。

「前にもやったことあるのか、こんなこと」
「一度だけね。でも、その時は玄関先にちょっと出ただけでかえっちゃったから、あんな遠くまで行くのは初めて」

 そんなことを話しながら、梓は出口に使った窓を静かに閉めた。内側のクロワッサン錠は倒してあり、ぱっと見は鍵がかかっているように見える。しかし実際にはかみ合わせが微妙にずらしてあり、外からでも容易に開けることができるようにされていた。
 なるほど、帰還路の確保は冒険行の基本だ。用意していたのが靴ではなくサンダルというのも理にかなっている。靴が玄関からなくなるとどうしても気付かれやすいし、なにより履くのに時間がかかる。前科一犯の仕事ぶりにしてはなにもかもが手慣れていて、俺はいよいよこいつはとんでもない奴だと思い始めていた。
 だが、同時にそれを面白い、楽しいと感じてしまうのも、やはり俺が男の子だったからだろうか。

「こっち。屋敷の裏にある勝手門から外に出る」
「ラジャー」

 上下関係をはっきりさせる、などと考えていたことなどすっかり忘れ、俺はすっかりテレビアニメなどに出てくる冒険隊の隊員気分だった。言うまでもなく隊長は梓だった。しかし、この夜の世界のなかで梓は紛れもなく頼れる存在で、そしてもっとも気の合う同志だった。
 大げさかもしれないが、死線を共にくぐった戦友のような友情を、俺はすでに梓に対して感じ始めていた。

「――あっ、やべっ」

 先に進む梓がそんな小さな叫びを漏らして、曲がりかけた角から急に身を戻した。
 突然のことに驚いた俺はとっさに身を隠せる場所を探し、どこにもなかったのでとりあえず頭を低くしてしゃがみ込んだ。しゃがんだところでどうしようもないだろうと俺も思うのだが、このへん所詮はガキの知恵だったと思う。

「なんだ、どうしたんだよ、見つかったのか?」

 早口で問うも、梓は答えない。
 壁に体を押しつけ角から半分だけ顔を出し、向こうの様子を窺っている。
 とりあえず緊急事態ではなさそうだと思いながら、這いつくばったまま角ににじり寄り、梓の足下から同じように目だけを出して向こうをうかがった。

 暗い庭を、窓の形をした明るい光が四角く切り取っていた。
 闇に慣れた目にそれは眩いほどに強烈で、俺は思わず顔の前に手をかざした。
 頭上から梓の小さなつぶやきが降ってきた。

「…父さん達、起きてら」
「何してんのかな」
「知んない。きっとなんか美味しいもんでも食べてんだろ。ちぇ、オトナってズルいよな」

 心から悔しそうに梓がそう言ったので、俺もついあの明るい部屋のなかで、見たこともないような美味いお菓子を親父達がこそこそと食べている所を想像してしまった。どうしてお菓子を想像したのかは解らないけれども、愛読書がドラえもんだったあの頃の俺の想像力ではその辺が関の山だったのだろう。

「どうする。戻って、トイレとかなんとか言って部屋にいれてもらうか?」

 親父達が食べているであろう「美味しいお菓子」を食べてみたい、という誘惑に駆られ俺は控えめにそう提案してみたが、隊長はストイックにも首を振った。

「だめ。あっちがそのつもりなら、こっちだってこっそり美味しいジュースを飲むけけけけ……えーとその、そう『けんり』があるだろ」
「……お前難しい言葉知ってんなあ」

 俺は密かに感心した。自分でさえ最近おぼえたばかりの言葉を、二つ下の梓が口にして、しかもそれを用いて自分の行為を正当化しようとしているとは驚きだった。
 こいつ、もしかしてただの乱暴女では無かったのかと俺は梓のおつむをすこし見直したが、残念なことに梓の知性の閃きに感心させられたのは後にも先にもこれが最後となった。

「へへっ、まあね。……でも、困ったなあ。あそこを通らないと出口に行けないよ」

 のぞき見る庭の光の中を、時折人影が横切って行く。障子戸が締めてあるらしく、その影は輪郭をやや失っていはしたが、その歩き方や体格から叔母さんと母さんが歩いているらしいと推測した。きっと親父達は座ってお菓子を食べ、母さん達はお茶やお酒を注いでいるのだろう。

「障子がしまってるんなら外は見えないよ。何かの本で読んだけど、暗いとこから明るいとこはよく見えるけど、明るいとこから暗いところは見えにくいんだって」
「だからって、急にがらっとか開けられたらどうすんのさ」

 障子戸はがらっとは開かない、などという下らないツッコミはやめることにした。

「そんなこと言ってたら行けねえじゃん。ささっと行けばいいんだよ」
「走ったら足音がするって」

 隊長はやたらに慎重になっていた。
 戦場の最前線で活動する部隊が敵の哨戒エリアを通過する時のような石橋の叩きようだった。こいつはきっと良いゲリラになれる。
 突撃、中央突破論を却下された俺は、なんだよーと不満げにつぶやいて座り込んだ。
 その時、良いアイデアが閃いた。

「梓、ほふく前進だ」
「へ?」

 俺はほふく前進がいかなるものかを説明した。腹這いになって肘と膝の力でじりじりと前に進むのだ。明かりが漏れる窓の下には高さ50センチくらいの隙間があった。縁の下はコンクリートで塞がれていたが、その横を這いつくばって進めば、万が一急に窓が開けられても真下をのぞき込まれない限りすぐに見つかる危険性は低いように思えた。
 そう説明すると、梓はちょっと考えてそれから頷いた。

