春風、乱れ舞う 〜柏木家にて〜

第8章


今日の風は暖かかった。
いよいよ冬と完全に決別することを決めた春の風が
大地を、空を、雲の谷間を走り抜けていく。
人々に愛し愛される恵みの風――春風だ。
時に優しく、時に悪戯に、形を変えて緩やかに……

「……耕一さん?」

「は、はい?」

いかん、またやってしまった。
どうして俺はいつもいつも誰かと一緒の時に限って
へっぽこ詩人モードに突入してしまうんだ?!

「どうかしましたか?」

「い、いや別に何も……み、見とれてました」

ふと思いついた誤魔化しの文句が口をついて出た。

「え?」

「今日の千鶴さんに……その……」

「…………」

頬を紅潮させて、手の動きを止める。

「ずっと……見てたんですか?」

「あ……ほ、他に見るものもないし……」

「……恥ずかしいです」

「す、すいません」

そりゃ恥ずかしかろう。
善哉を食べてる所をじっと見つめられたりしたら。

「それにしても……どうしてこの店が『思い出の場所』なんですか?」

俺はこじんまりとした店内を見渡して訊いてみた。

車で約二時間かけて訪れた場所は、隆山からずっと離れた所にある甘味処であった。
俺達以外は二,三組しか客がおらず、繁盛しているようにも見えない。
しかし善哉の味は感嘆すべきもので、俺はついおかわりをしてしまった。

「ここにどんな思い出があるんです?」

その理由を話してくれたのは、店を出てからだった。会計は俺が
言い張って出させてもらった。つまらない男の意地である。
駐車場に向かいながら、千鶴さんはどこか遠くを見るような目で、語りだした。
 
なんと、ここは俺の親父に連れてこられたことがあるというのだ。

「昔――まだ私が学生だった頃、一度だけ連れてきてもらったんです」

当時千鶴さんは大学生、親父は鶴来屋の会長として精力的に働いていた。
企業人として辣腕を振るいながら、家庭では良き父親代わりとして
姪達の敬愛と信頼を一身に集めていた親父は、実は密かな楽しみとして
月に一度この甘味処に来ていたらしい。

――いい年こいたおっさんが甘味処で善哉をかっ食らう様は
なかなか壮絶なものがあるな、などと思いながら、千鶴さんの話に耳を傾ける。

「その日はたまたま友人とこの街に来ていたんです。
隠れた名店があるって聞いて……」

人に聞いた話を頼りに、友人が千鶴さんを誘って探し出そうとした店は
ここだったという。しかし、どう探しても見つからない。
あとになって住所を聞き間違えていたことが発覚したが、
その時点では分かる由もなく、二人は街中を彷徨し続けた。

小一時間ほど探して、先に友人が音を上げたらしい。
今日はこの後用事があるからといって千鶴さんに頭を下げ、
諦めて帰ろうと駅に向かった所で、親父殿の姿を発見したのは
奇貨というべきか僥倖というべきか。

