成人式 

 

 



「そういえばさ、耕一あんた今年、成人式なんじゃないの?」
 俺の横でミカンの皮を剥きながらテレビを見ていた梓が、唐突に言った。

 隆山で過ごす初めての正月。
 前回ここにいたときはあの事件の直後という特殊な状況下だっただけに、今回まったく普通の帰省というかたちで訪れることに初めのうちはちょっとだけ不安や遠慮があったけれど、みんなは俺のそんなくだらない思い煩いを吹き飛ばすくらい暖かく迎え入れてくれた。
 正月も三が日を過ぎたいまでは、まるで昔っから一緒に暮らしていたような気すらする。
「ん? なんだ藪から棒に」
 単調な正月番組に飽きて、コタツに足をつっこんだままごろ寝していた俺は、突然の梓の質問にむくりと体を起こした。
「いやべつに、さっき紳士服のCMがあったから、そういえば耕一も二十歳だったなって思って」
「そうか。そういえば、家になんか案内が来てたな。…いただき」
 言いながら、梓が皮を剥いて丹念に白い筋まで取って並べていたミカンを素早く口に放り込む。
「あっ、こら! なにすんだよ耕一!」
「んー美味しい。もう一個…」
「自分で剥け!」
 顔面にミカンが飛んできた。とっさにキャッチして素早く投げ返すも、梓は余裕で受け止める。
当初の話題からあっさり逸れ、テーブルの上を主戦場に唐突に勃発した第一次ミカン大戦は急速に激化した。
飛び交う砲弾、はじける果汁。
 しかしその惨状をまったく意に介した様子もなく、それまで静かにお茶を飲んでいた千鶴さんは俺に話しかけてきた。
「出席されないんですか? 耕一さん」
「出席って…成人式のこと? ――いてっ! あたっ!わかったわかった、やめろ梓!」
「へへん、だ。今年初勝利! いい一年になる予感」
「いい加減になさい、梓」
 胸を張って勝ち誇る梓に、千鶴さんがしっかり釘を刺す。梓は首をすくめておとなしくミカンを口に運び始めた。
「成人式かぁ…、すっかり忘れてたくらいだしな」
 さっき梓が言い出さなければ、思い出すことさえなかっただろう。ティッシュで手に付いたミカンの汁をぬぐいながら、他人事のように考える。
「行かないと思うな。大学の休みその日までだし、せいぜい大学の連中と飲みに行くぐらいじゃないかな」
 正直なところ、俺の住んでいる地域の成人式は荒れていることで有名で、毎年パトカーが警備するほどだ。そうまでして行くほどの価値や意味を、俺はその式典に見いだすことができず、大学の友人たちの間でも参加しないと明言しているやつらが少なくなかった。
「でも、一生に一度のことですよ?」 
 千鶴さんはかすかに眉根を寄せて、訴えるように俺を見つめた。
「うーん、それは確かにそうなんだけどね」
「それに…」
 千鶴さんは、花の絵柄の湯飲みを置いて、そっと後ろを振り返るようにしながら言った。
「叔父様も、耕一さんの成人式…とっても喜ばれると思います」
 まるで、いまもそこに親父がいるかのように千鶴さんは言った。千鶴さんの後ろのほう――この部屋の隣にある仏間には、親父の真新しい位牌が納められている。
 俺は一瞬千鶴さんの横顔を見つめて、そして小さく息をついて笑った。
 まったく、親父を出されちゃかなわない。
「わかったよ、千鶴さん。――でも、条件がある」
「耕一…」
 梓が俺の表情をうかがってくる。俺はそれを見つめ返して続けた。
「ここで、みんなでやろうよ。成人式を」
「えっ?」
 千鶴さんと梓がきょとんとした顔になった。
「やっぱりさ、あっちにもどって一人で参加しても寂しいし、第一むこうに帰ったらそんなことやってる暇無いと思うんだ。バイトもあるし」
 それに――と俺は言葉を継いだ。ゆっくりと、ふたりの顔をみつめながら。
「一生に一度の記念だったら、みんなで写った写真がいいと思わない?」
 それは偽らざる俺の本心だった。
 どこの誰ともわからないおっさんに壇上から長々しい祝辞を言われるよりも、初音ちゃんから『おめでとう、耕一お兄ちゃん』と言われた方が億倍嬉しいに決まってる。
 記念になる写真だって、俺一人ぽつんと写るよりもみんなと写る方が絶対にいい。
 俺たちにはもう、お互いの他に祝いあう家族はいないのだから。
「――そうですね。わかりました」
 千鶴さんはゆっくりとうなずいた。その顔には、穏やかで深い笑みが浮かんでいる。
 …もしかして、いやもしかしなくても、千鶴さんははじめからそのつもりだったのだろう。
 かなわないなぁと、苦笑いしながらお茶をすすっているところに、千鶴さんが手を打ちながら言った。
「じゃあちょっと早いけど――今から、耕一さんの成人式をしましょう」
 ぶはっと梓が茶を吹いた。
「今からっ? 急すぎるよ千鶴姉。まだ店とか休んでるしさ、準備できないって。明日でもいいじゃん」
 俺も危うく飛び出そうになったお茶をなんとか飲み下して言う。
「そ、そうだよ千鶴さん。だいいち俺普段着しか持ってきてないよ?」
 しかし、千鶴さんはうなだれて首を振った。
「明日じゃだめなんです、耕一さん」
「ど、どうして…」
「それは――」
 上目遣いで俺の顔を見上げた千鶴さんは、ちろっと舌先を出していたずらな笑みを浮かべた。
「明日から私、仕事なんです」
 この一言で、全ては決まった。


 おつかいに行っていた楓ちゃんと初音ちゃんが帰ると、梓が二人に事情を説明した。
 二人は急なスケジュールに驚いたものの、笑顔で計画に同意してくれた。
「耕一お兄ちゃん、おめでとう!」
「おめでとうございます、耕一さん」
 寒空の下を歩いてきたせいか頬を赤く染めているふたりがそう言ってくれたのは、すんなりと胸に染みてきて、やはり、とてもとても嬉しかった。


 四姉妹による柏木耕一成人式企画会議は、やや遅めの昼食を取りながら行われ、柏木千鶴議長の提出した案がほぼ修正なく採決となり終了した。
 式次第は単純明快。

  一、写真撮影
  二、家長あいさつ
  三、貴賓祝辞
  四、新成人代表答辞
  五、晩餐会

 なんだか大層な式典のようだけれど、つまりはみんなで写真撮って、みんながおめでとうと言って、俺がありがとうと答えて、ちょっと豪華な晩飯食って終わり、という具合。晩餐会が最後なのは、大事なことは酔っぱらう前にしようという思惑があるのだ。
 準備期間もなにもない、思いつきにも程があるようなにわか拵えの成人式なだけに、イベントはシンプルにならざるを得なかった。
「耕一さんはお祝いされる方ですからゆっくりされておいてください。準備は私たちでしますから」
 なんてことを千鶴さんは言ってくれたけれど、じゃあそうですかとまたごろ寝でテレビに戻るほど図太くはない。なにより死ぬほど退屈だ。
 結局、千鶴さんの手伝いをすることになった。
「お料理の方はまかせてね、お兄ちゃん」
 こちらは梓と一緒に晩餐会担当になった初音ちゃんの天使のようなお言葉。子犬のエプロンとチェック柄の三角巾が天国的に可愛い。
 その隣で愛用のデニムエプロンに身を包んだ料理長は腕組みをしている。
「急すぎなんだよなー、千鶴姉も。…まぁ、あんまり大したもん出来ないけど、味は期待してなよ、耕一」
 そして真剣な表情になって言い添えた。
「だから、千鶴姉を台所に近付けるなよ――それがあんたの最大の役目だかんね」
 俺としても成人式が告別式になるのは遠慮したい。俺は最善の努力を約束した。