「よし、それでいこう」
「俺が先に行く」

 昼間の熱をかすかに残しているコンクリートの上に腹這いになると、途端に胸が高鳴りだした。視点が低くなっただけで、まるきり違う世界のように――まるでジャングルの中を進んでいるかのように錯覚できた。
 乾いた土の匂いのする空気を吸い込んで、野生の獣のように地を這いながら危険地帯を突破する。運悪く見つかったら大目玉をくらうだろう。しかし成功すれば、未知の世界への門が開けるのだ!
 わくわくするなという方が無理だった。

「なあ、耕一」

 その時、抑えきれない興奮をにじませた声音で梓が囁いた。

「これって――なんか忍者みたいじゃん?」

 忍者。
 梓のその言葉には憧れの響きが混じっていた。梓の興奮は即座に俺に感染した。
 宵闇に紛れ、敵の屋敷へ人知れず潜入し任務を遂行する忍者……そのイメージがそのまんま今の自分たちに重なった瞬間、俺と梓は黒装束に身を包んだ忍者になり、夜の庭は潜入した敵の城内になった。
 その設定に、俺達はいたく満足した。

「かっこいいな、それ」
「へへへ、だろ?」
「ああ――よし、じゃあ行くぞ」

 囁くように答えて、俺はずりずりと前進を開始した。すこし遅れて、梓の気配がそれに続く。
 あせらず、ゆっくり……しかし、着実に。俺達二人は無言で手足を動かした。
 端から見ている者がいれば、それはさぞかし滑稽な姿だったことだろう。
 しかし、俺達二人は大まじめだった。冗談ではなく本当に命が懸かった大冒険の気分だった。何しろ俺達は敵地に忍び込んだ忍者なのだ。興奮と緊張で過剰に分泌されたアドレナリンがさらに俺達を酔わせ、荒くなりがちな鼻息を必死で抑えて夜の庭を這い進む。

 そしていよいよ、最危険地域である窓直下にさしかかった。これまでとはまた違う強い緊張感が全身にみなぎる。頭のてっぺんが光に当たっているような気がして必要以上に頭を低くし、音を立てないように細心の注意を払って手足を動かす。
 その時、とん、とん、とん……と部屋の中の足音が近づいてきて、俺は胸が凍るほどの恐怖を覚えた。
 やばい、こっちくる! 今のうちに起きあがって走るか!?いやまて窓を開けるとは限らない、でももし開けられたら……
 一瞬のうちに頭の中を様々な思いが巡って行く。しかしながら実際に俺がその時やったことといえば、芋虫のように身を縮こまらせて息を殺し、そのままあっちいってくれあっちいってくれと祈り続けることだけだった。
 祈りが通じたのか、その足音は窓の横をスピードを落とさずに通り過ぎて行った。

「はい、賢治さん」
「ああ、すいません義姉さん」

 湯飲みをテーブルの上に置くようなコトっという音と共に、そんな会話が聞こえてきた。どうやら叔母さんが親父にお茶を注いできただけのようだった。
 緊張の糸が切れた俺は、聞こえないように気を付けながら深いため息をついた。そっと後ろをうかがうと、わずかにひきつったような笑みをうかべる梓と目があった。忍者は辛くも危機を脱したのだ。俺達は小さくうなずきあって互いの勇気を讃え、そしてふたたび前進を開始した。
 今回は良かったものの次もやり過ごせるとは限らない。そう考えて部屋の中の物音に気を配りながら進んでいた俺は、親父達の交わす会話を途切れ途切れではあるが聞いてしまっていた。

「親父が……影響……もう、長くない……」
「満月の……の家のこと……にはもう話し……」
「準備……おかなければ……せめて……」

――そして、ぽつりと。

「……きっと、これが最後……」
 

 ずっと後になって。
 何もかもが終わった後で、俺はこの夜のことを思い出して泣くことになる。
 しかしこの時の俺はあまりに幼く無知で――しかし、だからこそあんなにも幸福だったのだ。

 親父達がこのとき美味しいお菓子を食べていたかどうかは、今となっては知る術はない。茶菓子くらいはあったかもしれない。しかし、そこにあったのがたとえ俺が想像していたようなドラえもんのポケットから出される未来のお菓子であったとしても、親父達の舌にはあまりに苦かったに違いない。
 そんな親父達の胸中など知るはずもなかった当時の俺は、宵闇の向こうに待ち受けるまだ見ぬ新天地への期待に胸膨らませ、しゃにむに前へ前へと這い進んでいた。このときの俺達にとって大事だったのは、部屋の中で親父達が何を話しているかではなく、部屋の中の親父達にこちらの存在が気付かれやしないかということだった。

 もっとも危険な窓直下を通り過ぎたとき、俺達は思わずほっと息を付いた。ゴールである向こう側の角まであと数メートルに迫り、俺も梓も一山越えた気分になったのだ。
 ――山は、下りが一番危険だという。
 その時、夜の庭の片隅から遠慮のない大きな声がして油断していた俺達をすくみあがらせた。

「なぉーーーーーう!」
「……タマっ」

 闇の中で金色に光る双眸。美しい毛並みに反比例したかのようなドラ声。
 それは、柏木家の飼い猫ではないくせにこの敷地に一族で住み着き、あまつさえエサまでせしめているふてぶてしい三毛猫――通称タマの御姿だった。