友人と別れ、まだこちらに気付いていない親父に声を掛けたところ、
大層驚いてこういったとか。

『どうしてここが分かったんだ?! 足立君か?!』

「……アホだな親父は」

俺は苦笑して言った。つられて千鶴さんも笑った。

「そうか……足立さんだけは知ってたわけだ、親父の秘密を」

「はい、偶然知られてしまったとか言ってましたけど」

「妙なところで抜けたことするよな……それで、その後は?」

てっきり自分の秘密がばれてしまったと勘違いした親父は、
もうこうなりゃ自棄だと言わんばかりに千鶴さんをこの店に
連れてきて、善哉を勧めたそうだ。

そして、自ら墓穴を掘ったことにようやく気付いたのは、
店を出てからだという。

「……そういう『思い出』か……なんとまぁ……」

「ほんの数年前のことですよ」

そういってお茶に手を伸ばす千鶴さん。その顔に少し翳りが
よぎったような気がした。

「――あれから、一度もここには来ませんでした」

――親父が死んでから、ということだろう。

「楽しい思い出が涙に濡れてしまいそうで……来るのが怖かったんです。
でも、今日やっと、この店にもう一度来ることが出来ました」

「……どうして、今日、来ることが出来たの?」

「耕一さんと一緒だからですよ」

笑顔と共に、そう言った。
穏やかな水面を思わせる、澄明な笑顔だった。

「耕一さんが一緒だから、私はここに来ることが出来たんです」

「……俺は……親父の代わりなのか?」

どうしてこのときこんなことを言ってしまったのかは分からない。
こんな千鶴さんを悲しませるような事を、どうして口にしてしまったのか――

もしかしたら、確かめたかったのかも知れない。
俺という人間の価値を。
千鶴さんが、俺を『柏木耕一』として見てくれているのかどうかを。

千鶴さんの返答は予想に反したものだった。

「代わり……? どうしてそう思うのですか?」

こちらの意図がまるで分からないという風に、千鶴さん。

「耕一さんは耕一さんですよ。あなたは誰の代わりでもないし、
誰もあなたの代わりにはなれません。私は――」

一旦言葉を切って、こう続けた。

「耕一さんにあの人を重ねて見ていたりはしませんよ」

衝撃的な一言だった。

時折思うことがある。
この人は、何もかも見透かしているのではないか。
どうして、俺が無意識のうちに考えまいと封印していたことを……。

「みんな、そう思ってますから」

優しく、あやすような口調だった。
俺の心の深奥に潜んだ苦悩を解放するかのように。

俺を、俺として見てくれている。柏木耕一として――
望んだ答えとはいえ、これほど嬉しいものだとは思わなかった。

「――ありがとう、千鶴さん」

「こちらこそ、今日は付き合ってくれてありがとうございました」

「――え、それってもしかして……」

「はい?」

「今日はここだけ付き合ってもうお終いってこと?! そりゃないよ千鶴さん、
今日は一日どこにでも付き合うつもりだったのに……」

千鶴さんは困惑したようだった。

「で、でも……ご迷惑じゃありませんか?」

「そんなわけないだろ」

「私と一緒にいて……つまらなくないですか?」

「それ本気でいってるんなら怒るよ」

「…………」

「どうしてそんな考え方をするんだ。本気で嫌だったら
最初から車に乗ってこんなとこまで来やしないよ俺は!」

……いかん、つい興奮しちまった。千鶴さんがあんまり
悲しいこと言うから……やばい、泣きそうだ――よし!

「もう頭に来たから今日はずっと一緒だぞ」

「…………え」

「どこに行くにしても絶対つきまとってやる。千鶴さんの
半径一メートル以内から離れないぞ俺は!」

これではまるでストーカーだ。
 
「そういうわけだからして、千鶴さんは自由に行動してくれ。
俺はその後をついていく。ついでに荷物とか持って上げたりするかも
知れない。あと暇だったら話し相手とかも務めるかも知れない。
でもって一緒に喫茶店とかにも入るかも知れない」

「……あ、あの……それって……」

「とにかく、一緒に行動するからとりあえず次の目的地を……って
いかん俺はつきまとうんだった。さ、千鶴さん車に乗ってくれ」

「……いいんですか?」

「いいもなにも、俺はつきまとうんだぞ。ストーカーだぞ」

「……できれば……一緒に……」

「はい? 最近耳の調子が悪くて、悪いけどもうちょっと大きな声でお願い」

「い、一緒に、一緒に行動して下さい!」

「――了解」

やっと言ってくれたな。あれ以上引っ張られたら
流石の俺もちょっと恥ずかしかったぞ。

「では、お次はどちらへ?」

そう訊ねる俺に、彼女は泣き笑いのような顔で、

「……どこか……静かなところに行きたいです……」

と言った。


ここで風光明媚な所でも知っていればよかったのだが、生憎こちらの
土地勘ゼロの俺はどこに連れていったら千鶴さんのお気に召すのか分からなかった。
で、結局千鶴さんにお伺いを立てた。

「耕一さんはどういうところがいいですか?」

「そうだな……って俺の意見はいいの。今日は千鶴さんが女王様で
俺はその下僕なんだから、好きなところを言ってよ」

運転中のため顔は正面を向けたまま言うと、千鶴さんは少し困ったような声で、

「でも……私、あまり楽しいところって知らないんです」

「うーん……静かなところがいいんでしょ? だったら水族館とかは
パスだな、日曜は家族連れとかで混んでるだろうから……」

「そうなんですか……」

「となると……」

静かなところ、というと美術館とかが該当するかな。
しかし俺には絵画や書を鑑賞して蘊蓄を垂れるような高尚な趣味はない。
でも千鶴さんならそういうの好きそう……な気がする。
とりあえず思いついたところから言ってみようか。