 台所から出て居間に戻る途中、重たげな黒皮張りの箱を肩から提げてふらふら歩いている楓ちゃんと出会った。
「あ、持つよ楓ちゃん」
「耕一さん…」
 楓ちゃんが遠慮する前に、さっさと肩ひもを奪い取って背負う。――と、うわ、本当に重たいぞこれ。
「楓ちゃん、これってもしかして…カメラ?」
 大学の友人で写真サークルにはいってる奴が、こういうのを持っていた気がする。とはいえこれよりずっと新しい箱だったけれど。
 そう思って聞くと、なぜだか少し頬を赤くした楓ちゃんはちいさくこくりとうなずいた。
「叔父様が使われてたのを、貰いました」
「へえ、親父の…」
 親父にカメラを弄る趣味があったとは知らなかった。
「…千鶴姉さんの成人式のときも、このカメラで写真を撮りました」
「そのときも、楓ちゃんが?」
 俺がそう尋ねると、楓ちゃんはおかっぱの髪をぷるぷると振って否定した。
「そのときはまだ、このカメラは叔父様のものでしたから」
「そうなんだ。じゃあ、これは親から楓ちゃんへの形見みたいなものなのかな」
 形見、と言った俺の言葉に暗さはない。
 楓ちゃんは小さく、しかし強くうなずいた。
「叔父様は私にこのカメラをくれるとき、写真は被写体に向ける気持ちが大事だと教えてくださいました」
 ふと立ち止まって、まっすぐに俺を見上げて。
「今日の写真は、きっと素晴らしい写真になります。…私と叔父様の、二人分の思いを込めて撮るんですから」
「――ありがとう、楓ちゃん」
 照れくさくて、ありがたくて、心の奥が静かに波打つのを感じる。
 手を伸ばして頭をなでると、楓ちゃんはまた赤くなってうつむき、しばらくされるままになっていた。

 

 撮影会の会場として選ばれたのは、普段は使用されずに閉ざされている大床の間で、楓ちゃんが障子を開けると畳とホコリの匂いが鼻をつんと刺してきた。
 二十畳もの広さのこの部屋には、学のない俺でも金と手間が存分にかかっていることがわかる立派な造りの床の間があり、右手には柏木家の誇る中庭が見事な眺めを広げている。
 …とはいえ、やはりこのままでは撮影できない。
「まず、掃除です」
「みたいだね」
 別にクモの巣が張っていたり塵が積み上がっている訳ではないけれど、それでも床の間の上にはホコリが白く乗っていたりする。何より空気がよどんでいる。
 ふたりで部屋中の戸を開けて風を通しているところに、千鶴さんがやってきた。
「準備はどう? 楓」
「順調。でも、もうちょっとかかると思う」
「そう。掛け物と床飾りは、梓に言って蔵から出して貰いなさい。お花は本間から持ってくるといいわ。床の間は必ず乾拭きするのよ? あと、なにか必要なものはあったかしら」
「いいえ、姉さん」
 鶴来屋会長の名は伊達ではない、楓ちゃんにテキパキと指示を下す千鶴さんの姿は、いつもの天然な言動とはうってかわって頼もしく、格好良かった。
「手伝おうか、楓ちゃん」
 力仕事がありそうなのでそう申し出たが、楓ちゃんはちょっと嬉しそうに目を細めただけで首を横に振った。
「耕一さんは、姉さんの手伝いですから」
「そうですよ、耕一さん――じゃあ楓、後はお願いね。掃除はそんなに徹底的にしなくていいから、ほどほどで切り上げてあなたも準備なさい」
「はい」
 こくりとうなずく楓ちゃん。
 そして俺の方を見て小声でなにかをささやき、ぺこりと頭を下げて部屋の奥へ行ってしまった。
「耕一さん、楓はなんて言ってたんですか?」
「い、いや。よくわかんなかった」
「変な子ね…。まぁいいわ、耕一さん行きましょ」
 あっさりと疑問を忘れて俺の腕を取り、歩き出す千鶴さん。俺はその横で、汗を一筋流しながら引きつり笑いを隠すのに必死になっていた。
 楓ちゃんはこう言っていたのだ。
『姉さんのお守り、お願いします』
 ――俺は一体なにをさせられるのだろうか。

 俺の密やかな不安とは裏腹に、千鶴さんが向かったのは仏間だった。
 ここに滞在している間は毎日訪れる部屋だけれども、俺はこの部屋に来るたびに思い出す光景がある。
 それはほんの数ヶ月前、親父が死んで俺が八年ぶりにここへ帰ってきた時のこと。みんなが学校に出かけた後、千鶴さんを探して寝室に行き、居間に行き、そして――この部屋で見た、あの千鶴さんの姿。
 忘れられない。そして、忘れてはいけないのだ、と思う。
 もう二度と、千鶴さんをあんな姿にさせないために。
「耕一さん、どうされたんですか」
 部屋の入り口で立ち止まっていた俺を、仏壇の前に二つ座布団を並べながら千鶴さんは不思議そうに振り返り見た。
「…いや、ちょっと考え事。それよりいまから何をするの? 千鶴さん」
「とりあえず、叔父様に報告をしようと思って。はい、耕一さん、お線香」
 手渡してくれる線香に蝋燭で火をつけて、灰に挿す。その隣に千鶴さんも並べるように線香を立てた。
 そして、自然と手が合わさる。
 あるかなしかの空気の流れになびく、白い線香の煙。その向こうに、金文字で戒名の記された黒い木札が並んでいる。
 古びた物もあれば新しい物もある。一番手前にある、漆が薫りそうな真新しいそれは、他の誰でもない、俺の実の父親の位牌だ。
 手を合わせ、頭を下げ、目を閉じる前にちらりと横を見た。千鶴さんは真摯な表情で何事かを親父に語りかけているようだった。
 何を話しているんだろう。
 それが無性に気になった。いろいろ親父に伝えたいことがあるんだろうな、と思う。千鶴さんと親父の関係は、俺と親父のそれに比べて、深さも重さも長さもあまりに違う。
 俺の中に、親父に対して昔のような憎しみや恨みはもうない。 しかし、人の心は急に変わることもできないのもまた事実で、子供の時別れて以来、ろくに声を聞くことも姿を見ることもなく逝ってしまった親父に対して、みんなほどウェットになれないのも正直なところなのだった。
 ――そんなちっぽけな木片になっちまったら、話なんかできないじゃねえか、親父。
 結局、祈るという行為は、その対象をどのくらい明確に認知しているかにかかっているのだろう。親父の記憶が希薄な俺には、語りかけるべき言葉すらろくに見つけることができない。
 再び横を見る。千鶴さんはまだ顔を上げていなかった。だから俺も手を合わせなおして、一瞬だけ親父に語りかけた。
 ――親父、これからみんながおれの成人式をしてくれるんだってさ。覚えてたかどうか知らないけど、今日の俺たちを見守っててくれよ、な。
 目を上げると、いつの間にか千鶴さんがこちらをなんだか嬉しそうな顔で見つめていた。
「な、何、千鶴さん」
「いいえ、ただ、長く叔父様とお話しされてるなって思って。なにをお話しされてたんですか?」
 そんなに嬉しそうな顔で言われると、本当は言うことがなくてずっと千鶴さんを見てましたと正直に言えなくなってしまう。俺はごまかすことにした。
「ん、うん、まあ、いろいろとね。これからのこととか……。千鶴さんはなんて?」
「私ですか? わたしは――」
 千鶴さんは視線を俺から外して、親父の方を向いた。
「お話するというより、思い出してました。生きてここにおられれば、どんなに喜ばれたことだろうって。…叔父様は耕一さんの成人式を本当に楽しみにしておられましたから」
 静かな表情で語る千鶴さんの言葉に、俺はすこし驚いた。
 親父が、俺の成人式を楽しみにしていた?
 覚えてもいまいと思っていた俺には、意外な事実だった。
「…親父、俺が今年成人式ってこと、覚えてたの?」
「ええ、もちろん。どうして?」
「ほら、だって去年の親父ってもう鬼の血が末期で、それどころじゃなかったんじゃないかなって思ってさ。それに――」
 ぽろり、とこぼれてしまう本音。
「それに――俺の誕生日とか、覚えてないんじゃないかなって…」
 八年もの長い歳月、すれ違い続けた親子の溝は、そう簡単に埋まる物ではない。
 頭ではわかっている。
 親父がどうして俺に連絡をくれなかったのか。どうして、お袋の死に目にもあえないくらい、俺たちを避け続けたのか。その理由を、今の俺は知っている。
 ただ、素直になりきれないのだ。
 理屈ではない、もっと奥の感情がまだ、親父の本当の想いを受け止められずにいる。
「………」
 そんな俺の内心を知ってか、千鶴さんは怒らなかった。
 親父の位牌を見つめたのと同じ、静かで、わずかに悲しげな表情で俺を見つめ、そしておもむろに立ち上がった。
「耕一さんに、見ていただきたいものがあります」
 そして部屋を出て行く千鶴さん。俺もあわてて立ち上がり、その後を追った。