 言い添えておくならば、こいつは現在柏木家にいるタマとは別人、もとい別猫である。面構えや毛並みからして血の繋がりはあるようなのだが、孫なのか曾孫なのかそれとももっと複雑な繋がりであるのかは今や誰にも解らないと初音ちゃんから聞いた覚えがある。しかしながら柏木家の人間はその辺の事情に関して極めて無頓着な人々で、屋敷にいる猫のうちもっとも家人に懐いている三毛猫は全て「タマ」と呼称するため、何代目かとか血筋とかそういうことは伝統的に注意を払われてこなかった。
 現在のタマは昼も夜も眠りこけるというけしからぬ駄猫であるが、当時のタマは野生動物の厳しさを残した誇り高き猫だった。
 夜は彼女らの時間、その庭は彼女らの領土であった。自分たちのテリトリーを荒らされたのが不満らしく、彼女はさかりに鳴き、うなり、喉を震わせた。

「うるぉーーーーーーう」
「しーッ! なくな!」

 痙攣的な早さで声の主の方を向いた梓が、口元に指を立てて必死にテレパシーを送る。が、タマはご機嫌麗しからず、さらに目をきつく光らせて藪の奥から夜気を震わせる。

「うあーーーーう!うなーーーーーーーぉう!!」
「まずい、急げ梓!」

 俺達は焦った。こんな大きな声で立て続けに鳴かれては、中にいる親父達が不審がって出てこないとも限らない。いや、窓を開けられるだけでも命とりだ。ここは一刻も早くこの地帯を脱出し、タマの目から離れなくてはならない。
 そう判断した俺達は、窓の下を過ぎていたこともあり、ほふく前進というよりはほとんど四つん這いに近い格好で残りの距離を急いだ。今思えば、四つん這いになるくらいならむしろ立ち上がって歩くなり走るなりしたほうがよかったのかもしれないが、そこは忍者の誇りなのか『立ち上がってはいけない』という妙なこだわりがあった。
 俺が真っ先に角を曲がって窓からの死角に身を潜め、梓がそれに続こうとした時。

「タマ?どうしたの?」

 部屋の中から叔母さんの声がした。
 俺達は凍り付いた。身を隠しきっている俺ですら、緊張のあまり体がこわばった。四つん這いになり窓へ向けて短パンのお尻を突きだしている梓の凍り付きっぷりは言うまでもない。マンガなんかでよくある、口から心臓が飛び出す描写が似合いそうな雰囲気だった。

「なああーーう…」

 追い打ちをかけるようにタマが鳴く。にゃあーん、なんて可愛い鳴き声などこいつは決して上げない。警戒心ばりばりの威嚇音だ。
 早くこっちに来い、と梓に身振りで急かす。凍り付いていた梓はそれにはっと正気を取り戻し、慌てたように角を曲がり俺の後ろに身を隠した。

 闇の中、耳を澄ます。
 りーり、りーりと鳴く虫達の静かな響きに、梓のわずかな呼吸音が重なる。背中に感じる梓の体温に俺は強い連帯感を覚えた。肩越しに振り向くと月明かりに光る梓の大きな瞳と目があった。頷きあって合図を交わし、再び息をひそめ気配を殺そうと身を縮こませた。
 さわさわと吹きだした夜風に、庭木の枝葉が噂話をするかのようにざわめいた。
 どこかの軒にさげられた風鈴がちりん、と鳴るのが妙にくっきりと聞こえた。
 街の光も喧噪もここまでは届かない。都会育ちの俺には落ち着かないほど、それは静かな夜だった。

 耳を澄まして部屋の中をうかがいながら、俺は自分をとりまく夜の風景を見渡した。
 この時、庭の片隅で息を潜めながら梓と二人でみた夜の景色は、今でもはっきりと思い出せる。

「………」

 白い月は、庭の松の木の梢に乗るように浮かんでいた。
 満月には後少し足りない形をしていたけれど、それでも夜空を蒼く染め、地を銀色に照らすには充分な光を放っていた。
 少し離れた所に浮かぶちいさな雲が光に縁取られ、それが天の高いところをゆるゆると動いて行く様は、幼かったその頃の自分にさえあの奥にはなにか神々しいものが隠れているのではないかと思わせるほど、それは常ならぬ美しさに満ちていた。
 しかし空から目を落とすと、庭の隅に俺と梓が今日の昼に遊んでそのまま放り出したままの一輪車や縄跳び、空き缶が転がっているのが目に入り、俺は一瞬軽い幻惑に襲われた。この神秘に満ちた非日常的な風景が、昼間泥まみれになって遊んだあの庭と同じ場所、同じ空間に存在しているということが信じ難かったのだ。

 もちろん、バカ丸出しのガキだったそのころの俺がそこまで深く自己分析をするわけもなく、その時はただ「キレイだけど、なんか変なかんじ」と思うだけだった。ただ、その時の風景と言葉にできなかった感動は俺の胸に刻み込まれ、ずっと後になって、親父達の交わしていた会話と共に、切なくも美しい想い出としてよみがえることになる。

 梓も、このときは珍しく風景に見とれていたらしい。
 だから、タマの気配がいつの間にか角の向こうから消えて、部屋の中の親父達が窓の外のことに興味を失ったとわかった後もしばらくの間、俺達二人は闇に身を潜めた忍者スタイルのまま体を寄せ合って夜空を見つめ続けていた。
 
 
 
 

「急ぐぞ耕一」
「おう」

 夜空と月に見とれていたせいで時間を予想外にロスしてしまった俺達は、半ば小走りで出口へと向かった。幸いもっとも危険な区域は通過していたし、それは親父達の所在を確認することにもなっていた。忍者だったはずの俺達も大胆に振る舞うようになり、さっさっさっというサンダルが土を削る音が庭に大きく響いた。

