第五章 松風 ―梓―

 儚いものは、だからこそ美しい。
 今となっては遠い昔のことのように思える。満開の桜の下を並んで歩いていた
とき、遠い街で一人暮らすあの妹が口にした言葉だ。
 桜の花は風に吹かれて散る。月は雲に隠れるし、日が出ると消えてしまう。で
も、その後でも決して消えないものがある。夏の葉ばかりの枝を見て思い出す満
開の桜、そして、庭の木々の彼方に見えるはずの月が、雨に邪魔されても心に映
る輝きは、花や月、それ自体から離れて、見るものからさえも離れた真実なんだよ、
と。
 庭先の松の枝は青々と葉を繁らせて、幼い頃の思い出のまま、いつまでも変わ
らない姿を見せている。しかし、秋が深まりとともに色づく木々の中で、その姿は
どこか寂しい。時の流れに取り残されたように佇むその姿は、いつも瞳に哀しみ
の色を湛えていたあいつの姿だ。
 あいつは、小さな頃からがさつで男っぽいと言われつづけてきたあたしとは、
全てにおいて正反対だった。言いかえれば、たった一つ違いのあの妹は、あらゆ
る点で女性的だったということになる。
 あたしは考えるのが苦手だから、あの事件のとき、自分がどのように行動すべ
きなのか分からなかった。誰かに相談することも出来ず、張り詰めた空気に誰もが
疲れ切っていた日々の中で、ようやく思い付いたのは、出来る限り以前のような
雰囲気を作ろうとすることだけだった。
 結局、その努力が実ることは無かった。あいつは敢えて遠くの大学を選び、この
家から離れて行ったのである。


 姉は強い女性だった。両親が死んでしまったときも、姉は身を呈してあたした
ち妹を守ってくれた。唯一の心の拠り所だった叔父さんのときでさえ、悲しみに
暮れるあたしたちを励まし、あたしたちの前では涙一つ見せなかった。だからあ
たしは、あの事件での姉の態度が意外に思えた。
 でも、今ならすべて理解できる。姉はこれまで、あたしたち家族を背負うこと
で、なんとか踏ん張っていられたのだろう。だから、それを心の支えに出来なく
なったとき、すべてが一気に崩れ去った。それを分かってあげられなかったあた
しは、妹の方ばかりに気を取られ、ヒステリックに泣き叫ぶ姉を支えてやること
が出来なかった。
 今思えば、あの時の姉は明らかに精神に変調を来していた。耕一が外出すると
きはいつも、小さな物音でも聞きつけて、玄関まで見送りに出た。そして、耕一
が返事をするまで、何度でも同じ言葉を繰り返した。
 はじめは、姉のその態度があの妹に対するあてつけのように見えた。姉がその
ような行動を取るたびに家の空気は凍りついたが、姉は全く気にする様子もな
く、幾度でもそんな行動を繰り返した。
 その状況に我慢できなくなったあたしは、姉が玄関の物音に引かれるように立
ったのを見て、後を追った。そして、耕一に向かう姉の肩を横から掴むと、苛立
ちを込めた声でやめろと言った。
 しかし、姉の目はあたしを見ていなかった。肩を掴まれて心持ち崩れた姿勢の
まま、耕一にいつもの言葉を口にした。『きっと、早く帰ってきてくださいね』。
そのときになって初めて、あの事件の後、姉とまともに会話をしたことが無かった
ことに気付いた。耕一は疲れ切った目であたしを見ると、弱々しく笑った。
 そんな姉を一人で支え続けた耕一には、いくら感謝しても足りない。たとえ、
その原因の一端を耕一が担っていたとしても。
 あの事件の後、耕一から言われたことがある。あの時お前が変わらないでいて
くれたことは、自分にとってどれだけ支えになったか判らない、と。その一言が
あたしの心にどれだけの影響を与えたか、耕一は気付いてくれているだろ
うか。そして、初恋の相手が千鶴姉の夫になることに、小さな痛みを含みながら
も、あたしの心がどれほどの歓びを見出しているかも。
 だから、楓がこの家を出てしまったのはあたしの責任だ。あの事件では、家族
の中で当事者でなかったのはあたしと初音の二人だけであり、千鶴姉に何かがあ
った場合には当然責任を負わなくてはならない次女だったのだから。
 初音は、千鶴姉には内緒で楓に連絡を取っていて、あたしにだけはその消息を
伝えてくれる。元気でいるようだ。しかし千鶴姉に対する引け目から、自分で連
絡をとる気にはなれない。それにもかかわらず、楓は初音を通じてあたしに
メッセージを寄越した。『姉さんたちのことはよく分かってる、二人には今でも感謝
してるし愛してもいる』。初音を前にして、思わず涙が出た。
 おとなしいあの妹の中に、あのような行動を取る情熱が隠されていたことに
は、本当に驚かされた。しかしそれと同時に、その行動を当然のものとして納得
する自分がいた。あの妹がこれまで何を目的として生きてきたかは、一緒に過
ごしてきた十数年を思い返せば明らかだったからだ。