 

 昼過ぎとはいえ、日の差さない廊下の空気はぴんと張りつめるように冷たい。
 きしきしと軋む板張りの廊下を会話もなくしばらく進んで、千鶴さんが開けたのは生前親父が私室として使っていた部屋の扉だった。
 鍵こそつけられていないが、普段は訪れることのない部屋である。俺など、初めて来たときに屋敷を案内されたときに入り口からちらっと見ただけで、部屋の中に足を踏み入れたのはこれが初めてだ。
 親父の死の悲しみも癒えぬみんなに、不必要に親父のことを思い出させることはないという聞こえの良い理由もある、が、正直なところあまり積極的に親父のことを知ろうという気概もまた無かった。
「ここが、親父の…」
 時代がかった大きな机と洋服タンス。そしてその向こうの本棚にならぶ、色あせた蔵書…。
 天井の蛍光灯に違和感を感じるほど、それはレトロな雰囲気のある空間だった。
「このあたりは、お祖父様が最初にこのお屋敷を建てられたころの建物がそのまま残っているところなんです。このお部屋は、叔父様が子供の頃から使っておられた部屋なんですよ」
 旧家の屋敷によくある増築と改築の歴史を、この柏木の屋敷もまた重ねていた。俺が帰ってきたときに使っている離れやみんなの個室は叔父さんの代に増築されたものだし、テレビを置いている居間と小さなほうの床の間は改築されている。
 それら後から作られた部分は総じて近代的で、もちろん廊下も軋んだりしない。
「ここに――あっ、ありました」
 漆喰の壁に走るいくつかの亀裂をなんとなく目で追っていた俺は、千鶴さんの声に振り向いた。
 千鶴さんの手には、図鑑のような大きさの青い厚表紙の本が持たれていた。卓上灯のスイッチを入れて、机の上に浮かび上がった白い光の輪の中心に、千鶴さんはその本を大事そうにそっと置いた。
 古ぼけて、色あせたその表紙。その姿に、俺は強い既視感を覚えた。
「これは…?」
「耕一さん自身の手で、開いて見てください。これは叔父様の――」
 言葉を探すように、千鶴さんは一瞬の間を開けた。
 それはさっきの俺のとは違い、あふれ出しそうな言葉を整理して大事なことだけを選び取るために必要な沈黙だった。
「…叔父様が、耕一さんのことを最後まで想っておられたことの証です」
 俺は指を伸ばして表紙に触れた。
 感電するのではないだろうか、という不合理な気持ちさえ起こったが、指先に伝わってきたのはビニールで覆われた表紙のひんやりとした冷たさだけだった。
 ぱたり。指をかけて表紙を開くと、丁寧に並べられた数葉の写真が目に飛び込んできた。
 それはアルバムだった。
 最近の薄いクリアフォルダーに挟み込んでいくタイプのものではなく、粘着材が塗られた厚紙に写真を貼り付け、その上から透明のセロハンを貼る昔の造りのアルバム。そしてそこに納められている写真に写っているのは――。
 子供の頃の、俺自身の姿だった。
 既視感が確信に変わった。このアルバムは、むかし親父と一緒に暮らしていたころは我が家にあったのだ。
 それがいつからか見かけなくなり、お袋が死んで遺品を整理したときにはすでにすっかりその存在を忘れていたのだが…まさか親父が持っていたとは思わなかった。
 懐かしさと驚き、そして困惑。ページをめくりながらいくつもの疑問が胸に湧いてくる。
 これがなぜここに?
 親父はなんのためにこれを?
 そしてなにより、千鶴さんはなぜこれを俺に見せたのだろう?
 ――その時、俺はあることに気が付いて、ページをめくる手を止めた。
「このアルバム…俺の写真ばっかりだ」
 ベビーベッドの上で眠る赤ん坊の俺。
 まだ若いお袋の胸に抱かれてカメラに手を伸ばしている幼い俺。公園のような広場で芝生の上に立っている小さな俺。ぴかぴかのランドセルを背負って、校門の前で気をつけをしている一年生の俺。二人で作った雪だるまの横に立って、親父と並んで自慢げに笑っている腕白そうなガキの俺…。
 どのページも、どのページも、全ての写真には必ず俺が写っていた。 そして全ての写真は、時の流れに沿って、つまり俺の成長の段階がはっきりと見てわかるように並べてあった。 思い出と、そしてある種の予感に突き動かされるように、指はページをめくる。写真の中の俺は大きくなり、親父と別れて暮らし始めたころの写真へと移り変わっていった。
 ぶかぶかの学生服を着た、生意気そうな中学一年の俺。修学旅行の全体写真。運動会で走る俺。黒筒を片手に、照れくさそうに突っ立っている卒業式の俺。満開の桜を背に、まだ似合わない高校の制服を着た高校一年の俺。そして、いつのまにか白髪交じりになっていたお袋と一緒に写った、十八歳の誕生日の記念写真――。
 そこから、突然ページは空白になった。
 覚えている。
 その年の暮れ、お袋は死んだのだ。そして俺と親父はその葬式場で短い再会をし、不幸な別れ方をした。お袋がこっそり焼き増しして送っていたのであろうそれら俺の写真は、だからそれ以降絶え、親父にとってはあの式場で別れた俺の姿が、最後に見た俺の姿になったのだ。
「このアルバムは、叔父様の宝物なんですよ」
 まるで自分のことのように嬉しそうに、千鶴さんは横から手を伸ばしてアルバムに触れる。
「だってほら、見てください、ここ。何度も何度もめくったせいでこんなに汚れて、ぼろぼろになって」
 ページの背のセロハンが、手垢で黒ずみ、破れ、厚紙の繊維がむき出しになっている。
「耕一さん、さっきおっしゃいましたよね。去年の叔父様は鬼との戦いが末期で大変だったから、耕一さんの誕生日どころじゃないんじゃないかって…」
 アルバムを俺の手から取り上げ、千鶴さんはそれをまるで赤子のように胸に抱いた。その解れて黒ずんだ背を、愛おしそうに指でなぞる。
 そして、ふいと顔を上げた千鶴さんは、悲しく訴えかけるような瞳で俺を見つめ、ゆるゆると首を振った。
「逆です、耕一さん。叔父様はいつもあなたのことを誰より一番に想っていました。このアルバムだって、中身を入れ替えて耕一さんの写真だけを入れるようにして、一人の時はいつも眺めておられました。仕事でお疲れの時も、昼夜問わず襲ってくるあの悪夢で地獄の苦しみを味わっておられる時も――亡くなられる、その前の夜も」
 千鶴さんは俺を責めている訳じゃない。ただ悲しいのだ。親父を誰よりそばで見てきた千鶴さんは、親父がどれだけ俺のことを想っていたのかを知っている。だというのに、その俺が、親父の想いに疑問をもつようなことを言っている。
 それが千鶴さんには、たまらなく悲しいのだろう。
「去年の耕一さんの誕生日、叔父様は耕一さんが二十歳になられたのをとても喜んでおられました。『あいつももう成人か、もうそんなになるのか』とおっしゃって、このアルバムを開いて耕一さんの写真を眺めながら、お酒を飲んでおられました」
 きっと一緒にお酒を飲むのを楽しみにしておられたのでしょうね、と千鶴さんは寂しそうに微笑みながら言い添えた。
 成人した息子とサシで酒を酌み交わす――そんなごくあたりまえの喜びさえ、親父には叶わない夢だったのだ。顔を見ることも、語り合うことも、手紙で思いを伝えることさえできず、ただアルバムの写真をよすがに、成長していく俺の姿を脳裏に思い描いて、ひとり酒を噛みしめていたのだ。
「親父が…」
 俺は胸が痛くなった。親父がそこまで、そんなにまで、俺のことを想っていたなんて。
 しかし、いくら後悔してももう遅い。親父はもう儚いのだ。
 そんな俺の胸の内を察したのか、千鶴さんは優しく包み込むような声で、俺に勧めるのだった。
「だから耕一さん…成人式を。叔父様に立派に成人した姿を見せてあげましょう。叔父様のアルバムに、その写真を加えてあげましょう。叔父様はきっと、とても喜んでくださると思います」
 俺は、言葉もなかった。
 テレビをみていた梓の軽い一言から始まったこの成人式。単なる思いつきの、退屈な正月休みにちょっとした刺激をもたらすお祭り企画のつもりだった。千鶴さんが親父のことを言い出して話が決まったときも、俺は正直、親父のためにではなくみんなのために了承したのだ。
 だけど。
 少しずつ、気持ちが変わりつつある。
 今日の成人式は、俺と親父の――親子の儀式なんだ。
 そういえば、さっき楓ちゃんも言っていた。
『今日の写真は、きっと素晴らしい写真になります。…私と叔父様の、二人分の思いを込めて撮るんですから』
 親父の思いがいまもこの家に宿っているのなら、都会に帰ってからではなく、この家で、みんなで俺の成人式をするというのは、確かに一番良いことだったのだろう。
 毎年荒れて、警官が出動するような騒ぎになる地元の成人式に、参加する意義を見いだせなかった俺。今でも、それだけを考えればやる気にはなれない。「成人式」という儀式に参加したところで、実際になにが変わるわけでもない。
 でも、おれはそういう普通の人と同じではいけないのだ。
 俺は、親父の息子だから。柏木家の、男子だから。
 今はっきりと思った。
 俺は本当の意味で、『成人』しなければいけないんだということを。
「…千鶴さん、お願いがあるんだ」
「はい」
「親父の服を着て、写真に写ってもいいかな。新しい奴じゃなくていい、親父がよく着てた、お気に入りの奴を…」
 すると、千鶴さんはぱっと輝くように微笑んで
「ええ、叔父様もきっと喜ばれると思います」
 と言った。
 どうやら、これもはじめから千鶴さんはそのつもりだったみたいだ。
 改めて、かなわないなぁと思いながら、俺は千鶴さんからもう一度アルバムを受け取って眺めた。
 このアルバムが俺の歴史だとしたら、今日ここに加わる一枚の写真は確かに俺の人生の大きな転換を象徴するものになるだろう。
 隆山の家で、親父の服を着た俺が、親父が護った従姉妹たちと家族として写った、初めての写真。
 そしてそれは、俺の成人式の写真ともなる。
 それは他の誰のためでもない。
 俺と、親父の儀式だ。

