第三章 麦萌

 祐介がその事件に出会わせたのは、精神科の医局で茶を振舞われているときだった。臨床系であっても急患が稀なこの科に限っては、医師たちも時間的な余裕があるためか、学生の度重なる訪問にも比較的寛容だった。もっとも、この科に入り浸る熱心かつ酔狂な学生は祐介くらいのものであったし、祐介に応対する医師も、世話好きか物好きらしい数人に限られていたが。

 白衣を着た若い男性が医局に駆け込んできたのは、祐介に特に目を掛けてくれる蓮実という講師から、生前同性愛を噂され、自衛隊の基地で割腹自殺した作家を題材にした病跡学のレクチャーを雑談代わりに受けているときだった。この作家の作品を全て読んだという蓮実によれば、その作品群から作者の対人恐怖症が明らかに読み取れるとのことだった。

 やはり医師らしいその男と短い言葉で会話を済ませた蓮実は、祐介に男と一緒に病棟に向かうように言った。自分は応援を呼ぶからと言いながら電話に取り付く。

 医局と外来病棟とは別の建物だった。医師は、ひさしだけがついた吹き晒しの通路を走りながら、横の祐介に状況を説明する。女性が一人、病室で暴れているとのことだった。刃物か何かを持っているのですかと祐介が尋ねる。医師は呆れたように祐介を一瞥したまま、何も言わなかった。

 病棟の建物の中で、精神科は一階にあった。その一角から、不連続な鈍い音とともに激しいやり取りが聞こえる。その中でも一際大きなものは、患者とおぼしき若い女性の声だった。彼女は幾度も幾度も叫んでいた。「私を死なせて」。

 扉を開いた医師の肩越しに、病室を一望することができた。看護士と思しき白衣を着た屈強な男が、二人がかりで一人の女性を押さえかねていた。まだ二十代も半ばに見える女性は、長い髪を振り乱して、コンクリートの床に自らの頭を打ち付けていた。

 自分に向かって放り投げられた荒縄に戸惑う祐介に、焦りの混じった激しい叱咤が飛ぶ。白衣を着た三人がようやくのことで押さえ込んだベッドに、祐介は縄を掛けた。その緊張を利用して、彼らは手際よく女性をベッドに固定してゆく。口の端に泡を溜めて呻き声を上げる彼女に対しても、医師が注射する鎮静剤は確かに有効だった。しかしそれが全身に回るまでの間、自分を追い詰める幻聴に剥き出しのまま晒され続ける孤独を、腹の底からの悲鳴によって訴え続けていた。

 祐介の肩に手を掛けたのは、つい先ほどまで共に談笑していた蓮実だった。部屋を一瞥して、電話で助けを呼ぶ必要はなかったねと彼は言った。看護士の一人が蓮実と祐介を見比べながら、助っ人の活躍のおかげですと答えた。祐介をこの病室に連れてきた医師は苦笑を漏らす。蓮実はスタッフたちに後を託して祐介の腕を取った。

「あの人、どんな病気なんでしょうか」

 発狂は、人を純粋にする。ある種の人間が狂気じみたものにどうしようもなく惹かれるのは、そのためだろう。本物の狂気には、そんな詩的な要素など薬にしたくとも無い筈なのに。

 医局に戻る途中の祐介の問いかけに、蓮実は祐介への一瞥だけで応えた。肌を刺すような冷気も、祐介には何も感じなかった。

「彼女は、至って正常だよ」

 祐介を伴って医局に戻った蓮実は、冷めた茶を淹れ代えながら言った。祐介は茶碗を受け取って、その熱さに慌ててテーブルの上に置いた。

「はじめは、ちょっとした行き違いだったみたいだよ。旦那さんの仕事が忙しくて、子供の世話は奥さんに任せっきりだったらしい」

 祐介は、両手で茶碗を囲むように押さえながら、拝聴する素振りをする。

「過失致死で執行猶予。検察官の指示に従って、ここに入院。生まれてまだ半年にもならない女の子だった。泣き止まない赤ちゃんの口を押さえて、窒息死させちゃったんだって。旦那さんが帰宅した時には、彼女、安らかな顔で眠ってたそうだよ。彼女の安眠を決して妨げなくなった可愛い赤ちゃんに優しく添い寝しながら」

 育児ノイローゼ。つまり彼女は、最愛のはずの存在の死を、自分を苦しめるがゆえに無意識裏に願い、その願望は自らの手によって叶えられたということだ。そしてその代償は些細なものだった。少なくとも、法律的には。

 祐介は、そこまで考えてから自問する。なぜ僕は彼女に対してここまで残酷な見方をするのだろう。一片の憐れみさえもない見方を。憐れみすら与えられないほどに、自分はあの女性に執着しているのだろうか、初めて目にしただけの、あの女性の狂気に。

 扉の開く音で、蓮実は一旦言葉を切った。先ほどの医師が顔を出す。

「お疲れさま」

 蓮実が言った。医師は笑顔で軽く会釈をした。

「僕はこれから夜勤ですけど、景気付けに一杯と行きたいところですね。ところで伝え聞くところによると、先生の机の一番下の引き出しには、値打ちもののモルトが一本あるとのことですが?」