 俺達が寝室にしていた部屋は屋敷の一番離れにあって、目指している勝手門は屋敷を縦にはさんでほとんど反対側にあった。親父達がいる明かりのついた部屋は行程のほぼ中心にあり、つまるところ俺達はもうすぐ夜の町への扉に手を掛けようとしていたのだ。

「だけどよお、梓」

 足下に気を付けて走りながら、俺は梓に素朴な疑問をぶつけてみた。

「なんで裏門から出るんだ? ここまで来るくらいなら正門のほうが近いだろ」

 頭の中で屋敷の地図を思い出しながら俺は言った。北の外れにある子供部屋をスタート地点として、このちょっとした公園ほどの広さのある敷地からいかに素早く脱出するかということを考えると、壁をよじ登るという手段を別にすれば表門の方が断然近い。
 それはまあ、遮蔽物のない中庭を通らなくはならないし、中庭に面した廊下は全面ガラス戸で万が一親父達が歩いてきたら身の隠しようがないというリスクはわかる。しかし、事実親父達はあの部屋にいて動く気配もなかったし、あそこからなら地べたをほふく前進で進むようなマネをするよりも、引き返して表門から出た方がずっと安全に素早く外に出られたはずなのだ。
 その問いに、梓は明快に答えた。

「ジョリーが吠えるからダメ」

 納得した。
 ちなみにジョリーというのはお向かいさんの飼い犬で、動く影を見かけたらそれがたとえ飼い主であったとしてもエサを与えるまでは気が狂ったように吠えまくらずにはいない、名犬ジョリーに似ているのは名前だけというおそるべき馬鹿犬のことである。
 この時すでにずいぶんな老犬だったらしく、翌年の春にジョリーは天に召されることになるが、飼い主がその死に気が付いたのは人が訪ねてきたのに吠えなかったからであったという、最期まで実に天晴れな迷惑犬ぶりだったと初音ちゃんから聞いた。
 それはともかく、確かに今あいつに見つかって吠え立てられたら厄介なことになる。

「前に玄関まで出たって言ったろ? そんときはジョリーに吠えられて戻ったんだ。悔しかったから次の日パチンコで一発お見舞いしてやったけどさ」

 なんてやつだ、と俺は呆れたが、同時に実に梓らしいとも思え俺はあははと笑った。

「でも今日はタマがいたな」
「あいつも明日おしおきしてやる」

 ふん、と鼻をならして強気に言った梓だが、翌日それを実行しようとして鼻柱に見事な掻き傷をこしらえ返り討ちに遭うことになろうとは、この時夢にも思ってはいない。

 そんな会話をしている間にも足は進み、ついに出口は目の前に近づいた。

「……」

 庭木の影に紛れるようにある小さな木製の扉を目の前に、俺達は歩む速度を緩め無口になり、あからさまに挙動不審な動作で辺りをきょろきょろと見渡した。その様子は忍者と言うよりむしろコソ泥だった。
 ノブの真ん中にあるつまみを90度回してロックを解除し、梓は遂に夜の街への入り口に手をかけた。手首に力を込める前、梓は一瞬振り向いて俺の目を見た。
 言葉はいらなかった。その時の俺達は驚くほど心が繋がっていて、小さく頷き返すだけで梓は俺の気持ちを全部わかってくれたようだった。

 かちり、と固い音を立ててノブが回った。
 梓が慎重にそれを引くと意外にもスムーズに蝶番は回り、一段低いところにあるアスファルトの道路が俺達の目に飛び込んできた。
 ノブを握ったまま後ろを警戒している梓の横を通って俺は外に顔を突き出し、左右をうかがってから飛び跳ねるようにして一気に屋敷を脱出した。今度は扉を俺が片手で支え、その横を通って梓が同じように飛び出してきた。あくまで音を立てないように注意しながらドアを閉め切ると、俺達は漆喰の壁にもたれかかって大きくため息をついた。

 …ついに、外だ。
 緊張感が過ぎ去ると、俺の中には急にその達成感がこみ上げてきて、叫びだしたくなるほどの歓喜と興奮が全身を包んだ。
 それは梓も同じだったらしい。俺達は顔を見合わせると奥歯までむき出しにして笑い、ささやき声で脱出の成功と互いの勇気を讃え合った。
 拳を握った腕をぶつけ合って、最後にはなんとなくドツキ合いになってしまったけれど、その痛みさえもどこか甘く楽しかった。
 
 
 
 

「さ、これからが本番だよ」

 ひとしきり喜び合った俺達は、数分を経たところでようやく冷静さを取り戻し、これがまだ予定の道のりの4分の1に過ぎないことを思い出した。俺達はこれから坂を下ってジュースを飲み、同じルートを帰ってこなければならないのだ。
 時間をこれ以上浪費することは出来ない。しかもこれからは誰の目があるかわからない公道を通ることになる。交通量は少ないとはいえ、車とすれ違う危険性は決して低くはない。それに12時というのは子供にとっては深夜だが、大人達にとっては普通に起きている時間帯でもある。
 いみじくも梓が言ったとおり、これからがまさに「本番」であるのだ。
 ――だというのに、俺達はどこまでも楽観的だった。