「千鶴さん、びじゅ……」

「そうだ、私行ってみたいところがあったんです!」

両手をパンと叩きながら、千鶴さんが言った。

「耕一さん、さっきの善哉だけじゃ足りないでしょう?」

「え……あ、ああ、そうだね、正直物足りないかな」

甘いものを二杯食ったとはいえ、そこは健康な二十歳の男性の胃袋、
もう少しどっしりとしたものを欲しているのだ。

「隆山に新しくできたレストランがあるんです。行ってみませんか?」

「お、いいねぇ。じゃあまずはそこでちゃんと腹ごしらえをして、
改めてどこに行くか決めようか」

「そうしましょう……ところで、先ほど何か言いかけませんでした?
びじゅ……って」

「あ、あれは何でもないから忘れて」

何はともあれ腹ごしらえが優先だ。

「それで、どんな店なの?」

「洋食屋さんなんですけど、お値段の割に美味しいって評判らしいんです」

「へぇ、そりゃ楽しみだな」

「はい、参考にもなりますからね」

……何の参考になるのか、あえて訊かずに俺は車を目的地へと走らせた。


瀟洒な感じのそのレストランは、ピークを過ぎたようで客も多くはなかった。
メニューにリゾットがあるのを発見したとき、俺は忘れたいのに
どうしても記憶層から消去できない過去の惨事を思い出してしまい、
一瞬動きが止まってしまった。いかん、トラウマになってる。

食事を済ませた後、俺達はしばし雑談に興じた。
千鶴さんはどちらかといえば聞き手タイプだが、今日は
俺が千鶴さんの話を聞きたがり、仕事のことや最近挑戦した
料理の話などを聞かせてくれた。

「それで梓が言うんですよ、『千鶴姉は余計なものを入れすぎだ』って。
耕一さんどう思います?」

……なんてことを訊いてくれるんだ千鶴さん。
『そんなことないよ』という台詞を期待しているのか? ……いるよねぇ。
しかしそんなことを言い続けたら、千鶴さんのためにはならない。
はっきり言うべきなのだ。
自分の料理を一口味見したら全ての謎は解けますよ、と。
でもなぁ……それで『美味しかったですよ?』なんて言われたらもう打つ手が
なくなってしまうじゃないか。それが怖くて口に出来ないのだ。

「そうですねぇ……」

さてどうやって茶を濁そうと、内心激しく呻吟した挙げ句、
俺は窮余の一策を考えついた。いや、これは一挙両得かもしれない。

「千鶴さんの料理は……あ、今ちょっと思い出したんだけど、
俺、千鶴さんに大事なことを訊きたかったんだ」

「大事なこと、ですか?」

いきなり話題が変わって少々面食らっているようだ。

「うん……ちょっとここじゃ話しづらいから、外へ出よう。
この辺にあまり人の来ないところとかないかな」

「あ……じゃあ、森林公園は如何ですか? 人は来ますけど、
公園内はかなり広いですから、あまり目立ちませんよ」

「よし、じゃそこへ行こう」

そう言って俺達は席を立った。
図らずも『静かなところ』が選択されたようだ。
ここでも払いは俺持ちだったことはいうまでもない。


今時親子でキャッチボールなんて光景を見ることができるとは思わなかった。

「微笑ましいねぇ……」

柄でもないことを口にすると、千鶴さんもそうですね、と
相づちを打ってくれた。追従でないのが嬉しい。

先ほどのレストランから車で一五分程度の距離にある公園は、
千鶴さんの言うとおりかなり広かった。サッカーと野球を
同時にできそうなくらいである。

新緑を楽しむにはまだ早いかな、と思ったが、木々は
空の青と協調するように葉を鮮やかな緑に染め上げていた。

「えーと……どこかに座って話そうか」

ベンチでもないかな、と周囲を見渡したが見あたらない。
これだけの規模の公園でないわけがない、さらに視界を
広げようとすると千鶴さんがこう言った。

「芝生に座りませんか? 温かくて気持ちいいですよ」

女性は腰を冷やしてはいけない、などといったら千鶴さんは
どんなリアクションをとっただろうか。

ハンカチを敷いてあげたらかっこいいかな、とも思ったが、
多分俺には似合わない。俺は芝生の上に腰を落ち着けた。
千鶴さんも俺の左隣に座った。

「で、さっきの話の続きなんだけど」

「……はい」

周りには誰もいないが、俺は心持ち声をひそめて言った。

「――《栢木家》の力について、詳しく訊きたいんだ」

 

 <つづく>