第二章 宵闇 ―祐介―

 自分にとって、夕焼けの屋上は特別な場所だ。
 あの悪夢から五年、彼女の笑顔を再び見たいという思いが色褪せることは無く
ても、その目的を果たすために志した医学の水準の現状を知れば知るほど、絶望
へと引き摺られてゆく心を抑えることが出来ない。ほんの半世紀前には不治の病
とされていた難病の多くが克服された今でも、身体と対を成す精神の病に向かっ
たとき、医学はあまりにも無力だ。医療業務の傍ら教鞭を執る多くのベテラン医
師たちから、国内でも最先端と言える治療の現状を聞かされたとき、切実に望
み、あるいは当然のことと期待したそれとのギャップに愕然とさせられたこと
を、まるで昨日のように思い出すことができる。
 近代精神医学が成立してから百年を超えた今も、人口の1パーセント弱を占め
る精神分裂病に対してさえ、その原因を生物学、生理学的な面から解明できたと
は言い難い。病初期において、治療が著効を示したと論文誌に華々しく紹介され
た症例のかなりの部分が、十年、二十年を経た今、社会復帰など考えられぬほど
に重症化、慢性化して、精神病院の片隅で、あまりにも長い休息のときを過ごし
ているのである。
 論文に書き留められるということは、それらの患者はその後の時間の移り変わ
りを奪い取られた状態として記録されるということだ。言いかえれば、論文に限
らず読者に希望を示して結ばれるすべての文章は、その後起こるかもしれない悲
劇を巧みに覆い隠しているのである。
 時の移り変わりは、それほどまでに残酷だ。だからこそあの女性は、悲劇を孕
んだ現実よりも、もはや変わることのない肉親が待つ永遠の闇を選んだ。鮮やか
な夕焼けが街を包んでいたあの日の屋上で、赤銅色に染まった街並を背に口元だ
けの微笑みで迎えてくれた彼女は、白いベッドの上で、お伽話のヒロインのよう
に、既に失われてしまった時を追い求めて、移ろいゆく現実の世界から遠く隔た
った場所へと旅立ってしまったのである。
 時間が経つにつれて、暗い感情に囚われてゆくこころをどうすることもできな
い。彼女にとってこの僕は、単に最愛の兄を救い出すために必要な道具だった。
彼女にとって本当に必要だったのは、この僕ではなく、その半身とも言うべき兄
だった。別れ際の触れるだけの口づけは、永遠の別れのなごりに、彼女が自分に
思い出を贈るため。あの出来事の後、彼女の家を後にしたとき、まどろむような
安らぎに身を任せていた僕の背中を、彼女は裏切りに罪の意識を抱きながら見送
っていたのだろうか。


 潮風はやがて温もりを失ってゆく。夕日の赤は漆黒に侵されて、雲の紫にその
面影を託す。やがてはそれも掻き消えて、月が青白く霞みはじめる。祐介はその
暈のかかった月から、先ほどまで楓が立っていた場所に視線を移した。
 彼女とは、よくこの場所で顔を合わせる。ほとんど人が来るとも思えないこの
場所で人影を見出したのは、ここに五回ほど足を運んだときだった。週に一度か
二度の瑠璃子の見舞いの後、いつの頃からか、この場所で一人空を見上げる習慣
がついていた祐介は、ある日、柵の傍で佇む彼女と出会ったのである。
 夕日を背にこちらを振り向いた楓が、一人の時間を邪魔されたためだろう、非
難を込めた目で見ているにもかかわらず、祐介は階段を上りきったところにある
扉の前で呆然と立っていた。小柄な身体と短く切り揃えた髪は、逆光で彼女が影
になっていたために、祐介の目には瑠璃子が遂に目を覚ました姿に見えたのであ
る。
 そういえばあの時、彼女はなにも言わない自分に腹を立てて、こっちのすぐそ
ばをすり抜けるようにして、睨みながら立ち去ってしまったんだっけ。
 楓とは、その三年前に入学して以来の付き合いである。とはいえ、当初から親しか
ったわけではない。二人とも社交的な性格ではなかったこともあり、お互い顔と
名前が一致する程度にしか認識していなかった。それが、この場所での出会いの
翌日、彼女が祐介に話しかけてきたことがきっかけで、大きく変化したのであ
る。
 しばらく後に、なぜ彼女から話しかけてきたのか聞いてみたことがある。少し
考える素振りをした後、「あんなところに顔を出すなんて、変わった人だと思っ
たから」などと答えた。考えた末の台詞としては酷く無神経だが、だからこそ彼
女らしいと言えた。しかし、そのように言われても腹を立てるどころか、そこに
含まれた諧謔味に素直な笑みを漏らしてしまったことを考えれば、その評は的を
射たものだったかもしれない。更に言えば、「あんなところ」によく顔を出す楓
自身、やはり変わりものに違いなかった。
 さっき、自分が来たことで彼女は気分を害しはしなかっただろうか。祐介はふ
とそんなことを考えてから、思わず苦笑を浮かべた。もしそうなら、彼女はすぐ
にこの場を去っていただろう。柏木楓はそういう女性だ。
 しかし、今日の彼女にはどこかおかしなところがあった。
 いつもの彼女は、めったに自分のことを語らない。親しい仲間ですら、彼女の
実家がどこにあるかとか、それに当人は否定しているが、どうやら地元では有名
な会社の社長令嬢であるらしいこと、そのくらいしか把握していない。殊に過去
のことに関しては、医学生らしい個人主義の空気のせいか、敢えて深く詮索しよ
うとする人もおらず、誰も何も知らないと言ってよかった。男物の腕時計の下に
隠されたリストカットの痕にはみんな恐らく気付いているだろうが、祐介の耳に
入る情報はことごとく憶測の域を出ない。彼女は目を見張るほどの美人でありな
がら特定の男性がいないようだが、それは彼女の性格と、その性格から容易にそ
して強固にリンクしてイメージされる左手の痕跡が原因だろう。
 人って、簡単に死んじゃうんだよ、そう彼女は言った。この言葉は、経験に裏
付けられた感慨に違いない。彼女の過去を知ることができなくても、どれほど過
酷な経験をしてきたかはその振るまいから察することができる。祐介自身、苦い
過去の軛(くびき)にいまだに繋がれているのだから。
 祐介は視線を水平線の彼方に向けた。薄暗い視界の手間に波打ち際の白い泡が
映える。闇が覆い被さってくるような息苦しさを感じながら、祐介は柵に掛けた
手に力を込めた。
 人が死ねば、医学の力をもってしてもどうすることもできない。この構図は、
将来も変わることはないだろう。医学の進歩によって生死の境界を死の側へ押し
広げることができたとしても、まず第一に不可逆的な侵襲が起こる脳を元通りに
することはできないのだから。たとえ、脳神経の再生が技術的に可能となり、死
んだ者をすら生き返らせることができるようになったとしても、処置を終えた後
に手術室から出て来るのは、過去の記憶をすべて失った別の人間である。かけが
えのないその人そのものが返って来ることは永遠にあり得ないのだ。だから、楓
の言葉に更に付け加えるならば。
 人のこころは、簡単に壊れてしまう。
 諦めに支配された主治医が指示する処置はたった一つ。永遠を手にしたあの兄
妹は、事情を知り尽くした、彼女たちの唯一の肉親である病院長の同意のもと
に、栄養剤の注射液を、明日も明後日も無気力な看護婦たちの手で投与されてゆ
くのだろう。そして彼女は、医療ミスの痛々しい火傷の跡をその指先に残し、朽
ち果てぬことを唯一の生の証しとして眠り続けるのだ。