「泣いても置いていくからな」
「おまえこそチビんなよ、臭ぇからな!」

 悪態をつきあって、あまり上品とは言えない笑みを互いに浮かべ、もう一度拳をごつんとぶつけ合った。それが、俺達なりの出発の儀式だった。

 駆け出した夜の街は、驚くほど静かだった。
 スタート地点である柏木の屋敷は丘陵を開発した住宅地のほぼ最上部に位置するため、屋敷の目の前から続く坂に出ると月明かりに照らされた隆山の街を遠くまで見渡すことができた。
 視界の端にあるのは黒々と凪いだ隆山の内海で、ゆっくりと明滅する灯台の光がこんな所からもよく見えた。その海の闇を緩やかな湾曲をもって抱くように広がるのが隆山の繁華街と中心街で、夜で見えないはずの海岸線が街の灯で描かれているのが無性に綺麗だった。
 ――自分たちは今、その景色の延長にいるのだ。
 それはなにか途方もなく凄いことのように思えた。
 梓と並んで坂道を駆け下りながら、このまま両手を広げればあの海まで飛んで行けそうな、そんな浮揚感が心を包んだ。

 軽く背中を押すように吹いてくる夜の風。
 俺達を導くように輝く白い月と、祝福するような満天の星。
 駆け抜ける町並みはひどく静かで、二人分のサンダルの足音だけがアスファルトにこだましていて――
 俺達を包む夜の世界の全ては、見慣れた昼間の世界とは何もかもが違っていた。
 まるで、魔法にかけられたかのように。

 ふと梓と目があった。
 梓はきらきらした目でニッと笑い、そして胸を空に放るようにして飛び跳ねた。
 許されるなら、きっと梓は歓声を上げていただろう。バンザイするように大きく両手を振り上げて、己の中の歓喜のままに梓は跳んだ。
 月明かりがその表情を白く照らした。
 
 ――俺は、それを綺麗だと思った。
 それは、ほんの一瞬だったけれども。

「もうすぐだぞ、耕一」
「お、おう」

 そう声をかけてきた梓はもういつもの梓で、俺はなぜだかほっとしながら曖昧に応えた。
 梓もまた、夜の魔法で綺麗になったのだろうかと思いながら。
 
 
 
 

 やがて、夜目に眩しく光を放つ自動販売機が見えてきた。
 タバコ屋の赤い看板が、自販機の光に照らされてぼんやりと闇に浮かんでいるのが少し不気味だった。昼間は紙切れを握りしめたようなしわくちゃの婆さんが居眠りしながら店番をしている窓口も、今は銀色のシャッターに閉ざされている。
 緩やかなカーブを描く坂の出口まで残り100メートル足らず。
 俺と梓はゴールが近づいたことを知り、顔を見合わせた。

 勝負。
 
 梓の目にはそう書いてあった。俺は一瞬でそれを理解した。
 ルールは簡単。自販機までの残り100メートル弱を相手より早く駆け抜け、先に自販機にコインを投入したほうが勝ち。
 条件はその場で様々に変わったが、ダッシュした先で何かをするというこの手のゲームは小学校で人気があった。足の速さだけでは勝負が決まらないところがゲームを面白くしたのだ。
 まして、梓と俺の足の速さはほぼ同等。
 ならば、勝負はコイン投入のスムーズさで決まる――!
 俺達は申し合わせたようにポケットから百円玉を取り出して握りしめ、同時にダッシュを開始した。

「うおりゃあぁぁ――――――――――――――――――――――っ!!」
「こんにゃろおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 共に死線をくぐった友情などどこへやら、俺達は全力疾走しながらのもっとも原始的な闘争へ身を投げ入れた。
 相手を一歩でも先に行かせまいと肩で牽制しつつ、こちらは一歩でも先に出ようと腕や肘で押しのけようとする。ほとんど互いに体重を預けあったような体制のまま、少年少女による真夜中のデットヒートは繰り広げられていった。

「あいてえっ! 梓おまえ足踏んだだろっ!」
「アンタこそ手で前塞ぐの禁止!ずりーぞ男のくせに!」
「うわぁっ服つかむのナシ! 梓ってめー見てろよーーっ!」
「ぜえっっっっったい勝ーーつ!!」

 もはや競争は相手より速く目的地に到着することよりも、お互いに対する妨害技術に主眼が移りつつあった。もしこれがサッカーの試合だったとしたらレッドカードの乱舞でフィールドには審判しか残らないだろう。スポーツマン精神など薬にしたくも見あたらない。
 膠着状態のまま三分の二ほどを駆け抜け、やはり勝負はゴール――自販機でのコイン投入合戦にまでもつれ込むか、そう思われた時だった。
 俺のショルダータックルをかわして、体の流れた俺を回り込むようにして逆側から追い抜こうとした梓が突然
 コケた。
 マンガだったら、びたーーん!という擬音がコマを大きく埋めそうなほど、見事な転倒だった。あの梓が受身すらとる余裕も無かった。
 梓の足から飛んだサンダルが、2.3メートル後ろの道路にぽてりと落ちた。予期せぬ天気占いが明日は雨と予言するのを、急ブレーキで止まった俺はなぜか冷静に見届けた。
 ひっくり返ったサンダルはおかしなつぶれ方をしていた。よく見たら、サイドの部分の接着が外れて飛び出していた。
 そう。そもそもがつっかけのサンダルで徒競走をしようというのが無茶な話だったのだろう。そのうえ梓は俺を抜かそうと複雑な機動をした。その過重に安物のサンダルは耐えられなかったのだ。

「お、おい…」

 大丈夫か、と声をかけようと思った瞬間、梓はがばりと体を起こした。そして片足はだしのまま何かを追いかけるように駆け出した。

「どうしたんだよっ。お前足から血ぃ出てるぞ!」

 片足はだしの梓に追いつくのは簡単だった。しかもコケたときにすりむいたらしい膝小僧からは血の筋が一つ垂れており、走る足の動きに会わせてふくらはぎの方まで雫が進んでいた。
 しかし梓は足を止めない。差し伸べた手は振り払われた。かたっぽだけのサンダルを蹴飛ばすように脱ぎ捨て、ついに両足はだしになってまで何かを必死に追いかけている。
 俺はその視線を追った。梓が見つめているのは数メートル先の地面。
 そこを、百円玉が一個、時折月の光を反射させながらころころと転がっていた。
 
