夢の生まれるとき

『sheaf』 page1

 

 

 

 

 「お兄ちゃん、電話だよ〜」

 初音ちゃんの声が、朝の柏木家に響きわたる。いつもながら元気の良く、そしてまた澄み切った綺麗な声だ。初音ちゃんの声は、食事をとっていた俺にも聞こえるように大きなものだったけれど、朝っぱらからの大きな声にも少しも嫌な気分にならないのは、初音ちゃんの人徳のせいだろう。

 もしこれが梓だったりしたら俺も文句の一つも付けているところだろうな、などと、梓に知られたらお玉かやかんかまあその辺が飛んで来るであろうことを想像しながら、梓の方を何とはなしに見やる。

 ……見ていたら、そんなことを言ったら鉄拳制裁を食らいそうな気がしてきた…。

 「はつねえ〜、あんまりでっかい声出さないでよ〜。あたしゃ昨日寝たのが遅かったんで、あんたの声が頭の中に響いて響いて……」

 鉄拳制裁をかましてくれそうだった柏木家の次女はそういって、頭を抱え込みながらうずくまる振りをする。何となくこいつらしくてちょっと笑えた。
 初音ちゃんの大きな声ならきっとだれも文句いわないだろうという俺の予想にしかしそのちょっとおばさんっぽい梓は(さすが梓!)、ちょっと文句のようにとれなくもないことを言ってのける。

 「ご、ごめん、梓お姉ちゃん」

 とまあこちらは予想通り、初音ちゃんは昔ながらの柏木家の黒電話を握りしめながら申し訳なさそうにしている。全く、この子はどんな理不尽な怒られ方であっても、きっと謝ってしまうんだろうなあ、とか思えた。

 「おい梓。今のはお前がお前の勝手で昨日の遅くまで起きていたのがわりーんだろうが。初音ちゃんに当たるのはちょっと筋が違うんじゃないのか?」

 俺は相変わらず大げさな振りでうずくまっている梓を、ちょっときつめの口調でたしなめる。
 俺の言葉に振りをやめた梓は、あげたままの顔を俺の方に向けてちょっとにらむような真似をする。…どうでもいいがこいつがマジでにらむと本当に怖いんですけど…。

 「そうよ、梓ったら。大体どうしてそんなに遅い時間まで起きていたの? あなた昨日は11時頃には自分の部屋に引き上げたじゃないの?」

 千鶴さんがそう言って、梓ににらまれた俺状態な俺に助け船を出してくれる。やっぱり千鶴さんは俺の味方だなあ、とかちょっとだけ思ったりもしたけれど、でもまあこれは皆の母親役としての言動なんだろうね、きっと。千鶴さんもちょっと抜けているような所もある人だけれど、締めるべき所はしめるからな。

 「うっ。い、いやいや、ちょ、ちょっと勉強していたらベットに入るのが遅くなっちゃってさ……」

 頭の後ろに手をやって千鶴さんの方を向き直る梓。何とも苦しそうないいわけに俺はまたまた苦笑い。こいつはうそを付くのが下手なんだよなあ。たぶんは初音ちゃんと並んで嘘が苦手なんじゃないかなと思う

 「…梓姉さんの部屋から、ずっと笑い声聞こえてました…」

 相変わらずの厳しいつっこみは楓ちゃん。黙っていてもきちんと聞くべき所は聞いていてそしてきちんとフォローしてくれるのが彼女だった。今回は、明らかに梓ではなくて初音ちゃんの方が正しいと踏んでの加勢だったんだろう。
 何にしてもこれで勝負あり。まあいつものことだけれどな。

 「う。か、かえでえ〜。それはいわない約束……」

 誰もしてねえって、梓よ…。

 いいながら少しだけ恨めしそうな視線を三女に向ける梓に、楓ちゃんは少しだけ申し訳なさそうな、ちょっとはにかんだ苦笑いを返していた。

 「まあ、梓。おおかた漫画でも読んでいたんでしょう。あなたは仮にも受験生なんですよ。少しは勉強もしないと……」
 「まあまあ、千鶴お姉ちゃん、そんなに言わなくてもいいじゃない」

 そう言って梓に助け船を出したのは他ならない初音ちゃんだったりするから、全くもう、といった感じである。自分にいわれたことなんかきっとすっかり忘れてしまっているんだろうなあ。いい子過ぎるのもちょっと問題かな、とか思ったり。

