第七章 月影 ―楓、再び―

 あの青い月の光に心惹かれるのは、きっと一昨日見たあの夢のせいだろう。
 街には冷たい風が吹きはじめていた。つむじ風は道の隅に積もった枯葉を舞い
上げ、草陰の虫の音も、めっきり数を減らしていた。そして、灰色の雲から時折
現れる陽射しさえ、確実に勢力を増す冬に抗うべくも無かった。
 海と山とに囲まれた美しいあの土地で今も暮らす私の一族は、五百年もの時を
その血の枷に縛られてきた。五百年前、故郷の山の梢の隙間から望む月の光に託
したあの娘の想いが叶うことがもはや有り得ないとしても、今を生きる私には、
まだ人生に成すべきことが残っている。私はきっと、この束縛から私たちの子孫
を解放するために、再び生を得たに違いないのだから。
 今から半世紀前に達成されたDNAの構造の発見は、その後の生物学の急速な
発展を約束するものだった。遺伝情報の伝達、形質の発現およびその調節機構の
解明など、生物とは何かという問いに答える分子生物学のさまざまな知見は、す
べてこの発見を基礎として積み上げられた。そしてそれらの知見は、遺伝子工学
あるいは細胞工学として、既に遺伝子治療、あるいは医薬品などの物質生産に応
用されている。人類はついに、生命の根幹にその手を届かせたのである。
 そして、私はちょうどその歴史の転換点に生を受けた。人類の英知と、遠い昔の
記憶とを併せて、私たちをその血の呪縛から解き放つことを、何物かが望んだかの
ように。
 運命論なんて馬鹿らしい。それを信じ込んでいたそれまでの人生を全て否定さ
れたあの夜、安っぽいカッターナイフで未来を切り裂こうとした五年前のあの夜
から、そんな想いは一日たりとも私の心から消えることがない。しかし、その運
命論以外に私の心を救えるものなど無いことも分かっていた。私は、人生に何か
を求めることをあの日から止める代わりに、人生が私に対して何を求めているか
に気づいたのである。