 千鶴さんが出してくれたのは、地味な色と型ながら、不思議と堅さを感じさせないオーダーメイドの背広だった。
 晩年の親父が一番好んで着ていたものらしく、最後に親父が着てハンガーにかけたまま、クリーニングに出されることもなく今までクローゼットの中で眠っていた。
 千鶴さんにあっちを向いて貰って素早く着替えてみると、上着もスラックスも驚くほど俺にぴったりだった。
「…さすがに、お腹のあたりはすこし余るけど」
「ふふふ。でも、肩幅も袖丈もズボンの長さも、あつらえたみたいにぴったり。さすがは親子、ですね」
 着せ替え人形よろしく俺の首元にいろいろなシャツとネクタイを押しつけてバランスを見ている千鶴さんは、なにやらとても楽しそうだ。
 肩幅とかはともかく、足の長さが同じというのはどことなく不満だけれども、親父に似ていると言われるのは悪い気分ではなかった。
 そして、そんな風に思い始めた自分の変化を自覚する。
 こんなふうに、親父が遺したものに触れながら暮らすことによって、俺たちは少しずつ歩み寄っていけるのではないかという気がする。
 たとえ、遅きに失したといえども。
「白シャツにこれだとおじさんっぽくなっちゃうし…でもこれとじゃ色が…」
 千鶴さんはまだ納得いかないのか、空き巣のようにタンスを開けてコーディネートを続けている。
 あとで梓が見たら激怒しそうだな、とか考えて苦笑したとき、ふと、上着のポケットになにか軽くて小さな箱のようなものが入っていることに気が付いた。
 ぴんと閃くものがあった俺は、千鶴さんに気が付かれないように布地の上からそっと触れて確かめた。
 これは…。
「? どうされたんですか耕一さん」
 きっと態度にでてしまったんだろう。ネクタイを選んでいた千鶴さんがふとこちらを見た。
「ん、いや、なんでもない。…親父にも、こんなふうに服を選んであげたりしてたの?」
 おれは適当にごまかした。今、この存在をここで千鶴さんに教えない方がいいと思ったのだ。
 今日のこの日、しかもこのタイミングで、親父の遺したこれが俺の手にわたったのは偶然ではないような気がした。
「たまに感想を聞かれることはありましたけど、基本的に叔父様は自分でしておられました。叔父様おしゃれでしたし」
 千鶴さんはすぐに興味を失ったらしく、自分の作業に集中しはじめた。
 そしてやがて、理想との妥協点を見いだしたらしく、一組のシャツとネクタイを机の上に置いた。
「…うん、これでいいわね。耕一さん、ネクタイの結び方はわかりますか?」
「あ、千鶴さん今ちょっとバカにしたろ。ネクタイくらい結べるやい」
「蝶結びじゃだめなんですよ? 耕一さん」
「あのね」
 酔っぱらいのサラリーマンじゃないんだから。
 俺が半目で軽く睨むと、千鶴さんは本当に楽しそうにふふふっと笑った。
「…どうしたの、千鶴さん。俺の背広姿そんなにおかしい?」
 似合わないだろうとは思っているけれど、笑われるような格好では写真に写りたくない。
 すると千鶴さんはあわてたようにぶんぶんと首を振った。
「いいえ、とても似合ってますよ。ごめんなさい耕一さん。ただ私…」
 千鶴さんはそして、ふたたびとろけるような笑顔になって言った。
「あの『耕ちゃん』が成人式なんだなーって思って…」
 ――やっぱりこの女(ひと)には敵わない。