 「う、わ、わかったよもう。…ごめんな初音。私が悪かったよ」

 ようやく梓が折れた。まあ梓っていうやつは元々かなりいい奴だから、とっくに謝るつもりではいたんだろう、妹に向かってきちんと頭を下げている。

 「い、いいよいいよ梓お姉ちゃん。そんな頭なんか下げなくて。お姉ちゃん、気を使いすぎだよ……」

 そう言ってやっぱり申し訳なさそうにする初音ちゃん。……気を使いすぎているのは初音ちゃんの方だってば、という言葉は間違いなく、初音ちゃん以外の全員に浮かんだ言葉だっただろう。梓でさえ少々呆然としている。

 真に恐るべきは初音ちゃんの強烈なまでの自己犠牲精神であった。いいことなんだろうけれど、少々彼女の将来に不安を抱いたのは、俺だけではなかっただろう。

 「そ、それにしても、梓、今日のご飯、なんだか固くないか?」

 姉たちが、末の妹のあまりの人の良さというか優しさに少々呆然となっている空気を打開せんと、俺はふと気が付いたことを口にしてみる。
 はっきりとそう確信したわけではなく、何となく思っただけのことだったのだけれど。

 「えっ? そ、そうかい?」

 茫然自失から立ち直って席について、梓は今までは手を着けていなかったご飯に箸を伸ばす。初音ちゃんもようやく戻ってきて、全く手の付けられていなかった食事をほおばり始めている。

 「そう言えば、そんな気もするわねえ。どれどれ…」

 そう言って千鶴さんもまた、こちらはだいぶ食べてしまっていてもう残り少ないご飯に箸を伸ばした。
 俺も自分でいった手前、やっぱりご飯を食べてみる。

 「…あら、やっぱりちょっと固いんじゃない、梓?」

 ちょっとだけうれしそうなほほえみを浮かべながら千鶴さんは梓に言う。この手の梓の失敗は決して見逃さないで皆の話題にするのが千鶴さんの楽しみの一つなのだ。
 千鶴さんは作る方はともかく(こんなことを言ったら何をされるかわかったもんじゃないからもちろん心の中でしか言えないけれど)、味わう舌の方はなかなかのものなのだ。…舌と料理の腕は必ずしもその性能は一致しない格好の例示と、千鶴さんは言えるだろう。
 ついでに言っておくと、千鶴さんのこの手の失敗はすでにこの家の話題にすら上らないものになっている。

 一種のタブーだった。っていうか、そんな勇気のある奴いないって……。

 「う。た、確かに…」

 梓もまた、口をもぐもぐさせながら、ぼそぼそとつぶやく。ちょっと悔しそうな顔をして、千鶴さんの方を見ている。

 「あーら? あなたにしては珍しいわねえ。やっぱり昨日の夜更かしがいけなかったんじゃないかしら? いくら高校生だからって、あんまり遅くまで起きているのはやっぱりねえ……」

 千鶴さんが、ここぞとばかりに攻撃を開始した。梓が料理でミスを犯すことなんて一年に片手で数えられるくらいしかないのだろう。この機会逃すまじ、という千鶴さんの何とも言えない目の光りが印象的で俺は、食事の方に専念することにした。
 話し合い(言い争いや喧嘩とも言うが)は、しばらくは千鶴さんが優勢のまま推移しそうだった。まあまたそのうちには逆転しているんだろうけれど。でも、昨日また料理のことでやりこめられてしまっていたようだから、今日のは長引くかもしれないなあ。

 そんなことを考えながら、梓の作ってくれた朝飯を口に運ぶ俺。
 とはいえ、梓の作ったものが美味しくなかったというわけでは決してない。というか俺が気づいたのもかなり食べた後の話だったし、他の皆だって俺が言うまで気が付かなかったのだからやっぱり梓の今日の朝飯も美味しい部類にはいるのだろう、世間一般の基準からすれば。

 それでも気が付いたのは、それだけ梓の料理がいつも完璧な出来だからだ。ほんの僅かな失敗も、ついつい気が付いてしまったりするのである。換えってこういうときにならないと、普段の梓の料理がいかにすばらしいかということがはっきりとわからないと言うのは、完璧という言葉の持つ性質といえるのかもしれない。

 「…大体、ダイエットはいつの間にやめたのさ! また太っても知らないよ」
 「う、うるさいわねえ。食べていかないと、仕事の途中でお腹がすいちゃうのよ…」

 とか何とか食べながら普段の梓の料理に思いを馳せていると、やっぱりいつの間にやら攻守が逆転している。しかも梓が、「大体…」とか言っている所から判断すると、もうかなり以前に立場の逆転は起こっていたみたいだ。

