第六章 花芒 ―初音―

 月を見ていると、大事な何かが思い出されそうな気がしてくる。
 レポートの作成にのめり込んでいるうちに、いつか日は暮れていた。月影に引
かれるように庭に降り立つ。木々の中でも、紅葉が一際目を引く。
 ここに来てはじめて気がついた。この場所は、今朝、近いうちに義兄になるあの
ひとが立っていたところだ。あのひとは、わたしと同じように夢を見たのだろう。この
場所に立ったまま、呆然とこの青白い月を眺めていた。
 今朝、まだ日も出ないうちに目が覚めてしまったのは、不思議な夢を見たから
だ。幼い頃の、顔すら覚えていない母の胸に抱かれながら、昔話を聞かされるわ
たし。しかし母の口から語られるその昔話は、なぜかはじめて聞く気がしない。
遠い昔の思い出が、記憶の奥底から呼び起こされるような、そんな感じがする。
 それは、わが隆山のまちに伝わる有名な昔話の一節だ。禁断の恋に落ちた姉
が、そのために他の姉たちの手に掛けられる悲恋の物語を、末の妹の視点から語
っただけのものだ。しかし、物語の少女が姉の無事を祈って一心に祈りを込めた
お守りはなぜか、あの叔父が死の少し前にくれたそれと同じもの。そして、すぐ上
の姉に降り掛かる悲劇をなす術もなく見守った少女は、まさにあの事件でのわた
しの姿だ。
 昔話の主人公はわたしたちと同じ四人姉妹だから、夢の中の母はわたしと同じ
末妹の視点から話してくれたのだろう。夢の中、二番目の姉に抱きしめられなが
ら、その肩越しに見た月は、ちょうどこんな風に満ちていた。あの月が隠れると
き、月のように儚いあの姉はその命を終える。そんな馬鹿げた確信を抱きながら
眺めたあの月の光は。
 

 出かけていた二人がようやく帰ってきたらしい。梓と耕一の話し声が玄関の方
から聞こえてくる。千鶴は自分の部屋に戻るつもりだろう、足音はこちらに近づ
いて来た。
「そんなところで何してるの」
 千鶴が縁側から声を掛ける。庭に下りていた初音は照れ臭そうな笑みを浮かべ
た。
「お月さまが綺麗だったから」
「そう。風邪を引かないように気をつけて」
 千鶴は、母親のように優しく微笑むと、部屋へと歩いて行った。初音は、千鶴
の言葉に促されるように下履きを脱いだ。あの姉が自然に笑えるようになってか
ら、まだ幾分も時間が過ぎてはいないように感じる。だからこそ、その優しさを
無にしたくはなかった。
 千鶴が通った後の残り香は、潮風を思わせた。二人は波打ち際にまで出かけた
らしい。この季節に、寒風に吹かれながら。
 今朝、家のみんなと顔を合わせたとき、初音は何か言いようのない違和感を覚
えた。みんな同じように夢を見たのだろう。しかし、誰もそれを口にしない。き
っと想いは同じだったからだろう。この寒い時期、姉が婚約者を連れてあんなと
ころに足を向けた気持ちが、初音にはなんとなくわかる気がした。
 みんなの声がする方に足を向ける。耕一と梓は、テレビの前で寛いでいた。耕
一にお帰りなさいと声を掛ける。耕一は笑顔でそれを受けた。梓がレポートの進
み具合を訊ねてくる。もう少しで書き上がりそうだと答えた。遅くまでかかりそ
うなら適当に切り上げちゃえよと梓が言った。答えに窮していると、耕一が助け
船のつもりか、お前みたいな留年スレスレのグータラ女子大生と一緒にするなよと梓
をからかった。険悪になりそうな雰囲気を察して、お夕食は何時くらいになるか
なと言った。耕一はこれ幸いとばかり、千鶴さんの様子を見てくると言って席を立っ
た。梓は苦笑してその後ろ姿を見送った。みんないつもの風景だ。食卓のほうに
視線を向ける。タマはやはり楓の椅子の上で、こちらの様子を眺めながら寛いで
いた。初音が笑い掛けたが、タマは気のない素振りでそっぽを向き、そして目を
閉じた。


