第四章 葉守 ―千鶴―

 明けぬ夜は無い、そんな言葉をはじめて口にしたのは誰だったのだろう。
 目を癒す緑に囲まれたこの街も、この季節には遠くの山々の紅葉が、葉を落と
した木々の白をキャンバスにして目に映える。祖父や父、そして叔父たちが作り
上げたこの街並は、公園の木々にも季節の移ろいが意識され、秋の深まりととも
に黄や赤が目立つようになる。あの黄色は銀杏と、そして私たちの名前にもある
柏である。
 柏の木は葉を落とさない。枯れ果てた葉はいつまでも枝にしがみついて、春の
訪れの、新しい命の芽生えを見届けるようにして力尽きる。それはまさに、最愛
の妻子から離れて、私たち姉妹の保護者になってくれたあの叔父の姿だ。八年も
の間、内から湧き上がる破壊の衝動と戦い続け、長女の私が学業を終えるのを見
届けるようにして命を絶った、あの人の姿だ。
 あの夏、花火大会の人ごみの中にそっと消えたその後ろ姿は、今でも私の心に
焼き付いている。それは全ての終わり、そして、全ての始まりだった。
 叔父の後ろ姿を見送りながら、来年は叔父ちゃんともずっと一緒にいられる
ね、と嬉しそうに言った末の妹は、その言葉に堪え切れず、その場に泣き崩れて
しまった私をどう見ただろう。うなだれる私の背に、訳も分からずに添えられた
あの手は、あの人が全てを擲って守りぬいた、あの子の純粋さの証しだ。しかし
その無垢な心は、あの時の私の姿を糸口にして、やがてはあの人の死の真相を察
してしまったに違いない。私は、あの人の思いを裏切ったのだ。
 暖房の効いた車内には、潮風の名残が微かに漂っている。冬の海、鈍色の空を
求めて、寒風に吹かれようなどという酔狂に貴重な休日を潰してしまったのに、
私の横でハンドルを握る恋人は何も聞かずに頷いてくれた。しかしこの人には、
私たち姉妹が共有するあの叔父との思い出も存在しない。私たち姉妹があの叔父
と過ごした日々も、叔父が誰よりも愛したこの人にとっては全てが空白なのである。
 叔父の机には、読み古された文学全集の一冊があった。豪放ながら意外と勉強
家らしい叔父の書棚には多くの本が並んでおり、中でも全集はそのスペースのか
なりを占めていた。しかしそれらは、机のものと比べればあまり開かれることは
無いらしく、化粧箱の傷みもほとんど見当たらない。書棚には、机の上の巻を納
めるべきスペースすら無かった。叔父はこの本にかなりの思い入れがあるらし
い。興味を惹かれた私はその本を手に取ると、ページを開いた。
 それは、短編を得意とした著名な作家の作品が収録された巻だった。本の折り
目から、最後近くのページに収録された幾編かの作品が、特に読み込まれている
様子が窺い知れた。それらは、発狂への恐怖から、神経の消耗の果てに若くして
死を選んだ著者の、遺書ともとれる晩年の作品群だった。叔父はその戦慄に満ち
た文章を自らに投影し、時も忘れるようにして読み耽ったに違いない。
 しかし、その時の私には、そのような叔父の思いを察することができるだけの
知識が無かった。大した感慨も持たずにページをめくる私の目に小さな紙切れが
留まった。栞の代わりか、細長く折り畳まれていたその紙には、小さな字で書き
込みがされていた。
 なぜそのような行動を取ったのか、自分でも分からない。その紙切れをポケッ
トに入れると、本を元通り机の上に置き、自分の部屋に駆け込んだのである。も
しかすると、紙切れを開いたときに目に飛び込んだ文字に、意識せず反応したの
かもしれない。紙切れに書かれた文字は、明らかに叔父自身の手によるものであ
った。そこに書かれた文章は今でも思い出すことができる。
「耕一へ。
 俺はお前の面倒を思うように見てやることができない。だからお前には何も注文
しない。好きなようにやってくれ。三十まではお前を勘当した積もりでいる。しかし、
三十を過ぎたら俺という親があることを思い出せ。だから、体は大切にせよ。
 人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大切なものがあるはずだ。
 自分の選んだ道をしっかりと歩け。焦ることはない。たとえ失敗したとしても、親は
責めはしない。ただし、自分で解決できないことがあれば、俺を頼って来い。俺は
いつでも待っている」
 私はその夜、その紙切れを密かに焼いた。それは恐らく、私たち姉妹が唯
一のこころの拠り所としている叔父が、私たち以外の人間を一番想っていること
への嫉妬だったのだろう。しかし、その行為に罪の意識を感じながらも、私は同
時に全く逆の感情、つまりは安心感さえ覚えていた。あの時でも私の理性は、そ
の行為が甘えに起因するものであることを理解していたのだろう。安心感は、そ
の甘えを、確かに受け止めてくれる人がいるという実感がもたらしたものだった。
 その後も、私や妹たちに対する叔父の態度は変わらなかった。私たち姉妹に対
して、その紙切れがなくなったことで叔父が何か口にするということも無かった。
だからその私の行為が、一人息子に対する叔父の行動にどのような影響を与
えたのか、叔父が死んでしまった今となっては分からない。その紙切れは、叔父
が悩みに悩んだ末に認めた下書きだったのかもしれないし、あるいは単に気紛れ
に書いたものだったのかもしれない。いずれにせよ確かなのは、叔父がその内容の
手紙を息子に出すことが遂に無かったということだけである。
 これは、私がまだ高校生だった頃の、小さな秘密である。