 「まあまあ二人とも。もうやめてご飯食べちゃわないと遅れちゃうよ」

 そしてやっぱりいつもの通り、初音ちゃんが止めに入る。いつもの、天使の微笑みを浮かべながら。
 もし彼女がこういう性格でなかったら、きっと梓と千鶴さんの遅刻は果てしなく多かっただろう。

 「…あら、もうこんな時間?」
 「げっ。やばいやばい。急がなきゃ…」

 初音ちゃんの言葉にあわせてちらっと時計を見てから、二人は急いでご飯をかき込み始める。あんまり胃に良くない食べ方だとは思うけれど、千鶴さんの方はもうだいぶ食べ終わっていたから問題ないだろうし、梓の方はきっと胃の方も何か違う働きとかしていそうだからきっと大丈夫だろう。

 「全く耕一、もっと早く止めてくれよ。遅れたらあんたのせいだからね!」
 「そんな無茶な…」
 「そうですよ耕一さん。元はといえば耕一さんが言い出したことなんですよ」

 うーん、確かにそう言われてみればそうなんだけれどなあ。何かとっても理不尽な気のする二人の文句を受けながら、俺はちょっと小さくなってご飯を食べた。

 「ごちそうさまー。それじゃあ私、学校の用意をしてくるね」

 初音ちゃんは食べ終えるとそう言って席を立ち、自分の部屋に向かう。途中で、「あっ」と口に手を当てて向きを変えて洗面所の方へと向かっていった。おおかた歯磨きにでもいったんだろうな。

 「おっと、そう言えば楓ちゃんは…、ってあれ?」

 ふと、梓への厳しいつっこみの時以来何ら言葉を発していなかった楓ちゃんのことを思いだしてそっちを見てみると、彼女の食器は綺麗さっぱりと平らげられていて、席には彼女がそこにいた気配すら、もはや漂わせてはいなかった。 

 「楓? もうとっくに食べ終わって、部屋に用意しにいったよ」
 「げっ。いつの間に?」
 「そうですねえ…。『あら、やっぱりちょっと固いんじゃない?』のあたりかしら?」
 梓の方を向いて、そして二人で頷き会っている。

 …それにしてもまたずいぶんと前の話だなあ…。速いことは知っていたけれど、ここまでとはなあ。

 とまあそんなことを思っていると、制服に着替え終えてきた楓ちゃんが居間にやってきた。手には学校用のだろう、黒い鞄を下げている。

 「おっ、楓ちゃん。もう学校に行くのかい?」
 「いえ。まだ少し早いので、しばらくはここで…」

 そう言って彼女は、自分が座っていた椅子を引いて座り直し、鞄から本を取りだして栞の破産であったところを開く。
 女の子らしい綺麗なカバーのしてある文庫本サイズのもので、楓ちゃんはそれにすっかり夢中でページを繰っていた。

 そんな彼女をちらっと見て、うん、真面目で結構、などとえらそうなことをちょっと思ってから俺は、最後の一口を茶碗から口へと運ぶ。やっぱり最後までほとんどご飯の固さは気にならなかった。

 最後の一口を咀嚼していると、ふと、楓ちゃんが俺の方を見ているのに気が付く。気が付いて彼女の方に目線を向けると、いつもみたいに彼女は恥ずかしそうに少しだけ顔を赤らめる。

 「ん、どうしたの、楓ちゃん?」
 「あ、え、ええと……」

 俺はそう言って、彼女に目線を合わせる。彼女は何か言いにくそうに目線を逸らして、下を向いてしまう。

 何だろう? 何か悩みでもあるのかなあ? そう言えばさっきから本を読んでいたな。何かわからない感じがあったとか? そんなこと聞かれたら困るなあ。俺もそう言うのあんまり得意じゃないしなあ。それに楓ちゃん、かなり勉強できるって話だったし。楓ちゃんにわからないことなんて俺にわかるかなあ…。

 「電話、でられました?」
 「へっ?」

 思い切ったような彼女の言葉に、思わず間抜けな返事をしてしまう俺。
 そして一瞬の間の後…。

 「しまったあああ!」

 そう言って俺は、俺が鬼の力を使わずに到達しうるもっとも高速に近い速さで(もっともそれでも10の8乗以下なんだけれど)、柏木家の伝統を今に伝える黒電話に飛びついた。

 

 「も、もしもし! あの、ご、ごめんなさい!」

 なにはともあれ謝った。何せ初音ちゃんが電話をとってくれてから、最低10分か経過していた。めちゃめちゃ怒られても文句は言えない。大体電話で10分待たされたことのあるやつなんかいるんだろうか? 10分間もあの間抜けなしばらくお待ちくださいミュージックを聴かされ続けたら、気が変になってもおかしくないと俺は思う。
 …いや、そもそも、10分待たされた時点で、受話器の向こうの誰かは、まだ待っていてくれるのだろうか…?