 扉の上の手術中を示すランプは、朝方近くまで消えなかった。後に聞いた話に
よれば、動脈が二本、それに腱と神経までが切断された状態では、当直医だけで
はとても対処しきれるものではなかったという。応急処置による止血と輸血、呼
吸の維持で一応は危険を脱したが、心臓血管外科のスタッフにまで召集が掛かっ
た手術の方に関しては、左手の機能が元通りになるかは運に任せるしかないとの
ことだった。
 病院の待合室に座る人間は、初音のほかには梓ただ一人だった。千鶴は恐らく
今も屋敷で泣き叫んでいるのだろう。そうである限り、耕一は千鶴の側にいてやら
ねばならない。表に面した待合室は、屋外の虫の音が耳障りに思えるほどに静か
だった。
 二人きりの待合室で、隣りに座る梓は救急車の中から変わらず考え込んで
いるように見えた。梓は、赤く光る手術中のランプを時折無感動に見上げるほかは、
ほとんど身動きすらしなかった。
 深夜だというのに、電話で呼ばれたらしい医師が掛け込んで来た。病院の建物
全体にまで響くような音を立てて扉が閉まる。梓はその人影を見送るように扉を
見たままで口を開いた。
「初音、どう思う」
 祈るように両手を組んで足元に視線を落としていた初音は、慌てて顔を上げ
た。気が詰まりそうな雰囲気が多少なりとも緩むように感じながら、初音は梓の
顔に目を遣った。しかし、梓の顔には背筋が凍るような笑みが浮かんでいた。
「楓のやつ、このまま死んじまったほうが幸せじゃないかな」
 初音は、それに答える代わりに席を立った。しかし梓は声を掛けない。初音は
無理に作り笑いを浮かべ、ちょっと出て来るねと言って後ろ手に待合室の扉を閉
めた。楓の身が気になったが、初音がいたところで何の助けにもなるまい。そ
れよりも初音はその場に居たくなかった。表に出た初音の目に、六階建ての古び
た病院の建物は眠っているように見えた。
 楓は自らの意志で絆を絶とうとした。楓には姉妹の絆よりも大切なものがあっ
たのだ。そして梓は、楓がその想いを遂げることを望んでいた。それは単なるシ
ョックによる混乱のためかもしれない。しかし初音には、その梓の思いが理解で
きない。たとえ一時の思いだとしても、実の妹の死を願う気持ちなんて、理解し
たくもなかった。
 千鶴は今も激情に酔っているのだろう。しかし、その酔いから醒めたとき、あ
の姉はそれまでのような強さを示せるだろうか。その殻に閉じこもらずに、現実
を受け止めることが出来るだろうか。だからきっと、耕一は千鶴から離れられな
くなる。あの人は優しすぎるから、縋る人を振りほどくなんてこと、決して出来
ない。
 絆を何よりも信じていた昨日までの初音には、こんなことになるなんて考えも
つかなかった。初音は、亡き叔父から贈られたお守りを、震えた両手で握り締め
ながら思った。わたしの想いは、いったい誰が受け止めてくれるのだろう。わた
しはただ、みんなと仲良く暮らしたいだけなのに。
 初音は我に帰ると、お守りに視線を落とした。このお守りは、去年の誕生日に
叔父から贈られたものだ。叔父や姉たちとともに繰り出したあの花火大会の夜、
叔父はなぜか別れを惜しむように、この贈り物を見せてくれるように言った。し
かし、あまりに無邪気だったそのときの初音は、それがどういう意味を持つのか
理解できなかった。叔父が事故によってこの世を去ったのはそのすぐ後だった。
初音には、叔父との別れが苦い想いとともに思い出される。
 あの花火大会の夜、叔父はもう限界だったに違いない。そんなことも知らず、
来年のことを楽しげに口にした初音の姿は、叔父の目にどのように映っただろ
う。いつものように温かい笑みを浮かべた叔父は、その大きな手で初音の頭を優
しく撫でてくれた。しかし、初音にこのお守りを譲り、その庇護から離れた叔父
は、それから時を経ずして「事故」でこの世を去ったのである。
 人ごみに紛れて消えてゆく叔父の後ろ姿に、並んで見送った千鶴は何故かその
場に座り込んでしまった。驚いてその顔を覗きこむ初音に、千鶴は肩を震わせな
がら繰り返した。何でもないのよ。大丈夫、大丈夫だから。
 柏木の人間に流れる血は、初音たちの両親ばかりか、その後に保護者になって
くれた叔父の命までも生贄として要求した。あの優しい叔父や姉たちが秘密に
しようとしたそのことも、千鶴の涙と、それに続く叔父の死によって明らかとなってし
まったのだ。
 初音は叔父の苦しみを知らされず、姉妹の中でただ一人かやの外に置かれたこ
とになる。そのことを思うとやはり寂しい。しかし、それは初音の心を思い遣っ
てのことに違いない。叔父や姉たちのその優しさ、そして愛されているという実
感は、恨みの念を初音の心から追い払うことを求めていた。そして、その要求を
無視するには、初音はあまりにも感受性が強すぎた。
 今回のことはすべて、単なるボタンの掛け違いのようなものだったのかもしれ
ない。はじめは些細な行き違いだったのが、次第に大きなずれとなって目の前に
現れたのだろう。初音は待合室の窓の方に目を遣ると、紐で首から下げたお守り
から手を離した。そして、建物のすぐ側に生えるススキの穂を一本引き抜いた。
空は少しづつ白みはじめ、月はしかし闇に取り残されたように、不本意げに輝い
ていた。
 梓は一人の待合室で、まんじりともせずに座り込んでいた。膝に両肘を立て、
組んだ両手に顎を置いた姿勢で視線だけを初音の方に向けた。初音は黙ったま
ま、決まり悪げに手のススキの穂を梓に差し出した。梓はそれと初音の顔とを幾
度か見比べていたが、やがて呆れたような笑みを漏らして受け取った。初音は、
照れ臭そうに笑みを返し、梓のすぐ横に座った。
 梓は、受け取った穂をしばらく手で弄んでいたが、やがて顔を上げると、ゆっ
くりと立ち上がった。不思議そうに見上げる初音に、終わったみたいだと告げ
た。耳を澄ますと、確かに手術室の扉の向こうが騒がしい。初音は急いで梓の後
に続く。梓は待合室の扉のノブに手を掛けたとき、小さく呟いた。
「とうとう、来なかったな」
 初音は不思議そうに梓の横顔に視線を向けた。梓はノブを握った手元に視線を
落としたまま、苦々しげに従兄の名を口にした。
「楓のやつ、可哀想に」
 梓が楓の死を願ったその気持ちが、初音にはようやく理解できた気がした。