「紅葉が綺麗ですね」
 何の前触れもなく、千鶴はそう呟くように言った。声が小さ過て聞こえなかっ
たらしく、耕一は何も答えずに、視線をちらりと助手席の婚約者の方に向けた。
「この季節にはこの街の樹も色付いて、なんだかほっとします」
 千鶴は横のガラス越しの、道路脇の木々に目を遣りながら言った。
「詩人だね」耕一が楽しげに微笑みながら言う。その言葉にどこか揶揄するよう
な調子を感じた千鶴は、口を尖らせた。
「からかわないでください」
「からかってないって」
 耕一は千鶴の姿越しに外を窺った。道は公園の中を巡るように伸びている。
「この季節には、まるで街中が染まるような気がします」
「観光地の演出としては上出来だね。春は桜の木の下で、夏は花火と海水浴。秋
は紅葉に包まれて」
「こんなときまでお仕事の話ですか」
 千鶴の微かに非難と甘えとを込めて言った。耕一は苦笑を抑えながら言い直す。
「恋人たちが佇むには、最高の演出だろうね」
 千鶴が可笑しげに笑う。千鶴は笑顔のまま外の景色を目で追っていたが、思い
ついたように口を開いた。
「少し歩きませんか。映画の一シーンみたいに、ロマンチックに」
「時間が無いよ。靴屋さんに寄らなきゃあならないし」
「靴はまた今度。次にお休みが頂けた頃には、きっと紅葉の季節も終わってしま
っていますから」
 気分は既にかなり盛り上っているようだった。このところ、千鶴が今日ほどは
しゃぐのは珍しかった。耕一は諦めたように車を停める。飛び出るように車から
降りた千鶴は、風の冷たさも気にならないように髪の毛を掻き上げた。風に弄ば
れる紅い葉を目で追い、やがて車のボンネットに引き寄せられるように舞い落ち
たそれを拾い上げた。元の木を見上げる。二本の木が、黄と紅とを競うように葉
を交わらせて、一際鮮やかに秋の深まりを演出していた。
 千鶴は仰ぐように見上げながら、ボンネットに凭れ掛かった。遅れて降りた耕
一は、寄り添うように側に立つ。
「運転してたときは気がつかなかったけど、本当に凄いね。千鶴さんが詩人にな
るのも頷けるよ」
 しかし千鶴は、その言葉も聞こえないように一歩二歩とその木々に近づいて行
った。
 あの黄葉は私たちの名前にもある柏、そして鮮やかな紅は楓の木だ。寄り添う
ように枝を重ねたその姿は、あの妹が遠い街に発ったあの日のことを記憶の
奥底から呼び起こさせた。