 

 「あのねえ、あなたが伺っているお宅がお金持ちで大きな家なのは知っていたけれど、あなたの部屋から電話まで10分もかかったりするほど大きいわけ?」
 「その声は…由美子さん?」
 「由美子さん?じゃないわよまったく。私もここまで電話で待たされたのは初めてよ〜」

 そう言って電話の向こうから、軽い笑い声が聞こえる。どうやらそんなに怒ってはいないみたいだった。

 「ごめん由美子さん。ちょっといろいろとあってさあ」
 「ふふふ、聞こえてたわよ。千鶴さんと梓さん、面白い人ねえ」
 「ははは。後で言っておくよ。それと楓ちゃんに感謝しておかないとね」
 「そうね、わたしからもよろしくって言っておいて」

 そう言って由美子さんはまた笑った。
 由美子さんは俺の大学の同級生で、同じゼミをいくつかとっている。まあちょっと気の合う仲間で、かなり仲のいい女友達って所だった。

 「ところでどうしたの、こっちまで電話かけてくるなんて?」

 当然といえば当然の質問を、俺はひとしきり笑いあったあとで由美子さんに尋ねる。未だ三人が学校に行く前の時間だから、かなり早い朝の時分に電話をかけて来るくらいだ。どんな用事なのかな、という問いは浮かんで自然というところだろう。

 「あ、うん。そうだね。それを忘れてたわ」

 軽く笑う声が受話器の向こうから小さく響く。いつもの彼女みたいに軽く口に手を当てているのだろう。彼女はいつもそうして笑う女の子だった。

 「ええとね、実は私、一応今、院にまでいって勉強するつもりなんだけれど…」
 「うん、それは知ってる。前の飲み会の時に由美子さん、そんなこと言ってたよね。確か専攻は、文学部の伝承、民話研究部門だよね」

 俺の言葉に軽く頷く気配がする。
 彼女は、そういう伝説奇談の類には目がない学生で、普通の教養の勉強などは俺と大差ないくらいしかしていないらしいが(つまりろくにしていないということだけれど)、『日本民話基礎論』、『伝承と歴史の相互比較論』とかいった名前の講義に対する学習意欲はすこぶる高くて、いつも試験前はお世話になっている。

 ……と言いたいところだが、そう言った話題を持ち出すと完璧なノートとレジュメをくれるはいいが、彼女お得意の語りが始まってしまい、下手をしたらその日1日はつぶれることを覚悟しなければならないのだった。他の試験の勉強も大体前の日くらいに一生懸命にやらないといけない俺としては、その時間は異常に貴重だったりするのに……。

 「それでね、その事をいつもの教授に話したら、どんなことを研究したいか、そしてその事に関する簡単な研究レポートみたいな物を試験で求められることがあるらしいんだわ。試験の面接の時とかにそれを発表したりするんだって」
 「なるほど、何となくわかってきたよ」

 今度は電話のこっち側で俺が頷く。

 「それで由美子さんは、この街の鬼の伝承について調べたいっていうわけだね」

 彼女の機先を征するように素早く言葉を差し挟む。
 彼女に昔、この隆山の鬼の伝承について(うっかり)話してしまったことがある。彼女はすっかり興味を持ってしまい、俺はその追求、及び質問をかわしきるのに一晩かけてしまったものだった。

 いつしか彼女はいわゆる『隆山の鬼』について図書館やらなんやらの文献で調べ上げたらしく、俺の知識量などあっという間に追い越して、いつしか俺の方が教わる側になっていたりする。
 そんなわけで俺は勝手に彼女の電話目的を推測して先の発言となったわけなんだけれど。

