あこがれ
【前編】

 

 

 

「ひ、ひえっ! 千鶴姉? なんで台所に立ってるんだよ!!」

 朝、いつも通り6時に目を覚ましたあたしがご近所迷惑も考えずに大声をあげたのは、当にその言葉の通りの理由からだった。
 昨日少し夜更かしし過ぎたせいでぼやけた頭としょぼしょぼする両の目を擦りながら朝飯の支度のために台所に来てみたらあなた、そこに見える影は千鶴姉!
 ちょっと奥さん信じられますか? あの千鶴姉がこんな朝早くに起きだしてるんですよ。それすら奇跡、奇跡なのに。
 …というかそれだけなら奇跡で済ませられるのに。

「あんたは妹達全員の皆勤賞を台無しにする気かぁ!」

 な、解るだろう?
 あたしがそう叫びたくもなる気持ち。朝っぱらから台所にいる千鶴姉なんて、それはそれはおぞましいものでしかない。こんな光景を喜ぶのは、情報操作で何にも知らされていない、鶴来屋の新入社員くらいのものだろう。いまじゃあの、『千鶴姉に憧れてます、もうたまらないぜっ』的なオーラだしまくりだった耕一ですら、10フィートは後ずさりする代物だぜ…。
 そんな千鶴姉の作った朝飯なんか食ってみろ。楓も初音も成績は悪くないからまだいいかもしれないけれど、勉強嫌いなあたしが学校から誉められる事って言ったら、せいぜい皆勤賞くらいのものだ。そのあたしの儚い夢まで千鶴姉の料理で台無しにされてしまうなんて、あんまりにも悲しすぎるじゃないか、なあ!

 鼻を突く香りに警戒の色を濃くしながら、あたしはゆっくりとその手から包丁を奪い取ろうと近づいて行く。
 影はあたしの大声攻撃に怯んでいるらしい、らしくも無くちょっと震えている。
 ふっふっふ、今がチャンス! こんなまともっぽい肉じゃがの香りなんかに騙されるものか。今に見てろよ……。

 ……ん?
 肉じゃがの香り?

 あと一歩という所まで迫ってから、あたしはふと、その香りがまごうことなき柏木家伝統の肉じゃがのそれである事に気がつく。香ばしい醤油の焦げ方といいお酒やみりんの配分といい、これはきちんと料理が解っている人間の作るものに相違無い。つまり。
 つまり到底、あの絶望的かつ破壊的味オンチで、『あなた殺すに刃物は要らぬ、たった一夜のおつまみで』ってな感じの千鶴姉には、如何なる奇跡が起きたとしても作り上げる事は到底不可能な物なのである。

 すると…。
 と、そうすると今、包丁掲げて怯えているのは…。

「は、初音か?」
「そ、そうだよっ、梓お姉ちゃん…」

 マジで怯えたような、そしてほっとした声で胸を撫で下ろす末妹の姿が、ようやく目を覚ましてきた頭の中に入ってくる。間違いなくそれは、台所に入るべからずな千鶴姉ではなく、もっとあたしに楽をさせるためにいっぱい入って頂戴的な初音だった。
 昨日の睡眠不足としょぼしょぼとした目、そして割と薄暗い台所の影に初音が入っていたせいで、そのエプロンをつけた後姿を見間違えてしまったようだ。良く見れば影は千鶴姉よりも華奢だし、身長も低い。髪の毛の色も違うし、特徴あるピンと立った癖っ毛も千鶴姉には無い物だった。
 …っていうか千鶴姉の頭から何かが跳ねてたら、そりゃ間違いなく角だな…。

「ははは、そうだな。良く考えれば千鶴姉が早起きして台所にっ、なんて恐ろしい現実があるわけないよな。ははは、ごめんな初音」
「そうだよ、梓お姉ちゃん。そんな朝なんて迎えたら、私人間不信になっちゃうよ…」

 苦笑いも天使の微笑みっぽいところが、この妹の凄い所だと思う。
 その割には言う事のきつさは楓譲りというべきか…。
 まあなんにしてもあたし達は、最悪の事態を回避する事が出来た喜びで、少しの間笑い合っていた。

「それにしても梓お姉ちゃんの声、凄く怖かったよ。私、言葉出なかったもん」
「いや、千鶴姉がほんとに朝食作ってるんだとしたら、命を賭しても止めないとならないと思ったからさ。思わず声にも力がこもったんだろうな」
「私もお姉ちゃんの声で本当に千鶴お姉ちゃんがいるのかなって思っちゃって、大きな声と一緒で本当に恐かったんだよ」

