第二章 雪折

 悲しみなんてものは存在しない。それを自覚したとき、悲しみを感じていたはずのその人は、客観的にしかその悲しみに接することができなくなるから。そして、そうなったときにその人が持つことができる感情は、悲しむ自分に対する同情だけだから。

 この五年間は、一体なんだったのだろう。いつかはこうなると分かっていた。夕日に包まれた屋上の、あの束の間の安らぎはもう二度と得られないと分かっていた筈なのに、医学部の小試験漬けの毎日から暇を見出してはここに通い詰めた日々。そして今ここにいるのは、現実という題のドラマの中で、恋人に死に別れた自分自身に同情する一大学生と、その主人公の独白を苦笑交じりに相手する女性。彼女は昔の級友、そして祐介にとっては同志とでも呼ぶべき女性だ。

「醒めた見方ね。気持ちは痛いほど分かるけど」

 太田香奈子は言った。

「酷い兄妹ね。私たちの心を五年も縛り付けておいて、死ぬときにはあんなに呆気なく」

 彼女の両頬に刻まれた愛の証しはもう跡形も無い。以前、兄妹が眠るこの病院で偶然出合わせた祐介がそのことを指摘したとき、彼女は笑って言った。「いつまでも昔の思いに囚われるなんて、馬鹿げてるじゃない」。人間は矛盾した生き物だ。当たり前のことだが、それは彼女だって感じていることに違いなかった。

「全く」祐介は言った。「何の前触れも無いなんて、後を追う者の身にもなって欲しいよね」

「後を追う?」香奈子は笑った。「それなら、良い方法を知ってる。どこか雪国にでも行って、外でお酒を浴びるほど飲めばいい。あの子の思い出に包まれながら、眠るように想いを遂げられるわよ」

「参ったな、太田さんが一緒に来てくれると思ったから言ったんだけど」

「私が一緒に?」香奈子は恋人の死を看取った後とは思えないほど大きな声で笑った。「どうして私が死ななきゃならないの。大体、一人で死ねないのなら、そんなことを口にするものじゃないわ」

「相変わらず厳しいなあ」

「あら、ごめんなさい」香奈子は言った。「でも、私の五年前には、長瀬くんみたいな束の間の安らぎすら無かったのよ」

「ごめん、そうだったね」

 香奈子は祐介の言葉にむず痒そうな表情を浮かべたが、やがて悪戯を思いついた子供のように意地悪く笑った。

「でも、その後のことを考えると、長瀬くんほど苦しんでたわけじゃなかったかもしれない。少なくとも私は、あの人の寝込みを襲うほど、思い詰めてはいなかったもの」

「キスぐらい、許されてもいいと思うんだけど」

 祐介は平静さを装って言った。香奈子は皮肉に笑う。

「ここでは有名みたいよ。私は馴染みの看護婦さんから聞いたけど」

「道理で、他の患者さんがじろじろと見ると思った」

「気をつけてよ。私まで同類に見られるじゃないの」

「ごめん」祐介は頭を掻いた。「でも、もう太田さんもここに来ることはないんじゃないかな」

「ああ、そうだった」

 香奈子は初めて気がついたように苦笑しながら頷いた。

「なんだか実感が湧かない。本当にあっけなかったから」

「これから、どうするつもり?」

「さあ。でも、これでようやく悪夢にうなされることもなくなりそう。いつまでも過去に縛られてるわけにもいかないものね」

「これから新しい恋人でも見つけて、とか?」

 その言葉は、香奈子にとって全く予想しないもののようだった。香奈子は呆然とした表情を浮かべた後、うわ言のように呟いた。

「そうだった。私もようやく、新しい恋人を探してもよくなったってわけね」

 香奈子はようやく現実の真摯さに気がついたようだった。握り拳ほどの褥創を消毒する激痛にさえ反応しなかった彼女の恋人は、彼女にとってかけがえのない人であったことさえ斟酌されず、現実によって事務的にその命を回収されていったのである。

「ねえ、長瀬くん」

「うん」

「ちょっと、胸を貸してくれる?」

 祐介は返事をする代わりに、香奈子の頭を抱えるように引き寄せた。夕暮れの病院の待合室は、時折医師や看護婦、そして幾人かの入院患者たちが通り過ぎる。しかし彼らの好奇の視線も、祐介にはどうでもいいことのように思えた。自分自身をいつも醒めた目でしか見ることが出来なくなった今の自分が、どれほど好意的に解釈しても道化以上の評価など与えられそうにないことを自覚したとしても、その自覚が祐介に現実を取り戻させるきっかけになどなるもなかった。

