「だから………あなたのこと忘れます。名前も、顔も、声も、温もりも………思い出も全部………忘れます」

 もう………苦しみたくないから………

「さようなら………本当に好きだった人」

 忘れ………たい………





「僕のこと………忘れてください………」

 苦しんでほしくないから………
 でも………

「本当は………もっと………祐一君と一緒にいたいよぉ………」

 ずっと、ずっと一緒に………ダメ………なのかな………?





 空から降り注ぐ雫はもうその力を失い、街を彩っていた花が一つ、また一つと閉じられていく。
 そんな中一つ、ピンクの花だけが取り残される。
 茜の視界は―――まだ雫に遮られていた。
 抑えようとすればするほど、茜の瞳からは雫が溢れた。

 忘れたい………忘れ………なくちゃ………
 
 そう、自分に言い聞かせるたびに―――雫は茜の意志に抗うように溢れつづける。
 苦しみから逃れようとして、苦しみに追い詰められていく。
 ―――そんな状況だったから当然のごとく、横から迫ってくるモノに気がつくはずもなかった。
 横から迫っている気配には―――

 どすっ!

 横からの、鈍い衝撃。
 茜はふいだったが、なんとかその衝撃を堪える。
 それに続いて―――

 べちっ

「うぐぅ〜」
 痛そうな音と声。
 その声のほう………ほぼ足元へ視線を送ると、そこには鼻を押さえて涙を浮かべる一人の少女がへたり込んでいた。
 季節はずれのダッフルコートを着て。
 小さな羽を背中から生やして。
 
 は……ね……?

「あ」
 茜の困惑をよそに、女の子は茜を見上げると、唐突に訊いた。
「あの、ちょっといいですか?」
 敬語は使い慣れていないらしく、女の子は少しどもり気味だ。
 そして、茜の方は困惑から抜け出せない。
 女の子の呼びかけにも反応を示さない。
 こっちも慌てているようで、茜の様子に構っていられないのか、少女は自分の用件を続けた。
「………あのぉ………道を教えてもらえませんか?」







少女達の邂逅 〜From Kanon&ONE〜








 ―――茜は、言葉一つ発しない。
 女の子も言葉を発しない。

 ……………………………

 しばらくの沈黙。
「………うぐぅ〜」
 とうとう耐えられなくなり、女の子が悲鳴(?)を上げた。
 涙も浮かべる。
「………」
(………プラスチックの………羽?)
 茜ここまで来てやっとそれが現実にあり得るモノだと気がつき、困惑から抜け出していた。
 ―――当然、その先には涙を浮かべた女の子の顔が見え始める。
 とりあえず辺りを見回して、茜はどうやら自分が女の子に涙を浮かべさせたのだと理解する。
「どうしたんですか?」
 茜はいつも通りの様子を崩さずに訊いた。
 その声を聞いた瞬間、女の子の顔はパッと嬉しそうな笑顔に変わる。
 ほっとした感じもする。
「あ、ボク、今道に迷っちゃって………だから、道教えてもらえませんか?」
「どこに行きたいんですか?」
 茜のその問い返しを聞いた瞬間に、女の子は更に嬉しそうな顔になった。
 ―――おそらく、何人にもこうやって道を訊いたのに、誰も教えてくれなかったんだろう。
「あ、ちょっと待ってくださいねっ えっと………」
 ちょっと考え込むようにした後、辺りを見回す。
 そして、動きが凍る。
 ―――茜の目には、女の子の頬を流れる一筋の汗が見えていた。
 同時に嫌な予感もした。
 しかも、それは的中していた。
「うぐぅ………ここって、どこ………」