 今日、久しぶりにタマが家を訪ねてきた。彼女は梓や初音に擦り寄りながら、
食べ物をねだるように甘え声を出していたが、貰えないと分かると拗ねたように
どこかに行ってしまった。夕食の時間まではまだ間がある。
「今日は千鶴姉の番だからかなりお預けを食うかもしれないよ」
 梓がその後ろ姿に声を掛ける。タマは当然ながら何の反応も示さない。
「あの二人、遅くなるかも知れないね」
「そうかもな」
 初音の言葉に、梓は苦笑しながら応じる。梓は、思い出したように台所に向か
った。
 冷蔵庫を開けて在庫を確認する。この材料から、姉の料理のレパートリーで作
れるものは。
「カレーか肉じゃがかな」
 いつの間にか後ろから覗き込んでいた初音が言った。
「どっちだと思う」
「カレーはついこの間出たばかりだよ」
「そうだな。じゃあ」
 梓はそう言うと、流しの横にあった調味料の瓶の幾つかを手に取った。
「お塩は隠さない方が良いかも」初音が流しの下の扉を開きながら言った。「お
とといの朝のお味噌汁がお湯みたいだったのは、きっとそのせいだから」
「でも、この間の白菜の煮物がやたら塩辛かったのは、これのせいだろ」梓は苦
笑した。「お湯みたいな味噌汁を飲まされるか、滅茶苦茶塩辛い肉じゃがを食わ
されるか。どっちがいい?」
 初音はしばらく困ったように考えていたが、苦笑しながら口を開いた。
「健康のためには、塩分は控えめにした方が良いかな」
「それ以前に、味噌汁に塩を入れてるってこと自体がよく分からないけどよ」
「多分、お味噌にお塩が入ってることを知らないんじゃないかな」初音は言っ
た。「前に横から見てたら、お味噌とお塩を交互に入れてたよ。この間は、お塩
が無いから作るのを途中で諦めちゃったんじゃないかなあ」
「味噌に塩が入ってることを知らないような奴がいるか?」
 梓が呆れたように言う。初音は自信なさげに答えた。
「いつもお味噌とお塩を両方入れてから味見してたから、多分」
「味見はちゃんと出来るようになったんだけどなあ」梓は溜息をついた。「ここ
まで来るのに何ヶ月かかった?」
「さあ。でもお塩が無ければお砂糖を代わりに入れる、ってことも無くなった
よ」初音は苦笑した。「確実に上手くなってるよ。確実に」
 梓はつられて笑いながら、抽斗からマジックペンを取り出した。そして味噌の
袋に大きく『塩はちゃんと入ってるよ』と書きつけた。
「これで上手くいくかねえ」
 梓は振り返った。初音の楽しそうな笑みが梓の目に映ったが、その初音越しに、
もう一つの視線と目が合った。
「タマ、こんなところにいたのかよ」
 さっき、どこかに歩いて行ったと思ったタマは、食卓の椅子の上で、どうやら
二人のやりとりの一部始終を眺めていたらしかった。五つある席の一つに、タマ
は四本の足を投げ出すようにして横たわっていた。
「ここはだめだよ、楓お姉ちゃんの席だから」
 初音がタマをそっと抱え上げた。以前梓が窘めてから、初音は『お姉ちゃん』
というような幼い言葉は使わないように気をつけていたようだったが、楓のことにな
るとつい昔の口調が戻ってしまうらしい。梓はそれを咎めようとは思わない。た
だ、楓のことになると、懐かしいあの頃のことをつい思い出してしまう。初音が
そのような口調になるのも、恐らくは同じ思いだからなのだろう。
 楓の席は、彼女が遠い街に移った後もそのままにしてある。皆で食卓を囲むと
きも、一つだけ空いた椅子に侘しさを誰もが感じているに違いないが、それを片
付けようと言い出すものは無かった。なにより、あの叔父がこの家に来た十数年
前から、椅子の数はずっとこのままなのである。
「そういえば、お前がこの家に来るのも久しぶりだな、元気にしてたか」
 梓は、初音に抱かれたタマの鼻先を突付いた。タマは迷惑そうに顔をそむけ
る。初音は楽しげに笑いながらタマを床に下ろした。
「わたし、ちょっと失礼するね。明日レポートの提出期限だったのを忘れてた」
 初音はそう言って部屋を出て行った。梓とはたった二つ離れているだけなの
に未だに言動に幼いところがあるあの妹がもう大学生になっていることが梓
には少し不思議に思えた。
 ちょうど梓がいるところにだけマットが敷いてあるためか、タマは梓の足元で
身繕いを始めた。
「楓のやつはいないけど、お前、寂しくはないか」
 梓がしゃがみこんで話し掛ける。しかし、タマはその呼びかけも意に介さない
様子で顔を洗いつづけた。
 こいつだけは変わらない。あの頃から何も変わってはいない。昔のことを思い
出して、少しだけ涙が零れた。


