第四章 早蕨

 医学図書館の休憩室には、十数個のソファーの他に、新聞を立ち見できる大きな台と、雑誌を並べた棚がある。祐介はカップ飲料の自販機でいつもの通りコーヒーを買い、蓮実講師に薦められた文芸誌を開いているところだった。

「長瀬くんは、絵とか描くの」

 柏木楓は偶然会って、挨拶さえ交わさないうちから突然そんなことを尋ねてくる。楓は祐介の戸惑いも意に介さない様子で、台を挟んだ向こう側に大きめのソファを体格に似合わず軽々と引き寄せると、勢い良く腰を下ろした。

「いや、絵心は全くないけど、どうして」

「もし描けるなら、私の絵を描いて欲しいなって思って」

「楓さんの?」

「うん」楓は言った。「私が手首を切って、赤い鮮やかな血にまみれて死んでるところ」

 冗談か何かのつもりだろうか。反応に迷った祐介は、視線を彷徨わせるうち、手元の雑誌に落とした。それでようやく気付く。祐介が開いたページには、水に浮かぶ西洋の貴婦人の絵画がカラーで印刷されていた。ミレー作のオフィーリアとある。ハムレットから題材をとった絵だ。恋人に捨てられて発狂した美しい少女が、折れた木の枝から川に落ちたのに、それさえも気付かぬごとく、賛美歌を口ずさみながら川底へ引き込まれていった、そんなシーンだった。

「だったら、顔はできるだけ安らかに、だね」

「分かる?」楓は嬉しそうに言った。「原色の赤いキャンバスの隅に、うつ伏せに倒れた私が幸せそうに眠ってるの」

「楓さんは肌が白いし、髪も長くて黒いから、コントラストが良いだろうね」

「髪は短いほうが良いよ。昔は私もこんなに長くなかったから」

「それは失礼」

 平静を装いながら、祐介は内心かなり驚いていた。楓が単なる世間話で過去を口にしたからだ。あの夕日の屋上以来、あるいは彼女を伴って瑠璃子の見舞いに行ってからのち、彼女の中で何かが変わったようだった。彼女の手元に視線を落とす。相変わらず、女性には不似合いなほど大きな腕時計がそこにはあった。

 

「五年、だっけ」

 長い沈黙の後、楓は言った。その視線はベッドの上の女性に固定されたままだ。

「きれいな人だね」

「うん。僕もそう思う」

「ずっと、このままだったの」

「ごめん」

 祐介はこれまで瑠璃子を寝たきりの恋人だと説明していた。

「まるで、出来の良すぎる人形みたい」

「瑠璃子さんは、ちゃんと生きてるよ」祐介は、無表情のままで言った。「生きてるから、こんなチューブが必要になるんだ」

IVH、だっけ」

 中心静脈栄養法。楓は、瑠璃子の首の根元から挿入された太く長い針を見つめながら言った。生きてゆくための栄養は、これだけで賄うことができる。

「せっかくの名画が台無しだね」

「台無し、とまではいかないよ」祐介は言った。「少なくとも僕には、モナリザなんかよりもよっぽど上等の画に見える」

 祐介の言葉に、楓はゆっくりと顔を上げる。微かに驚きに似た表情がその顔に現れていた。

「そんなにこの人が憎いの」

 祐介はその言葉を苦笑で打ち消しながら、しかし彼女に来てくれてよかったと心から思った。袋小路に迷い込んだ祐介に道を教えてくれるとしたら、彼女以外にはありえないと思ったからだ。なるほど、確かに僕は瑠璃子さんを憎んでいる。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。祐介の心の奥深くにその面影を刻み込みながら、祐介一人を残して「向こう側」へと去ることによって、祐介のたった一度の過ちを五年間も咎め続けてきたのだから。

 彼女が帰ってくるかもしれないという希望は、その胸が微かに上下することによってのみ、つなぎとめられていた。パンドラの箱が全ての悪魔を解き放った後、底に潜んでいたのが希望だった、というギリシャ神話は、希望が最も残酷な悪魔であることをうまく表現している。希望は、人間から惨めさから逃れる最後の意志すら奪い去ってしまうものだから。

