春風、乱れ舞う 〜柏木家にて〜

第3章


誰もが疑問に思うことがある。
有史以来、この問いを人に投げかけなかった者がいるだろうか。
断言しよう。まずいない。いてはならない。いてたまるかそんなやつ。

――どうして布団ってこんなに気持ちいいんだろうなぁ……

程良く全身を包み込む朝の光も、俺を布団の誘惑から引き剥がすことは
できない。まったく、かわいいやつだよお前は……。

……ぱたぱたぱた……

布団の相棒枕君も、『離さないで……もう少しだけ……』と甘えたように
囁いてくる。困ったヤツだ。俺はもうそろそろ起きなくてはならないのに。

……ぱた……

何、今日くらいずっと一緒にいようだって? おいおい、そんな可愛いこと
言うなよ……そりゃ、俺だってできるならそうしたいさ。でもな……。

すーっ

今日は本当にダメなんだ。理由があるんだよ。どんな理由かって?
それはな……えーと……なんだっけ……。

「お兄ちゃん、朝だよ」

……枕君……君って意外と可愛い声なんだね……まるで女の子みたいな……。

「起きて、お兄ちゃん」

おいおい、さっきまで『一緒にいて』と言っておきながら、この変節ぶりは
どういうわけだい? 起きてしまったら、もうお別れじゃないか……。

「……お味噌汁冷めちゃうよ〜」

何、味噌汁が冷める? そいつぁゆゆしき事態だ。なんだか分からんが
今日はこの辺でお別れだ。じゃあ、またな……。

「お兄ちゃんってば〜」

目を開けてみた。視界に飛び込んできたのは小柄な美少女。

「……枕君……?」

「え?」

いかん、どうもワケの分からん夢を見ていたようだ。なんだ枕君って。
俺は軽く頭を振って眠気を散らすと、横に座った少女に朝の挨拶をした。

「……おはよう、初音ちゃん」

「おはよう、お兄ちゃん。朝御飯出来たから、顔を洗って来てね」

「ああ……よっ……と」

数回瞬きをした後、伸びをして眠りの神の呪縛を完全に解き放った。
……なんだ眠りの神って。さっきのおかしな夢の影響か?

「……どうしたの? どこか具合でも悪いの?」

起きてはいるものの、未だに布団から出てこない俺を見て初音ちゃんが
心配そうに声を掛ける――いかん、天使の笑顔に翳りが!

「おりゃあっ!」

「きゃっ!」

勢いよく布団をはがし、気合いと共に立ち上がる。

「お兄ちゃん……?」

「心配かけちゃってごめん、ちょっと寝ぼけてただけだから」

そういってボサボサの髪を掻き上げる。……どうして人って起きるとまず
髪の毛に手をやるんだろう……永遠の謎かも知れん。

「なんだかわけの分からない夢を見ちゃってさ……俺おかしなこと言わなかった?」

「えーと……枕君って……」

「真蔵君? はて……そんなやつ友達にいたかな……」

「どんな夢だったの?」

「……うーん……あんまし思い出せないんだけど……もう離さないとかなんとか……」

「……離さない?」

「今日はずっと一緒よとか言われた気がする……だけどそれが
どうも人間じゃなかったような気がするんだよなぁ」

「あ……そうなんだ……」

何故か安堵したような表情をする初音ちゃん。

「真蔵君ってのが関係してるのかな……困った、気になって頭から離れない」

「そういうのって気分悪いんだよね……」

「それと、今日は重大な何かがあったような……」

「いつまで寝とるかぁーっ!」

「どわぁっ!」

記憶の縁に這い上がってきた『何か』を叩き落とすような怒声が
耳朶を打つ。こんな声出すのは柏木家には一人しかいない。

「あ、梓お姉ちゃん」
 
「梓お姉ちゃん、じゃなぁいっ!」

「え? え?」

「もうとっくに朝食の用意が整って、みんな食卓についてんのに
あんた達があんまり遅いから見に来たら……二人して何やってんのよ!」

もし角が生えていたら鴨居に突き刺さりそうなくらい梓は怒っていた。
毎朝のことじゃないか、そう目くじらを立てるな……などといったら
本当に角が生えてきそうなので口を緘する。
あれ、今日はこいつエプロンしてないな……。

「とにかく耕一はさっさと顔洗ってくる!」

「へーい」

「今日は目一杯働いてもらうんだからね」

……何?