 夕食はいつになく賑やかだった。千鶴が炊事当番の日にはいつも姿が見えなく
なるタマまでが、匂いに誘われるように食卓の周りをうろついていた。千鶴は会
心の出来の肉じゃがを、テーブルについたみんなの前に並べ、味噌汁をお椀に注
ぎながら、最近は便利になりましたねと言った。何がと耕一が訊ねた。千鶴は、
お味噌にお出汁だけじゃなくてお塩まで入るようになったんですからと答えた。そ
して、こんな便利なことにどうして誰も気づかなかったんでしょうねと付け加え
た。全く、なんでこれまで気づかなかったんだろうな、これは初音のお手柄だな
と梓が言った。どうして初音の名前が出て来るのよと千鶴が口を尖らせた。みん
なの視線を浴びて、初音は困ったように笑った。耕一は、全く状況が理解できな
い様子で、他の三人の顔を交互に見回していた。
 その日の夕食は、千鶴が誇らしげに言うとおり、見事なものだった。一人に十
切れほども割り当てられた沢庵はすべてきれいに切られていたし、白い湯気の立
つ、芯のないご飯からは洗剤の匂いなどもしなかった。
 なによりも驚くべきことに、肉じゃがの中の大きなイモの塊にも、ちゃんと火が
通っていた。大事に取っておいた蟹缶が何故か他に具の無い味噌汁に惜しげもな
く放り込まれており、それに気づいた梓が声にならない低い呻きをあげたが、千
鶴は気にする様子もなくカニ風味の味噌汁を自画自賛し、そして耕一が能天気な
顔で相槌を打った。
 初音は、肉じゃがの中にシーチキンらしきものがところどころ混じっているの
に気づいた。買い置きをした覚えは無いけどと考えながら箸で摘み上げると、そ
れはささくれ立った木片だった。流しの方に目を遣ると、昼間見たときよりも更に
毛羽立った俎板が、きれいに洗われて正面の壁に立て掛けてあった。
 まるで不安を打ち消そうとするかのように、みんな、いつになくはしゃいでいた。それ
はきっと、それぞれが今朝見た夢のせいに違いない。会話が途切れると、皆がお互い
を窺うように視線をさ迷わせた。みんな、きっと同じ思いに違いなかった。後はきっか
けさえあれば良かった。初音は、思いきって口を開いた。
「この肉じゃが、まだ残ってるのかな。もし、もし良かったらだけど…」

 

第七章

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