あこがれ
【後編】

 

 

 

 3時半は、もちろんまだ太陽も高い。
 この時期はいつも、沈み行く太陽と一緒に帰っている事を思えば、少しだけ違和感のある下校ではある。

 今日は、週に一度の部活無しの日。
 運動が割と盛んな学校にあたしは通っているけれど、それでもそんなやつらばっかりだと勉強しないで部活ばっかりになっちまうって事で、こんな日が設けられたらしい。
 余計な事をしてくれるとは思うけれど、それでも学校のいうことはまあ間違ってない。千鶴姉も常々、何はともあれ大学には行った方が良いと熱弁する案外教育姉ではあるので、勉強してるんだよってポーズをするにはそれなりに有用な一日だったりするのだ。

 もっとも、今日みたいな日では帰っても勉強なんてまともにできるとは思えなかったけれど。
 と言うか、いつもまともになんかしてないんだから、こんな日はもっとダメに決まってた。
 家に帰ってベットの上でぼんやりと考え事をしようか、それともどこかをぶらぶらしてこようか。そんな事を考えながら、校門を通って学校の敷地から抜け出して行く。

「梓先輩〜、また明日です〜」
「ああ、またな」

 後から、かおりのやつの元気な挨拶が聞こえて、少し苦笑した。
 今日は、いつもほどしつこくない。部活のない日にはいつもどこかに遊びに行こうと誘ってくるあいつが、いやに静かではあった。

 なにか違うあたしの事を気がついたのかな。
 それを覆い隠すような、最後の元気な挨拶が少し心に染みた。

「さて、どうしたもんかねえ」

 一人、町のいつもの道を歩いて行く。
 今までずっと、僅かのかげりも見せずに晴れ渡っていた空の下を。
 朝よりも少し、長くなった影と一緒に。

 一日中、ずっと考えていた。
 何を、と問われるとちょっと困る。
 あたしの事であり、千鶴姉、楓、初音、姉妹のことであり。
 ここにはいない耕一の事でも、そしてあった。

 考え事は苦手なあたしが、授業中やら休み時間やらにぼんやり考えた所でなんの解決も見つかるはずもなく。
 そもそも何を考えているのかすら解っていないのだから、答えが見つかるほうが奇跡といえるかもしれない。

 多分、ちょっと皆が羨ましいだけだとは思う。
 あたしに無い物をたくさん持っている。女の子としてあたしに無い物を持っている皆が。

 そして、それがちょっと悔しいだけだと。そう思った。

 だからどうした?
 そういう気もする。羨ましがって、悔しくて、それでどうにかなるのか、どうにかできるのか。
 そういうことを、あたしは考えていないような、そんな気もする。

「…何を考えてるんだかね…」

 何にも考えてないのと同じような思考をめぐらせながら、いつもの角を曲がる。
 考え無しで歩いて行くとどうも、そのまま家に帰ってしまいそうだった。怠惰な午後を過ごす事になりそうだなと思って、そしてそれは多分真実だろう。

 怠惰な日々は、あたしには似合わない。
 そう言いたげなぴったりのタイミングで、前から見慣れたリムジンがやってくる。
 真っ黒な車体に反射するのはでも春の日差しだから、そんなにいやらしい感じは受けない。
 個人的にはあんまり好きじゃない車なんだけれど、でもこの季節に見るとそうでもない。
 脈絡のないことを考えていると、車は当然の様にあたしの横で止まる。

 運転席の見慣れた顔が、小さく頭を下げた。あたしも一応、小さく返す。
 それを合図にするようにして、後のドアが仰々しく開いた。小さな掛け声と共に、予想通りの姿が現れる。

 去年か、一昨年くらいだろうか。彼女のスーツ姿を、初めて見たのは。
 似合わない。馬子にも衣装。
 あたしは確か、いつもと変わらぬ調子でそんな事を言ったと思うけれど。
 今ではすっかり見慣れてしまった。そして、似合っているとすら思える。

「会長さんがこんな所で油売っててもいいのかよ?」

 いや、間違いなく様になってる千鶴姉、鶴来屋会長は、春の太陽を正面から受けながら小さく笑った。

 それが。
 それが凄く、初音に似ていた。

「暇なわけじゃないけれど、でもちょっと急用ができたのよ。ちょうど部活がお休みなあなたに頼むのが一番いいかなって思って、待ち伏せしてたって訳かな」
「やれやれ、会社大丈夫なのかよ、こんなんで?」

