第三章 潮影 ―耕一―

 浜辺で見る青空は本当に美しい。
 四人の従姉妹たちに初めて会った夏、波に素足を洗わせながら、歳の近い下の
三人の従妹たちとともに眺めた水平線は、小学生の頃の、あの無邪気な笑顔を浮
かべることができた最後の夏の思い出そのままに、人の営みとは無縁に変わらぬ
姿を見せてくれる。波打ち際に沿って、四人分の足跡をどこまでも残した白砂
は、やはりあの頃のまま、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。ただあの思
い出とは違い、風は雪を予感させる冷たさと厳しさをとを伴うそれである。この
季節には珍しく晴れ渡った空の下、浜辺を、俺は近い将来妻となる女性とともに
立っていた。
 砂のあちらこちらに、打ち捨てられた花火の燃え残りが埋もれていた。足元の
一つを何気なく拾い上げる。長い竹串の先に火薬のついたロケット花火だった。
その夏の名残は、あの頃の、これまで思い出すことの無かった小さな出来事を不
意に甦らせた。
 いま思い返せば、遠い街の大学で医師を志すあの従妹は、並んで歩くとき、決
まってその右手を俺に預けていたように思う。何気なく末妹の初音に左手を差し
出したとき、初音は一つ上の姉の顔色を窺った後、こちらの右手を抱き上げるよ
うにして掴んだことを思い返せば、どちらの手で繋ぐかということが、やはり彼
女たちにとって特別な意味を持つことだったのだろう。
 あの夏の陽射しの下、先を歩く梓に足の遅さをからかわれながら、下の二人と
並んで歩いていたとき、それまで弱々しく添えるように握られていた左手が不意
に軽くなった。立ち止まって振り返ると、楓はその場にうずくまっているように
見えた。足に怪我をしたのかと思い、俺は慌てて声を掛けた。


「どうかしましたか」
 耕一は慌てて顔を上げた。少し離れた波打ち際で、彼の婚約者、柏木千鶴がこ
ちらに微笑んでいた。
 夏には多くの観光客で賑わう浜辺も、冬の訪れを感じさせる風の中ではやはり
趣きが異なる。たとえ日の光が辺りを包み込んでいたとしても、見渡す限りの凍
えた海に、敢えて訪れるほどの魅力を見出すのはやはり難しかろう。しかし、だ
からこそ二人はこの場所に立っていた。久しぶりの休暇に二人きりの時間を望ん
だ彼女が、あえてこの場所を選んだのである。
 千鶴は、強い女性だった。心の支えであった叔父が苦しみの果てに死を選んで
も、彼女は残された彼女の妹たちのために良き姉を演じつづけた。既にその心を
捉えていた従弟が殺人鬼だと確信したときにも、彼女は、その一族の掟に愚直な
までに従順だった。
 しかし、だからこそ、気が緩み切ったときに起きたあの事件に対して、その心
は無防備だった。
 千鶴は、このところ落ち着いているようだった。五年前のあの一連の事件によ
って打ちのめされた彼女の精神は、ようやく平穏を取り戻しつつあった。時折見
せる童女のような無邪気さ、そして残酷さは、彼女の妹たちによれば、あの事件
の後に目立つようになったという。不器用な姉を演じることで妹たちに予定調和
的な安心感を与えつづけてきた彼女も、あの事件を境に、逆に支えられる側に回
っていた。
 あの事件以降、彼女は全てを背負い込むことを諦める代わりに、殊更にその自
我を守ろうとするようになった。千鶴は今、こちらに向けて無邪気な笑顔を示し
ている。しかしその無防備な様子も、耕一には計算に基づいているという疑いを
消すことが出来ない。その疑いを否定するには、彼女はあまりにも聡明過ぎた。
「千鶴さん、そんなところに立ってたら、足元が濡れちゃうよ」
「大丈夫ですよ。私はそこまでおっちょこちょいじゃありません」
 千鶴が笑いながら言った途端、大きな波が彼女の足を洗った。
「だから言ったのに」耕一は努めて呆れたように、それでいて楽しげに言った。
しかし千鶴はそんな耕一をよそに、スカートの裾が濡れないように心持ち引き上
げながら足元を見下ろしていた。久しぶりの休暇に、めかし込んで出て来た以上
は、彼女にとって一番の靴だったに違いない。
「今日は天気も良いから、すぐ乾くよ」
「でも」千鶴は泣きそうな顔で言った。「塩水を吸っちゃってますから、乾いて
も」
 恨めしそうな目で見上げる千鶴に、耕一は苦笑しながら言った。
「また買えば良いじゃないか。帰りに靴屋さんに寄っていこう」
 耕一に肩を抱き寄せられて、千鶴は渋々ながら頷いた。気持ちが悪いから脱い
じゃいますね、そう言いながら、千鶴はストッキング越しの素足を砂に埋めた。
「あ、ちょっと待って」
 歩き出そうとした千鶴に、耕一は慌てて声を掛ける。振り返る千鶴を、耕一は
背中から抱え上げた。
「あの、何を」
 顔を赤らめて弱々しく抗議する千鶴に、耕一は言った。
「裸足で歩くのは危ないよ。いろんな物が落ちてるからね」