「どういう過去があったのかは聞かないけど」

 楓は言いながら傍らのベッドの男性に視線を落とす。

「瑠璃子さんのお兄さんだよ」

 楓が尋ねる前に祐介が言う。

「仲の良い兄妹だったみたいだね」

「僕が割り込む隙もないほどにね」

 楓は、しばらく瑠璃子につながれたチューブを眺めていたが、やがて悪戯を思いついた子供のように言った。

「忘却に勝る復讐はない。今の長瀬くんほど、この言葉を贈るのにふさわしい人はいないんじゃない」

 楓の魅力を一つ挙げるとすれば、この無邪気な残酷さだろう。彼女は祐介が予期しないことばかりを口にする。どんな薬も、量を増やせば必ず毒になるというが、彼女の言葉はその類だ。それも熟練の内科医ですらおいそれと手が出ないような、扱いが難しい薬だろう。

「それができれば、どれほど楽かわからない」

「だろうね」

 楓は満足げに頷いた。しかしその目は、獲物を見据える獣のように鋭い。猫は、やはり小さくとも立派な肉食獣だったわけだ。

「いつまでここに通うつもり?」

「分からない」祐介は言った。

「つまり、このひとが眠り続ける限り、長瀬くんはここに通い続けるわけだね。五年でも、十年でも」

 ここまで思ったことを口にできるなら、彼女はこれからも幸せな人生を送ることができるだろう。少なくとも彼女には、十人並みを凌ぐ美貌と、道を誤らないだけの知性とを兼ね備えている。衝動性の強さが気になるものの、祐介が傍に付いている限りは致命的な失敗に繋がることもないだろう。

 黙する祐介に、楓は用事は終わったというようにドアを開いて退出を促す。祐介にも異存はなかった。しかし彼女の後につきながら、その思考は続いていた。祐介が傍に付いている限りは? それなら、その後は。

 前を歩く楓の長い髪が、その歩調に合わせて左右に揺れていた。上機嫌に尾を高く差し上げて、塀の上を歩く血統書付きの黒猫のように。

 祐介は、小走りに楓の横についた。楓は人懐っこい笑顔を見せる。恐らくは、彼女自身が意識しないからこそ、それは有効なのだろう。祐介には、悪意のない相手に負の情熱を抱けるほどのバイタリティなど持ち合わせていなかった。

「あの人の何が長瀬くんをそこまで惹きつけるの」

「美人だから、とかね」祐介は、自嘲気味の苦い笑みと共に言った。「でも、美人かどうかなんて、相手と自分との距離が近づけば、どうでもよくなるからね。相手を装飾品か何かと考えているのでもない限りは」

 楓は、つまらない冗談を聞いたように愛想笑いをした。それでもこんな相手を思いやるような素振りは、彼女がリラックスしているときにしか見ることができない。

「ハムレットのストーリーを知ってる?」

 祐介が言う。楓は空返事をしながら舞い散る枯葉を眼で追っていた。

「主人公のハムレットは、恋人の心を思いやることができずに、その純粋な心を傷つけた挙句、彼女の大事な肉親を手に掛けてしまうんだ」

「ああ、ハムレット」楓は言った。そして横目で祐介を見る。「そして恋人のオフィーリアは、周囲が求める役割を満足にこなすこともできなくて、発狂して場を引っ掻き回した挙句に死んじゃったんだっけ」

 どうやら祐介の言葉は失言らしかった。たった今までの楓の上機嫌は一瞬に姿を消してしまう。無言のまま歩いている間も、楓は左手の古傷の刻まれたあたりを腕時計の上からさすっていた。

 しばらくの静寂の後、祐介が一言付け加える。

「小説は虚構だからね。人間が作った物である以上、登場人物はどこまでも純粋さから離れることはできないんだ」

「シェークスピアは劇作家だよ。小説なんてひとつも書いてない」楓は祐介とは逆のほうを向きながら言った。

「ああ、そうだった」

「もちろん、ハムレットも小説じゃなくて劇の脚本だからね」

 楓はわざわざ付け加える。楓はやはり不機嫌に違いなかった。

 雀一羽落ちるにも天の摂理が働いている。恐らくは、彼女の機嫌にもまた同様に。

 

 

 

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