第一章 夕日 ―楓―

 夕暮れ時になると、いつもそこに足が向いてしまう。
 階段を上り切った所にある屋上への扉を開くと、燃えるような赤が目に飛び込
んでくる。風雨に晒された医学部棟の、ほとんど人が立ち入るとも思えない広い
屋上には、空調の室外機らしい大型の設備が赤錆を浮かせてひしめいている。そ
んな中を、西側の柵のある端まで進むと、水平線に隠れんとする夕日が見える。
夕日の温もりを乗せた風は、微かな潮の香りをも運んでくる。海がこれほど近く
にあることは、この場所を知るまで気付かなかった。
 潮の香りは、私に山と海とに囲まれた故郷の街並を想起させる。そして、辺り
を一様に赤く染める夕日が呼び起こすのは、遠い昔の記憶である。
 燃え盛る火の海と、その只中に立つ私。そして、木に背を預けて倒れている男
がこちらを見上げている。身が震えるような懐かしさと、同じだけの苦さを伴っ
た記憶は、離れた街に一人暮らす今の自分にとって、少なくとも安らぎではあり
得ない。なのに、夕日が沈もうとするこの時間になると、いつもこの場所に引き
寄せられてしまうのである。
 故郷にいた頃には肩ほどに切り揃えていた髪も、今では背を覆い隠すくらいに
まで伸びている。あの街を出たのを機に、身なりを飾り、殊更に人の輪に入ろう
とすることによって、全てを変えるつもりだったはずなのに、今振り返れば、外
見はともかく肝心の内面は何も変えられなかった気がする。
 以前、学友の一人が、私を猫のような性格だと評したことがある。確かにそう
かもしれない。賑やかさを嫌うために一人で行動することが多い私は、それでも
寂しさが募ると、再び彼ら、彼女らの中に戻って行く。そんな態度を揶揄した言
葉だろう。特に腹も立たない。うまく評したものだとただ感心するばかりであ
る。
 しかし、そんな今の私の容貌は、今も故郷にいるあの姉のそれにどこか通じる
ものがある。五年の月日が流れた今、それに気付いても特に何の感慨も抱かない
ことを思えば、やはりどこか芯の部分で変化しているのかもしれない。


 背後から扉を開く音がした。しかし振り返るまでもない。こんな時間に、こん
なところにやって来るような物好きは限られている。
「いつも、ここにいるんだね」
 その人影は予想通りすぐ横まで近づいて、同じように柵に寄りかかった。
「うん」柏木楓は視線を海の彼方に向けたままで答えた。「長瀬くんは、どうし
てここに? 高いところが好きなの?」
 楓を猫と評した男である。一人でいる時間を遮られたことで、多少の不快感
が含まれた台詞になったが、しかし彼、長瀬祐介はいつものようにさほど気にす
る様子もなく言った。
「高いところは嫌いじゃないけど」
 苦笑しながら水平線に顔を向けると、祐介は眩しげに目を細めた。
「今日は、夕焼けが綺麗だったから」
「夕焼け?」楓は鸚鵡返しに言った。「夕焼けなら、いつもこんな感じだよ。昨
日だって、一昨日だって」
「そうだったっけ」
 祐介は頭を掻いて、困ったような顔をした。楓は、祐介の表情を一瞥して苦笑
を漏らすと、夕日に視線を移した。
「去年の今日のこの時間も、こんな感じだったかもね」
「そうかもしれない」祐介は反射的に頷いたが、その楓の台詞に改めて何かを感
じたらしく、沈んだような表情に寂しげな笑みを浮かべた。
「雨が降っていなければ、そうだったかもしれない」
 楓は、祐介の変化に微かに怪訝な表情をしたが、祐介がこういう表情をする理
由はたいてい決まっている。
「例の人の様子は?」
 祐介の意表を突かれたような顔を眺めながら、楓は続けた。
「事故で寝たきりになったって人。お見舞いに行ったんじゃないの?」
 楓には、瑠璃子のことについて、事実を少し曲げて伝えてある。祐介は束の間
気まずそうな顔をしたが、すぐにいつもの微笑に戻って言った。
「よく分かったね」
「長瀬くんが講義をサボる理由なんて、他に思いつかないもの」
「参ったな」祐介は苦笑しながら頭を掻いた。
「で、どうなの」
「相変わらず、かな」
「優秀な医者の卵の目で見た場合は?」
「僕は別に優秀なんかじゃないよ」祐介は困ったように言った。
「でも、かなり勉強してるんでしょ。みんな感心してるよ」
「変わりもの扱いされてる、の間違いじゃないかな」
「変わりもの?」楓は祐介の言葉を受けた。「確かに、精神科を目指す人って、
変な人が多いって聞くけど」
 楓は時折こういったことを口にする。悪気はないのだろうが、人によっては気
分を害することもあるだろう。しかし、長い付き合いで慣れている祐介は、苦笑
しながら言った。
「それを言うなら、楓さんも同類だと思うよ。変わり者の僕と気が合うくらいだ
から」
「私?」楓は首を傾げた。「そうかもしれない。入学したての頃は、私も精神科
を目指してたくらいだし」
 どうも、楓の頭には精神科イコール変わりものという図式が出来上がっている
らしい。皮肉のつもりが真っ向から返されてしまった祐介は、ただ笑うしかなか
った。