 夕暮れに風の強い屋上で佇むのは少し堪える。祐介は、屋内に戻ろうと振り返
った。階段の降り口に歩き出そうとしたとき、不意に扉が開いた。暗がりに慣れ
た祐介の目に、階段の上り口の人影が映る。
「まだいたんだ」
 人影が呆れたような、それでいてどこか楽しげな調子で言った。
「月が綺麗だったからね」祐介は、暗がりのおかげで沈んだ表情がばれなかった
ことを感謝しながら、明るい調子で答えるべく意識しながら言った。「で、楓さ
んは?」
「忘れ物をしたような気がしたから」
「忘れ物? 一体何を」
 楓は、少し困ったような表情で祐介の顔を眺めていたが、やがて肩を竦めて言
った。
「気のせいだったみたい」
「気のせい?」
「確かに忘れたような気がしたんだけど」
 楓はそう呟きながら首を傾げていた。祐介は彼女らしいと思いながら苦笑を漏
らしたが、口には出さなかった。たとえ言ったとしても、楓が機嫌を損ねること
はなかっただろうが。
「もう帰るつもりだったんだけど」並んで階段を降りながら祐介は言った。「よ
かったら、どこか食事にでも行かない?」
「もう済ませちゃったから」
 そう言った途端、楓の腹が鳴った。楓は一瞬困った顔をしたが、それでも訂正
しようとはしなかった。祐介は素知らぬ顔をする。楓の付き合いの悪さは、長い
付き合いの祐介にはよく判っている。祐介は、苦笑しながら口を開いた。
「さっきの話だけど」
「さっきの話?」少し気まずそうにしていた楓は、ホッとしたような顔で言っ
た。
「瑠璃子さんの容態のこと」
 ああ、というように楓は頷いた。しかし、何故その話を持ち出したのか判ら
ず、不思議そうに首を傾げる。先ほどまでいた基礎研究棟を出て、二人は医学図
書館の前の石畳を歩いている。大きな窓越しに見える閲覧席では、勉強会らしく
机を囲む学生たちの姿のほかに、白衣姿の医師らしき男性が本の文字を辿りなが
ら頻りにメモをとっている様子が見える。祐介は、同じく窓の奥に視線を向けて
いる楓の方を振り返ると、再び口を開いた。
「こころって、一体なんだろうね」
 楓は、しばらく無言で祐介の顔を見詰めていたが、やがて視線を正面に向けて
言った。
「少なくとも、魂とかそういうものとは違うってことだけは確かじゃない?」
「参ったな。まさか、こんな形で反撃にあうとは思わなかった」
「反撃じゃないよ」楓は言った。「人が死んだら、何も残らない。祐介くんもそ
う考えてるんじゃないの」
 祐介はそれに答えずに、図書館の方をそっと振りかえった。
「そういえば、明日小テストがあったね」
「嫌なことを思い出させてくれるね」楓は苦笑した。「私たち、一体いつまで試
験漬けの生活を続けなきゃいけないのかなあ」
「とりあえずは国試までじゃないかな。あと二年を切ってるけど」
「二年。それだけは聞きたくなかった」
「人の生死を握る仕事だから、厳しいのは仕方がないのかもしれないけどね」
 祐介はそう言うと、俯きがちに続けた。
「人が死ぬと、魂も何も残らない。それなら、こころが壊れちゃったら、その人
はどうなるんだろう」
「こころが壊れる?」
 楓が不思議そうに聞く。しかし、祐介は正面を向いたまま、感情を押し殺した
声で言った。
「彼女、もう駄目かもしれない」

 

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