 確かに、知らない間に隣で千鶴姉がなんか料理作っていたなんて、そんな朝はトラウマになること間違いなしだろう。
 良かった、初音がきちんとした大人になれそうで。

「んで初音は、なんでここでこんな事してるんだ?」
「あ、うん。昨日の夜随分早く眠っちゃって、起きたらまだ5時半だったの。目が冴えちゃってて眠れそうに無かったから、それじゃあ折角だから梓お姉ちゃんのお仕事のお手伝いしようかなって、そう思ったんだよ」
「なるほど、相変わらずあんたはいい子だねえ。楓にも少しは見習って欲しいよ、あの子も綺麗な顔して朝は弱いからねえ」
「まあそれはきっと千鶴お姉ちゃんに似たんだよ。千鶴お姉ちゃんも朝は苦手だもんね」
「ま、それは救われてるって感じもするけれどな」
「ははは…」

 曖昧な微笑を浮かべながら、初音はくるりと一回転。火をかけたままだった鍋の方を向き直る。
 後ろから覗いてみると、肉じゃがはもう出来上がり寸前だった。千鶴姉が作っているというおぞましい想像を取り払ってみれば、実に美味しそうな匂いを鍋は放っていた。

「うん、なかなかいい出来みたいじゃない。初音も上手になったよなあ」
「そんなこと無いよ、まだまだちょっと梓お姉ちゃんには敵わないし。この最後の仕上げのところが、なんとなく上手く行かないって気はするんだけれど…」
「そこに気が付いたか。そう、あんたはまだ仕上げが甘いんだよね。そこまで解ればもう出来たも同然だ、今日は頑張ってみな」
「うんっ!」

 きらきら輝いてそうな笑顔を一度あたしに向けてから、初音は鍋とコンロと格闘を始めていた。
 朝っぱらからあれだけ幸せそうで楽しそうな笑顔を浮かべる事は、あたしには絶対無理だし。
 そして楓ですら無理だろうなと、そんなことを思った。
 そしてそれを悔しいとか思わせないのが、初音の本当に凄い所だとも。

「うーん、どうしたらいいのかなあ」
「とりあえず、いつもあたしが作ってる味を思い浮かべてみな。そして、今の味と比べてみる。あとは、あたしも肉じゃがは良く作るんだから、使うものはその辺にあっても良いはずだってところがヒントかな」
「そうだね。ええと、お味は…」

 台所のあちこちを探る、背の小さなエプロン姿が妙に似合う。
 多分、あたしよりも似合っているんだろう。あたしよりもずっと長い髪の毛が、後からようやく斜線をこの部屋に通し始めた朝日に照らされて、こっちは本当にきらきら輝いている。
 テーブルに行儀悪く腰掛けながら、あたしはそんな妹の姿をぼんやりと見つめていた。
 朝飯の支度をしないといけないんだけれど、一品初音が美味しいものを作ってくれているんだ。
 あと少しくらい、このままこうしていても文句は無いだろうな。
 自分の中でそんな言い訳をしながら、ちょっと大き目のあくびをしていたり。

 そして、ぼんやりと思っていた。
 さっき見間違えた初音の後姿。
 そして、今も見つめている初音の料理姿。

 それは。

「…あっ、もしかしたら…」
「おっ、解ったかな?」
「うん、もしかすると……」

 それは、本当に千鶴姉に似ていた。
 初音だと解って見つめている今ですら、本当に似ていると思う。
 もちろんスタイルや、背丈は違うのだけれど。

 ちょっとだけこれは悔しいのだけれど、凄く女っぽいと思う千鶴姉の後姿に。

「これでどうかな、梓お姉ちゃん?」
「…ん、お見事っ、合格だなあ」
「やったねっ」
「やれやれ、また一つ追い付かれちゃったなあ」

 そして、振り返ったその面も。
 それすら、あたしが綺麗だと本当は憧れている、千鶴姉の姿に似ている。

 姉妹、なんだよなあ。
 そんなことを思いながら、初音の仕上げをあたしはずっと見つめていた。

 時計は、6時15分を差し始めている。そろそろあたしも準備を始めないといけなかった。
 初音には、このまま手伝ってもらうとしよう。あたしがいなくなるかもしれない来年からは、この子がこの家の食事を切り盛りする、いわば生命線なんだから。…冗談抜きで。
 あと半年ある、出来る限りの事を教えておこう。

「さてと、それじゃあたしもお仕事始めますか」
「うん、私も手伝うね」
「さんきゅな、初音」
「ううん、いつもお世話になってるんだもの、これくらいあたりまえだよ」

 邪心の欠片も無い笑顔で元気一杯に頷かれるとなんとなく気後れしてしまうあたしは、ちょっと情けないかもしれないな。
 そんな事を思いながら、パジャマの上から多分、初音よりは似合っていないだろうエプロンを羽織る。
 初音の横に並んで、そしてみんなの朝ご飯を作り始める。構想は、初音の背中を見つめながら、もうまとめておいてあった。

