春風、乱れ舞う 〜柏木家にて〜 第7章 障子の向こうから聞こえたのは初音ちゃんの声だ。 この家で俺を『お兄ちゃん』と呼ぶのは彼女だけなのだ。 「いいよ、入っといで」 おずおずと、障子を開けて初音ちゃんが入ってくる。 「あのね、右手の怪我、ちゃんと消毒しようと思って……」 そういって手に持った救急箱を胸の前まで上げて見せた。 「そっか……ありがとう」 言って救急箱を受け取ろうとすると、初音ちゃんは戸惑ったような 表情を見せ、固まってしまった。 「? どうしたの?」 「……私がやってあげるから、お兄ちゃんは座ってて」 こういうとき、俺は逆らわずに初音ちゃんのいうがままに することにしている。 この子は基本的に世話焼きなところがあるので、人のために 何かをすることが全く苦痛ではないのだ。 初音ちゃんは俺の右隣に座り、救急箱から消毒薬を取り出した、 そっと右手の甲を差し出すと、消毒薬を優しく塗ってくれる。 「……染みる?」 「いや、平気だよ。優しく塗ってくれてるからね」 それから軟膏を塗り、大きめのカットバンを張って治療は滞り無く済んだ。 「なんか、大怪我したみたいだな」 右手を握ったり開いたりしながら俺が言うと、 「大怪我だよ、手の皮が剥けてたんだから」 と悲しげな声で言う。これが男なら『舐めとけ』の一言で 済むのだが、やっぱり女の子は違うな……。 「でも、明日には治ってるよ。初音ちゃんが薬を塗ってくれたからね」 感謝の気持ちも込めて笑顔で言うと、どうしたわけか、初音ちゃんは 黙りこくってしまった。俯いて、沈んだ顔をしている。 俺の軽口がいけなかったかな――大怪我だって言ってるのに 何とも思ってないようなこと言っちゃったから……。 「お兄ちゃんは……」 「ん?」 絞り出すような声に、俺は優しく問いかける。 「……楓お姉ちゃんのこと、好き?」 これには面食らった。何故ここで楓ちゃんのことが出て来るんだ? ――もしかして、公園で俺が彼女を抱きしめてるところを見ていた……? 「…………好きなの?」 答えを聞くまでここを離れない、とでもいうように凝然として座っている。 参ったな……どう答えればいいんだ……。 「そりゃ、勿論好きだよ。楓ちゃんに限った事じゃないけど」 「……え?」 「俺はね、この家のとっても仲が良い四人の従姉妹達がみんな好きだよ。 千鶴さんは、どんなに忙しくても俺が帰ってくる日は必ず自宅で出迎えてくれるし、 梓は……俺が帰ってくる度に悪態をつきながら豪勢な料理でもてなしてくれるし、 楓ちゃんは――俺の話相手になってくれる。元々自分から話をするのが苦手なのにね」 「…………」 「で、末っ子に至っては……いつも俺に甘えてくれる――またこれが 嬉しくってね。日頃からしっかりしていてあまり姉さん達を困らせない 子だから、俺くらいにはたっぷり甘えて欲しいといつも思ってるんだ。 だから、彼女が甘えてくれるのは、凄く嬉しい」 あとになってずいぶんクサイことを言ったものだと頭が煮える思いを したのだが、これは俺の偽らざる本音だった。 「答えに、なったかな」 顔は俯いたままだが、先ほどとは違う表情が見え隠れしているようだ。 誤魔化したように聞こえないこともないが、それを判断するのは初音ちゃんだ。 彼女は、小さく、うんといって頷いた。――少し顔が赤いような……? 「とにかくそういうわけだから、遠慮なく甘えておくれ。さぁ」 「さ、さぁって……」 「お兄ちゃんの胸に、飛び込んでおいで……」 俺は両手を広げて、爽やかな笑みと共に言った。抜群の信頼感を与える笑みだ。 「え……えと……」 「どうしたの? 恥ずかしがることはない、これはごくあたりまえの スキンシップなんだからね。欧米じゃ誰だってやってることさ」 「そうなの……?」 「そういうわけで、さ、どーんと来なさい」 よし、もう一押しというところへ、この世で一番無粋な声が 俺と初音ちゃんの幸せに満ちた空間に亀裂を走らせた。 「どーんと……なんだって?」 「お、もう晩飯できたのか」 「どーんと来させて……なにするつもり?」 ――俺の秘技《話題転換》が効かない?! これ以上ないってくらい さりげなく話をすり替えたはずなのに……くそ、スキルアップしやがったな?! 一体いつここに来たのか、梓は氷の声でこういった。 「初音、ご飯できたから、楓呼んできて」 「あ……うん」 ちらちらと俺を見ながら部屋を出ようとする初音ちゃん。 行かないでくれ、今ここで二人っきりになったら俺は……! 「ほら、冷めちゃうから早く。