 憎まれ口ばかり叩くようになったのは、いつからだろうか。
 良く覚えていないけれど、少なくともここ最近はずっとだと思った。

 千鶴姉はそして、あたしのそんな言葉にも笑顔を絶やさない。
 時と場合にもよるけれど、普段は余裕の笑顔とも取れる表情のまま。
 そして今ももちろんそのままで、あたしを後の席へと促す。

「大丈夫よ。私が会長になれるような余裕のある会社なんですからね」
「…なかなか言うねえ、千鶴姉」
「まあ、これでも身の程くらいはわきまえているつもりよ。…今の所、ですけれどね」

 一瞬、負けず嫌いのいつもの千鶴姉が顔を出している。
 それにあたしは少しだけ安心して、笑っていた。
 千鶴姉の前での、今日初めての笑顔だった。

「ええと、とりあえずどこに行こうかしら…」
「おいおい、用事あってあたしを引っ張ってくんじゃないのか?」
「できればあなたには任せたくない仕事なのよ。でもま、私も暇じゃないし、楓と初音は部活だしね。それにまだちょっと時間があるのよね…」 

 安物ではない時計を見やりながら、ちょっと腕を組んで考え込む。
 とりあえず事情はわからなかったけれど、しばらく時間を潰したいらしい。

 あたしは、何とか隣に気が付かれないようにため息をついた。
 色々と悩んでいる妹を引っ張りまわすとは、なんともはや千鶴姉らしいといえばらしい。そしてその千鶴姉本人が、あたしがうんうんうなっている原因の一つなんだから。
 当の本人はもちろん気がつくはずもなく、そして端と思いついたように膝を打つ。
 …そういう所は、やっぱりなんとなくおばさんっぽいぞ…。

「ねえ梓、あなたこの辺に美味しいケーキか何かを出すお店知らないかしら?」
「太るぞ」
「うっ…。い、いいのよたまにはっ。最近は我慢してるんだから」
「はいはい、解りましたよ。ええとそれじゃ…、前にかおりと行った店でいいかな。割と美味しかったし」
「かおりちゃんとは、そう言えば上手く行ってるの?」
「…あのな…」
「ふふふ、さて、行きましょうか」

 あたしから聞いた店の場所を運転手さんに告げて、千鶴姉はシートに寄りかかる。
 その格好まで、なんだか妙に様になってきている。そう思う。
 というかひどく格好良かった。

 あたしと5年しか違わないのに、随分大人って感じのする、そんな横顔。

 …そうか。
 あたしが、千鶴姉に悪態ばっかつくようになったのは。

 多分、そんなことに気がついてからなんじゃないかな。
 あたしになくて、千鶴姉にたくさんあるものに気がついた、その時から。
 なんか、寂しいな……。

「ん、どうしたの、梓?」
「なんでもないよ。…おっと、そこ曲がった方が近いよ」
「だそうです、運転手さん。…ああ、楽しみねえ。美味しいケーキ」
「…そういう所は相変わらずなんだけれどなあ…」
「なあに?」

 無邪気な千鶴姉の笑顔には、あたしでも文句を言う気になれない。
 適当に誤魔化して、そして揺れるシートに身を任せていた。

 …多分。
 隣の千鶴姉の様子からすると、誤魔化すのには失敗していたような気がした……。

 

 

 

 

§ 

 

 

 

 

「こ、耕一が帰ってくるぅ?」

 あたしのひどく場違いな、素っ頓狂な大声に千鶴姉は少しだけ顔をしかめただけで頷いて、そしてまた目の前のチョコレートケーキをつつき始める。
 よほど美味しかったらしい、しばらく目の前で呆然としているあたしを放っておいて、一緒に頼んだエスプレッソに夢中になっている姿は到底、この町一番の大会社の会長さんとは思えない。

 いつもなら皮肉の一つでも言ってやる所なのだろうけれど、今のあたしにはそんな余裕なんかなかった。目の前の千鶴姉の食事風景も全て、ただ心の中の背景として流れて行くだけ、目に写るだけ。
 全ての音が遠くから聞こえる。本当に遠く、遠く。

 耕一。
 その一言だけで、本当に遠く、遠く。

「…食べないの、梓?」
「…欲しかったらやるよ」
「そ、そんなっ! そんな事言われたら食べないわけには行かないじゃない、勿体無い。…でも、昨日の体重計を思い出すと…」 

 手を付けていないあたしのケーキをなんとも言えない目で見ながら、めちゃめちゃ卑近な事で悩んでいる千鶴姉。
 そしてあたしもまた、多分同じような次元の何かで悩んでいるんだろうとは思う。それはきっと、とても下らない事。

 でも、多分これもお互い同じだと思うのだけれど
 それぞれの拠所ない事情により、そのつまらない事がそうだと感じられないのだとは思う。
 拠所ない事情ってやつも多分、どうでも良い事だとは思うのだけれど。