「どこに行くのかも分からないんですか? 地名とかも?」
「………うん」
 公園のベンチ。
 隣に座った女の子に茜が訊くと、しょげてしまった。
 ―――よくよく考えてみると不思議なことばかりだ、とその女の子の姿を見ながら茜は思う。
 厚手の手袋に、ダッフルコート。
 この辺りではいくら寒い日でもここまで防寒をする人はいないだろう。
 ましてや本当に寒い時期はもう過ぎている。
 その姿は、雪の中でこそしっくりきそうな気が茜にはした。
「………この辺りの風景には見覚えはありませんか?」
 茜の問い。
 それに女の子は顔を上げて、周りの景色に一通り目を通して―――
「ううん………」
 首を横に振り、また俯いてしまった。
「………それじゃあ、歩いてた商店街の景色とかは?」
 再度、茜の問いかけ。
 ―――無表情なその顔から発せられる声は傍からすれば冷たく感じたかもしれない。
 でも、それにこもっている優しさは女の子には届いていた。
「………心配してくれて、ありがとう」
 笑顔での答え。
 目の端には涙が見えた。
 ―――暗に、商店街の景色も見覚えがなかったことをそれが示す。
「警察………行きますか?」
 それしかないように茜には思えた。
 だが、少女はそれに随分と大きな反応を示した。
「う、ううんっ いいよっ」
 大きく首を横に振ってその提案を必死に否定する。
 ―――怯えから来た狼狽に染まったその表情。
 女の子の精神年齢がその容姿以下だということに茜は気がついた。
 警察、と聞いただけでこれだけ怯える子も今時いないような気もするしたが。
「あ、ありがとうっ ボク、もう少しこの辺りをうろうろしてみるからっ」
 言って立ち上がり、逃げるように走り去ってしまう女の子。
「あ……」
 それを引き止めようと茜が声を上げようとした時。

 べちっ

「うぐぅ〜っ」
 女の子は見事に転んでいた。
「…………………」
 駆け寄ろうかとも思ったが、女の子はすぐに立ち上がって、今度こそ茜から見えないところまで走り去ってしまったので、出来なかった。
(結局、なんだったんだろう………)
 ふと、その女の子の後ろ姿を見送ってから思う。
 面白い女の子だった。
 表情はころころ変わったし、この季節には不釣合いな服装だったし………
「………………」
 そして、女の子がいなくなってなんとなく寂しさを感じた瞬間茜の心の中に明瞭に浮かんでしまう、一人の顔。

 ………浩平………

(だめ………忘れなくちゃ………)
 湧き上がってくる感情を必死で抑え込もうとする。
 苦しくて、胸元の服を握り締める。
 また、涙が溢れてきそうで嫌だったから、茜は家に帰るために歩き出した。


「こらあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!!!!!」
 ちょうど商店街の入り口に差し掛かったとき。
 茜の耳にそんな怒号が響いた。
「うぐぅ〜〜〜っ!」
 同じ方向からそんな悲鳴じみた声も聞こえてくる。
 茜の公園の方からの道と、商店街の方からの道が交差するところだ。
 声は商店街方面から響いてくる。
 時間帯は夕刻時。買い物客で少なからず賑わっていた。
「わいの店からモノだけ持ってこうなんてええ度胸やないかっ!
 世の中のルールちゅうもんをきっちり分からせたるからそこに止まれやあぁっっっ!!!」
 ―――その中から一際大きな声で独特のイントネーションの怒声が響いてくるのだから、気にするなという方が無理なのだろう。
 流石の茜も気になり足を止めた。
「うぐぅ〜〜〜〜っっ!!」
 二度目の悲鳴。
 一人の女の子の顔が茜の脳裏に浮かんだ。
 無論、気のせいではない。
 茜がそのことに気がついてからすぐに、人ごみのからさっきの女の子が飛び出してきた。
 紙袋を抱え、必死な形相でこちらへ走ってくるのが茜には見える。
 向こうはこちらには気がついていないらしい。
「待てやっっっっっ!!!!!」
 続いて、一人の男が人ごみから飛び出した。 
 若い男だった。
 ―――何故かエプロンを付けている。
 その男の身のこなしは軽い。
 多くの人がいるところを走り抜けていたにも関わらず、男はほとんどトップスピードのまま人ごみから飛び出してきていた。
 追われているのが女の子だとしたら捕まるのは時間の問題だろう。
「うぐぅ〜〜〜っっっ!!!」
 女の子の方もその気配が迫っているのに気がついているらしく、もう一度悲鳴を上げながら結局茜に気がつくことなく前を走りすぎる。
 続いて、追う若い男。
「待ってください」
 茜はその男を引きとめようと、その上着の端を掴んだ。
 フッ………と、走っていた男の脚が空回りする。
 ―――こういう場合は、掴み所が悪かった、とか言うんだろうか?
 茜に服の端を掴まれ、その男の体に乗っていたかなりのスピードはそのまま男の体を回転させる方向へと働いて―――

 どごあぁっ!

