第五章 街路樹

 兄妹の唯一の肉親だった月島院長は、祐介の大学のOBだということだった。祐介に、卒業後も大学に残る意志があることを確認した後、院長は、当院には精神科も入っていますから、ご縁があれば長瀬先生として来ていただくことになるかもしれませんね、と言った。

「私も大学病院には十年ほどいました」

 病院の院長ともあろう者が、なぜ初対面の自分にこれほど自分をさらけ出すのだろう。つい先ほど、二人に関わりの深い兄妹を看取る場に顔を合わせただけの関係のはずなのに。これも良心の呵責、あるいは盟友にも似た心理のせいか。

「あそこには関連病院から、治療困難な患者さんばかりが送り込まれてきますからね。不思議なもので、あそこでメスを握っていると、人が死ぬってことにも何も感じなくなってくるんです。これでも、学生の頃には人並みの使命感があったんですけどね」

 人が動揺するのは、それがその人にとって稀な経験だからだ。繰り返し出会うことにことにいちいち動揺するなど、逆に人としての正常な精神状態から逸脱している。無論、死というものに特別の感慨を抱く多くの人の前では、それなりの演技をする必要がある。それは社会生活を営む動物であれば当然の行動だろう。そして医師たちは、演技させられることに逆恨みを抱くべきではない。戦争にでもならない限り、一般の人間に、死が一般的になることに想像力を働かせることのできる機会など与えられてはいまい。彼らに罪はないのだ。

「親友が今も大学の精神科にいます」

 祐介は軽く計算した。瑠璃子と同級だった自分の年齢から考えて、その親の兄である院長の同期ならば、助手以下ということはあるまい。祐介の大学の精神科が、治療実績において国内でも存在感を示しているためか、なかなか上にのぼることができないことを計算に入れても。

「なかなか優秀な奴でしてね。要領は良いし、野心もある。教授の座を狙える男だと思いますよ」

 院長は言った。自らが果たせなかった夢を託すように、彼の親友、蓮実武のことを語った。いかにも切れ者といった感じの、それでいて冷たさを感じさせないその顔が祐介の脳裏に浮かぶ。

 大病院であればあるほど、大学病院との関係を途切れさせることは自殺行為に等しい。人材の供給路、あるいは治療困難な症例の移管先を確保するためには、多くの場合、大学の機嫌を損ねぬようにしつつ、友好的な、あるいは更に端的な表現を用いるならば多分に従属的な関係を維持していかなくてはならないのだから。医学部臨床系の教授が大企業の経営者になぞらえられるのは、決して誇張などではない。

「私がまだ大学にいた頃、蓮実の奴が言ったことがあります。精神科に暗い雰囲気が付きまとうのは、患者たちがなかなか死なないからだ、って。滅多に弱音を吐いたりはしない奴でしたが、疲れていたんでしょう。そのときは、医者が言って良い言葉じゃないとたしなめましたが」

 昔を懐かしむように院長が言った。

「でも、酒のせいもあってか、あいつは更に絡んできました。精神科にいる限り、治せる見込みのない患者が自分の身近に何十人も何百人も増えていくんだ、その気持ちが外科医のお前なんかに分かるか、って。外科の場合は、治るか、再手術か、亡くなるかの三通りしかありませんからね」

 気がつかないうちに、日は暮れつつあるようだった。祐介が外に視線を向けたことで、院長もそのことに気がついたようだった。

「今回のことで、私が出した結論が正しかったとは思いません。しかし、医療は人のためにあります。それも、いま生きる人のために」

 院長は最後に言った。

「五年という月日は、私には、あまりにも長すぎました」

 

「楓さんは、何のために医学部に入ったのかな」

「生きる意味がここにあると思ったから」

「生きる意味?」

「それまでの人生を全部否定されたら、誰だって死にたくなるでしょ」

「そうかもしれないね」

「人の生き死にを扱う仕事につけば、何かがつかめるんじゃないかと思った。はじめはね。長瀬くんは?」

「どうしても助けたい人がいた。自分ならできる、自分にしかできないなんて思い上がってた。それが全てかな」

「聞くまでもなかったね」

「発狂できたらかえって楽だっただろう、なんて思いながら」

「そうだろうね。私も何度そう思ったかわからない」

「だとしたら、このオフィーリアって女性、本当は幸せだったのかもしれないね」

「発狂さえしなければ、最後には幸せになれたかもしれないよ。運命の糸は、一本とは限らないんだから」

「リアリストだね」

「お互い様じゃない」

「あ、ところで」

「なに?」

「瑠璃子さんが死んだよ」

「そんなこと、長瀬くんの様子を見れば分かるよ。もう何ヶ月も経ってるんじゃない?」

 でも、と楓は続けた。

「その割には、あんまり変わらなかったね。一応、どうやって自殺を思い留まらせようか、なんて考えてたんだけど」

 

「いつのまにか、暖かくなったね」

 祐介とともに図書館を出た楓は、吹かれる風の心地よさのためか、思いきり背伸びをしながら言った。そうだね、と祐介は返す。言い終わってから、つい欠伸が出た。いつか、冬は去っていた。

 子供の頃は、冬が嫌いだった。あらゆるものが自分を拒絶しているような気がしたからだ。しかし高校に入る頃には、一番好きな季節になっていた。親しい人たちとの間にさえ存在する、越えられない壁を認識できるようになってから、それを際立たせてくれる冬の雰囲気は、曖昧なものを嫌う思春期特有の潔癖さに上手く合致したのである。それに冬の冷気は、時折差す太陽の暖かさを際立たせてくれる。暖かさだけが強調される春など、あの頃の祐介の好みではなかった。