「じゃあ、これで決まりですね。撮影の前に着替えるとして、まだ時間がありますから、シワにならないようにハンガーに掛けておきましょう」
 千鶴さんはそう言って、手際よく背広を片づけた。
 時計を見る。写真撮影の時間まで、あと1時間近くある。
 そういえば、俺と千鶴さんはふたりで成人式の準備をするのではなかっただろうか。
 台所に絶対近づけるな、と言った梓。
 姉さんのお守りお願いします、と言った楓ちゃん。
 俺はこれから何をすればいいのだろうか。
 …しかし、長く悩む必要はなかった。
 俺はその後、千鶴さんに連行され、恐るべき任務に従事することになった。
「これがいいですか、それともこっちが?」
「ん…、右の、かな?」
「こういうのもあるんです。耕一さんはどっちがお好きですか?」
 千鶴さんがこうして俺の意見を聞いてくるのは、すでに二十回目を超えた。俺はもう床にへたりこんでしまっている。
「好きって…どっちでも似合うと思うよ、千鶴さんには」
「もう、どっちでも、なんて酷いですぅ。大事な記念写真だから、耕一さんの好きな服にしようって思ってるのに…」
「あ、その…ごめん」「わかりました耕一さんは私のことなんかどうでもいいんですね。こんな、こんなおばさんの格好なんか、うっうっ」
 思いっきり泣き真似とわかる声と仕草で、抱えた服の山に顔を埋める千鶴さん。ちらちらこちらの反応をうかがっているのがバレバレだ。
 さっきまで親父の思いを悲痛な表情で俺に語っていたのと同一人物とはまるで思えない。
 ――楓ちゃんが言っていたのはこれのことだったのか。
 大きなため息を胸の中でついて、俺は千鶴さんにご機嫌をなおしてもらうために立ち上がった。
 …この地獄は、用意を終えた梓が呼びに来るまで、延々1時間以上も続いた。

 

「叔父ちゃん!?」
 部屋に入って、一番最初にかけられた言葉が初音ちゃんのこれだった。
 綺麗に飾り付けられた床の間の前に、それぞれの高校の制服を着た梓以下の三人と、俺が1時間以上もつきあわされて選んだフォーマルスーツに身を包んだ千鶴さんが並んで立って俺を待っていた。
 驚いて声を上げてしまった初音ちゃん以外のみんなも、なんだか目を見開いてこっちを見ている。
「初音ちゃん、俺だよ」
 驚いてる初音ちゃんが可愛くてもうすこし眺めていたいような気もしたけれど、このままお見合いしててもしょうがない。声をかけると、みんなはまるで呪縛が解けたように一斉に息をついた。
「そ、そうだよね。ごめんなさいお兄ちゃん。でも、とっても似てたから…」
「別にあやまらなくていいよ初音ちゃん。似てるっていうの、嬉しいし」
「耕一お兄ちゃん…」
 部屋の中に入って、初音ちゃんの癖毛の頭にぽむぽむと手を置いてなでていると、梓と楓ちゃんが横に着て俺の全身を眺め回した。
「これ叔父さんの服だろ。へえ、ぴったりじゃん」
「…かっこいいです、耕一さん」
 そういう楓ちゃんは正統セーラーの冬服で、畳の上を転がり回りたくなるくらい可愛い。
「胸元に花を飾ったほうがいいかしら…」
 とつぶやいているのは、一歩下がった位置で腕組みをしている千鶴さんだ。まだ俺のコーディネートにこだわりを持っているらしい。
「さ、時間もないから早く撮ろうか。楓ちゃん、俺はどこに立てばいいのかな」
「…耕一さんはここに」
 花飾りなんぞつけられちゃたまらない。俺はあわてて撮影準備に入った。

 写真は、俺一人を三枚と、四姉妹を一人ずつ俺と一緒に各一枚、そして五人全員を二枚。計九枚を撮ることになった。
「もっと笑えよ、耕一」
「こ、こうか?」
「歯をむき出しにしなくていいってば。ゴリラかあんたは」
 呆れたような梓のつっこみに、初音ちゃんと千鶴さんがくすくすと笑い声を立てる。その横で腰を落とし、三脚に据えたごついカメラをのぞき込んでいる楓ちゃんはひたすらクールだ。
「…耕一さん一人のは終わり。次は千鶴姉さんから」
「耕一さん、お願いします。楓、綺麗に撮ってね」
 にっこりと笑いながら、千鶴さんが俺の隣にやってきた。
「耕一さん顔上げて、姉さんもうちょっと右に」
「右って、こうかしら」
 動いた千鶴さんがとしん、と俺の胸にぶつかってきた。
 一瞬、髪が香った。
「おっとと…」
「あら、ごめんなさい耕一さん。わざとじゃないんです」
 ちろりと舌を出して謝る千鶴さんは、しかし実に嬉しそうな顔をしている。
「絶対わざとだな、ありゃ」
 初音ちゃんにそうささやく梓の声が聞こえてきて、俺も微苦笑せずにはいられなかった。
 しかしお遊びを抜きにしてちゃんと立った千鶴さんは、取材などでカメラの前に立つ機会が多いせいか、背筋の綺麗に伸びたカメラ映えする立ち方を心得ていた。
 知らない人がこれを見たら、やっぱり女社長と部下か、モデルと付き人と思うだろうなと思って、さらに微苦笑が深くなった。

「おっしゃ、次はあたしか」
 肩をぐるぐる回しながら俺の横にやってきた梓は、はたして記念写真というものの意味をちゃんとわかっているのか俺を少し不安にさせてくれた。
 だからなぜ腕まくりしようとする。
「ボクシングの対戦前の撮影じゃないんだから…」
「梓、暴れちゃだめよ。じっとしてなさい」
「うがー! 耕一も千鶴姉もあたしをなんだと思ってるんだ!」
「梓姉さん、うるさい」
 もう踏んだり蹴ったり。
「お前も黙って立ってりゃ可愛いのにな」
「…それでフォローのつもりか、耕一」
 腰に手を当てて、鼻息一つ。でもその横顔はまんざらでもないといった表情だ。
「それに、黙って立ってるあたしなんて、あたしらしくないじゃん」
「…それもそうだな」
 梓の魅力は、その竹を割ったような性格にあるのであって、良くも悪くも単純元気なのが売りなのだ。
「二年後の、お前の成人式も、こうやって写真撮ろうな」
「――うん」
 カシャ。
 静かなシャッター音がして、俺と梓の一瞬を切り取った。
 きっと、二人とも良い笑顔をしていただろう。