 楓は荷物をまとめ終えて、汽車の時間を待つばかりの様子だった。初音が心配
そうに、頻りに楓に話し掛けるのを、梓はからかうように窘めていた。初音の言
葉を困ったような顔で聞いていた楓は、苦笑混じりの笑みで梓に応えた後、再び
初音に向き直った。
「大丈夫だから」そう言って初音の小さな体を抱きしめた楓の姿は、確かに姉と
してのそれだった。目に涙を浮かべた妹の背中を優しくさすりながら、楓はもう
一度同じ言葉を耳元に囁いた。いつの間にあんなに大きくなったのだろう。心許
せる限られた人たちのほかには話さえ出来なかったあの子は、あの日遠い街に発
ち、たった一人の暮しをはじめようとしていた。
 千鶴の視線に気がついた楓は、いつものように視線を逸らした。しかし、思い
返したのか再びこちらを見つめると、笑みを浮かべた。あの事件の後、楓が千鶴
に微笑むなど、まず無いことだった。正直言って、嫌な予感がした。視線を千鶴
に向けたまま初音から離れた楓は、ゆっくりと近づいてきた。
「お願いがあるんだけど」
 何気ない口調の、何気ない台詞のはずなのに、その言葉にはその場を凍りつか
せるだけの重みがあった。しかしその場にいる他の二人の手前、平静を装わねば
ならない。千鶴は、続きを促すように頷いた。
「叔父さんの腕時計、餞別に欲しい」
 楓は、全てを計算していたに違いなかった。出立の日として敢えて耕一が不在
の日を選んだのも、それが千鶴にどれだけの衝撃を与えるかも。そして、千鶴が
決して自分の要求を断れないことも。
 千鶴は部屋に戻り、鍵のついた抽斗を開いた。時計は事故の衝撃のために、時
を刻むことを諦めていた。無論、使う人間のいない今となっては、その必要も無
かったが。
 見た目だけは値段相応だけど、すぐに狂っちまうんじゃ時計の意味が無いよ
な、叔父のそんな愚痴が思い出される。あの日叔父が身につけてたものは、全て
棺に納められたが、金属は火葬場の缶を傷めるという理由で、唯一この腕時計だ
けが免れていたのである。
 楓は時計を受け取ると、眩しいくらいに白い包帯の上から付けた。細腕に不似
合いなそれは、右手を離した途端に肘を通りぬけて肩近くまで滑り落ちた。ベル
トを調節しないと付けられないね、とはしゃぐように言ったその顔には、その声
とは裏腹に寂しい笑いが張りついていた。復讐を遂げた楓の顔に、悦びの色は無
かった。
 駅のプラットホーム。別れ際、列車の乗降口に立った楓は、手すりを握り締め
たまま俯いていた。千鶴に遠慮するように、他の二人は一歩下がったところにい
た。二人とも無言のまま、やがて時間がやってくる。
 閉まる扉のガラス越しに、顔を上げた楓の口が動いた。軋みを上げて列車が動
き出し、お互いが見えなくなるまで、その目は千鶴を追っていた。
 耕一さんは、叔父さんじゃないよ。
 列車が見えなくなっても、千鶴は呆然と立っていた。あんな寂しげな目をされ
たら、憎むことすら出来はしない。


 私はこれまで、何のために苦しみを背負ってきたのだろう。
 千鶴は、傍らで手持ち無沙汰に佇む耕一に微笑んだ。耕一は、戸惑いながらも
笑みを返す。千鶴は、冷え切った体に婚約者の温もりを感じながら、薄く積もった
木の葉を踏みしめて歩いた。
 明けぬ夜は無い。明けない夜なんて、絶対にあり得ない。

 

第五章

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