 それにしても、この初音があたしの料理を全部学んでしまったら。
 女の子として、あたしはこの子に敵うところがなくなってしまうだろうな、きっと。

「あれ、どうしたの梓お姉ちゃん?」
「ん…なんでもないなんでもない。さて、それじゃまずは、と…」

 苦笑いの訳は、さすがに言えなかった。
 慌てて笑顔を取り出してから、作業に当たる。

 ゆっくりと、そしてのんびりとした朝の風景。
 いつにも増して、時間はゆっくりと流れていた。
 初音の手際は、どんどん良くなってゆく。

 いいお嫁さんになるな、間違い無く。
 思ったけれど、そこまで口に出すのはちょっと悔しかったし、恥ずかしかった。

 隣から口ずさまれて聞こえてくる多分流行りの歌は、なんとなくあたしの好みでもあったりする。
 そんな、二人で朝ご飯を作った小さな朝。
 遠くから聞こえてくる何か、きっと小さな鳥達の鳴き声もひどく春らしい、そんな朝。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 あたしは、割とコンプレックスが多い。
 人と比べる事になんて意味が無いと、そんな風な女の子を気取っているけれど、本当はかなり気にする方だと最近知った。

 それを促進させているのは、例えば朝飯を作っている時の初音の背中だったりするし。
 そしてもう一つ。
 朝飯の準備も出来てそろそろ起こしに行こうと台所を出たらすぐに鉢合わせた、今まさに目の前にいる楓だったりする。

「おっと、おはよう、楓」
「…梓姉さん、おはよう…」
「あんたも相変わらず朝だけは弱いんだねえ。あ、あと寝癖、かなりすごい事になってるよ」
「また格闘になります…。寝癖のあんまりつかない姉さんが羨ましい…」

 いや、確かにかなりすんごいことになってるんだわ、楓の頭。
 なんて言うか、言葉に出来ないくらい凄い。おかっぱだけれど髪の量は多いからな、楓は。そして髪質も割と硬い。これは多分、千鶴姉に似たんだろう。初音は割と柔らかい。寝癖も、調理してた時にはほとんどついてなかった。ちょっとくらいのなら手櫛くらいで直せてしまうのが、あの子の髪の便利なところだろう。

 そう、とにかく今の楓は凄いんだ。これはもう、楓ファン必見なくらい。
 でも。
 それでも、だ。

「ほら、あたしは短いからさ。そんなに寝癖もつかないんだよ。…ま、良いか。取りあえず頑張ってきな。手強そうだったら飯の後にしなよ、戦いは」
「うん。じゃ、行ってきます」
「頑張れ」

 小さく頷いて、薄桃色のパジャマが回れ右。春の日差し差し込む廊下を、ひょこひょこと洗面所へ歩き去って行く。
 そう、凄い楓なのに。
 なんかのカツラかしらって感じなのに、だ。

「…なのに何であんなに綺麗かねえ、楓は…」

 廊下を曲がって見えなくなった後で、ため息交じりにあたしは呟いた。
 あの頭ですら綺麗というのは、かなりの才能なんだろうな、やっぱり。
 そう思わずにはいられない、午前7時。

「…なんか悔し紛れみたいだな、あたしも」

 楓が見えなくなってから呟いた言葉は多分、それ以外のなんでもなかった。
 もう一度ため息をついてから、頭をぽりぽり。
 こんな事、楓はしないんだろうなあと思いながら、それでもしていても多分綺麗なんだろうとそう思えるのがなんともはや。
 綺麗っていうのは、あたしには手の届かない場所だなあ。

 自分のコンプレックス助長の確実な一因である、最近頓に綺麗になっている妹を洗面所へと見送ってから、あたしはそろそろ起きてきて飯だ飯だと騒ぐであろう千鶴姉の面倒をみるために、台所へと向った。
 起き抜けの千鶴姉は、初音一人には任しちゃ置けないからな。

 その、だらしの無い千鶴姉ですら、あたしよりはずっと綺麗だもんなあ。
 なんともやりきれない気持ちは、朝の光に溶かしてしまおうか。

 キザなことを思って、朝日を浴びてみた。春の朝日は、今日はとても気持ちが良い。
 もやもやは、割とあっさりと溶けていった。単にだらしの無いあたしが呼び起こしたものだ、忘れっぽいあたしならすぐにどこかに溶かしてゆけるのだろう。