 その時の梓を笑う気には、俺は今もなれない。
 競り合った挙げ句にコケたのは実に梓らしい体当たりの失敗で、昼間遊んでいるときに同じようなことがあったら、俺は遠慮なく「何やってんだよバカ」とか「ざまーみろ、俺に挑戦するなんて百年早いぜ!」等の罵声を大笑いしながら浴びせていただろう。それは俺が一人だけ非道い奴だったというわけではなく、例えば俺がコケたのであれば梓も同じように、いやきっと俺以上に遠慮なく勝ち誇り、叩きのめしてくれたことだろう。
 膝小僧の怪我のことも心配でなど全然なかった。いちいち怪我を心配しながら梓と遊んでいたら、日が暮れる前に神経が参ってしまうだろう。あのころの梓は生傷の絶えない奴だったし、絆創膏がとてもよく似合う奴でもあった。
 しかしこの時の梓の姿には、なにか指さして笑うことを許さない迫力というか真剣さがあった。
 転んだ拍子に梓の手の中から飛び出していったものは、そして梓が追いかけて取り戻そうとしているものは百円玉の形をしてはいたけれど、それよりずっとずっと価値のある大切なものだったのだ。
 それはたぶん、この魔法にかけられたような夜の冒険行を象徴付ける――宝箱を開ける鍵のようなもので。

 取り返してやらなきゃ――俺の子供心に沸いたのは、そんな単純明快な正義心だった。
 だから俺はスピードを上げて梓を追い抜き、百円玉を捕らえようと走った。
 なんてことは無い。ビー玉が転がっているのとは違うのだ。偶然にもちょっと長い距離を転がり続けてはいるが、ちょっとバランスを崩しさえすればその進路は曲がり、やがてコインは倒れて止まるだろう。倒れる前に追いつけば、上から踏みつければ良いだけの話だ。
 俺はそう思ったし、その瞬間までその通りだっただろう。
 ――俺達より二メートル程わずかに早く角から飛び出した百円玉が、不自然なほどの輝きを放ったその瞬間までは。

「梓っ!」

 俺は反射的に減速した。両手を広げて道をふさぎ、後続の梓を牽制する。

「なにすんだよっ!」
「バカ! 行くな!!」

 俺の腕を押しのけて飛び出そうとする梓を力任せにとどめ、押し倒すようにして近くにあった植え込みの影に身を沈めた。梓がわめきながら腕に噛み付いてくる。
 その直後だった。

 キャリーーーーーーーン!
 …目の前を、もの凄い勢いでヘッドライトが通過していった。
 俺の耳にはその時、エンジン音もタイヤが路面を削る走行音もすべて届かず、ただはっきりと、梓の百円玉が獰猛なスピードを持ったタイヤに跳ね飛ばされていく金属音だけが響いていた。それはとてもとても小さい音だっただろうに、まるで頭の中に鳴り渡るように、その音を俺ははっきりと聴いたのだった。

 植え込みに潜む俺達には全く気付くことなく、そしてもちろん自分がひとりの女の子の大事な夢と冒険の証を跳ね飛ばしてしまったことなど知る由もなく、車はスピードをまったく緩めずにそのまま夜道を走り去っていった。
 見慣れないエンブレムをつけた、高価そうな外国車だった。その後ろ姿だけを今も覚えている。

 呆然とした時間が過ぎ、やがて動いたのは梓だった。噛み付いていた俺の二の腕から口を離し、その場に膝を抱えてしゃがみ込み――そして、低くしゃくりあげはじめた。

「うううっ……ひんっ……ううっ…」

 おおきな涙が長いまつげの間からぼろぼろと流れだし、頬に川を作り、あごに滴った。
 端から見れば、抱え込んでいる膝の怪我の痛みに泣いているように見えるだろう。しかし、梓は体の痛みに泣く奴じゃないことを俺はよく知っていた。
 梓が泣くのは心の痛み――大事なものを無くしてしまったときなのだ。
 俺は掛ける言葉も見あたらず、泣きじゃくる梓の小さな背中を見つめながらただただ立ちつくしていた。

 よもや、こんな結末になろうとは。
 俺は夜空を見上げて思った。

 ほんの数分前、屋敷から出発したときには夜の世界は自由と魔法に満ちていて、俺達の行く手には成功と歓喜と栄光だけがあると信じていた。坂の上から眺めた夜の街はおとぎ話のように綺麗で、足は空を駆けるように軽く、吸い込む空気は俺達を存分に酔わせた。
 楽しくて、心地良くて、思い出す度に胸が高鳴るようなこの夏休み最高の想い出となる冒険行になるはずだった。
 なのに――見上げた月の形は変わっていなかったけれど、俺にはもう、そこにさっきまでのような魔法の光を視ることはできなかった。楽しい時間は弾けて終わり、ここにいるのは世界を救う勇者でも空駆ける魔法使いでもなく、怪我をして大事なものを無くし裸足でうずくまって啜り泣く女の子と、それを助けることが出来なかった情けない男の子なのだった。
 RPGならゲームオーバー。宝箱を目の前にして油断した冒険者たちは、恐ろしいモンスターに襲われて全滅してしまいました。リセットしてセーブポイントからやり直してください。
 ――しかし、これはテレビゲームなんかじゃない。リセットボタンはどこにもないし、セーブポイントに戻ることもできない。そんな当たり前のことに、俺はその時ようやく気が付いた。あのとき俺が百円玉を光らせたライトに気が付くのが一瞬遅ければ、猛スピードで走る車に跳ね飛ばされていたのはコインではなく俺達自身だったことだろう。そんなことに今更ながら思い至って、ぞっとした。
 魔法だ自由だと浮かれて夜道を走り回っていた俺達が、いかに愚かで幼稚で滑稽な存在だったか思い知らされたようで、自己嫌悪に陥りそうだった。