 どうして自分は泣けないのだろう。そんなことは決まりきっている。人目があるからだ。ならば人目がなくなれば泣けるのか。そもそも自分は、どうしてこんなに冷静にものを考えていられるのだろう。こんなことなら、人の命を預かる仕事なんて目指すのではなかった。悲しみを悲しみそのものとして感じられた五年前のあの頃ならば、即物的な青臭い反抗心はあっても、今のような観念的な苦しみからは無縁だったはずだから。

 しかし、本当にそうだろうか。観念苦の根源を突き詰めれば、性欲に行き当たるのだという。少なくとも若い男の場合はそうだ。祐介は、彼自身が漠然としたイメージしか持たない世間という外部から、自己の内部へと矛先を変えただけで、あるいは変えることすら出来ぬままに青臭い衝動性を燻らせ続けただけではないのか。抑圧を振り払った月島拓也の数日とそれに続く五年間に比べ、祐介のこの五年間とこれから続くであろう数十年は、その意義にどれほどの違いがあるのか。少なくとも拓也の方は、その衝動の果てに、求めた全てのものがあったのだから。

 俯く香奈子の震える肩に手を置いている間、祐介はそんなことを考えていた。しかし、そこまで考えて自嘲する。今、自分の腕の中にいるのは祐介好みの、完璧さの中に一点の「些細な」瑕疵を持つ女性のはずなのに、今の祐介の愚直なまでに紳士的な態度が痩せ我慢ですらないことは、祐介自身にとって、なかなかの諧謔だった。今のこの自分が、逃避を続けてきた五年という月日の終局だとしても、瑠璃子を失った後にさえ守るべき何かがあることに気づくなんて。

 祐介は今更のように自分自身が本能に従って生きる動物であることに気付いた。孤独を恐れる感情は、本能のうちでも最も根源的なものの一つだろうから。ただ一人の同志、ただ一人の共犯者としての彼女の存在が、渇き切った祐介の心にいかにかけがえのないものであったか。

 時の流れから逃れるように座り込んだ祐介の隣に、いつの頃からか彼女も腰掛けていた。深い言葉を交わす機会があったわけでもない。それでも、ただそこにいてくれるだけで良かったのだ。

 しかし、それも今日で終わる。二人は再び歩き出さなくてはならないのだから。

「さっきの話だけど」

 待合室のソファに祐介と向かい合うように座った香奈子は、そう切り出した。

「さっきの?」

 香奈子は泣き腫らした目を細めて、躊躇いがちに微笑んだ。

「新しい恋人がどうとか」

「ああ」

「やっぱり、今はそんなこと考えられない。それに」

 香奈子は、この五年間を支えてくれた背の低い親友の名を口にした。「あの子にこれ以上気苦労を掛けたくないしね」

 あの事件の後、その親友とは一度だけ会ったことがある。香奈子から祐介のことを聞いたのだろう、その顔に心からの同情を表す彼女を見て、祐介は一抹の寂しさを覚えていた。祐介の独りよがりの判断で、過酷な現実を受け止められない、か弱い人間だと決め付けられて、残酷ながらも貴重な経験をリセットされてしまった女の子。あの事件は、彼女にとっても単なる汚されただけの体験などではなかったはずなのに。人は支えさえあれば、あの程度の障害など乗り越えられる。それは、目の前のこの女性が身を以って示したではないか。

 祐介と目が合った香奈子は、しかしいつもの彼女に似合わず視線を宙に彷徨わせはじめた。彼女が言い難いことを口にしようとしていることを察した祐介は、穏やかに微笑みながら促した。

「ごめんなさい。私、長瀬くんとはもう会わないほうがいいかもしれない」

 ああ、やっぱりね。祐介はそう思った。祐介にとって、その言葉は十分に予想できるものだった。祐介は、彼女の心に刻み込まれた恋人の存在感に軽い嫉妬を覚えていた。祐介は、ありもしない両頬の古傷が疼くような気がして、左手で頬を拭った。

「だって、長瀬くんって、どこかあのひとの雰囲気に似てるから」

 

 

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