 それにしても、こんな事を思う様では。

「あたしも割と女の子だよねえ…」

 自分で言っていて、微妙な言葉だとは思った。
 多分誉め言葉だと思い込んで、そして居間へと足を向ける。 
 やっぱりでも、この家で一番女っぽくないのはあたしなんだよね。

 それだけはどうにも動かしがたい事実。
 それをあたしは受け入れてきたはずなのに。
 最近ちょっと、胸が疼く。

 優しい風が開け放された扉から入ってきて、あたしの周りを通り過ぎて行く。
 春よ来い。
 小さく歌った昔の流行り歌を、風はやっぱり優しく流して行った。

 

 

 

 

「…きわどい所だな、楓」
「善戦したんだけど…」
「でも、昨日よりは随分いいんじゃないかな、楓お姉ちゃん?」

 5分ほどして、いまだ起きだしてこようとしない千鶴姉を放っておいて朝飯にする事に決めたあたしと初音の元にやってきた楓の髪の毛は、ボーダーラインぎりぎりだった。
 なんというか、もしかすると新しい流行のスタイルといえないことも無いかもしれない、一種前衛芸術的なおかっぱの両サイドの裏側。

「いわゆる日本代表の弱点がなんか凄いんだよな…」
「?」
「梓姉さん、あそこは仕方ないんですよ。トゥルシェ監督もリスク承知での布陣ですから」
「まあそうなんだろうけどな」
「??」

 さりげなくサッカーファン的な会話を繰り広げてから、楓はいつもと同じ席につく。監督の名前の発音に、サッカーマガジン立ち読みを良く競い合っているあたしへの対抗意識が見られた。
 スポーツに関してはとんと疎い初音は、はてなマークを顔一面に浮かべながらも取りあえずご飯7割くらいのお茶碗を楓に手渡した。
 微妙なおかっぱが、か細くて綺麗なありがとうと一緒に小さく揺れる。

「さて、それじゃ千鶴姉は取りあえず置いておいて、ご飯としますか」
「そうだね。それじゃ、いただきま〜す」
「頂きます」

 妹達二人と一緒に、あたしもお米へのありがとうを捧げて、そして箸を取った。
 あたしと初音で作った朝ご飯は、白米に大根のお味噌汁、肉じゃがにお漬物、ほうれん草のおひたしにそしてししゃもの焼き物だった。
 実質的に手のかかるのは肉じゃがくらいで、これは完全に初音の担当だった。あたしは今朝は、随分と楽をさせてもらっている。

 ふと、初音がちょっとだけ緊張しているのに気が付いた。あたしじゃなくて、楓の食べる姿をじっと見つめている。自分のご飯を食べることすら忘れて、ちょっときつく手を握り締めていたりする。
 ちょっと考えてから、なるほどなって感じであたしも理解する。そして、少しだけ笑いかける。
 初音にはそれに気がつく事の出来る余裕すら、多分無かっただろう。まあその辺が初音らしいといえばらしいんだけれどね。

 取りあえず、あたしまでそんなにわざとらしい態度を取るわけには行かない。興味の無いフりをして、いつまでもやめようとしない首相の発言を伝える、いつまでも同じようなコメントばかりを繰り返すニュース番組を眺めていた。

 野菜類からつまんでいた楓の箸が肉じゃがに伸びたのは、すぐその後のお話。
 初音の両手が、また少しきつく握り締められている。あたしもなんとなく力が入っていた。
 楓はいつも通り淡々と、ジャガイモとお肉とを頬張っている。特に変わった様子も見せないで、ゆっくりと喉を通して行く。楓がするからこそそれは、ひどく上品に見える。もっとも上品な飲み込み方なんて、あたしには良くわかんないんだけれどね。

「今日の出来はどうだ、楓?」

 初音はもちろん、何にも口になんか出せない事を知っている。だからこれは、こうやって尋ねる事はあたしの仕事だった。
 姉として、そして料理のお師匠様として。

「いつも通り美味しいです、さすが梓姉さん」
「…やったっ!!」

 にんまりと相好を崩すあたしと、今まで溜めてきたものを一気に爆発させるように声を上げる初音。
 今度は楓がはてなマークの顔をする番だった。
 しかしながらそこは楓、もう一度肉じゃがを口にしてみてから、そして頷く。

「なるほど、これは梓姉さんじゃなくて…」
「そういうこと。やったな、初音」
「うん! やった、やった〜」
「凄いわね初音、全然いつもとの違いが解らなかったわ。というか、今食べてみても遜色ない…」
「やれやれ、完全に追い付かれちゃったなあ。楓にすら見抜けないってのは、なんともはや…」
「えへへ、ありがとう、梓お姉ちゃん」

 初音の真っ直ぐな感謝の視線は、少し照れくさい。そこをそう思わせないのが、そして初音の初音たる所以だろう。
 そんな、ちょっとだけ照れているあたしに気がついたのだろう、今度は楓が助け舟。