「でも私、今朝の朝ご飯もちゃんと食べてないのよね、ばたばたしてたから。お昼も会議やらなんやらでちょっとかじっただけだし。とは言え、ケーキ二つは絶対にカロリーオーバーよねえ…」

 その辺が、千鶴姉の事情らしい。
 ぶつぶつ色々な理由を並べ立てながらも、とりあえずあたしの目の前にあったプリンケーキはたった一人の姉の前へと滑らかに移動していた。
 悩んではいるけれど、基本的に甘いものには目のない千鶴姉の事だ、手も付けていないあたしの注文した650円が千鶴姉のお腹に消えてゆくのもあと少しだろう。

 …思わず思考から逃避してしまった。あたしはそんなことを考えている余裕なんてないのだ。
 とにかく、あたしは恐かった。
 耕一がやってくる。

 理由は確か、バイトが急に休みになったのとしばらくの無理なタイムスケジュールで少し多めに出たお給料での骨休めとか、そんなことを言っていた気がする。
 そんな理由なんてどうでもよくて、大切なのは耕一が今日の夕方。
 つまりはもうそろそろこの隆山の駅に降り立って、そしてしばらくしたら柏木家の敷居を跨ぐという事だった。

 つまり。
 つまり、あたしたちの顔を見ると、そういうこと…。

「それで用事っていうのはね、あなたに駅まで迎えに行ってほしいのよ、耕一さんを」
「えええっ!!!」

 プリンケーキを半分お腹に詰め込んで、もうなくなったエスプレッソの追加を注文していた鶴来屋の社長さんは、しれっとそんなことを言ってのけた。
 妹の気も知らないでとは、本当に良く言ったものだ。…もっとも、もちろん知っているはずもないんだけれど、それにしてものんきそうな顔である。

「あら、嫌なの? あなたなら喜んで行くって行ってくれると思ってたのに」
「い、いや。別に嫌だなんて言ってるわけじゃ…」
「?」

 首をかしげながらもフォークの手を止めない姉に対して、あたしは口を濁す。
 なんて言うかその、なかなか言葉にしにくいところではある。

 多分。
 多分この気持ちは、恥ずかしさだと思う。

 今日一日、色々な事を考えた。あたしと千鶴姉、楓と初音。そして、たまたまとはいえ今日やってくるらしい耕一との事。
 そして、あたしは自分に自信を無くしている。

 元々自信なんて大層な物は持っていなかった。ただ、自信の無さを今ほどしっかりと認識していた事も、また今まではなかったと思う。
 女の子として、自分がどれくらい他のみんなと違っているのか。

 それを。
 あたし自身ですら痛烈にそれを感じている今、そんなあたし達を耕一に見られるのが。
 あたしと皆を比べられてしまう事が、何よりも恐いんだろう。

 すっかり平らげて、しまってナプキンで丁寧に口を拭っている千鶴姉。
 がっついた後だというのに、それでもどこか気品が漂っているように見える。唇のあたりに漂うなまめかしさってのは、それにしても一体どういうことなのだろうか。あたしなんか、どんな工夫をしても不可能な気がするぞ…。

「どうしたの梓。あなた、いつもそうだけれど今日はさらにおかしいわよ?」
「そ、そんなこと無いよっ」

 うわっ。
 思い切り嘘っぽい返事しちまった。ここまで情けない否定表現も、滅多やたらには聞けないだろう。
 発したのがあたし以外なら笑いのネタになるのだろうけれど、ここにはあたしと千鶴姉しかいなくて。
 そして、千鶴姉はめちゃめちゃ怪訝そうな顔をしているわけで…。

 そんな顔まで、どうして綺麗なんだろうか。
 まったくもって不可解かつ理不尽だ…。

「うーん」
「……」

 とりあえず、千鶴姉はあたしの方を見つめながら何かを考え始める。
 あたしはあたしで、迂闊に口を開くと自分でも何を言い出すか解ったもんじゃないので黙っておく事にした。
 下から見上げるような、そして探るような千鶴姉の視線に必死で耐える。

 エスプレッソおかわりを注ぎに来たウェイトレスさんが、そんな姉妹の訳の解らない暗闘に思い切り首を傾げていた。

 どれくらい時間が経っただろうか。5分は経過していないはずだ。
 千鶴姉が一口コーヒーを啜って、そしてふと目をぱちくりさせた。
 下からの視線を対等に戻して、そしてポツリと言葉を漏らした。

「肉じゃが…」
「なっ! なっ、なっ、何をっ!」

 …はあ。
 あたしはアホか?