 男は見事に転んだ。
 ………しばらく、動かない男。
「大丈夫ですか?」
「………大丈夫やあらへん」
 とりあえず、茜の言葉に反応は示した。
 そしてなんとか、といった様子で体を起こす。
「いたたた………あんさん、いきなり何すんねん」
 後頭部を抑えながら言う。
 どうやらそこを打ったらしい。
 でも、大丈夫そうなので茜は用件を切り出した。
「ちょっと話を訊きたかったんです」
「話? ………わい、あんさんと面識あるか?」
「いえ」
「それじゃあ、なんでや?」
「あの子ついて、です」
 茜が後ろを指差しながら言う。
 ―――その先には、かなり遠くなった女の子の後ろ姿があった。
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!!」
 男は悲鳴を上げるが、もう追いつける距離じゃないだろう。
「………ああ………また一人の悪が世の中にのさばるんやぁ………」
 なにやら謎の呟きをしているが、その辺のところ茜は気にしなかった。
「なんで追ってたんですか?」
「ん?」
「あの女の子です」
「ああ………そのことかいな………
追って当然やろ。あいつ、食い逃げしたんやからな」

 …………………

一瞬―――茜は言葉が理解できなかった。
「………食い逃げ?」
「そや。食い逃げや」
「………あなたは?」
「わいか? わいはこの先のたい焼き屋の店主や。………ま、店主つうても出店やけどな」
 ―――少しずつ、少しずつ―――
 起こっている事を飲み込んでいく茜。
「………あの子が食い逃げして、追ってたんですか?」
「そや」
「………そうですか………」
 頷きながら、茜はちょっとした頭痛を感じてた。
 関西弁のたい焼き屋はそんな茜に追い討ちをかけた。
「つうわけやから、よろしゅうな」
「………はい?」
「代金や。あんさん、あいつの知り合いなんやろ?」
「………………」
 男は小遣いをねだる子供のように右手を茜の前に指し出し、ちょいちょい、と手招きのような動きをしている。
 ―――茜は素直に従うしかなかった。


 商店街の中を、追っ手を撒くために必死で走りぬけた女の子。
 同じところを何度も回ったような気もしたが、その辺はご愛嬌。
 そして体力も底をつきかけ、息を切らせながら彼女が辿り着いた―――というより戻ってきたのはさっきまで茜と話をしていたあの公園だった。
「はぁ、はぁ………」
 大きく切れた息を必死に整えながら辺りを見回し、状況を確認する。
 ―――気配なし。
 女の子の中の“何か”がそう判断し、女の子はベンチに腰を据える。
 そして、“モノ”を確認するために大事に抱えていた袋の口を開けた。
「うぐ〜っ」
 歓喜の雄たけびだろうか?
 まだ出来たてであることを示す湯気とともに袋から出てきた匂いを思いっきり吸い込むと、その表情は一瞬にして緩んだ。
 一つ、袋から取り出す。
 厚い手袋を通してもその温かさが伝わるほど、そのたい焼きはまだ熱を持っていた。
「あつあつだね〜」
 心底嬉しそうに言う。
「そうですか?」
「うんっ! 美味しそうだよ〜」
 そうして、後ろから掛かった声に、素直に頷く。
 ―――すぐに女の子の動きは凍った。

 ……………………………

 ―――しばらくの沈黙の後女の子は後ろを振り返ることなく立ち上がり―――
「うぐぅ〜〜〜っっっっっ!!!!」
 悲鳴と共にダッシュを掛けようとする。
 だが―――
 すでにその時ダッフルコートのフードの部分が掴まれて少女は走り出せない状況に追い込まれていた。
 頬を冷や汗が伝う。
 ―――警察送り―――
 女の子の中にそんな単語がちらついた。

 警察―――
 そこは多くの人々の一生が狂う場所―――
 何もしてなくても(あなたはしてます)尋問され、殴られ、蹴られ―――
 無罪が分かっても社会的地位(いまいち意味はわからない)は失われる―――
 そして人間としての居場所がなくなって―――