「さ、初音も自分で食べて御覧なさい。私も気が付けなかった、今日のあなたの肉じゃがを」
「うんっ! ありがとう、楓お姉ちゃん!」

 言いながら夢中で箸を伸ばす初音は、なんでか解らないけれど楓にまでお礼を言っていた。
 思わず顔を見合わせて、あたしと楓は小さく笑い合う。
 まあ、初音の勢いってのは良く解らないものだし、それはそれで良いんだけれどね。

 嬉しそうな初音をもちろん楽しそうに見つめながら、楓がふと思いついたように頷く。流れ出した言葉は、いつもと同じ綺麗なソプラノ。

「美味しかったお礼に、今日は私がお皿洗いするわ。初音は早くご飯食べちゃってね」
「あ、でもそれは…」
「いいのよ。私はもう食べ終わってるから」
「な、なにぃ!」
「…ほんとだ。肉じゃが、随分売れたねえ…」
「美味しかったから…」

 いつの間にやら、楓の前の食器は綺麗に空っぽだった。
 柏木楓、侮れぬ……。

 それはともかく、その後も楓はあたし達の食事が終わるまでそこで話に付き合ってくれていた。初音が本当に嬉しそうに早朝の事を話しているのに、やっぱりとても楽しそうに楓は頷いている。

 この辺の優しさみたいなものも、大したもんだ。
 確かに見分けのつかない初音作の肉じゃがを啄ばみながら、下の妹二人の会話をあたしはぼんやりと聞いていた。

「だからね、初音。そうじゃなくて、トゥルシェ監督、なのよ」
「うーん、難しいなあ。口が回らないよ…」

 ……いつの間にそんな会話に……?
 相変わらずサイドの裏の髪の毛が弱点な寝癖前衛芸術家、柏木楓は謎が多い妹ではあった。

 でも、取りあえず良い妹だ。
 それだけは間違いの無い所である。

 あたし達が全てご飯を食べ終わっても、まだ千鶴姉は起きだして来なかった。
 楓の方が長女みたいだ。
 ずっと初音と会話を絶やさなかった彼女を見て、ぼんやりとそう思ってみた。

 取りあえず、思ってみただけだったけれど。

 

 

 

 

 

 

 

「…にしても初音、嬉しそうだったなあ」

 ごしごしごし…。
 黙々と皿洗いを楓と並んでしていると、さっきまでの初音の姿が浮かんできた。
 結局、朝食の間中ずっとハイテンションだった初音。楓にも見破れなかった自分の肉じゃがの出来が、よっぽどうれしかったんだろう。多分今ごろは、鼻歌でも歌いながら歯磨きをしてるに違いない。
 …想像してみると、それって案外難しそうだな…。

「そうですね…。朝からでも、良い物を見られたって感じしませんか?」

 まだパジャマ姿の楓が、二つ目の湯飲みを洗い終えて水切りに手を伸ばしている。
 顔に似合った通り、ひどく丁寧な洗い方と漱ぎ方だった。

 ちなみにあたしは、楓が洗っている間に着替えと歯磨きを済ませてきて、そしてまだ終わっていなかった楓のそれを手伝っている。
 別に楓の仕事が遅いわけじゃない。あたしは食べ終わってからすぐに席を立って、楓はずっとはしゃいでいる初音に付き合っていたらしい。
 まだ眠っている千鶴姉の部屋を覗くだけ覗いて声だけかけて、そして着替えその他諸々。
 あたしの準備は多分、この家で一番早い。それと初音のゆっくりとしたご飯の食べ方とが相まって、あたしと楓での二人での家事という事になったんだと思う。

 ちなみにぶっちぎりで身支度が遅いのは千鶴姉だ。あの長い髪の毛を手入れするのは、それなりに大変な事だろうと思う。
 もちろん他にも要因はあるんだろうけれど、言うとまた長くなりそうだから黙っておくのが吉だろう。

 楓は自分でやるから良いと言ったのだけれど、あたしが聞かなかった。
 なんていうか…。家事はあたしのせめてもの抵抗なんだと、そんな小さな意地のようなものがあったのかもしれない。
 下らないとは思うけれど、それでもなんというか止まらない思いみたいなものはある。

「そうだな。初音の笑顔で朝が始まると、やっぱり気分いいもんな」

 そんな気持ちを誤魔化すようにして、少し泡を多めに出してから三つ目の茶碗に取り掛かる。あと少しで洗い物完了だった。楓が全体の四分の三くらいやってくれただろうか。
 今朝の初音の肉じゃがといい、今日はあたしはだいぶ楽をさせてもらっている。持つべきものは、姉思いの妹二人という所か。
 それにしても千鶴姉は今日はちょっと遅いな。さすがにちょっと心配ではある、うん。

