第一章 枯野

 その日もまた冷たい風が吹いていた。まったくお似合いだった。雪を思わせるあの女性の白い肌は、祐介を残して旅立ったその心のように、いつまでも変わることなく透き通っていたから。

 この五年間、息の詰まるような縛めから逃れようと縋りついた窓の外には、いつももう一つの窓があった。いくら開いても自由など舞い込んでは来ない、そんなことは分かりきっていた筈だった。

 しかし、五年ばかりの回り道を自らに課してきた自分の弱さを、祐介は安っぽい自責の念から更に苛もうなどとは考えない。全てが水泡に帰そうとしている今をおいて、自由が訪れる機会など無いことは、自明のことだったからだ。

 祐介にそのことを知らせたのは、意外にも彼女の伯父である病院長だった。初対面の祐介が自己紹介で医学生であることを告げると、皮肉な笑みを一瞬だけ見せた後、どこか親しみのある口調で言った。

「ようやく、この日が来ましたね」

 五年間。確かに、ようやくと言うべきだった。もしも祐介が五年前のままであったなら、その言葉は嫌悪感を抱かずにはおけなかっただろう。しかし、彼を責め苛んだ月日は、彼の心を明らかに別のものに変えていた。

 男の風貌を伺う。その地位とは裏腹に、生きることに飽いたような色を顔に浮かべていた。望み得る全てのものを手にし、しかし本当に欲しいものはもはや望むことさえ許されない、そんな男に特有の顔つきだった。

「五年は、長すぎましたよ」男が言う。

「その五年の間、全く病状が変わらなかった二人が、同時に急変することなんてことが」

「貴方も医者を目指すなら、これから幾度となくそんな場面に立ち会うことになるでしょう」

 男は穏やかに言った。

「先日は女性を連れて見舞いに来たそうですね」

「彼女も医学生なんです」

「スタッフが教えてくれましたが、かなりの美人だそうですね」

「ええ、僕もそう思います」

「どこか瑠璃子に雰囲気の似た子だと聞きましたよ」

「確かに、似ているかもしれません」

 祐介は微かに震える声で言った。男の言葉のうちに軽侮のようなものを見た気がしたからだ。青臭いとは自覚しながら、一言付け足さずにはいられなかった。

「二人とも、心に深い傷を負っていますから」

「なるほど」

 男は動じる様子も見せなかった。しかしこれは祐介も予想していた。人の生死を扱う医師であれば、感情をそうそう表に出していては務まるまい。

「それで?」男は言った。「それで長瀬さんは、どこの科に入局するか、もう決めていますか」

「ええ、入学したときから」祐介は言った。「精神科の方に進もうと思っています。僕の大学では精神科神経科って名前ですが」

「精神科? どうして」

 男は意外そうな顔をした。この病院長はいわゆるナンバー外科の出身ということだった。精神科や耳鼻科といったマイナー系の科に対しては、無自覚に差別意識を抱いているのかもしれない。あるいは単に、精神科というものに偏見を抱いているだけだろうか。精神医学は科学にあらずという偏見は、他科の医師の間にこそ根強い。

 しかし祐介には目的があった。祐介は、仲良く並ぶベッドの、妹の方に視線を向けた。

「瑠璃子さんに少しでも近づきたかったんですよ」

「瑠璃子に?」

「ええ」

 祐介は歩み寄ると、その白い顔に目を落とした。彼女の顔は、この五年間と全く変わりない。悲しいほどに安らかだった。

「ドパミンって、こういう使い方もあるんですね」

 祐介は、瑠璃子の腕に繋がれた点滴のチューブを弄びながら言った。消えかけた命の炎に油を一滴一滴注ぎ足すように、わずか数時間の延命のみを目的として、彼女の心臓を強制的に動かしてやる。それは無論、彼女のためを思ってのことではない。残される人々に、臨終に立ち会う機会を与えてやるための処置だ。なにしろ未来があるのは、ベッドの上の彼女たちなどではなく、残される者たちのほうなのだから。全く、人情味溢れる計らいとでも評すべきだった。

 しかし男は、皮肉な祐介の考えを否定するように、毅然とした口調で言った。

「人の死には、それなりの厳粛さがあって然るべきです。そのための時間は、やはり必要ですから」

 それは肉親としての情からも、患者の知人に対する医者としての態度からも離れていた。強いて言うなら、半人前の研修医に対する指導医のそれが近いと言えなくもない。人の死を扱うことにかけては、経験が桁違いの男の言葉は、プロフェッショナリズムに裏打ちされたある種の真摯さがあった。

「太田さん、遅いな」

 祐介は戸惑いを誤魔化すようにそう呟いた。その言葉を潮に、男はナースコールのボタンを押した。待機していたらしく、見覚えのある担当医と看護婦が急いで入ってくる。太田香奈子が病室に到着したのは、それから間もなくのことだった。

 香奈子が恋人との別れを済ませる頃には、儀式の準備はほぼ整ったようだった。

 香奈子は無表情に両手で恋人の右手を包み込み、雰囲気に呑まれた若い看護婦は俯いてしまう。二人の唯一の肉親は、彼自身によって演出された厳粛さの中、担当医に目配せをした。

 三方活栓のつまみを回して点滴を止める。それだけで十分だった。やがて、微かに上下していた二人の胸元が動かなくなる。担当医がペンライトをポケットから出し、二人の瞳孔反射を確かめる。宣告する声は少し擦れていた。見たところ、彼はまだ若い医師だった。

 それからは誰も声を発しない。ただ、その意思に関わらず、その場にいる皆がこの厳かな儀式の一員であることは疑いようがなかった。

 若い看護婦の息を呑む声が静寂を乱す。二人の唯一の肉親が仕組んだ演出は、憎らしいほど的を射ていた。祐介は、意識しないままに瑠璃子の手を握った。その手から温もりが失われてゆくことが感じられても、祐介はいつもの皮肉な感想をその脳裏に浮かべることなど出来なかった。

 たとえ、二人の目から溢れた涙の雫が、単に死に伴う涙腺の弛緩の結果に過ぎないことが分かっていても。

 月島瑠璃子とその兄拓也は、こうして悲嘆限りない人々に見守られながら、彼ら自身の望み通り共に手を携えて、長い旅路へと発ったのである。

 

 

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