 千鶴姉のにんまりとした顔を尻目に、結局あたしが視線を逸らす羽目になる。
 店の中に最初に逸らしてみるとお客さんがかなりの割合であたし達の方を見つめている気まずさに負けて、すぐに窓の外へと変えた。
 外は相も変わらず、馬鹿みたいに晴れていた。

 不貞腐れるあたしを尻目に千鶴姉は、独り言みたいに話し始める。
 昨日の疲れが残っていて、今朝は本当に起きたくても起きられなかった事。
 目が覚めたら楓はちょうど出かける所で、一緒になって、少し早めに出かけようとしていた初音を必死で引き止めて朝飯だけを出してもらったこと(さすがに自分で用意することの恐ろしさは認識しているらしい)。
 その際、初音が楓の時と同じように肉じゃがを食べる様を、じっと見つめていた事などなど。

 あたしはただ、聞いているだけ。
 窓の外の景色を見つめながら、聞こえないフリをして聞いているだけ。
 千鶴姉もそんなあたしの態度に腹を立てるでもなく、ただ語りたい事、語らないといけない事を語っているだけという感じだった。

「そっか。初音があそこまでねえって思ったわ。もしも来年、あなたがどこかここではない大学に出て行ったとしても、あの味をちゃんと味わえるんだなって、そんなことも考えたりした」
「…もう、あいつなら大丈夫だよ。あたしの代わりは十分できるさ」

 なんとなく、そう言っていた。
 そこには嘘をつく気にはなれないでいた。

 料理は、あたしが一番誇りを持っている場所だから。
 だからこそ、正当な評価を下さないといけない。

 初音は、本当に上手くなった。
 あと少ししたら、あたしよりも上手になるかもしれない。
 そうしたらあたしも、もうちょっと楽ができる。

 それは確かに、ちょっと寂しいけれど。
 寂しいけれど、でも…。

 何かが視界を遮りそうになった。心の波が、形を為した何かが。
 無理やりに、乱暴に手で払う。
 一度きりの感情の波は、それっきり襲っては来なかった。

 あきらめているのか。それとも。 
 千鶴姉の優しい視線を感じているからなのかは、良く解らなかった。

 しばらくまた、沈黙の時間が過ぎて行く。
 あたしは、何を考えているのかすら解らないまま外を、道行く人たちを眺めている。
 千鶴姉は、3杯目のエスプレッソの御代わりを注文した。

 また一口、口をつけてから。
 そして、ゆっくりとまた言葉を紡ぎだす。

 今までとは、少しだけ違った口調で。
 なんて言うんだろう、滅多に見せないけれどでも、それでも確かに千鶴姉が持っている言葉。
 千鶴姉の、幾つかの顔のうちの一つで。

「ねえ、梓。私が、あなたにある事で羨ましいと思っている物がいくつかあるのよ。なんだか解るかしら?」
「…あたしに?」

 顔を、久しぶりに千鶴姉の方に向ける。
 そして、見つめた顔で解った。

「うん、凄くうらやましくて、私には出来ないなってそう思う事」

 母さんだ。
 母さんの顔に、千鶴姉はなっていた。

 とても優しくて、柔らかで。
 そして何より素敵なその笑顔を。

 どうしてだろう、あたしはさっきまでのように羨ましいとは思わないで見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「凄く簡単な事なのよ。そう、本当に些細な事。羨ましいと思うことすら、もしかしたらおかしいのかもしれないくらい小さな」
「……」

 千鶴姉が、しみじみと語る言葉の先が、あたしには読めなかった。
 なんというか、凄い違和感すら感じながらただ言葉に耳を傾けていると、そういう感じ。

 しばらくコーヒーカップを手の中でもてあそんでから、千鶴姉は小さく首を振った。
 目を閉じて、ゆっくりと振られる首と一緒に揺れる髪の毛が、爽やかな香りをコーヒーのそれに混ぜる。

 そう言えば、あたしは頼んだアールグレイを一口も飲んでいなかった事を思い出していた。
 なんとなく、今は口を付ける気にはなれなかったけれど。

 チン、と小さくコーヒーカップを叩く千鶴姉。
 中身はまだそれなりに残っていて、ゆらゆらと水面が揺れていた。

「ううん、そんなこと無いかな。それは凄く大切な事かもしれない。些細な事だけれど、でも私は本当にうらやましいと思うもの」
「そんな事があるの?」
「ええ、とっても。私はきっと、そしてもう得られない事だと思うから。…そうとは限らないけれど、でもどうなのかしらね…」