「それにしても、あの時の初音も凄かったな。めちゃめちゃ緊張してたんだぜ、楓が肉じゃが食べる時まで」

 思い出すと、少し笑える。
 一生懸命楓を見つめて、箸までしっかと握っちゃって。
 可愛いといえば言えるし、初音らしいと言えばその通りな光景。ある意味、今朝の一番可愛らしい初音だった。
 楓にも見せてあげたかったと、そんなことを思いながら少し強めの水流で泡を流していると、ふと楓の笑みが音になって聞こえてくる。
 三つ目の湯飲みを洗い終えた楓のノルマは終わり。自分の蛇口を止めてから、笑顔を保ったままで言う。
 姉のあたしですら見とれてしまいそうな、本当に綺麗な笑顔で。

「可愛かったですね、あの初音は」
「…あんた、気がついてたのかい?」

 笑顔のまま、さあどうでしょう、という感じにタオルで手を拭う。
 それは、何も言わずとも答えになっていて。
 そして言われてみれば、それはそうだろうなあと思わせてくれる事実でもあった。

「…確かに、あの初音に気がつかない楓じゃないか」
「凄かったですよ、お箸とか口元へのあの子からの視線。かおりさんが姉さんに向けるような、そんな感じ」
「うっ…。それは気がつくわな…」
「ふふふっ」

 思わず取り落としそうになった茶碗を何とかキープしてあたふたしているあたしに、楓はまたちょっと笑顔を広げた。
 まったくもって鋭いというか、抜け目の無い妹だ。

「それじゃ、肉じゃがの件は…」
「いいえ、それは解りませんでした。なんで初音が私の方を見つめているのかまでは。それに、そうだと解ってから食べても美味しかったですからね」
「そっか…。ならいいや。ありがとな、なんにしても」
「いいえ…」

 おかっぱ頭と少しの寝癖。しわの一つも見えない桃色のパジャマと、そして儚いくらい綺麗な笑顔。

 そんな、本当にあたしの妹かと思えるような、そんな姿を残して楓は洗面所へと消えてゆく。
 あと少しの寝癖をなくしてしまえば、完全なるお嬢様だな。
 あと少し残っていた泡を流してから、あたしも楓と同じタオルで手を拭う。
 なんとなく、楓の香りが残っているような、そんな気がした。

「やれやれ、ほんとに出来た妹たちだねえ。あたしゃ幸せものだよ」

 言いながら、言葉に残っている少しの寂しさには自分でも気がついていた。
 何に寂しいのか、ぼんやりと感じていたけれどとりあえずは誤魔化しておきたかったけれど。
 でも、なんとなくそれは心に残ったまま消えて行ってくれない。

 あたしらしくない。
 でももしかすると、あたしらしい。

「…そうだな。今日は一人で」

 決めた。
 もう持って来てあった鞄を持って、玄関へと走る。

「初音〜、あたしちょっと用思い出したから先行くわ。千鶴姉のこと頼んだよ」
「うん、解ったよ梓お姉ちゃん。行ってらっしゃい〜」
「おう、行ってくるよん」

 初音の言葉を背中に背負って、あたしは少しだけ勢いを付けて玄関を飛び出した。
 春の日差しは、本当に気持ちが良い。表に出ると、少し暑いくらいだった。

 一人でのんびり、考えてみよう。
 胸のもやもやは、あたしらしくないから。
 あたしらしくないって事に、しておきたいから。

「…しっかりしすぎている妹達ってのも、割と重荷だねえ…」

 呟いた言葉を、春風は連れて行ってくれなかった。
 そのまま、のんびりとあたしの周りを回って耳に帰す。
 恥ずかしいような、情けないような。
 そんな思いを、でも受け止める事にした。

 学校までの道は長い。
 のんびりと考えよう。春の暖かで、でも暖か過ぎない日差しの下でなら、あたしにも少しはましな考えが浮かぶかもしれないな。

 期待を込めて、歩き出した。
 少し早い朝の町には、人影もほとんど見られない。
 あたしの少し長い影と、そしてあたしだけがひょこひょこと進んで行く。

 影を見て、思った。
 似てないな、と。

 誰に?