「次は初音行って。私は次でいい」
「あ、うん。楓お姉ちゃんありがとう」
 ぱたぱたと畳の上を小幅で歩いて、初音ちゃんが天使の微笑みを浮かべながらやってきた。
 初めて見る初音ちゃんの冬服は、茶色のブレザーにチェックのスカート。そしてなんといってもポイントは細い足をあたたかく包み込んだ白いニーソックスだろう。
 …校長はかなりのマニアと見た。
「可愛いね、その制服」
「うん、可愛いでしょ。それが理由でうちの学校を選んだ人もいるくらいなんだよ」
 私立に多いパターンだな。とさりげに分析する。
「…ねぇ、お兄ちゃん」
 頭の中で都会の女子高生の制服を思い出していると、初音ちゃんがぽつりと独り言のような声で話しかけてきた。
「ん? なんだい」
「さっき、お兄ちゃんが部屋に入ってきたとき、わたし本当に叔父ちゃんが来たのかなって思った」
 俺はこういう言葉に、器用な答えを返すことがまだできない。
 俺にとっては親父は八年前に死んでしまったのと同然だけれども、みんなからすれば小さい頃から一緒に暮らしていた父親代わりの存在を失って、まだ半年もたってはいない。痕はいまだ癒えず、みんなの心にはまだ生々しい痛みが残っている。
「だって私、今朝、お兄ちゃんの成人式を今からするよって言われてからずっと、『叔父ちゃんが生きてたら』って、ずっと思ってたから…」
 千鶴さんと同じ事を、この子も思っていたのか。
 いや、おそらくは、梓も、楓ちゃんも。
「きっと親父は、どっかから見てくれてるよ。今もね」
 ポケットのなかの小さな箱のことを思う。それは、親父が今日の俺たちを見守っていることのしるしのような気がする。
 ぽんぽん、と子犬にするように軽く頭に手を乗せてなでると、初音ちゃんは目を細くしてこくりとうなずいた。
「初音、もっとあごを上げて。耕一さんそのまま」
 本職みたいに決まってる楓ちゃんが合図をすると、同時にフラッシュが瞬いた。
「初音ちゃん」
 去っていこうとする初音ちゃんを呼び止めて、俺は一言だけ言い添えた。
「今度、親父の話をもっと聞かせてくれないかな。初音ちゃんの覚えてる限りのことを」
「うん!」
 初音ちゃんは、まばゆいような笑顔と元気な声で答えてくれた。

「…で、これを押して。オートフォーカスじゃないから、ここを回してピントを合わせて」
「なんかこんがらがってきた」
 最後の楓ちゃんは、カメラの扱い方を梓に教えている。
 振り回して殴ったら簡単に人を殺せそうなくらい重量感のある古めかしいカメラである。しかもかなり玄人向けのものらしく、これがマンガなら梓の頭の周りには?マークがたくさん浮かんでいることだろう。
「難しければ、タイマーで撮るけど」
「ん…まぁ大丈夫でしょ。ピントを合わせてシャッターを押す。それだけだよね?」
「お願いします、姉さん」
 そう言うと、楓ちゃんはたたっと小走りで俺の横にやってきた。
「お疲れさま、楓ちゃん」
「耕一さんこそ、お疲れさまでした」
 …これはきっと『姉さんのお守り』のことを言っているんだろうな。俺は苦笑した。
「んーと、楓もっと寄って。耕一は…どうでもいいか」
「どうでもいいってなんだ、こら」
 俺のつっこみに、ファインダーをのぞき込みながら梓は奇っ怪な笑い声を上げる。本当に、いちいちつっかかって来る奴だ。
「梓、真面目にやりなさい」
 千鶴さんの声も呆れがちだ。ちゃんとした写真になるのか、不安だ。
「梓じゃなくて、千鶴さんに撮ってもらったらどうかな」
 楓ちゃんにこそっと言うと、楓ちゃんは小さく、しかしきっぱりと首を振った。
「…大事なカメラですから」
 さりげなく、言うことがかなりシビアな子だと思う。
「それに、梓姉さんは、ちゃんとするときはちゃんとする人ですから」
 …前言撤回。この子はただシビアなんじゃない。
 ちゃんと自分や周りの人のことを信じてる。その上で、いろいろなことを見極めているのだと思った。
「それに、あのカメラには親父の思いがこめられてるから…でしょ?」
 そう、たとえ千鶴さんが撮ったとしても失敗などないはずだ。
「はい」
 振り向いて俺を見上げた楓ちゃんは、ちいさくうなずいて、そして小さく微笑んだ。
「あー、楓いい顔。そのままねー、いくよー」
 まっすぐに、カメラのレンズと向かい合う。
 あれは親父の目だと思った。
 親父の目に、成人した俺の姿を焼き付けて、親父が遺したあのアルバムに収める。お袋の死の直後から空白になっているあのアルバムの、その続きを埋めてゆく。
 それが俺の、俺なりの、成人の証――そして、親父との和解の証だ。
 機械仕掛けの親父の目がまばたきをして、俺の姿を焼き付けた。フラッシュが閃く一瞬、おれは親父の存在を確かにそこに感じていた。

 

 全体写真の撮影が終わると、梓たちは再び台所へと向かった。
「あとはもう皿に盛るだけだかんね、すぐできるよ」
「待っててね、耕一お兄ちゃん」
 初音ちゃんを引き連れて歩いてゆく梓の後ろ姿に、千鶴さんが期待のこもった声をかける。
「梓、手伝いは…」
「千鶴姉はしなくていい! 楓、カメラ片づけ終わったらちょっと手伝って」
「わかった」
 あからさまな差別が存在するが、それもこれも理由あってのことだ。ぷっとふくれた千鶴さんの顔に同情は感じるけれど、俺も命は惜しい。
「…千鶴さん、着替える?」
 とりあえず、別の話題を振ってみる。廊下の奥に消えた梓たちを見送っていた千鶴さんは、くるりと振り向いて首をちょこんと傾げた。
「耕一さんはどうされるんですか?」
「俺は――できればこのままで」
 千鶴さんは微笑んでうなずいてくれた。
「そうですね。叔父様もそれをお望みだと思います」
 そして俺の横を通り抜けて窓辺へ歩み寄る。
「じゃあ、わたしもこのままで。この服、叔父様が大学卒業のお祝いに買って下さったものなんですよ」
「じゃあ、千鶴さんははじめからその服を着るつもりだったの?」
 だったとしたら、あの地獄の1時間強は一体なんだったのか。
 しかし千鶴さんは首を振った。
「そこまで計算高くないですよ、私。でも、耕一さんがこれが良いって言って下さったときには、ああやっぱり叔父様の息子だなって思いましたけど」
 後ろ手を組んで窓際に立つ千鶴さんが、体をひねるようにして俺の方を向いた。淡い光が、その横顔に陰影を落としている。
 俺がなにか答えようと口を開いたとき、楓ちゃんが片づけを終えて部屋を出てきた。
「お疲れ様、楓」
「あ、ごめんね、俺たちしゃべってばかりいて。部屋まで持っていこうか?」
 しかし、楓ちゃんは首を小さく振った。
「じゃあ、あとから…」
 とすとすと、斜めに光が差し込む明るい廊下を制服姿の楓ちゃんは歩いていく。重い鞄を肩にさげ、体を斜めに倒しながら。
 それを俺と千鶴さんは無言で見送った。そしてその足音さえ消えたとき、部屋には沈黙が落ちた。窓の外を吹く風が庭の木をゆらすざわめきが、それを一層際だたせる。語りかけた俺の唇は、いつのまにか何を語るのかを忘れて、動きを止めていた。
「…あわただしい成人式になってしまいましたね」
 沈黙を破ったのは千鶴さんだった。外を向いていた体をこちらに向けて、すまなそうに軽く頭を下げる。
「ごめんなさい、耕一さん。もっとゆっくりお祝いしたかったんですけれど」
「いいって、十分過ぎるくらいだよ。明日から千鶴さん忙しいのに、本当にありがとう」
 自然と頭が下がった。
 千鶴さんは、いいえ…と微笑んだ。そして再び窓の外を見た。目は、やや曇り始めた空を見上げている。
「――時間まで、お庭を歩きませんか」
 そう言った千鶴さんの表情は見えない。
でも、とても穏やかな声だと思った。
 同意の返事を返すと、千鶴さんは近くの縁側のサッシを開けてつっかけを履き、庭に降りた。俺もそのすぐ後を追った。

 