あ、千鶴姉も着替えたらすぐ来るから」 「梓お姉ちゃんたちも……すぐ来てね?」 そういって、障子が閉まった瞬間、この部屋は異界につながった。 「さて……」 「スキンシップだ」 「食事の前の軽い運動だね」 「欧米じゃよくやってることだ」 「せっかく作った夕食を無駄にしたくないから、顔はやめといてやる」 「恥ずかしがることはこれっぽっちもないんだよ……」 「初音に……何する……つもりだったんだおのれはぁぁぁっ!!」 絶叫が柏木家の部屋という部屋に響きわたった。 梓の作るメシは美味い。 これはもう永遠不変に変わらない評価であろう。 だが、今日はいつもと違う味がした。 「……しょっぱい」 「え、そうかな……いつもと変わらないと思うけど……」 「……血の味がする」 「……レア、ですか?」 「……美味しく、ない……」 「自業自得」 「顔は攻撃しないっていったじゃないか!」 「つい手が滑って」 「やったのは回し蹴りだ!」 「最近テレビ見て覚えた」 「そういうこと聞いてるんじゃないっ!」 いつもと立場が逆である。 「耕一さん……また梓にいじめられたんですか?」 「……聞いてよ千鶴さーん」 「の●太みたいな声出すな! 千鶴姉もその相方みたいな訊き方するんじゃないっ!」 こんな感じで、今日も賑やかな夕食の一時は過ぎていった。 食事の後は、居間でゆったり……過ごすはずなのだが、 今宵も柏木家は騒々しくなりそうだった。 「耕一さん♪」 千鶴さんの上機嫌な声を聞いて、俺はその後の展開を悟ってしまった。 「……大富豪ですか?」 「はい♪ 今日こそは勝たせていただきます♪」 「……また鶴来屋で何か仕込んできたの?」 梓が憮然と言い放つ。これに応えた千鶴さんの声は静かな自信に満ちていた。 「もう負けないわよ……誰にもね。昨日までの私と違うんだから」 昨日も同じような事言ってた気がするが。 「というわけで、初音、トランプ持ってきてくれる?」 「うん……」 初音ちゃん自身はみんなで遊べることは嬉しいだろうが、 その後のことを考えると暗澹となってしまうのだろうか。 俺に視線が向けられる。苦笑して頷くと、初音ちゃんは 同じように微笑んで自室にトランプを取りに行った。 「……今日も、賭けるの?」 楓ちゃんが姉の企みを看破したようにぽつりと言うと、 「そうねぇ……ま、とりあえずやってから考えましょう」 おお、慎重だ! これは確かに昨日までと違うぞ?! その場に緊張感が走った。一体今日の勝負はどうなるんだ……。 《第3回・柏木家大富豪大会》は異様な空気が支配する中、始まった。 そして、驚嘆と疑問に満ちあふれながら終了した。 「…………す、すごぉい…………」 「…………お見事です…………」 「…………一体どんな卑怯な手を…………」 「またしても、二位止まり…………」 「言ったでしょう? 今日の私はひと味違うって!」 どこぞのお嬢様みたいな高笑いでもしそうなくらい、千鶴さんは 勝ち誇って言った。それから、勝利の余韻に浸るように、 「ついに……とうとう……《女王様》……! 長かったわ……」 ……別の意味で女王様みたいですけど、あなたは。 「はぁ……納得行かないなー。なんでいきなり強くなれるのさ……」 「またまた教えを請うてきたのですか?」 「はい、今日はルールもちゃんと説明して募集しましたから」 「姉さん……お仕事、してるの?」 楓ちゃんがなかなか素敵なつっこみをかました。 「勿論よ。仕事に支障を来さない程度ならって 足立さんも了承してくれたんだから」 足立さん……もしかして楽しんでたんじゃないか? 「しっかしその二代目達人(また勝手に命名)も暇人というか…… ボランティアみたいなもんでしょ?」 「いえ、ちゃんとお礼はしますよ」 ここで俺はちょっと気になった。 まさかその二代目、千鶴さんの優しさにつけ込んで何か いかがわしいことを要求するつもりなんじゃないのか……? 「その方には、私がお弁当を作って差し上げるんです。 そういうのに縁がなかったらしくて、とっても喜んでくれました」 …………個人の幸福、社会の不幸って誰が言ったんだっけ。 気の毒だがそれを止める術は俺にはない。いやほんとはあるんだけど、 それを言ってしまうと別のお返しをしなくてはならなくなる。 察するにあまりもてない男のようだから、調子に乗って千鶴さんに とんでもないことを要求しかねない。それは避けねばならないのだ。 断じて、たまには柏木家以外の人間もあの料理を味わって妙な川を見たり 性格が反転したりする超常現象を体験してみたらいいと思っているわけではない。 