「うぐぅ〜っっっ!!」
 どこから手に入れたのか、そんな中途半端な恐怖観念が女の子の中で蠢き、ついには悲鳴を上げどうにか逃げようともがき出す。
 目には涙が浮かんでいた。
 ただ、必死に逃げようとしていた。
 ―――しかし、手は離れない。
 そして―――
「大丈夫、たい焼き屋さんじゃありません。わたしです」
 その声は女の子の耳にまるで啓示のように優しく響いた。
「………え?」
 もがくのを止め、振り返る。
 ―――優しい雰囲気を纏い、それに不釣合いにも思える無表情の少女―――茜がそこには立っていた。


「………落ち着きましたか?」
「………うん」
 頷いてからふぅ、と息を吐く。
「うぐぅ〜……… 怖かったぁ………」
 また少しだけ瞳に涙を滲ませる。
「ごめんなさい。おどかすつもりはなかったんですけど」
 つもりも何も女の子が勝手に怖がっていたのだが、その辺のところは茜の気にするところではない。
 結局は茜が少女を怖がらせた、それに変わりはないのだから。
「でも………本当によかったよ。たい焼き屋さんじゃなくて」
 笑顔で言い、嬉しそうに紙袋を開け始める女の子。
 ―――茜は自分がお金を払ったことは言わないことにした。
 結構な数を女の子が持ってるわりには、そんなに掛からなかったし………
「うぐぅ〜、まだ温かいよ〜」
 歓喜の声を上げながらかぶりつく。
「うぐぅ〜」
 もう一つ歓喜の声。
 はぐはぐ。
「うぐぅ〜、しっぽまでしっかり餡子が入ってる〜」
 数秒で女の子の手の中のモノは消えた。
 その食いっぷりは見ていて飽きなかったので、茜はその少女の様子をずっと見ていた。
 ―――だがそれは、女の子の方に別の意思として捕らえられたらしい。
「あ………食べます?」
 女の子は言いながらすでにたいやきを一つ茜に突き出している。
 ―――ふと。
 茜の中に一つの疑問―――いや、それは茜が確認したかったことなのかもしれない―――が浮かんだ。
「これ、どこのたい焼き屋さんですか?」
「え? この近くのだよ」
「この………近くの………」
 それが“堰”を切るきっかけとなった。


『なあ茜、少し寄り道していこうか』
『寄り道?』
『この近くにうまくて安いたい焼き屋があるんだ』
『………たい焼き』
『おお。安くてうまいし、しっぽまでの餡はお約束だ。こんな寒い日に頬張るた
いやきはさぞうまかろう………とオレは思うんだけど、どうする?』
『行きます』

 近かったはずなのに―――

『………あれ?』

 彷徨って、学校に戻ってきて―――

『たい焼き屋さんには見えません』
『オレも見えない。いや、偶然とはいえ学校への近道を見つけてしまうとはついてるな』
『…………………』
『………悪かった』
『………はい』
『でどうする、茜。今日はもう遅いしたい焼きはまた今度にするか?』
『嫌です』
『でもなぁ、今の道を引き返すのか?』
『近道以外にはないんですか?』
『あるけど、普段通らないから自信がない』
『行きましょう』

 ―――そして―――
 結局辿り着いたのはここで―――

『うおぉっ! こんなはずではっ!』
『………たい焼き』
『たいやき以前に家に帰れるかどうか不安になってきた』
『………たい焼き』
『また今度な。そのうちきっと埋め合わせするから』
『………はい』

 ―――でも。

『ここはいい場所です』
『そうだな。近くにこんないい場所があるなんてオレも知らなかった。ほら、そろそろ帰らないと真っ暗になるぞ』
『はい』


 ―――それは鮮明な記憶だった。
 必死で抑え込んでも、その影響すらなくただただ溢れ出した。
「………え?」
 そんな女の子の小さな声がなかったら、茜は気がついていなかったのかもしれない。
「泣いて………るの?」
「あ………」
 ただ、その無表情をぼろぼろに崩して自分が涙を零していることに。
 ―――それが、溢れ出したら止まらないモノであることを茜は分知っていた。
 ただ………ただしゃくりあげるように涙を零すことしか出来ない。
 ―――だけど。
 そんな茜を見つめて、女の子は妙に冷静だった。
「………辛いことがあったんだね………」
 小さく、それでもしっかりと茜の届く声で言った。
 ―――女の子は、何故それを知っていたんだろうか?
「辛い………大切な人との別れがあったんだね」
 優しい声がただ頭に響いて―――
 茜はその少女の体に顔を埋めた。