 年が明けて間もない空は、どことなく不穏な雲行きだった。風が冷たい。今夜は雪が降るかもしれない。
 俺はすうっと息を吸い込んで、長々と吐き出した。白い息は、風にさらわれてすぐに散った。
 思った以上に気温が低い。
「…寒いですね」
 数歩先を歩いていた千鶴さんが、池の前で立ち止まってそう言った。
 俺が黙って上着を脱ごうとすると、千鶴さんはそれを手で止めた。
「本日の主役に風邪を引かせたらいけませんから」
「千鶴さんだって、明日から仕事でしょ」
「風邪を引いたらもうすこしお休みできるかな、なんて。ふふ、不良会長ですね」
 腕を抱いて、寒そうに千鶴さんは笑った。
「中に入ろうか、千鶴さん。話なら中でも――」
「三年前…」
 俺の言葉を遮るように、思い出話の口調で千鶴さんは語り始めた。
「いえ、もう四年前になるのかしら。とにかく私の成人式の時です」
 千鶴さんは池のそばから身を翻し、ゆっくりと歩き始めた。歩いて、庭の景色から言葉を拾うようにして語る。
「今日みたいにみんなで写真を撮ったあと、叔父様はこうして私を庭に連れ出しておっしゃいました。『成人式をしたからといって大人になったわけじゃない。でも、大人としての責任は背負わなくてはいけなくなる』って」
 親父の思い出話をするときの千鶴さんは、穏やかで優しい表情になる。
「そして、こう続けられました。『だから千鶴、これからお前は、自分のことは全部自分で決めなさい。柏木の血のことや、長女だから、なんてことは関係ない。一人の大人として、自分の人生は自分で決めなさい。私はそれがどんな決定でも、お前が本気で決めたのなら、反対はしない』――叔父様はとても優しく、そして真面目に言われました」
 吹きつける風は身を切るように冷たいのに、千鶴さんはとても暖かいものを抱いているように微笑んでいる。
 そしてその微笑みは、そのまま俺へと向けられた。
「…耕一さん、同じ言葉をあなたに贈ります。あなたの人生はあなたのもの。これからのあなたの人生を、どのように歩むのか、それを決めるのはあなただけです」
 それは、ごくありふれた新成人へのメッセージに聞こえる。
 しかし、今の俺には、親父がどんなつもりで千鶴さんにそんな言葉を言ったのかが理解できる気がする。
『一人の大人として…』
 柏木家はその血ゆえに、特殊な運命を生まれながらに抱えて生きなければならない一族である。そして同時に名士の家系でもあり、地元有力企業の会長を世襲する一族でもある。
 からみつくしがらみは多く、期待されることも多く、周りのひとはこぞっていろいろなものを奪っていこうとする。
 そういうものから、逃げることさえ自由だ、と親父は言ったのだ。ただ、逃げるにせよ留まって戦うにせよ、全ては自分の意志でなされなければならない。
「同じ結果でも、流されてつかみとったものと、自分の意志で勝ち取ったものでは価値が違います。自分で決めたことでなら、後悔も失敗も、すべては耕一さんにとってプラスになります。これからの人生を、大切に。成人おめでとう――以上、叔父様プラス私からでした」
 言い切ると、千鶴さんは照れくさそうに笑って肩をすくめた。
「なんだか説教くさいこと言っちゃいましたね。ごめんなさい。さあ、部屋に入りましょう、耕一さん」
 にこっと笑って、屋敷に向かって小走りに駆け出す千鶴さん。俺はその後ろ姿に、一度だけ、深く礼をした。
 ありがとう、千鶴さん。
 おかげで迷いが消えたよ。
「耕一さーん、なにしてるんですかー。鍵閉めますよー」
「うわっ、勘弁してよ千鶴さん!」
 俺はあわてて駆けだした。それを見て、千鶴さんは子供のように笑う。
「うふふふ、食事の用意も出来たみたいですよ。早く早くっ」
 急かされて踏み石から屋敷へ踏み込んだとき気が付いた。
 いつの間にか、空は真っ赤に染まっていた。

 

「遅いぞ耕一。何やってたんだよ」
 エプロンを脱ぎながら、梓が文句を言う。
「ちょっと忘れ物を取りにな。すまんすまん」
 片手で謝りながら、晩餐会会場である居間……つまりいつもの食卓へ入っていこうとした。
 そこで梓にひきとめられる。
「待てって。ほら、一応『式』だからさ、それなりの演出があるんだよ」
「演出?」
「いい、耕一。あたしが入って、いいよっていうまで入ってきたら駄目だかんね」
 梓はにやりと笑って襖の向こうに消えた。
 そして交わされるささやき声と人の動く気配。
 それから、初音ちゃんの声がした。
「お兄ちゃん、いいよっ」
 何が起きるんだ…そう思って襖を開けた瞬間――

 パーン!
 パパーン!

「おめでとう、お兄ちゃん!」
「おめでとうございます、耕一さん」
「あっはははは、驚いてる驚いてる。あはははは!」
「あ、あの…一応止めたんですよ?」
 いきなりの乾いた破裂音と、宙を飛ぶ色とりどりのカラーテープ。火薬の匂い。
 驚いて入り口に立ちすくむ俺の腕を、初音ちゃんが引いて席まで連れて行ってくれた。
「耕一お兄ちゃん、そんなに驚いた? ごめんね」
「いや驚いたっていうか…成人式にクラッカーって…」
 別に決まりはないと思うけれど。
 それは例えるなら、クリスマスにおせちを出されたような違和感というか。
「むかし誰かの誕生日で使ったのが残ってたからさ、耕一の意表をついてやろうってことで」
 首謀者とおぼしき女はそう言って、けけけけけと実に楽しそうに笑った。
 こいつの成人式じゃ、ピストルでも撃ってやろうか。まったく。
「あー、なんかどきどきした」
「ごめんなさい、耕一さん。ほら、あなたたちもいたずらは終わりにして、始めるわよ」
 居住まいを正す千鶴さんに皆が倣った。

 柏木耕一成人式 式次第 その二
 家長あいさつ。

「じゃあ、私から…。といっても、さっき少し話ちゃいましたけど。お祝いの言葉を、改めて」
 そして、微笑む。
「耕一さん、成人おめでとうございます。まだしばらくは学生さんでしょうけど、これからは社会の一員として、いろんな責任が出てきます。簡単に担えるものもあれば、あなたを苦しませる重い責任もあることでしょう」
 この女(ひと)は、その重い責任を俺よりずっと若い時から背負い続けてきたのだ。いやいやながらではなく、そうすることを『自分で決め』たのだ。
 俺はきっと、一生このひとに敵わない。
「…でも、どんな重い責任でも、どんなに辛いことがあなたを襲うとしても、耕一さん、あなたならその全てを乗り越えることができると、信じています」
 千鶴さんの目は、揺るぎない。お世辞ではなく、本当に俺のことを信じてくれている。
 あなたなら――その言葉の意味を思う。
 それはつまり、鬼の血を克服した俺なら、という意味だ。
 あの辛い日々を乗り越えて、今のこの平穏な時間があることはまるで奇跡だ。失ったものは多いけれど、俺たちはともかく戦い、そして勝利した。
 それを、今後の自信にしてください。そう千鶴さんは言ってるのだ。
「叔父様がいらっしゃれば、本当にお喜びになったことでしょう。きっと、今もどこかから、にこにこして見守って下さってると思います。耕一さん――叔父様の分もあわせて言いますね。本当に、おめでとうございます」
 深々と頭を下げる千鶴さんに、俺も同じくらい深く礼をする。
「…なんか三者面談みたいな雰囲気だな」
 梓がぼそっと言った。
 俺と千鶴さんは顔を見合わせて、すこし笑った。
「えーと、じゃあ次はあたしたちから一言ずつね」