 なぜか、千鶴姉は顔を少しだけ赤く染めた。
 あたしの傾げた首にも構わないで、誤魔化すようにしてまたエスプレッソ。
 さすがに次の注文はしたくないのだろう、ちびりとすすっただけだった。砂糖のカロリーも馬鹿にはならないというところだろうか。

 カロリー…。
 あ、まさか。
 ふと、頭の中に浮かんだ言葉のお陰で、今度はあたしが顔を赤くする番だった。

「あのさ、千鶴姉。スタイルやらなんやらの事ならそれはあんまり…」
「なっ。そ、そ、そ、そんな事は無いわよっ」
「…むきになって否定する所が怪しいんだけれど?」
「そ、そりゃ少しくらいは羨ましいと思わないわけじゃないわよ? 相変わらず…その、成長しているみたいだし…」

 しばし、あたしと千鶴姉の視線が同じ場所で交錯する。顎と首の、ちょっとした辺り、
 微妙な間があった。なんというか、言葉にはし辛い、艱難辛苦を共にしてきた姉妹だからこそ感じられる何かがそこに。
 …でも、やっぱり胸を見つめられているのはちょっと恥ずかしい。手で、服の上から千鶴姉のいやらしい視線から隠してみる。
 …なんとなくそうした方が恥ずかしいような、そんな気がした。

「……な、なにしてんだろ、あたし達……」
「そ、そうね。とにかく話を元に戻すわよ」
「千鶴姉が勝手に話を逸らしだけだろうが…」

 不満そうに唇を尖らせる千鶴姉だったが、それでもあたしはそう言うしかなかった。
 逸れていた話の内容が内容だけに、あたしの方からどうこういうのは胸の話をされるのよりも恥ずかしかったと、まあそういうことだけれど。
 ちなみに良く考えてみると、千鶴姉の言葉の曖昧とは言え普通の言葉を変な解釈にして話を逸らしたのは、あたしのほうだったりもするのだが。

 多分でもそういう解釈をしてしまったのは、千鶴姉の言葉がどうにも信用できないというあたしの心のせいでもあったりするのだろうけれど。
 そんな心を見透かしたわけでもないだろうけれど、千鶴姉は尖らせていた唇をだいぶ滑らかにしてから、ちょっとだけ曖昧な笑顔を浮かべてあたしを見つめる。

「あのね、梓。私があなたの事を羨ましいと思っていることは一つじゃないわ。性格とか元気いっぱいな所とか、お料理だってなんだって私から見たらみんなとってもすごい事だと思ってる」
「…それは、まあ…」

 千鶴姉の口から出てきた言葉は、ある程度予測の範囲内だった。
 元気の良さとか料理とか、それは確かにあたしと千鶴姉では違う所である。料理に関してはもちろんあたしの方がずっと上ではあるけれど。
 でもそれらはむしろ、今日いっぱいあたしが落ち込んでいた、その理由にも近いものであったりする。

 料理ができるように頑張ってきたのは、それはあたしが自分の事を女の子としてはいまいちだと思っているから、それに反抗するみたいにって所がある。そしてそれは、初音に追いつかれつつある。
 性格にしてもそう。初音、楓。そして目の前の千鶴姉もみんなみんなとっても優しくてやんわりとしていて、言うなれば女の子向きの性格だ。あたしはそれが羨ましいと思っている。
 千鶴姉からすればあたしの元気の良さは自分と違っていて羨ましいのかもしれないけれど、それはあたしのあんまり好きではない自分の確かな一面であるのだ。

 そんな風に口を濁したあたしに、千鶴姉はちょっとだけ真面目な視線を向ける。
 のんびりとした店内に、少しだけ硬い空気の香りが漂った気がした。
 あんまり見せない、真剣な千鶴姉の顔だった。

「確かに人は、自分に無い所を持っている人には憧れるものだわ。そういう意味ではあなたも、私のどこかに憧れていたりするかもしれない。でもね、私には今言った事以外にも、これだけは自分には出来ないと、そう思っていることもあるの」
「千鶴姉には出来ない事?」
「そう。そしてあなたに出来る事、出来ている事…」

 ゆっくりと、噛み締めるような語尾が小さく消えてゆく。
 自分のその言葉の残り火に、千鶴姉はそして首を振った。
 そうじゃないかな。
 小さく付け加えた。

「それは、あなたにとっては当たり前の事。それを当たり前に出来るということが梓の梓らしい所で、そして私が本当に羨ましいと思う所なのね、きっと」
「一体なにが…」

 千鶴姉は、少しだけいたずらっぽく笑った。
 時計をちらと見やる。つられてあたしもその視線の先を追いかける。もうこの店に入ってから、30分は経過していた。
 そう言えば、と思い返す。
 あたしが何でこの店にいるのか。千鶴姉と一緒に、ケーキなんか食べたりしているのか。