 しかし――。
 うずくまって泣きじゃくる従妹の背中を見ていると、俺まで落ち込んでいるわけにはいかない、とそう思った。

 …そうだ。
 もともと俺がこの冒険行に参加することを決めたのは、二つも年下のくせに生意気なこいつに、俺の方が年上で偉いんだということを教えるためだったじゃないか。
 俺が、なんとかしなくちゃな。
 俺が、面倒みてやんなきゃな。
 だって俺――”お兄ちゃん”だもんな。

 俺は周囲を十分確認して道を渡り、赤い自販機にコインを投入した。ボタンを押す前に振り向くと、梓は涙でぐしょぐしょになった顔をわずかに上げてこちらの様子を見ていた。
 これで勝負は俺の勝ち。でも、嬉しくとも何ともなかった。
 ジュースを取りだして缶を後ろ手に隠し、梓のところに戻る。俺が近づくと、梓は再び顔を膝に埋めた。もう泣いてはいないようだったけれども、その背中は傷つけられることに怯えているようでもあった。
 こいつは勘違いしている。梓は、俺が梓の前で勝ち誇ると思っているのだ。コケてお金を無くした間抜けさを笑うと思っているのだ。
 ……馬鹿め。

「ほらよ、梓」

 こつん、とその頭に冷えた缶を載せて、俺は精一杯優しく言った。

「ファンタグレープ。…おまえ好きだろ?」
「いらない」

 そう言うと思っていた。
 笑われるのも同情されるのもイヤという、こいつの性格なんてお見通しだった。
 こういう素直じゃないやつは――

「まさか……おまえ泣いてんのか?」
「!」

 ――怒らせるに限る。
 
「家出るときに『あたしが泣くかよ〜』とか格好いいこと言ってたあの梓が、コケたくらいで泣くわけねぇよな?」
「!!」

 梓の背中が動いた。
 もう一歩だ。俺はトドメの一言を口にした。

「そ、それともお前まさか……チビったのか!?」
「ちが―――――――――――――――うっ!!」

 跳ね上がるように立ち上がった梓が、噛みつくような顔をして俺の方を向いた。
 涙の跡を腕で拭って、憤然と俺を睨みつけてくる。
 
「泣いてない! これぐらいの怪我で泣くわけないじゃん!」
「……ああ。そうだよな」

 俺はジュースの缶を梓の頬にくっつけた。
 缶に付いた水滴が、冷たそうにしかめた梓の頬にくっついて流れた。

「さっき涙みたいに見えたのは、これだったのか」
「………」

 梓はじっと俺の顔を見ていた。なにか不思議なものを見るような目で。
 その目と表情にはもう、悲しみも怒りも悔しさも無かった。
 俺は梓の目の前でプルリングを引いて缶を開け、そして梓の前に突き出した。

「半分飲んでいいぞ」

 梓の顔がまた固くなる。同情された、と思ったのだろう。
 だから、俺はこの意地っ張りに言い添えた。

「…でも、後でちゃんと50円返せよな」

 こう言った俺を、ケチだと思う人がいるだろうか。
 俺は今でも、この時の俺の行動は間違っていなかったと思っている。
 梓は、俺と対等な関係を望んでいたのだ。一方的に与えられたり一方的に面倒を見られたりではなく、遠慮なく接しタメ口を叩きあえる、そんな「友達」に、俺となろうとしていたのだ。
 だから俺は、梓にジュースをタダであげることはしなかったのだ。

「……わかった」

 梓はこくりと頷くと、缶を受け取って口を付けた。
 俺は抜き取ったプルリングを人差し指でくるくる回して遊びながら、事態が無事に収まったことにほっとしていた。

 風が鳴り、近くの街路樹が葉擦れの音を立てた。見上げた空には、もう少しで満月になりそうな月が銀色に輝いていた。
 部屋を抜け出して、もうどのくらいの時間が経ったのだろう。柱時計が12時を知らせるのを聞いたのがずいぶん昔のことに思える。でも実際にはここまで二十分程もかかってはいないだろう。
 それだけ濃密な一瞬一瞬を、俺達は駆け抜けたのだ。時の流れを緩やかにする魔法が、その時確かにこの街を包んでいたのだ。

 冒険は望んでいた通りの結末ではなかったし、楽しいことばかりの想い出ではなくなった。
 でも、きっと、今夜のことはどんなに大きくなっても忘れない。
 幼い喉をのけぞらせてジュースを飲む梓の姿を見ながら、その時俺はそう予感した。そして今、その予感が正しかったことを実感する。

 そして思う。
 俺は、この夏の夜の想い出をこれからも――きっと死ぬまで忘れないだろう、と。
 これはもう、予感と言うよりも確信に近い。
 
 
 
 

 その後のことを書いておきたい。
 梓はお約束を守った。大きなゲップをしながら返されてきた缶は、重さを三分の一に減らしていた。70円払えコノヤローと激昂した俺を見て、梓がニヤニヤと性悪な笑顔を取り戻した。
 今ひしひしと思う。
 俺はこいつの人格を矯正する最後のチャンスを逃してしまったのじゃないか、と。