 担当になった医師は楓の回復力に驚嘆し、そして半ば呆れるように首を傾げて
いた。あれだけ見事に切断された神経がわずか二日でここまで回復するとは、医
学の常識からは少しばかり外れているようですね、と。
 そんなデリカシーを欠いた若い医師の言葉に、親子ほども歳の違うベテランの
看護婦がたしなめるように睨む。看護婦は楓を落ち着かせるように、もう指が動か
せるようになるなんて、やっぱり若い子は体力が違うのね、などと言いながら、診
察が済んだ左の手首に白い包帯を丁寧に巻いていった。
 楓は左手を看護婦に預けながら、包帯が巻かれてゆく様子を無感動に眺めてい
た。深い創傷は痛々しく幾針も縫われていたが、ガーゼが当てられ、更に包帯の
一巻き一巻きによってその悲劇の結末は覆い隠されてゆく。包帯の下に封じ込められ
た楓の想いは、そして、遠い昔のあの少女の想いはこれからどこへ向かって行く
のだろう。
 その日もまた暑い日だった。楓は個室のベッドから上体を起こして、大きく開かれ
た窓から吹き込む風に目を細めた。医師に続いて出て行こうとする看護婦が
窓を閉めるかどうか訊ねたが、楓はゆっくりと首を振った。看護婦は暖かな笑み
を浮かべて頷くと、部屋を出て行った。楓は二人が出て行った後も扉を眺めてい
た。もし母親が生きていれば、あんな感じだったのかもしれない、そんなことを
取り留めもなく考えながら。
 扉の外の物音に、自由に動かせるはずの右手が痙攣するように震えた。心の動
揺が表に出ないように、シーツの裾を強く握る。一呼吸おいて扉の陰から顔を出
したのは、はじめてこの病院を訪れた従兄だった。
「一人ですか」楓は表情を変えず、耕一を視線に捉えたままで言った。
「いや、今日は初音ちゃんに連れられてね」
「梓姉さんは」
「部活の方に顔を出すってさ。ほら、この間の事件に巻きこまれた、日吉かおり
っていう後輩がらみで。それから、千鶴さんは」
 楓は興味のない素振りで手元に視線を落とした。耕一もつられるように見る。
しかし、その左手の包帯に気づくと、再び顔を上げた楓から目を合わせないよう
にして付け加えた。
「千鶴さんも、まあ元気にしてるから」
 その名前を聞いたとき、シーツを握る楓の右手に力がこもったが、耕一に覚ら
れないようにさりげなく左手を重ねた。
「初音、遅いですね」
「そこで看護婦さんと立話をしてるみたいだけど。楓ちゃんの担当の人だって言
うんで、お礼がてらにね。俺は早々に逃げてきたけど」
 耕一はそう言って、少しわざとらしさが感じられる声で笑う。楓はそれに気づ
いて口を開いた。
「あの看護婦さん、細かいことまで気を配って下さるんですよ」
「いい人に当ったね。それとも、やっぱり柏木の人間だってことで特別扱いなの
かな」
「そんなことはないと思いますよ。この病院は別に鶴来屋と関わりがあるわけじ
ゃないですし」
 口では否定したものの、恐らく何らかの手配はされているだろうと楓は考え
た。そうでなければ、こちらから頼んだわけでもないのに、いきなり個室が割り
当てられるのは不自然だろうから。柏木の名は、当人たちが望むと望まぬとに関
わらず、この地方ではその地位相応の影響力を持っているのである。しかし耕一
は、恐らくそのあたりの実感がないためか、楓の言葉に納得してしまったように
頷いた。
 彼がこちらに来てから、楓は避けるようにしていたせいで、このような会話す
ら交わす機会が無かった。それだけに、笑顔を見せる楓に耕一はほぼ警戒を解い
たように見えた。耕一は、いつものような人懐っこい笑顔で言った。
「大分良くなったみたいだね」
 そろそろ頃合だろう。楓は笑顔を張りつかせたまま、右手でゆっくりと左手の
縛めを解いていった。
 耕一は驚いた顔をしながらも、その様子をじっと眺める。あるいは、楓の予想
外の行動に思考が固まってしまったのかもしれない。
 楓は左手の全てを取り去ると、大事な玩具を見せびらかす子供のように無邪気
な笑顔を浮かべた。耕一の方に差し出された左手は、その拍子に少し傷口が開い
たらしく、うっすらと血が滲んだ。
 耕一は完全に呑まれていた。真っ青な顔で、促されるままに差し出されたその
手を見詰める。
「たった今、回診があったんです。こんなに早く回復するなんて信じられないっ
て言われました」
 耕一は無理に笑おうとして顔を引きつらせた。楓は楽しげに声を立てて笑った。
「死にたいのに死ねないなんて。みんな、私たちの体に流れる血のせいですね」
 耕一は青ざめた顔に愛想笑いのつもりか、強張った顔を引きつらせた。それも
果たせないと判ると、初音ちゃんの様子を見てくるよと言って出て行った。
 楓は、開かれたままの扉を無感動に眺めていた。耕一はもう二度と来ないだろ
う。しかし、それでも構わない。きっとあのひとはもう姉から離れることなど出
来ないから。それなら、中途半端な優しさなんて苦しいだけだから。そしてその
優しさは、楓の想いが届かなかったことをはっきりと物語るものだから。楓には、
あまりに無防備に遣って来た耕一の姿が腹立たしく、そして悲しかった。
 楓の望み通り、それから二度と耕一が病室に顔を出すことは無かった。