 あたしの頭の中によぎった名前を、多分千鶴姉も思い浮かべているのだろう。小さく唇だけで笑う。

「耕一さんの電車が着くまであと少しね。…それで、それは耕一さんに関係する事なのよ」
「耕一と?」
「あなたと耕一さんとの関係、間柄かな。…多分、これは想像でしかないけれど、楓も初音も、きっと羨ましいと思っているわ」

 千鶴姉の言葉は、ただただ驚きだった。
 あたしが他の三人と耕一との関係について羨ましいと思う事は数多あれど、その逆なんてありえないと思っていたから。
 さすがにもう、我慢できなかった。今までの話し方だって良く考えると、千鶴姉は微妙に結論を誤魔化していたと取れなくも無い。じらし方の上手さは、伊達に鶴来屋会長をやっていないということを感じさせた。

「なあ、一体なんなんだよ?」
「ふふ、そうね。あんまりじらしてもあれね」

 千鶴姉の悪戯っぽい笑顔に、あたしはむくれようかどうか少しだけ迷った。
 でも、今は好奇心と少しのプライドが先にたつ。黙って、千鶴姉の動き出す口元を見つめていた。
 聞こえてくる言葉に、耳と心を済ませていた。

 話と一緒に、千鶴姉の安くは無いだろう時計の秒針が刻む時間が聞こえる。
 話の途中のいつかからだろう、その音が凄く大きく聞こえる。
 そして進んで行く時間が、どこか待ち遠しくすら感じられて行く。

 途中、冷め切ったアールグレイを飲んでみた。
 それは思っていたよりも、ずっと深い味がした。

 千鶴姉の言葉が多分、そう感じさせてくれたんだとも、そして思っていた。

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 駆け抜ける、街を。
 通り過ぎる、路地を。
 掻き分ける、人並みを。

 走る。
 あたしは、走っている。

『あなたは多分、凄く自分に素直なのね。悪い意味じゃないのよ、良い意味で自分に嘘をつかないっていうか。それは私にも楓にも無い所。初音にも無いわ。あの子の場合、良い意味で嘘をついてしまうから』

 春の日差しが陰りを見せる、長く薄い影の夕暮れ時。
 柔らかい空気と風と、そして街並みの中を駆け抜ける。

 今もまだ辛うじて、でも空は青くて。
 手が届きそうな。
 先をゆったりと流れて行くあの小さな雲に追いつけそうな勢いで、風と赤を追い越すようにして走る。

 いつからあたしは、走る事を覚えたんだろうか。
 誰よりも早く、誰よりも先にあの場所へ駆けて行く事を。

 

『まあ、馬鹿正直というか真っ直ぐって言うか、そうとも言えるけれど。でも、それが良い事なのかどうなのかは、解る人には解るものよ』

 

 少し、あたしはむっとしたかもしれない。
 でも、千鶴姉は嘘を言っていなかった。あたしだって、そのくらい解っている。

 だから、今も見上げている。
 追いかけている、青い空の写りこんでいた千鶴姉の瞳から目を離さないで、黙って聞き続けていた。

 

『素直、正直ということは友達になりやすいって事。かおりさんだってきっと、そういうあなたが好きなんだから。…あ、別に茶化しているわけじゃないのよ? ふふふ…』

 

 かおり、か。
 そう、あの子がいい子だって事も解っている。
 あたしの事を、なんだかんだ言いながら心配してくれている。

 千鶴姉といい、かおりといい。
 あたしは周りの人には恵まれている。

 まるで、そう。

 

『素直を気取っただけの人には、友達は出来ないわ。素直でいること、自分に正直でいるということは、本当にそうでいるって事はとても難しい事だと私は思う』

 

 今朝見上げた空で、気持ち良さそうに空と、雲とに囲まれて。
 高い高い太陽を目指して羽ばたいていた、一羽のカラスのように。

 

『そして、あなたにはそれが出来ている。多分何にも考えていないのでしょうけれど、普通にそれが出来ている。当たり前のようにして、自分が正しいと思うことをして、それになんの迷いも抱かない。それは、とてもすごい事よ』

 

 当たり前の事。
 そんな事は、きっと無いのだろう。

 あたしにとって当たり前の事は、誰かにとっては凄く大変な事で。
 そして誰かにとって当たり前の事は、あたしにとっての羨望の対照であったりもする。

 そんなことで悩んだり、めげてみたり。
 人間は、どこかつまらない。

 そしてだからこそ、どこもかしこも楽しい。

 