 帰りは、駆け抜けた道のりをゆっくりと歩いて戻った。梓は壊れたサンダルを直そうとして結局あきらめ、両手にプラプラ下げて裸足で歩いた。俺はサンダルを貸さなかったし、梓も求めなかった。
 屋敷に忍び込むときは再び緊張が俺達を包んだけれど、結局何事も起きなかった。居間の明かりは消えていたし、タマもどこかに行っていた。行きより格段にスムーズに俺達は進み、あてがわれた子供部屋に戻って何もなかったように寝床についた。
 入ってきた気配に気が付いたのか、初音ちゃんが目を覚ましたので、トイレに行っていたと答えたら「わたしもおしっこしたい」と言った。なにも言わずに手を繋いでトイレに付いていってあげるあたり、自分も「お兄ちゃん」が板に付いてきたな、と思ったのを覚えている。
 トイレから戻って、初音ちゃんと手を繋いだまま寝た。目が覚めたら朝で、親父達はなんにも気が付いていなかった。
 
 

 この事件以降、梓に対する考え方が俺の中でやや変わった。
 梓は俺と対等な関係を求めている。この出来事の前までは、俺もなんだかんだと言いながら梓と同じ気持ちだった。そして今も、梓との接し方はそれまでと変わってはいない。
 けれど俺はこの夜から、梓と張り合って「どちらが偉いか」なんていうことを証明しようとは思わなくなった。
 梓がそう望んでいるので、そして俺も楽しいので、つきあい方はこれまでと変えなかったけれど、この時以降、自分が「お兄ちゃん」であることを俺は悟った。それは上下関係を確立したとか勝負が付いたとかではなく、普段どんなに一緒に馬鹿をやっていても、いざというときは俺がしっかりしないとな、という自覚が芽生えたということだと思う。
 転んで怪我をして、百円玉を無くして泣いていた梓の姿を見たときに、それは俺の中に生まれたものだった。

 翌朝、ラジオ体操の帰りに俺達は寄り道をして、百円玉が飛んでいったあたりを探した。しかし、やはりどこにも見つけることは出来なかった。
 かわりに俺はポケットの中に入っていたあのプルリングを梓にやった。
 それは昨日の夜の冒険で俺達の手元に残った、唯一の宝物だった。
 「もっといいモンくれよなぁ」とか言いながら照れくさそうに受け取った梓をを見て、俺は心の中で、また同じようなことが起きたら今度こそ梓の大事なものを取り返してやろうと誓った。
 それは「お兄ちゃん」としての役目だと思った。
 

 そしてその決意が、あの事件を引き起こしたのだ。
 買ってもらったばかりの運動靴を川に落とした梓のために、俺は川に飛び込み……。
 それからの事は、いまさら書くまでもないだろう。
 でもひとつだけ言わせて貰うならば、あのときの自分の行動に、俺は今も後悔はしていない。あのときも、そしてこれからも、同じようなことがあったら俺はきっと迷わずにどこへでも飛び込んでいくだろう。
 今、そう思う。
 
 

 予定より早く都会に帰ることになったとき、みんなが見送りに出てくれた。
 複雑な表情をした千鶴さんにお辞儀をし、心配そうな楓ちゃんと涙する初音ちゃんの頭を撫でて、最後に梓と向かい合った。
 梓はなんだか怒ったような顔をしてうつむいていた。
 俺はなんにも言わずに拳を突きだした。梓の拳が、それにごつんとぶつかってきた。
 拳をぶつけ合う、俺達のいつもの挨拶だった。

「…またな」

 俺がそう言うと、梓はうつむいたまま小さく頷いた。
 足下に落ちた小さな雫は、見なかったことした。
 

 帰りの道すがら、妙に無口な両親に挟まれながら俺は考えた。
 別れ際、梓はなぜ泣いていたのだろう。
 答えはすぐに出た。
 梓は、俺という「友達」を失ったのだ。自分が池に落ちたせいで――自分の失敗のせいで、大事なものをまた失ってしまったのだ。あの夜のように。

 ……ならば、「お兄ちゃん」としてはすることは一つだった。
『またな』
 別れ際のこの約束を、必ず守ること。
 そしていつかまた会うその時も、変わらずに友達でいること。
 ――遠ざかる隆山の景色に、小さかった俺はそんな誓いをかけていた。
 
 

 結局、俺のその幼い誓いが果たされるためには、長い時間と多くの血と涙が流れなければならなかった。
 いろんな事があって、たくさんのものを失って、様々なことを知った。
 あの夜、明かりのついた部屋の中でお茶を飲んでいた叔父さん達や親父達は、みんな儚くなってしまった。
 俺達は成長し、月明かりに魔法を感じる無邪気な少年少女ではなくなった。
 夜の12時なんて寝ている方が少ないくらいの生活をしているし、夜中にコンビニへ買い出しにいくことは日常生活の一部となった。
 俺達が黄金郷のようにしゃにむに目指したあのタバコ屋は、数年前に道路拡張に伴って取り壊され、今では忍ぶ影もない。
 

 でも、俺達は何もかも失ってしまったわけではないのだ。
 八年後のいま――悲しみと喪失の時節に幕を降ろした今、俺は確かにそう思う。
 
 

 梓は今でも、あのプルリングを机の奥にしまっている。
 それは俺達が悲しみを知る前の――永遠に失われることのない、きらきらとしたあの夏の夜の想い出とともに、そっと、大切に納められているのだ。

 

 

 

 

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