「忘れたとは言わせないよ、昨日の《一日女王様》」

……それだ。俺を布団の戒めから解き放ったのは、それだったんだ……。

「初音ちゃん、謎は全て解けたよ」

「え、本当?」

「ああ……これで心安らかに惰眠を貪れる」

「……永眠することになってもいいの?」

「む、そいつは勘弁だな……てなわけで顔洗って来る」

「もう……どうしていつもいつも素直に目が覚めないんだあんたは!」

「風に訊いてくれ!」

去り際にかっこいい台詞を残して洗面台に向かう。眠気は完全にすっ飛んでいた。

「……枕君って、結局何だったんだろう……」


俺のせいで朝食が遅くなったというのに、楓ちゃんも千鶴さんも
怒るどころか女神のような微笑と共に朝の挨拶をしてくれた。

「もう慣れましたから」

一分の毒も含まない声で千鶴さんが言う。

――もう少し早く起きるようにするか。流石に申し訳ないよな……。

「まったく……結局私が起こしにいくことになるんだから……」

「ごめんね梓お姉ちゃん……」

「初音のせいじゃないよ。毎朝人に起こされないと駄目なやつが悪い」

「ごもっともでございます……」

「平然とご飯食べながら言うな!」

「ところで……今日の朝食は誰が作ったの?」

「今日は楓が作ったんですよ。ね?」

「……はい」

うむ、このさりげなく話題を変える技は俺にのみ成し得る高等技術だ。
他の人がやったら多分無視されるだろう。

「へぇ……なるほど、道理でいつもと微妙に味が違うわけだ」

「……お味は、どうですか?」

真剣な眼差しで訊いてくる楓ちゃんは、箸を置いてじっと
こちらを見つめている。緊張……してるのか?
俺は味噌汁を一口すすって……。

「美味しいよ。これならどこへ出したって通用する」

そういって更に卵焼きを口に運び、数回咀嚼してから飲み込む。

「特にこの卵焼きなんかは……梓の卵焼きに肉薄してるね」

「ほんと、驚いたわ……楓もやるもんだねぇ」

引き合いに出された梓も妹の上達ぶりを褒め称えた。
梓の卵焼きはそんじょそこらのものとはわけが違う。
グルメとか抜かすおっさん達ならば、一〇分間くらい費やして自身の語彙の
限界に挑戦し出すかも知れない。
その味に肉薄するということは、柏木家では大変なことなのだ。

「よかった……」

楓ちゃんは安心したように胸をなで下ろした。
多分、俺の評価が一番心配だったんだろうな……。

「朝飯を楓ちゃんが作ったということは、晩飯はひょっとして……」

「うん、私が作るんだよ」

なんだか嬉しそうに初音ちゃんが言う。この子も料理は上手なんだよな。

――下の三人がこうなのに、あの人はどうして……。

「今日は私ゃ一切家事をしないからね。料理はこの二人に任せたんだ」

「そうか……で、俺と千鶴さんには何をやらせるつもりだ?」

「ん? まず耕一はねぇ……」

そこで何故か梓は千鶴さんに目をやり、

「私の小間使い兼家政夫ってとこかな」

「な……なんですってぇ?!」

……びっくりした。梓の《命令》の内容と千鶴さんの蛮声に。

「こ、こ、小間使いって、どういうこと? 梓、あなた耕一さんに
何をさせるつもりなの?! 大体それは私が……」

何って……雑用とかじゃないのか? 
千鶴さんは何をそんなに憤慨しているのだろう。
当の梓は沢庵をぽりぽりやりながら、こうのたもうた。
…………陰惨な笑みと共に。

「何って……千鶴姉が耕一にさせようとしてたこと、かな?」

「――?!」

うわ……千鶴さん赤くなったり青くなったり器用だな。

「ダメよダメ! そんなことは許さないわよ?! まだ日も高いうちから
そんな……そんなことは柏木家の家長として絶対許しません!」

「姉さん……耕一さんになにをさせるつもりなの……?」

か、楓ちゃんまで参戦してきた。鬼気が立ちこめているようだ……
ってちょっと待て、俺はちっとも話が見えないぞ?!
梓は一体何を企んでいるんだ?! いや実はなんとなーく想像が付かない
こともなかったりするんだけど、そいつに気付いてしまったらもう
あの日に帰れないというかなんというか、とにかくやつの真意が掴めん! 