 楓が帰宅する頃には、マンションはいつも眠っているように見える。建物の前
の植え込みに生えたススキは夜風に吹かれ、そして月の光を受けて白く輝いてい
た。そのか細い輝きは、殊更に見るものに寂しさを募らせる。花瓶に活けたスス
キの穂と、庭いっぱいの虫の音に包まれて見た十五夜の青い月。記憶すら定かで
ない幼い頃の、人づてに聞いただけの両親との思い出。涙が出るほどに懐かし
い、温かい絆。
 しかし、建物の入り口の電灯が、楓を現実へと引き戻す。玄関口を頼りなげに
照らすその明かりで、郵便受けを開く。いつものように、どうでもいいようなチ
ラシがニ、三枚入っているだけだった。
 管理人室を通りすぎようとしたとき、人の良さそうな顔の管理人が小窓から顔
を出して呼びとめた。一旦首を引っ込めた後、小包を手にしてその狭いスペース
から出てくる。楓宛ての荷物を預かってくれていたらしかった。見ると、実家か
らの荷物だった。意外だった。実家からの繋がりといえば、月々の仕送りと、妹
からの電話が時折あるほかは皆無といって良かったからだ。差出人の名はやはり
妹だったが、だからと言って違和感が消えるわけでもなかった。
 荷物はたった今まで冷蔵庫に入れられていたようだった。楓は恐縮しながら感
謝の言葉を口にする。しかし管理人は、こちらこそいつもご実家の方から結構な
ものを頂いてるのに、と笑って手を振った。楓には全く予想外の言葉だったが、
こちらから訊ねるのも変だと思い、儀礼的な世間話だけをして立ち去った。
 部屋の明かりを灯すと、この部屋に入居してから、全く代わり映えのしない部
屋が姿を見せる。しかし、楓にはこの部屋が一番落ち着くことの出来る場所だ。
楓にとって必要なのは、なによりも一人きりになれる場所なのだから。
 思えば、大学でも楓との周囲にいるのは、変わり者揃いの医学生の中でも、特
に他人と同じ行動を嫌う人間ばかりだ。それでよく纏まっていられるものだと思
うこともあるが、その微妙な距離が、みな居心地がいいらしい。その中でも一際
変わっているのが、『猫』こと楓ということになるのだそうだ。しかし、楓自身は
その評価に納得している訳ではない。たとえば長瀬祐介などは、時折現実離れ
したことを口にする。電波で人を操るなど、まるで精神分裂病患者の妄想だ。
当人はその方面の勉強をしているようだから、恐らく冗談のつもりで言ってい
るのだろうが、だからといってそれを口にすることが一般人に拒絶反応を引き
起こすという事実に鈍感でいられる理由にはなるまい。それに、明日寝たきりの
彼女の見舞に同行してほしいと迫ったことも理解できない。結局は押し切られて
しまったが、そのようなことを頼むなら、ほかにいくらでも人がいただろうに。
 楓は、着替えを済ませると、急いで小包を開いた。中身は、傷みやすい物に違
いない。カッターナイフでガムテープを切り、開いてみると、案の定プラスチックの
容器に入った煮物のようだった。添えられたカードには、妹の文字で、『お姉ち
ゃんのお料理です。よかったら食べてください』とあった。
 こちらに出てきてから、ただの一度も帰省したことがない楓には、故郷の味と
でも言うべき梓の料理は長らく口にしたことが無かった。忘れかけた味覚ととも
に、叔父がいた頃の思い出が脳裏に浮かぶ。私が私のままでいられた頃の、
何気ない日常。どこにでもあるような、まどろむような日々。私があの二人を
心から赦せる日が、いつか来るのだろうか。
 送られてきた料理を鍋に移し、火に掛けた。肉じゃがらしい。あの家事の得意
な姉の得意料理の一つだ。どこか違和感を感じたが、それよりも楓には、副菜を
選ぶことのほうが忙しかった。少し迷ったが、ラップを掛けて冷蔵庫に仕舞って
おいた漬物だけをテーブルに出し、朝食の際に作り置いた味噌汁を温め、炊飯
器から少なめに飯を盛った。楓には、あまり食事を楽しむという習慣がない。
 鍋から湯気が立ち、食欲をそそる匂いが部屋を包む。料理を大きめの鉢に移し
て、箸をつけようとしたとき、ようやくさっきの違和感の理由がわかった。もし
やと思い、妹からのメッセージが書かれたカードを裏返した。
「よく噛んで食べなきゃだめよ。それから、せめてお正月くらいは帰ってらっし
ゃい」
 姉さん、いつまでも子供扱いして。しっかりしているようで、どこか抜けたと
ころがある姉の顔が思い出される。この不恰好な料理も、恐らくはあの姉のとび
きりの自信作なのだろう。
 ジャガイモのうちの小ぶりなものを口に運ぶ。食卓の上の醤油の瓶に手が伸び
たが、すぐに思い直した。この料理には、塩気の少なさを補って余りある調味
料、姉の思いが込められている。楓は、ジャガイモやタマネギの間に紛れこんだ
木片を箸で一つ一つ除きながら、その幾年ぶりかの御馳走を時間を掛けて味わっ
た。


 その夜、故郷の妹から、初雪が降ったと浮き立つような声の電話があった。




 分水嶺・完 (初出:にわか書店、2001年10月)

 

 

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