『耕一さんが、そしてそのことを一番良く知っているんじゃないかしら。少なくとも私は、耕一さんからあなたの事を幾つか教えてもらったわ。いつも側にい過ぎる私が気が付かなかったことを』

 

 胸の動悸が激しい。息が上がる。
 それでも、あたしは駆ける事をやめない。空の、雲の、太陽の。
 そしてカラスの照らしていた街を駆け抜けて行く。

 街を。
 まるで、空を駆け抜ける様にして。

 

『耕一って、あなたは耕一さんのことを呼ぶ』

 

 耕一。

 

『耕一さんもそして、あなたの事を梓って呼ぶわ』

 

 そして、梓。

 

『私は、耕一さんと千鶴さん。楓は、耕一さんと楓ちゃん。初音は、耕一お兄ちゃんと初音ちゃん』

 

 当たり前だと思っていた。
 女の子として、見てもらっていないだけかと思っていたけれど。

 でも、例えそうだとしても。
 あたしは、あいつの側にいる。

 皆より、そういう意味で少しだけ近くに、側に。

 

『みんな、敬称がついてるわ。距離が遠いって訳じゃないけれど、でもやっぱりちょっと遠慮っていうか、そういうものは感じられる。あなたにだけ、そしてそれは無いの』

 

 近づいてくる。
 時計を見やる。
 あと、少し。
 あと少しで入ってくる電車と、きっとあたしは同じくらいのタイミングで駅に入るだろう。

 小さな改札口で、多分たった一人駅に降り立つあいつを、いつもの苦笑いで迎えてやるんだろう。

 

『年が近いからかしら、と思ったわ。あなたと耕一さんが。でも、私は年上というのがあるからともかくとして、あなたは二つ下で楓は三つ下。これはそんなに変わるものではない。そうすると、やっぱり性格というか、その人固有のものなんだなって、そう思ったの』

 

 出会った時から、あたしと耕一はそうだった。
 だから、それが当たり前だと思ったけれど。
 でも、年を重ねてもそれは変わることが無かった。

 意地を張っていただけかもしれないけれど。でも、変えようと思えば変えられたし、その気恥ずかしさを伴う時もあっただろう。
 でも、今もそのまま。

 そして、きっとこれからもずっと。

 

『そしてそこまで考えて、あなたの事を本当に羨ましいとそう思ったの。なんのてらいも無く、お互いの名前を呼び合える。そんなあなたたちの事を、本当にね』

 

 千鶴姉は、微妙な笑顔を浮かべていた。
 あたしもきっと、曖昧な表情をしていたと思う。

 千鶴姉の微妙さは、ちょっとだけの敗北感。
 あたしの曖昧さは、微かに感じる照れ臭さ。

 そして、気がついた。
 というか元々気付いていた思いの確認。
 おんなじ人への、昔から変わらぬ思い。

 楓も初音も、きっと持っている。
 だからこそ、少しだけあたしをうらやんでいる千鶴姉の言葉と表情が、すぐにいつもの笑顔に変わった。
 あたしもつられるようにして、そして逆に誘うようにして笑いかけていた。

 

『あんまり時間もなくなったわね。それじゃ梓、お願いね』

 

 あたしはもう、何にも考える前に頷いていた。
 打算的かもしれないし、少し調子に乗りやすいのかもしれないけれど。
 でももう、あたしが迷うべき事は何にも無かったから。

 今こうしているように。
 全力で走ろうと、その時から決めていた。

 

 駅が見えてくる。
 多分家族の中で一番良いあたしの目が、そして遠くに見える急行を捉える。駅で乗り遅れてさえいなければ、間違いなくあたしの。

 あたしたちみんなの待ち人は、あの列車に乗っているはずだった。

 スピードを上げる。
 時間を。
 ホームに降り立つ時間を合わせるように。

 

『負けないわよ、梓』

 

 やっぱり、趣味が良いとは思えない。
 というか、千鶴姉には似合わないと思うリムジンに乗り込みながら、笑顔でそう言った。

 宣戦布告?
 それとも、あたしをまだ励まそうとしてくれているのだろうか。

 どちらかは解らなかったけれど、でも多分。
 どちらだと取っても間違っていないと、そう思った。

 だから、あたしも笑い返す。

 負けないよ。
 そう言うべきかどうか少し迷って、やっぱり違う言葉にした。

 あたしのその言葉に少しだけ千鶴姉は驚いて、そしてしばらく呆れたように口をぽかんとあけていたけれど。
 でも、ちょっとだけ余裕の見える笑顔にそれを変えて、そのままゆっくりとドアを閉めた。