 成人式式次第 その三
 貴賓祝辞――自分で自分を貴賓と呼ぶあたりが良い根性をしてると思った。

「なんか千鶴姉の堅い挨拶のあとじゃやりにくいなぁ…」
 コイツのどこが「貴」賓だというのか。
 俺は軽く笑って促した。
「別に、お前らしくやっていいよ。お前に妙にかしこまったこと言われても、それはそれで怖いからな」
「なんかちょっと馬鹿にされた気分なんだけど…まぁいいや。えっと、料理が冷めちゃうから、本当に一言だけね」
 こほん、と咳払いなんかして。
「おめでとう、耕一――なんか照れるな、こういうの。でもホントに、叔父さんも喜んでると思うよ。再来年のあたしの時も、こんなふうによろしく。以上」
 慣れないことを言ったせいか、顔が真っ赤だ。
 でもそれは、本当に心から言ってくれたんだという証拠だ。からかったりせず、素直に俺はありがとうと言った。
「…耕一さん、おめでとうございます」
 楓ちゃんは、上目遣いで俺をみつめていた。
「………」
 そしてそのまま、沈黙へ落ちる。
「あ、あの、楓ちゃん? どうかした?」
 すると楓ちゃんはなんでもない、とぷるぷると首を振った。その割には、顔が真っ赤だ。
「…がんばってください」
 それだけをやっとなんとか言うと、楓ちゃんは赤くなった顔を伏せてしまった。俺はなにがなんだかわからないけれど、梓はにやにや笑いながら肘でその脇腹をつついている。
 ま、そのうちこういう楓ちゃんの反応もわかるようになるだろう。焦るつもりはない。
「えっと、えっと、私?」
 初音ちゃんは俺たちの顔をきょろきょろと見渡して、それからぴょこんとお辞儀をした。
「えーっと、耕一お兄ちゃん、おめでとうございます。言おうと思ってたことみんなお姉ちゃんたちに言われちゃったけど、これからもよろしくね」
 曇りのないこの笑顔は、この子の汚れのない心を表す。
 俺はそれを、何より大切なものだと思っている。
 初音ちゃんだけじゃない。楓ちゃんも、梓も、千鶴さんも、みんな、俺の大切な人たちだ。
「ありがとう、初音ちゃん。俺の方こそよろしくね」
 そしてついに、成人式はクライマックスへと入る。

 柏木耕一成人式式次第 その四
 新成人答辞。

 ――四人の視線が、俺に集まる。
 その中で、俺は一人一人の顔を順番に見て、そして一礼した。
「今日は、俺なんかのためにこんなに祝ってくれて、本当にありがとう。特に、梓と初音ちゃん、時間無かったのにこんなご馳走つくってくれて、本当に嬉しいよ」
 梓はちょっぴり赤い顔をして、照れ隠しに後ろ頭を掻いた。初音ちゃんは褒められた子犬みたいににこにこと笑った。
「楓ちゃんも、写真とその準備、一人でやってくれたね。ありがとう」
 楓ちゃんはこくんと小さくうなずき返してくれた。
 顔の赤みは、でもまだ残っている。
「そしてなにより、千鶴さん。今日の成人式をまとめてくれて、本当にありがとう」
 千鶴さんには何度お礼を言っても言い足りることはない。
 千鶴さんのお陰で、俺は今日の成人式をだれよりも有意義に、意味ある仕方で過ごすことができたのだから。
「思いつきみたいな形で始まった今日の成人式だけど、おれはこの家で、そしてみんなと、こうやって成人式をできて本当に良かったと思ってる」
 みんなは真面目な顔で聞いてくれている。
 俺の、家族。
 互いの他にはない、固い絆でむすばれた大切なひとたち。
 しかし、もう一人忘れてはいけない人がいる。
「…今日、みんなに言われたことがある。『親父が生きてたら』って。そしたらどんなに喜んだだろうって」
 俺は深く息を吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出した。
 十分に間をおいて、俺はうちあけた。
「――俺は正直、半信半疑だった。親父が俺の成人式をそんなに喜ぶとは思ってなかったからね」
「お兄ちゃん…」
 初音ちゃんがちいさくつぶやく。しかし、千鶴さんがその目を見て、首をかすかに振った。
 おれも、軽く微笑んで続けた。
「でも、それは間違いだった。千鶴さんに、あの俺の写真がいっぱいに詰まったアルバムを見せられて、やっとわかった。俺はこれまで、一人でいじけてたんだなって。親父のことを知ろうと努力もしないで、勝手にそう思いこんでいたんだって」
 もはやだれも言葉を発しない。
 ただ、痛いほど見つめられている。
「いまさらだけど…本当に、遅すぎるけど。俺は親父と和解したい。誰よりも、親父にこの成人式を祝って欲しい。――初めて、そんなふうに思った」
 ひとりの大人として、ひとりの男として、親父に認められたい。
 それは、きっとこれから一生をかけて、俺が追い続けていかなければならない目標だと思う。
 それは流されてではなく、強いられてでもなく、自分の意志で選んだ道だ。俺はそれをまっすぐに走っていこう。
 今日は成人式。
 つまり、そのスタートの日だ。
「親父は、成人した俺と一緒に酒を飲むのを楽しみにしていた、って千鶴さんは言ったね」
 大人になった証に、酒を飲む。
 それもまたよかったのかもしれない。
「でも、俺はここに来てもうさんざん酒を飲んでる。『成人式』なんだから、もっと違うことで親父に俺が大人になったことを示したいと思った。そしたら――」
 俺はポケットからそれを出した。
 軽い、小さな、紙の箱。
「あ……!」
 みんなは目を見開いた。
「選んだ上着に、これが残っていた」
 それは、親父が愛飲していた銘柄の煙草。
 箱の中に、二本だけ残っていた。
「――親父が、おめでとうって、言ってくれた気がした」
 声が震えた。
 俺は続けるはずだった言葉をむりやりに断ち切って、仏間に寄り道して取ってきたマッチと灰皿、そして親父の小さな写真を取りだし、くわえた煙草に火をつけた。
 煙が、居間の空気にふわりと広がった。
「…叔父さんの、匂いだ」
 梓が、顔をくしゃっとゆがめて、そっぽを向いた。その肩が、震えている。
 楓ちゃんと初音ちゃんは、涙を隠そうともせず、二本目の煙草に火をつける俺を見守っている。
 俺はそれを、向かいあうように置いた灰皿の上に置いた。その前に、親父の写真を立てかける。
「耕一さん…」
 千鶴さんの片頬を、真珠のような涙が一筋流れた。
 俺は深く煙をすいこんで、激しくむせた。親父の煙草は、ひどく熱く、そして辛い味がした。
 小さな写真のなかで微笑む親父と、その前でゆっくりと灰になっていく煙草。
 煙は漂いながら、天へ昇っていく。

 親父の愛した服を着て、親父の愛した煙草を吸い、親父の愛したこの人たちに祝われて、俺はスタートを切る。
 なんて幸せなことなんだろう。
 これ以上の成人式が、他にあるだろうか。
「泣かないでよ、みんな。お祝いなんだからさ」
 すると、千鶴さんが言った。
「耕一さんだって、泣いてます」
 いつしか頬を濡らしていた涙。
 でも、俺は首を振る。今の俺には、親父のために泣く資格はまだない。
 だから俺は、煙をゆっくりと吐き出して。
「ちがうよ、これは――」
 微笑みながら言った。

「――煙が目にしみたんだ」



 

 …数日後、親父のアルバムに二枚の写真が加わった。
 みんなで撮った成人式の写真。
 そして、あの日差し向かいで煙草をのんだ、親父の小さな写真。

 ――同じページの中で、俺たちはいま、肩を並べて微笑んでいる。
 

 

 

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