 若い医師は笑顔のまま、まくし立てるように言った。蓮実は苦笑した。

「最近減りが早い気がしてたけど、まさか君が失敬してたんじゃあないだろうね、杉山くん」

 蓮実の芝居がかった台詞に、杉山と呼ばれた医師は、わざとらしい笑みとともにかぶりを振った。

「僕は、飲みたくなったら先生に言いますよ。大抵は事後報告という形になりますけど」

 杉山は、呆れたような苦笑とともに立とうとする蓮実を手で制しながら、「蓮実大先生は椅子でふんぞり返っておられて結構です。わたくしめが取って参りますから」などと言って部屋を出て行った。

「全く、杉山の奴」蓮実は言った。「あいつは入局以来面倒見てやってるけど、ああいうところは全然変わらないよ。はじめの二年はきっちり鍛えてやったつもりなんだけどなあ」

 激しく足音を立てて戻ってきた杉山は、洋酒の瓶とともにつまみのつもりかポテトチップスの袋を手にしていた。彼は手際よくグラスを並べ、他の二人から希望を聞きもせず、アイスボックスから氷をそれぞれのグラスに放り込んだ。

「お前もそろそろ助手になっても良い時期だろう。長瀬くんが入局したらお前につけてやるから、彼の真面目さを見習って、いい加減落ち着けよ」

「彼、長瀬くんって言うんですか。なるほど、確かに真面目そうな男ですね。よろしく」

 杉山の微かに揶揄の混じった言葉に、祐介は背筋を伸ばして頭を下げた。

「しかし医局内の人事まで先生が決められるんですか」杉山が言う。

「医局長も次は僕の番だからね。雑用を山ほどこなさなきゃあならないんだから、それくらいの役得は教授も認めてくださるよ」

 それより、と蓮実は言った。

「さっきの患者はどんな様子かな」

「保護室に移しました。今は薬がよく効いています」

「長瀬くんが、杉山先生の診断を聞きたいそうだ。ちょっと症例報告をしてもらえるかね」

 蓮実が芝居掛かった口調で言った。祐介の困ったような笑みを苦笑とともに一瞥した杉山は、PTSDですね、と言った。

「過度の疲労によるせん妄状態下で、生後四ヶ月の実娘を死に至らしめる。その後、離人症の発症とともに、しばしば自殺企図。さっきのは、PTSDの解離性フラッシュバックによるものでしょうね。普段は、生気がほとんど感じられないくらいに静かなのに」

「一度来た以上、これからはあれが頻繁に来るかもしれないよ」

 PTSD。心的外傷後ストレス障害、だっけ。

 親しい人との死別。彼女によって苦しみ、その死を望みさえした後の転機。しかし、それを実感することさえできず、毎日漠然と死ぬことばかりを考えて過ごしている。ここへ顔を出すのも、自殺の衝動が抑えられなくなったときのために、いざというときに助けを求められると無意識に考えたから。つまりは、あの女性は祐介の分身じゃないか。あの女性に対する評価の厳しさは、単なる無意識の自虐に過ぎなかったわけだ。

 いや、正確には違うようだ。祐介は、明らかにあの女性に嫉妬している。狂気に身を投じることで、最も大切なものを亡くした痛み、その死を願った罪悪感、汚れてしまった自分に対する嫌悪感、それら全てを破壊のエネルギーに変換させ、そのエネルギーの解放によって、最高のカタルシスに身を投じられるのだから。自らを死に晒す危険など、大した問題ではない。急性アルコール中毒を怖れて酒を控えるような人間は、単に酒のもたらす快楽を知らないだけのことだ。

 祐介は、グラスの酒を一気に飲み干すと、ボトルを引き寄せて無造作に注いだ。

「ところで先生、電話の応援がなかなか来ないようですが」杉山が言った。

「うん。長瀬くんが活躍してくれることは分かってたからね。ちょっとうちの奥さんに電話してたんだ。今日も遅くなるから、って」

「先生はいつもそうだからなあ。要領が良いというか、抜け目がないというか」

「それよりも、杉山ももう三十四だろう。いい加減嫁さんを捕まえろよ」

 痛いところを突かれた杉山は、祐介に話を振るべく視線を移した。祐介は三杯目を一気に呷るところだった。杉山はその飲みっぷりに感心したように口笛を吹き、祐介のグラスにボトルを傾けた。蓮実は、そんな飲み方をしていい酒じゃないんだけどね、と呟いた。

「長瀬くんは若いんだから、彼女の一人くらいはいるんだろう?」

「彼女、ですか」祐介は焦点の定まらない目で杉山を見た。

「つい先日、ふられました」

「どれくらい付き合ってたの」蓮実が聞く。

「五年間」

「そんなに長い間付き合っていながら? 冷たい女だな」杉山が言った。

「いえ、本当に優しい子でした」祐介は言った。「辛いことがあったら、必ず彼女のもとに行くんです。彼女はいつも、静かに僕の話を聞いてくれました」

 祐介は、視線をテーブルに落としたまま、呟くように語る。

「うすうす気付いてはいたんです。彼女はもう僕の元には戻って来ないって。彼女には、僕なんかよりも余程大事な人がいましたから。でも彼女、口には出さないから、生殺しのまま時間ばかりが過ぎて」

 祐介は一気にグラスを空けると、ボトルを取って少しこぼしながら注いだ。蓮実はもう何も言う気はないようだった。祐介は顔を上げると、泣き笑いの笑顔を浮かべた。

「でもね、先生。彼女、さいごには泣いてくれたんですよ。こんな僕のために」

 

 

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