 耕一の手を振り解いてうずくまっているように見えた楓は、予想に反して得意
げな顔を耕一に向けた。
 訝しげな表情の耕一の顔の前に彼女が右手で掲げるように示したものは、紫に
塗られた竹串の先に火薬が紙で巻かれた、派手な音を立てて飛ぶ、いわゆるロケ
ット花火の燃え殻だった。恐らく海に向かって飛ばしたものが波によって押し戻
され、打ち上げられたのだろう。
「そんなもの拾っちゃだめだよ、汚いから」
 楓や初音には、耕一も梓に対するような乱暴な口を利く訳にはいかない。耕一
は穏やかに、しかし精一杯の威厳を込めて言ったつもりだった。四人の中では耕
一が一番年上だったし、なによりも、憧れの女性である千鶴から、彼女たちの面
倒を見るように頼まれていたからである。
 しかし楓は耕一の思惑に反して、楓は顔を大きく横に振った。
「お父さんは、拾わなくちゃだめだって言ってたよ」
「どうして」
「砂浜を裸足で歩く人たちも多いから、こういう危ないものは放っておいちゃい
けないんだって」
「そういえばお父さん、そんなこと言ってたね」初音が口を挟む。
 二人が言っているのは恐らく、散歩か何かで連れ立って出た際に、伯父が言っ
た言葉なのだろう。彼女たちの父親は、いつも穏やかに微笑んでいるようなイメ
ージの人だった。人が良すぎるのが唯一の欠点だ、とは実の弟である耕一の父親
の言葉だ。この夏初めて会った耕一の四人の従姉妹はみな、お人よしであたたか
な少女たちだったが、それは父親と、似たもの夫婦だとよく言われる母親の性格
をそのまま引き継いだもののように思えた。
 耕一たちがいつまでも歩き出す素振りを見せないために、先を歩いていた梓が
非難の声を上げながら戻って来た。しかし耕一は、ぶつぶつ言う梓を尻目に、周
囲をざっと見まわして、意外と汚れていることを見て取ると言った。
「よし、じゃあ今からこの浜を掃除しよう」
「磯の方に行くんじゃなかったのかよ」
「ゴミがたくさん落ちてるだろ。ああいうものは拾っとかないと、誰かが裸足で
踏んだら大変なことになるじゃないか」
 含み笑いをする二人の妹たちを、梓は膨れっ面で見ていたが、耕一と妹た
ちが動き始めたのを見ると、不貞腐れたようにそれに続いた。しかし、すぐに気
分が切り替わったように張り切り出して、妹たちにあれこれ指示を出すようにな
ったのは全く彼女らしかった。
「楓ちゃん、よく気がついたね」
 耕一は手を動かしながら、傍らの楓に言った。楓は、何も言わずにただ嬉しそ
うに笑っていた。それから、皆が音を上げて切り上げるまでの間、楓は片時も耕
一の傍を離れず、楽しげに笑みを浮かべていた。
 時が経てば思い出は色褪せる。しかし、それと同時に純化されてゆく。
 今思えば、あの頃の彼女は、本当によく笑う子だった。


 車を停めてある道路脇までは、少し歩かなくてはならない。腕の中の千鶴は顔
を赤くしながら、時折見上げるように耕一の顔を盗み見ていた。彼女を抱く腕に
少し力を込めると、彼女は安心したように溜息をつくと、右手を耕一の胸に当て
て顔を埋めた。
 姉妹たちが変化したのは、あの思い出のすぐ後の出来事のためだったのだろ
う。一度に両親を失った彼女たちは、二人が必死で四人の娘たちから遠ざけよう
としていた現実の中に、何の準備もなく放りこまれたのだ。
 その中で、千鶴は自らを盾にしたことで、その心を変化させた。楓は自らの殻
に閉じこもることで、自らを守ろうとした。それらの行動は単に、それぞれの立
場によって決定されたに過ぎない。恐らくは、彼女たちが逆の立場なら、互いに
相手が取ったような道を選んでいたのだろう。いずれにせよ、頭が良すぎたこ
と、そしてこころが純粋過ぎたことが彼女たちをそのように変質させたのだ。
「あ、そうだ。早く戻らないと」
 千鶴は突然、左手の内側にある時計の針を確かめて言った。
「今日は私が夕食を作る番ですから」
「もうそんな時間?」耕一は同じく時計を覗き込んだ。「ああ、本当だ。急がな
いといけないな」
「ええ、この間みたいなことになったら大変ですから」
「ええと、あの時は出来上がったの、夜の十一時だったっけ?」耕一は苦笑し
た。「梓や初音ちゃんの手を借りればよかったのに」
「手を借りたら、私の料理じゃなくなっちゃいますから。 あの日は、味だけは
自信があったんですよ」
「超薄味だったけどね」
「け、健康のためには塩分は控えめにした方が良いんですよ」
 千鶴が顔を薄く染めて膨れ面をする。耕一はそっぽを向いて、わざと千鶴に聞
こえるような声で苦笑した後、しみじみとした声で言った。
「たのしみだな。最近、本当に上達してきてるからね」
 千鶴は嬉しそうに目を細める。やがて千鶴は、耕一の胸に顔を埋めながら、消
え入りそうな声で言った。
「私を放さないでください」 
「もちろん」耕一は苦笑した。「放してくれって言ったって、放さないよ。こん
な風にね」
 耕一はそう言いながら、千鶴の顔に頬摺りをした。千鶴の慌てたように抗議す
る声を聞きながら、耕一は自らの顔が千鶴に見えないようにするため、その体を
抱え込むようにした。
 決して放さない、その言葉に偽りを込めたつもりはない。
 しかし、この五年の間で、心を隠すことばかりが巧くなってしまった気がする。

 

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