うむ、鉄壁の理論武装だ。 『そっかぁ……きっとその人泣いて喜ぶよ。なんたって 鶴来屋会長特製のお弁当だもんなぁ』 とまでは流石に言わなかったが。そこまで俺は人非人じゃない。 いや、鬼ではあるけどね。 「それで、明日なんですけど……」 千鶴さんの次の言葉に全員が注目する。 今までにもちらほらとその企みの一部は漏出してきたが、 遂にその全貌が明らかになるのだ。 「まず、耕一さん――」 「――はい」 「ちょっと付き合ってもらいたいところがあるんです。 お供していただけますか?」 やや拍子抜けした。料理の味見役とかそういう類の《命令》が 来るとばかり思っていたからな……いや油断はできない。できないが どのみち俺に拒否権はない。俺は恭しく返答した。 「は、仰せのままに」 微笑を浮かべた。美人がこれをやると様になる。おや、梓がぽかんとして こちらを見ているな。あいつ千鶴さんが何を言うと思ってたんだ? 「次に、梓――」 「……何をやらせるつもり?」 「ふふ、そんなに構えないで。単なる肉体労働なんだから」 軽く笑って、言葉を続ける。 「私の部屋の模様替えをしたいから、箪笥とかベッドとかを 動かして欲しいだけ。あなた一人で」 「ひ……一人でぇ――っl?! とんでもなく人でなしなことを仰る。 「あ、その際初音と楓は手伝っちゃダメよ?」 更に怖いことをのたもうた。 「……それが……私たちへの命令……?」 「千鶴お姉ちゃん……冗談、だよね?」 「梓なら大丈夫よ、一番の力持ちなんだから。ね?」 1ミクロンも邪悪な要素のない笑顔で、千鶴さん。 つまりは、本気ということだ。 「……制限時間は?」 梓も腹をくくったようだ。 「そうね……遅くても夕食までには戻って来るつもりだから…… じゃあ、午後六時までにお願いね」 「…………分かった」 どこか思い詰めたような表情だ。 ここんとこ毎晩千鶴さんをからかってたからなぁ。 自業自得という言葉をふかーく噛みしめているのだろう。 「で、千鶴さん、付き合ってもらいたいところってどこかな」 「……まだ、秘密です」 そういってどこか悪戯めいた微笑を浮かべた。 ――明日は日曜か……。 どこに連れて行かれるにせよ、千鶴さんと二人っきりで 行動することは間違いなさそうだ。そう考えると――知らず、笑みがこぼれた。 絶好の行楽日和となった日曜日の朝―― 「じゃあ、行ってくるよ」 玄関で靴を履き替えた俺は、立ち上がって二人に声を掛けた。 梓は既に千鶴さんの部屋で孤軍奮闘しているようである。 「行ってらっしゃい、気をつけてね」 「ああ、久しぶりだけど、走ってればすぐ 感覚も蘇るだろうからね。大丈夫だよ」 「どれくらいぶりですか?」 「そうだな……半年ぶり、かな? 免許を取ったばかりの頃は、 毎日友達の車を借りて乗りまくってたんだけどね」 そう、今日は車に乗って出かけるのだ。 運転手は無論俺である。 しかし距離にして車で約二時間ほどかかるという『そこ』は、 いまだに教えてもらっていない。 「帰りが遅くなるようだったら電話するからね」 そういって玄関を出て、ガレージに向かった。 親父が乗っていたというその車は、今でも手入れを 頼んでいたらしい。 ガレージには一昔前に流行ったセダンが鎮座していた。 ドアを開け、キーを差してエンジンを掛ける。一発でかかった。 よし、いい音だ。 そのまま乗り込みドアを閉めて、車を家の門の前に持っていく。 マニュアルであったことは俺にとっては救いであった。 オートマなんて数えるほど、いや片手の指ほども乗ったことが なかったので、今いち苦手なのだ。これを言うと大抵の人が 奇妙な顔をする。そんなに変だろうか。 濃い青のワンピースに身を包んだ千鶴さんが、門の前で待っていた。 清艶という言葉が、これほどぴたりと当てはまる人を俺は他に知らなかった。 助手席のドアを車内から開け、本日の女王様を迎え入れた。 「じゃ、出しますか。どう行けばいいのかな」 「はい、まずは……」 すぐ近くを走っている国道の名を告げ、俺は言われるままに 車を走らせた。いささかぎこちないのは仕方あるまい。なんせ半年ぶりだ。 日曜ということもあり、流石に国道は混んでいる。 といっても俺が住んでるところほどじゃないけど……。 最初は緊張していたため口も閉じていたが、徐々に余裕が出てきた。 「ところで、まだ目的地を聞いていないんだけど……」 ちょうど信号が赤になったところで質問する。 すると千鶴さんは穏やかな笑みを湛えてこういった。 「――思い出の場所です」 <つづく>