 黒塗りの車が遠く、空と路地に溶け込んで行くのを確認してから、あたしは駆け出した。
 今駆け込んでいる、この駅へ。

 電車がちょうど、音を立てて入ってきた。
 そして思ったとおり、たった一人。
 小さなボストンバックを肩にかけて、改札に歩いてくるあいつがやってくるこの場所へ。

 あたし達の。
 家族の待っているこの街で、一番最初に目にする景色へ。

 

 

 

 

 

 

「よう、耕一っ!」

「久しぶりだな、梓!」

 

 

 

 

 

 

 そして。
 そして、あたしが。

 あたし達だけが、挨拶を交わして。
 そして当たり前のようにして名前を呼び合える、その場所へと……。

 

 

 

『なあ千鶴姉。これから一番最初に耕一に会うあたしがそのまま告白しちゃったら、それで勝負ついちゃうかな?』

 

 

 

 千鶴姉は、そんなあたしの言葉に笑っていた。
 それでも良いわよ、ライバルが一人減るのなら。
 それとも、あたしにはそんな勇気はないだろうと、そういう微笑だっただろうか?

 どちらにしても。
 あたしには今は、そのつもりはなかった。

 隣を歩く。
 耕一と一緒に。
 家への道を歩いて、他愛も無い話をする今という時間だけで、十分だった。

 勇気が無いと言われれば、その通りかもしれない。
 でも、そうじゃないんだな。…うん、そうじゃない。
 

やっぱり、抜け駆けは良くない。あたしに大切な事を教えてくれた千鶴姉への、これは礼儀でもある。

 そして、もう一つ。
 これは、ちょっとだけの余裕。

 あたしが今まで気が付かなかった、ちょっとだけの優越感のなせる技。
 千鶴姉が、あたしを油断させようとしているのかもしれないけれど。だとしたら、あたしはまんまとそれにはまってしまっている事になるけれど。

 でも、それでも構わない。
 あたしは、騙されていても構わない。
 それでも、あたしらしく素直でいること。
 それが、千鶴姉が教えてくれたあたし。

 そして、あたしが忘れていたあたしだから。

「…そうだよな。あたしだもんな」
「ん、何ぶつぶつ言ってんだ、梓?」
「なんでもないよ、耕一!」

 耕一が、あたしの名前を読んでくれる。
 あたしだけ、名前だけで呼んでくれるんだから。

 それだけで今、少しくらい幸せな気分になってもいいだろう。
 それこそがあたしらしくて多分、一番いいんだろう…。

 

 夕焼けの中、家が見えてくる。
 玄関の前、初音がそわそわと辺りを見回していた。千鶴姉が家に電話でもしておいたんだろう、あたし達を見つけるとすぐに家の中に駆け込んで行く。
 楓に伝えるんだな。
 耕一が小さく笑ったのに合わせて、あたしも笑った。

 

 また、耕一がいる日々が始まる。
 今までも何度もあった、少しだけみんなの笑顔が増える日々がやってくる。

 今までとはでも。
 でも、確かに少し違ういつもがそこにはあると思った。

 

「お帰りなさい、耕一お兄ちゃん!」
「お久しぶりです、耕一さん」
「うん、ただいま。初音ちゃん、楓ちゃん」

 

 それはでも、心の中にしまって置けば良い事。
 あたしらしくを意識して、あたしらしく。

 あたしらしくないかもしれないけれど。
 でも、あたしなら出来そうな、そんな気がした夕焼けの中。

 

「さ、ご飯の用意と行きますか。初音、手伝ってくれるね?」
「うん、もちろんだよ梓お姉ちゃん!」
「私も手伝います」
「おっと、今日は姉妹勢ぞろいか。嬉しいねえ…」
「千鶴姉はいないぞ…」
「うん、いないよ…」
「いちゃいけないです…」
「そ、そうだったな、うん。それじゃ、千鶴さんを皆で迎えようか!」
「うん、そうだねっ」
「急ぎましょう。きっと今日は早く帰ってきますから」

 楓らしい分析に、あたしは思わず笑った。
 そう、こんな時間の中。
 こんな空気の中でなら、あたしはいつものあたしでいられる。

 余計な事を考えない。
 それでも、それがとても楽しい。

 耕一にご飯を作ってやれる事。
 皆で話をする事だけで十分幸せな、そんなあたしに。

 

「さっ、それじゃみんな、はじめようか!」

 

 そう、始めよう。

 皆で。

 皆の中で、新しくて。

 

 そして、いつもと変わらない、あたしを……。

 

 

 

 

 

 

 

 

あこがれ
【後編】 『Always! So,always......』
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