「お、おっかない顔しないでよ楓ぇ……今日は特に予定もないから
家でのんびり過ごそうと思って、それで耕一に色々細かいことを
頼もうとしてるだけだよ」

学校はどうした、と言いかけて言葉を飲み込む。こいつもいまや女子大生
だってこと忘れてた。つまり俺と同じご身分なのだ。

「その『細かいこと』が重要なのよ! いやしくも柏木家の次女たる
あなたが、お天道様が沈みきらないうちからそんなことを……」

「千鶴姉ちゃん……お兄ちゃんに何をさせるつもりだったの?」

「あ、それ俺も訊きたい」

初音ちゃんは不安げに、俺は興味津々といった体で質問した。
が、千鶴さんは視線を泳がせたまま答えようとしない。
なんか知らんがかつてないピンチを迎えているようだ。

「こ、子供はまだ知らなくていいことです!」

「千鶴さん、お酒が飲める年齢の人は子供とは……」

「殿方は訊いてはいけないことなのです!」

「……はい」

頷いてしまった。まぁこれ以上追求したらまた昨夜の二の舞にならないとも
限らないしな。

奇妙な間が数秒流れた後、最初に口を開いたのは初音ちゃんだった。

「じゃあ、結局梓お姉ちゃんはお兄ちゃんに何をしてもらうつもりなの?」

二対の目が梓を捉える。その瞳にはやたら剣呑な光が宿っている……
ように見えた。初音ちゃんだけが純粋な好奇心を覗かせているのが救いだ。

「だからさ、お茶を入れさせたり、家の掃除をさせたり、買い物をさせたり、
洗濯物を干させたり……そういう家事みたいなことだよ」

「なんだ、昨日言ってたことと殆ど変わらないじゃないか」

束の間安堵しかける姉妹達。

「――あと、マッサージなんかもやってもらおうかな」

このときの梓に他意はなかったと思う。ただ純粋に、家事で
疲れた身体を揉みほぐしてもらいたかっただけだろう。
そう解釈しない人が多分一名いるだろうな、と瞬時に判断した俺は
『彼女』がアクションを起こす前に場の流れを変えた。

「へいへい、なんでも仰せつかりますよ。今日一日はお前の天下だ。
それで、初音ちゃんと楓ちゃんは食事の用意で、千鶴さんには何を
させるつもりだ?」

質問が一番最初のやつに戻った。そういえばこれ訊いてから
みんなおかしくなったんだよな。

「千鶴姉はね……」

初音ちゃんと楓ちゃんは『何をさせるつもりなんだろう?』てな表情だが、
千鶴さんはなんだかかなり不安そうだ。

「――今夜の夕食の手伝いを禁ずる」

「な……なによそれーっ?!」

……まだだ、まだつっこむのは早い。

「今夜は初音が台所に立つわけだけど、千鶴姉が手伝うとか
称して色々余計なことしようとしたら初音じゃ止められないでしょ?
だからそのための予防策」

梓……お前ってやつぁ……最高だぜ! 女にしとくの勿体ない!
ふと気になって視線を向けると、楓ちゃんは梓を無言のまま見つめている。
初音ちゃんは……あ、安堵の息を吐いてる。

「べ、別にまだ手伝いに行くと決まったわけじゃあ……」

「いーや来る。必ず来る。言わなきゃ絶対来るだろうから
とりあえず防がせてもらったよ」

「……………………」

……千鶴さん、一言もなし。

「そ、そういうわけだから……ごめんね、お姉ちゃん。でも、しょうがないよね?」

「――女王の勅命だから」

楓ちゃん……なんか念を押してるみたいだよ。
しかしまぁ、梓のおかげで今夜柏木家から史上類を見ない奇病が
発現するようなことはなくなったわけだ。

《アレ》以来俺はキノコを見ると反射的に構えるようになってしまい、
大学の学食でハンバーグに添えられたマッシュルームを見て調理室に
駆け込んだ程だ。無論あの人がいるわけはなかったが、それ以来俺は
ハンバーグ定食を頼むのはやめてしまった。いちいちキノコ見る度に
席立って調理室に飛び込んでられるか。


かくして、一人いじけた千鶴さんは悄然と送迎用の車に
乗り込み、年少組二人は元気よく学校へ出かけていった。
そして家には俺と梓の二人が残り、いつもなら部屋でごろごろ……
となるのだが、今日はそういうわけにはいかなかった。

「さぁて、それじゃ早速働いてもらおうかな」

「ま、まさか本当に土蔵の整理を……」

「やりたい?」

「そういうのは暮れにやりゃいいだろがっ!

「じゃ、草むしり」

「生えとらんっ!」

「池の泥すくい」

「本気か……本気なのか梓……?」

なんてこった。やつはやる気満々だ。くそ、こうなりゃやけだ、
なんでもやってやる!

「まぁ取りあえずは家の掃除だね。私らの部屋はいいから、
それ以外の……客間とか廊下とかを綺麗にしてちょうだい」

「よっしゃ、顔が映るくらい磨き上げてやるぜ!」

「……そこまでしなくてもいいけど」

「いや、今の俺はなんだってやれる。池の水だって
飲み干せと言われれば飲んでやる!」

「……池の水はいいから、今はとりあえず家の掃除をお願い」

「合点だ!」

掃除用具を取りに駆け出す俺の背中に梓の視線を感じた。
ふっ、俺だってやるときはやるぜ!

「……飲み干させてみてもよかったかな」



<つづく>