「…誰にも、なんだろうねえ」

 そこから、考え始める事にした。
 みんなの事。そして、あたしの事を。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 疎外感。
 それとは違うと思うけれど、でも全然違うものではない、そういう気持ちを抱いている。

 一人ぼっちで学校へ向う、この小さな温泉町の朝がそういう気分にさせている訳ではないだろうけれど。
 なんとなく寂しいという気持ちは、多分間違いなくあると思う。

 今朝は、とっても楽しかった。
 初音と一緒の朝飯作りと、少しの進歩。
 楓との他愛も無い会話と、小さな気遣い。

 それは、家族と共に過ごす事のできる小さな幸せ。
 とても幸せなことなのに、そこに小さな寂しさとそして疎外感を感じてしまうあたし。

「なんつーか…。あたしだけちょっと場違いな感じがするんだよねえ」

 鞄を持ったままの手を頭の後ろで組むと、少し重心が後ろへと動く。
 結果的に見上げた空には、まだ低い太陽は見えない。ただ、爽やかに広がる青とちぎれた雲のさらに小さな欠片だけが、あたしの目に写る全て。
 綺麗な、綺麗過ぎる光景は、そして少しだけ寂しい。

 空と、太陽と、そして雲。
 その中に一羽、小さなカラスが曲線とも直線ともつかない曖昧な軌道を描いて羽ばたいている。

 場違い、か。
 ちょうどあんな感じなのかもしれない、あたしも。

「あたしだけ、ちょっと違うんだなあ」

 鞄と一緒に両の手を降ろしながら、あたしは今朝の初音を思い出す。
 暗がりの中でとは言え、一度は完全に千鶴姉と見間違えて、そして恐怖した。
 恐怖したという事が何より、初音と千鶴姉の類似を物語っている。いや、あたし今朝マジで寿命縮んだからね。

 比較的幼いと思っていた初音も、もうすっかり女の子なんだな。命が助かったと感じた直後、そう思った。
 その後の料理でも、どんどんあたしの知っていることを吸収して行く。女の子として成長して行く初音を見ていたから、こんな気持ちになっているのかもしれない。

 随分前から思っていたこと。
 それは、耕一という外の存在と再び接するようになってから。
 あたし達みんなが平等の初期状態で接する事のできる異性が現れてから、ぼんやりと感じ続けていたことかもしれない。

 あたしは、ちょっと違う。柏木四姉妹の中でも、少しだけ異質の存在なんじゃないだろうか。
 そう思い始めていた。そしてそれは多分間違っていないのだろう。今朝の小さな出来事いくつかで、それを確信していた。

 なんて言うか、あたしは他のみんなと似ていない。それは外見、容姿だけじゃなくて性格とか心の中に秘めたものとか、そういうものも含めての話だ。

 とりあえずいの一番に思いつくことは…。

「みんな、なんであんなに美人かねえ…」

 思わずため息の一つも出ようという、それはむなしくも寂しくもある言葉だった。
 いや、でもマジでそう思うんだからしょうがない。女ってのは割と嫉妬深くて妬み嫉みがたくさんある生き物だと思うし、同性の事に関しては特に辛口だと思うんだけれど、こればっかりはあたしがどんなに割り引いて見てみても間違いないことだと思う。

 なんだかんだと喧嘩しているけれど、あたしは基本的に千鶴姉は凄く綺麗だと思ってる。純日本人的というか、清楚というか。例え偽善者であろうとなかろうと、あの容姿のたおやかさは、残念ながら本物と言わざるを得ない。

 そして、今まではどちらかと言ったら可愛いとは言えても美人とは言えないと思っていた初音の今朝だ。多分姉妹の中で一番千鶴姉に似ているのは、あの子だろう。あの性格で千鶴姉みたいな姿になったら、世の男どもは放っておかないだろう。柏木家四姉妹の、表向き腕力担当なあたしの仕事が増えそうだ。
 …ほんとは千鶴姉なんだけれどな、腕力担当は…。

 んでまあ、楓は言うまでもなし。人形のような綺麗さってのはもう、昔から変わっていない。あたしですら、最近は見とれてしまうほどだ。…かおりの影響で変な趣味が出てるわけじゃないぞ、ちなみに…。

 さて、翻ってみてあたしはどうかというと、なんつーか…女よりも男って感じがする。耕一にも良く言われる事だけれど、それはあたし自身良く感じる事だ。耕一との付き合いを通してのあいつの言葉からも、その辺は良く感じられるようになっている。
 だってほら、態度違うしね、他のみんなと接する時と。

「性格もそうだよなあ…」

 千鶴姉はまあ、いろいろある。あの、非常に優しいお姉さんっぽい外面が実際とどれほど違っているか、一緒に住んでいるあたし達はかなり解っている。というかあたしが一番解っていて、その被害を受けている。
 でもあの人は、本当に色々な事があった人だ。あたしたちを色々なものから守るために一生懸命自分を犠牲にして、そして心も殺してきた。そういう優しさが、ちょっとだけ自分を傷つけてしまったんだろう。そう思う。そうだと知っている。