 西の空が一際赤く映える。楓は目を細めてそちらを見た。背を被う髪が風を受
けて弄ばれても、彼女はほとんど頓着しない。祐介はその赤く照らされた横顔を
しばらく眺めていたが、思い出したように言葉を継いだ。
「夕焼けが好きなんだね」
「うん」楓はそう言って、柵に重ねた両手の上に、顎を軽く乗せた。
 祐介は、そのそっけない答えに苦笑しつつ、言葉を返そうと彼女の方に顔を向
けたが、彼の意に反して楓は言葉を継いだ。
「昔のことを思い出すから」
「昔の?」
「遠い昔のこと」楓は言った。「男の人が、木の根元に背中を預けて、寂しそう
な目でこっちを見上げてるの。周りは燃え盛る炎で赤く染まって」
 楓は言葉を切ると、周りを見回した。
「ちょうど、こんな風に」
「遠い昔って、いつのこと」
 祐介が訊ねる。その言葉を口にするのが自分と同い年の彼女では、軽い諧謔が
伴われざるを得ない。しかし、それを語る楓の表情は、どこまでも真剣だった。
「遠い、昔だよ」楓は言った。「私たちが生まれるよりも、ずっと前のこと」
「生まれる前? 小説か何かの話かな」
 少し呆れたような祐介の言葉に、楓は少し迷ってから頷いた。
「故郷のまちに伝わる昔話。侍と鬼の娘が主人公の、恋物語だよ」
「恋物語? 意外にロマンチストなんだね」
「もう少し切実かな」楓は寂しい笑みを浮かべて言った。「長瀬くんは、輪廻転
生ってあると思う?」
「輪廻転生?」
「前世だとか、生まれ変わりだとか」
 楓の表情はあくまで真剣だったが、祐介は話の脈絡が掴めずに戸惑いの表情を
浮かべた。
「どうかな。科学を志向する人間としては、証明出来ない事柄に対しては、肯定
も否定もすべきでないと思うけど」
 慎重に答える祐介に、楓はなおも続けて問う。
「長瀬くんの主観では、どう感じるの?」
 祐介は一瞬困惑の表情を見せたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべなが
ら言った。
「無い、と思う」
「どうして」
「魂なんてものが肉体に独立して存在してるとは思えないからね」
「魂は存在しない?」
「たぶんね」祐介は言った。「だから、前世とか、生まれ変わりなんてあり得な
いんじゃないかな」
 楓は祐介の言葉を吟味するような素振りで押し黙っていたが、やがて小さく頷
いて言った。
「そうだね。前世なんてあるはずないよね」
「で?」祐介は言った。「輪廻転生って、一体何の話なのかな」
「昔話のこと。鬼の娘が死ぬときに、男に言ったんだって。五百年経ったらまた
会えるから、って。室町時代の話がもとになってるから、今がちょうど五百年後
になるみたい」
「ずいぶん思い入れがあるみたいだね」
「小さな頃から、ずっとその話を聞いてたから」楓は、水平線を眺めたまま言っ
た。「親代わりに面倒を見てくれてた叔父さんが、いつも話して聞かせてくれ
た」
「親代わり?」
「私の両親、小さい頃に死んじゃったから」
 かすかに驚きが浮かんだ祐介の顔を一瞥して、楓は続けた。
「その叔父さんも、五年前に死んじゃったけど」
「そうなんだ」祐介には、機械的に相槌を打つことしか出来なかった。
「人って、簡単に死んじゃうんだよ」
 楓はそう言いながら、左の手首に視線を落とした。そこには太いベルトの、女
性にしては大きすぎる腕時計がある。
「叔父さんから繰り返し聞かされてたから」
 楓は顔を上げて、祐介の方を振り返った。
「馬鹿みたい。いつのまにか、自分がその鬼の娘の生まれ変わりだ、なんて思う
ようになってた」
 突然吹いた風で、彼女の髪がその顔を覆った。その黒髪の隙間から祐介を見詰
める彼女の寂しげな瞳が、やけに印象的だった。

 

 

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