 あの夜の楓は、明らかに様子が変だった。
 楓は、普段から物静かな娘だった。必要なこと以外、ほとんど話をするという
ことがなく、叔父に昔の話、特に耕一に関する話をせがむことがほとんど唯一の
例外と言って良かった。
 それを知るものにとって、楓がはしゃぐ様子はあまりにも不自然だった。しか
しその楓の態度を、耕一は戸惑いながらも微笑んで、千鶴は上気した顔を綻ばせ
ながら受けていた。皆には楓のその態度が、二人に対する祝福の気持ちだろうと
解釈せざるを得なかったからだ。その判断は、後から考えればあまりに愚かだっ
た。楓が自殺を図ったのは、まさにその晩のことだったのだから。
 血溜まりの中で、楓の顔は安らかだった。日本的な、女性的な美しさを凝集し
たようなその姿は、赤のキャンバスに、白い肌を一際浮き立たせていた。
 幻想的な光景だった。恐らくは彼女が普段から使っていたであろう実用品のカ
ッターナイフが、味気ない姿を血溜まりの中に晒していたが、そんなことは問題
にもならなかった。満足げに、微笑みさえ浮かべたその顔は、彼女の思いのすべ
てを表しているように思えた。楓は今、梓が持たない全てを手に入れていた。楓
は、その左の手首を切り裂くことで、永遠の姿を手にしたのだ。
 どれくらいその状態でいたのかは分からない。梓の背後から、叫び声がした。
梓がいつまでも戻ってこないことを不審に思った初音が、わざわざ遣って来たよう
だった。
 初音によって、楓の上体は抱きかかえられた。しかし梓は動かない。それどこ
ろか梓には、その初音の行動が、この上なく無粋なもののように映っていた。白
い肌を伝った鮮やかな赤が、楓の名の通りにその手のひらを染めていた。
 美とは形あるものから離れた永遠の姿である。そしてそれはいつだって人の心
を惑わせる。

 

第六章

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