 茜は全部を女の子に話していた。
 食べられなかったたい焼き。
 クリスマス前に高くて変えなかったぬいぐるみ。
 綿菓子を作ってあげる約束。
 誕生日ケーキ。プレゼント。
 そして、その人がいなくなってしまうこと―――
 ―――それでどうなるか、なんて分からない。分かるはずもない。
 ただ、溢れ出す涙と、悲しい、そして優しい記憶と同じように、その言葉を止めることは茜には出来なかった。
 女の子はただそれを聞いていた。
 きっと、ほとんど理解してはいなかっただろう。
 その当事者の茜や浩平ですら理解出来るモノではないのだから。
 ―――だけど、その本質だけを女の子は聞き取っていた。
「別れ………たくないんだよね。その人と、本当は」
「………はい」
「そう………だよね……… 別れたくなんかないよね……… ボクもそうだよ、
別れたくない」
「ボク“も”?」
「うん」
 女の子は頷いてたいやきの紙袋を抱えた。
「一緒にね、たい焼き食べた人がいたの。7年前と、そしてこの前に」
「………大切な人………ですか?」
「………うん。茜さんの話聞いて思い出した………」
「………………」
 それが誰なのかは分からない。
 これから女の子の話すことの真偽すらも、茜には分からない。
 ―――でも、茜はその話に耳を傾けた。
「その人はね、すっごく意地悪で、性格悪くて、いつもボクをいじめて………そんなの忘れちゃうくらい優しくて………」
 ―――浩平と同じだ。
 迷惑なくらいしつこくて、いつも子供みたいな行動して、わたしをからかって………そして、優しくて。
「………ボクね、その人に願いごとを叶えてあげるって言われたんだ………」
「願い……ごと……?」
「うん。三つのうち、二つはもう叶えちゃったけど、まだ一つ残ってるんだよ」
 嬉しそうな笑顔を覗かせて言った。
 おのろけにも聞こえるだろう。
 でも、そうとは違った清々しさみたいなモノがその言葉にはあった。
「………茜さん」
 女の子はその瞳を茜に向けた。
「なんですか?」
 茜が受け答える姿勢を見せると、その瞳は笑みの形になり―――言う。
「待っててあげてよ。その人のこと」

 ………………………

 沈黙が落ちた。
「………また辛い目に会え、っていうんですか………」
 その声は悲痛な声だった。
 どうしようもない待望の日々を送り、それの柵からやっと開放された少女は、その柵に戻ることを頑なに拒否しようとしていた。
 浩平と出会って、その日々が辛かったということにに気がついてしまっていたから。
 その日々がなければ、辛さなんてないんだと分かってしまったから。
 ―――でも、女の子はどこまでも笑顔だった。
「大丈夫だよ。………きっと、つらいのはあなただけじゃないから」
「………え?」
「取り残されるのも辛いかもしれないけど………取り残す方も辛いんだよ、本当に」
 空へと視線を向ける。
 その瞳の端の微かな涙が、空の青を滲ませていた。
 ―――ただ、遠くを見ている女の子。
 それでも―――笑顔だった。
「お互いに辛いなら………相手が辛くないようにしよう、って二人とも頑張れるんだよ。きっと」

 ………浩平も………辛いの?