 楓も、今朝見た通り凄く思いやりのある子だ。物静かだけれど、内に秘めた決意というか真っ直ぐさというか、そういうものはあたし達の中でも一番だろう。こう、思い込んだら止まらないって所がある。

 初音に関してはまあ、今更何をか言わんやである。あの子は生まれてくる世界と時代を間違ったんじゃないかと、それくらいの良い子純粋培養。あれが演技じゃない所が千鶴姉と決定的に違う所。そしてあれが演技だったら、あたしはさすがに世を儚んでどこかから身を投げるね…。

 んでまあみんな共通しているのは、それが本質であれ演技であれ凄く女っぽいって事だ。片田舎の生まれだからかどうかは解らないけれど、本当に生粋の女の子って言う性格があると思う。楓も初音もそうだし、千鶴姉も今はちょっと世間スレしてるけれど、昔はかなり田舎の、古き良き女子高生してた。

 さて、翻りたくないんだが…。あたし。
 こりゃ一体どうしたことだいって感じの逸脱振り、見事なまでの女性らしさに対するアナーキスト。ここだけ見ても、ちょっと四姉妹の次女とは思えない所だ。決定的に女らしさに欠けている。耕一と初めて会った時に、風呂に入るまで男と思われてたって話は千鶴姉に大笑いされたし、楓にはお得意の笑ってるんだかなんだか良く解らない笑いを浴びせられたし、初音は初音で『笑っちゃ悪いよ、みんな』とか言いながらくすくす笑ってやがった。
 まあ問題は何より、そんな昔からあたしは性格的にはこの姉妹の中の異端者だったって事だ。

「こりゃ生まれつきだよなあ」

 ため息二回目。
 二つ考えただけでもこんなにあがってくるんだ、これから先を考えるのが少し嫌になってきた。

 実際、他にもあげたらきりがない。あたしと他の三人は、絶対に親が違うんじゃないかって言うくらい似にていない。そして大概のものは、あたしが男よりで三人が女寄り。もしかしてあたしは男として生まれるはずだったんじゃないかと、そんな感じすらしてくる。

 唯一女としてあたしが勝ってるのはスタイルなんだろうけれど……。

「耕一の好みなんて、良く解んないしね…」

 大きければ良いってもんじゃないしな…。
 思わず俯きかけた視線を、振り払うようにしてあたしは駆け出した。
 真っ赤になりそうだった顔は多分、そんなことでは誤魔化せなかっただろう。

 だから、顔の色が見えないくらいに一生懸命、学校前で走ろうと思った。

 誰に見せたくないのかは、解らなかった。
 多分、ここにいない耕一だろうとは思ったけれど。

 そう。
 結局、みんなとあたしを比べるのも、耕一がいるからだろう。
 あいつに少しでも認められたいってのはある。みんな多分、そう思っているはずだ。

 それは…。
 それは多分、好き、だからなんだとも思うけれど。

 負けたくない。
 そう思っていつからか始めた家事が、あたしを唯一女の子としてあの家で見せてくれるものになっていた気がする。
 楓が料理とかを自分から進んでしようとしないのは、そんなあたしの領域。せめてもの抵抗に手を出さないように、無意識にひどく女の子しているあいつの心が抑えているからじゃないのかって、そんなことも思ってみたりする。

 そしてそこは、素直で優しい初音にだいぶ入り込まれている。
 あたしが女の子としてあの家でいられる場所は、どんどん小さくなっている。
 多分、そのうちなくなってしまうだろう。

 耕一には、せめて女の子として見て欲しい。
 そんな思いがある。
 耕一が来ると張り切って料理するのは、その辺もあるのだろう。

 負けたくないと、そう思っていた。
 心はいつか、せめて女の子でいたいと、そんな儚い夢にとって変わられていた。

 劣等感。
 コンプレックス。

 それが、今朝から続く胸のちくちくの理由。
 女の子としてのあたしの存在場所が消えてしまいそうなことに対する恐怖。
 そして、耕一…。

「らしくないぞ、梓っ!」

 小さく、でも叫んでみた。
 学校が目に入ってくる。ペースをあげる。
 上がってくる息遣いが、それでも心地良い。

 赤くなっていた顔は多分、これでごまかせるだろう。

 寂しい心を誤魔化すのは、多分無理だと思うけれど。

 

 空は、馬鹿みたいに晴れ続けていた。
 雲も、太陽も、さっきと変わらずに綺麗で。
 そしてさっき見つけたカラスだけはもう、どこか。

 どこか、あたしの見えない場所に飛び去ってしまっていた……。

 

 

 

 

 

 

 

従兄弟と姉妹とため息と
『little complex of a tiny crow』
【後編】へ続く


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