 そして、なによりも、この大学病院の冷たさは冬にこそ似つかわしい。

 人一人を自分の手で救おうなどと考えた祐介の傲慢は、スタートの位置にすら辿りつかないうちに打ち砕かれた。しかし残された祐介は、今後数年あるいは数十年、あの大学病院の一部となって生きてゆくことになる。そんな今の祐介は、人格そのものをメスで切り裂かれた末、病院の奥に今も沈殿する何万、何十万人かのロボトミー被処置者たちの生き残りに比べて、一体何が違うというのか。

 しかし、時代のエゴに従って処置された末、今や人を救うという本来の意義にすら取り残されて、無為に生きてゆくことを強いられた彼らにも、まだ救いがある。その処置を施されたほんの三、四十年前には、社会的価値こそが、その人格に対する評価の全てだったのだから。他に対応策のない時代にあって、ロボトミー被処置者の何割かは、その処置の多大な恩恵によって社会の周縁への復帰を果たした。古い精神科病院のベッドを占拠する不運な同類と決定的な差を甘受し、彼らは社会不適合者として無条件に排除される「義務」を逃れ得たのだ。ロボトミー被処置者が一定の確率で、一種の、社会の成功者の側へ属することができたことを勘案するならば、その確率の恩恵を受けられなかった人々の犠牲にも、消極的な意義を見出すことができるのではないか。

「あの人、退院するみたいだね」

 楓が言った。二人は図書館から外来病棟の横を過ぎ、正門近くまで歩いていた。病棟の正面玄関前には、若い夫婦と、その挨拶を受ける白衣の男がいた。

「どうしたの」

 立ち止まってしまった祐介に、楓が声を掛ける。祐介は、返事もせずにその様子を眺めていた。

 若い夫人は、会釈の拍子に顔に垂れた長い黒髪をかき上げて、陰のない笑みを浮かべていた。夫の方は、長い入院生活を送った妻をいたわるように、さり気なくその背に手を回している。大事なものを守るように、優しく、そして力強く。二人はどこにでもいるような、強い絆で結ばれた夫婦だった。

 そして、二人の挨拶を受ける杉山医師は背に両手を組んで、にこやかにその挨拶を受けていた。夫婦が立ち去るのを右手を挙げて送った彼は、離れたところにいる祐介の視線にようやく気がついたようだった。杉山は少し得意げに微笑む。祐介は会釈を返す。二人は示し合わせたように患者夫婦の背中に視線を向けた。楓は、不思議そうに祐介の横顔を眺めていた。

 祐介が再び杉山に戻したとき、彼は意味ありげな笑みを浮かべていた。その視線の先には楓がいた。彼女は祐介を置いて歩き出していた。祐介の顔には、焦りにも似た表情が浮かんでいだらしい。杉山は苦笑しながら、早く行ってやれよとでも言うように祐介を追い払う仕草をした。祐介は挨拶もそこそこに後を追う。

「蝶々が哲学するとしたら、この世界ってどういう解釈になるのかなあ」

 追いついた祐介に、楓は暢気そのものの口調で言った。手持ち無沙汰に、気の早い三月の紋白蝶を眺めているうち、やがてその後をついてゆくように歩き出してしまったらしい。

「相変わらず、楓さんの行動は読めないな」

 祐介は苦笑交じりに言う。しかし、楓は不思議そうに首を傾げた。

「そう? 私は長瀬くんのこと、結構分かってるつもりだけど」

 恐らく楓は、何気なくその言葉を口にしたのだろう。しかし祐介にとっては軽い衝撃だった。祐介は楓の顔をまじまじと見つめる。

「顔に何かついてる?」

 楓は居心地が悪そうに左手の甲で頬を拭った。その仕草に、祐介は堪らず笑い出してしまった。困惑する楓に、祐介は言った。

「やっぱり楓さんは猫そのものだね」

「また猫?」

 楓は不服そうに言いながら歩き始めた。

「さっきの患者さんって、長瀬くんの知り合い?」

「いや、知り合いは先生のほうだよ。精神科の先生」

「そう?」楓は首をかしげた。「長瀬くん、さっきすごく嬉しそうだったよ。だからあの患者さん、多分奥さんのほうだと思うけど、きっと知り合いなんだろうと思った」

 本当に彼女は鋭い。病室でたった一度関わっただけのあの女性、祐介が自分自身と同一視していたあの女性は、きっと今日の今この時に至るまで、祐介が置かれた立場と同じだったのだろう。支えさえあれば、人はどんな逆境からも立ち直ることができる。既に訣別した盟友、太田香奈子から学んだその言葉を、祐介は今更のように反芻した。祐介は、隣の楓に視線を移す。楓は、珍しく紅を引いた唇から、にじむように白い歯を現して笑った。

 黒い髪を纏い付かせた彼女の横顔から、街路樹の枝の向こうに広がる空を見上げる。空は子供の頃の印象のままに、透き通るような青が広がっていた。雲の隙間から顔を出した太陽が、冷たい空気に春らしさを届けてくる。その暖かさが、今の祐介にはこの上なく心地よかった。

 彼女のそばにいる限り、自嘲癖を拭い去ることは出来そうにないけれども、そして、この世のすべてを信じられた子供の頃の純粋さは消え、心の底の澱の存在にもいつしか慣れてしまったけれども、祐介はあの頃のままの純粋さで、また明日も生きようと思った。

 

 

 

 街路樹・完 (2002年3月)



 戻る