「きっと………帰ってきてくれるよ」
 女の子は再びその笑みを茜に向けていた。
 ―――そして、立ち上がる。
「ボク………行くね」
 そう小さく言って。
 ―――女の子の体が、まだ寒さの残る空気に微かに滲んだ。
「このたい焼き、おいしいかったよ。いつか食べてねっ!」
 薄く、薄く―――
 女の子のダッフルコートの、手袋の、体の色が空気に広がるようにどこまでも溶けていく。
「あ………!」
 茜は似たような場面を知っていた。
 女の子は―――行ってしまう。
 司や、浩平と同じように―――
「駄目っ!」
 茜には珍しく悲鳴のような声を上げる。
 女の子はあはっ、と笑った。
「大丈夫だよ………ボクは帰るだけだから……… ボクのいるべき所に」

『………祐一くんの、ところに』

 最後の言葉は耳ではなくて頭の中に直接響いた。
 ―――そして、女の子の姿は消えた。


 ―――しばらくし、家路につく。
 少女は―――祐一、という人を思って消えたんだろうと茜は思っていた。
 最後にその人のことを口にしていたし、そうとしか考えられなかった。
 女の子も、祐一という亡き人を思って行ったんだろう。
 でも
 でも―――
(それなら、どうしてあんな笑みを浮かべて消えていったの?)
 司はあんな笑みを浮かべていなかった。
 ただ、人から見れば笑っているんだな、という風にしか思えない笑みを浮かべて行った。
 それには優しさや温かさなんて微塵もなかった。
 なのに―――
 女の子は心からの笑みを茜に向けていた。
 感情の満ち溢れた笑みを浮かべていた。
(どうして?)
 茜には分からなかった。

 ―――そして。
 ―――何も変わることなく、数日が過ぎ―――

 別れの時は、訪れていた。
「………いや………どうして、どうしてっ………!! どうして私を置いていくんですか………どうして私を一人ぼっちにするんですか………」
 悲痛な声がピンクの傘と、梱包の解かれた目覚し時計が転がる空き地に響いていた。
「………どうしてっ………」
 それは、結局忘れることが出来なかった自分への言葉だったのだろうか?
 それとも、浩平が消えてしまったことへの悲観だったのだろうか?
 それは、茜にも分からない。
 ―――そんな茜の中に反芻する言葉がただあった。
 そして、茜はそれを信じようとしていた。
 ―――それが苦しみへの回帰だと知りながら。

『きっと、帰ってきてくれるよ』




 そうして、月日は流れた。




 茜が卒業を間近に控えた初春。
 茜は詩子とともに商店街を散策していた。
 その日は茜の誕生日。
「誕生日プレゼント買ってあげるよ」
 詩子にそう言われ、こうして歩いているのだ。
 こんな風に―――詩子は毎年誕生日までにプレゼントを買ってくるとかいうことはしない。
「買いたい物をその場で買ってもらったほうが嬉しいでしょ」
 いつもそう言って。
「で、何にする? 茜?」
「なんでもいいです」
「………それが一番困る答えだって分かってる? 茜?」
 そんな風に雑談しながら歩いていく。
 ―――そんな時だった。
 その声が響いたのは。
「うぐぅ〜 おひしひ………」
 ―――そんな、聞き覚えがある声が耳に入ったのは。
「口に物を入れたまま喋るんじゃない」
「こういうのは食べたその場でその感動を表現したほうがいいんだよっ」
「もっともらしく言うなっ!」
「うぐぅ〜………だってこのたいやきおいしいんだもん………」
 ―――茜はその声の方向に体を向ける。
 でも、“その女の子”の姿を見ることは出来なかった。
「ん? どうしたの? 茜」

 気の………せい………?

「なんでもないです」
 茜は詩子に答える。
 ―――すぐ側を、大きな帽子を被ったショートヘアの女の子が通り過ぎていった。
 背中に翼の生えたリュックはなかった。
「久しぶりの帰省に………なんでお前がついてくるんだ?」
「うぐぅ〜………普通そういうこと訊く?」
 女の子と、相手の少年の他愛ないやりとりは商店街の方へ向けて続いていく。
「このたい焼き、なんか食べたことあるような気がする………」
「んなわけないだろ。ここに来るのも初めてなんだろ?」
「それも………違う気がする」
「それじゃあ、幽霊だったときに彷徨ったとか?」
「うぐぅ〜………幽霊じゃないもん………」
「じゃあなんだ?」
「………うぐぅ………」

 女の子は、新たなる日々を―――
 そして茜は―――

「よしっ! プレゼントも買ったし、あの公園で少し休んでいこっか」
「はい」

 再会へ向けてその歩を進めていく。
 





 女の子と茜の再会、そして二組の男女の出会いは、このもうちょっと後のことだ。




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