 「うーん、おしい! 半分あたりね」
 「あれ? 半分だけ?」

 ちょっと意外だった。でも確かにそんなことだけなら、俺に電話してくるほどのことでもないか。

 「調べたいのはその事なんだよね、確かに。で、大体の資料はあさっていて、後は現地調査だけ、っていうところなんだけれど、でもちょっと私の方もバイトとかでしばらくは行けそうにないのよ」
 「うん」
 「それでね、でもいま書いているあたりの考察でどうしても必要なことがあって、でもそれは現地に行かないとわからないことなのよね」
 「なるほど、完全にわかったよ」
 「そ、そう言うわけで、きっとそっちで暇しているであろう柏木君にそれを調べて欲しいってわけ」

 なるほど、そう言うことか。ある意味、人使いの上手い(というか荒い)由美子さんらしいな、と思った。
 もっとも、断る理由も特にないし(実際彼女の言うとおり、俺はこっちでは暇だし)、さっきの、電話で10分も待たせてしまった事件もあるしで、俺は由美子さんの頼みを、昼飯三回分で請け負うことにした。

 「んで、調べて欲しい内容っていうのは?」

 こいつを聞かないと当然なんにもならないことを、三回は多い気がするな〜、などとぶつぶつ文句を言っている由美子さんに言う。

 「二回くらいが妥当な…ってそうね、それを言わないと話にならないわね。ええとね、まあ柏木君はこういうことにあんまり詳しくないし、そんなに当てにしていないんだけれどね…」
 「……昼飯、倍くらいにしても……」
 「た、単刀直入に言えば、隆山の人たち自身は、自分たちの地元の伝承である鬼についてどう思っているのか、っていうことなの」

 昼飯6回にしてもらおうか計画は、彼女の言葉であっさりと忘れ去られることになる。

 なるほど、彼女らしい目の付け所だ。
 どういう内容のレポートにするかはわからないけれど、おそらく伝承とこの街の歴史的事実の検証、比較だろう。そこに、この街の今の人々が、その伝承に対してどういう意識を持っているかと言うことを加えて考察にある程度反映させたいのだろう。

 「なるほど、わかったよ由美子さん。休みが終わるまででいいんだよね?」
 「ええ、お願いします」

 調査報酬はちょっと少な目だけれどでも、調べる内容自身に、俺も少し興味がもてたので、まあよしとした。ある意味、俺のことについて隆山の人がどう思っているかを調べるって言うことなんだな、とか少しだけ思って、おかしかった。

 「時に由美子さん」
 「なに?」
 「どうしてこんなに朝早い時間に電話してきたのかな? そんなに急ぎでもない感じだし」
 「ああ、そのこと。あなたが寝ている時間に無理矢理たたき起こすって言う羽目にならない為よ」
 「へ? それならなおさらどうしてこんな朝方に……?」
 「居候の身なら、忙しい朝に一人だけいつまでも眠っているって言うわけにも行かないでしょう? むしろあなたの場合、家の人がいないお昼とか夜とかの方が眠っている可能性が高いと思ったのよ」
 「……な、なるほど……」

 全く反論できなかった……。

 その後、彼女とは簡単な打ち合わせをして、電話を切った。
 というか、やっぱり昼飯を増やそうみたいなことをほのめかす言葉を吐いた瞬間に切られたと言うべきだが……。

 はあ、とため息一つを、黒電話の受話器に向かってついてみる。我ながら無意味な行為だな、とは思ったけれど。
 でもとりあえず、こっちにいる間の昼間、だらだらしているということはなくなりそうだった。
 まず、何から始めようか。そんなことを簡単に考えながら、受話器を戻す。

 「わっ!」

 すぐ近くに楓ちゃんが立っていることに気が付いたのはその時だった。いつもみたいな落ち着いた視線で、俺の方をじっと見つめている。一体いつからそうしていたんだろう、と思ったけれど、口にするのは何となくためらわれた。
 彼女の目が、どことなく、さっきまでの俺へのそれとは違って、真剣な物だったからだ。

 

 「何を始めるんですか、耕一さん?」

 彼女の口から漏れた言葉より、俺はその口調にむしろ驚いた。
 それは、純粋な好奇心からでた物と、強く感じられたからだった。
 普段あまりそう言うものを表に出さない彼女にしては、とても珍しいことだったからだ。

 俺に気持ちにでも気が付いたのだろうか。またいつもみたいに少し顔を赤らめて、下を向く楓ちゃん。ちょっと失礼なことをしたかなとちょっとだけ思ったので、なにも気が付かないふうで、由美子さんとの会話の内容をかいつまんで楓ちゃんに話す。

 彼女によると、俺の電話の中の会話から、「鬼」という単語がでてきたのが非常に気に掛かったらしい。彼女にとってその言葉は、あまりすすんで使いたくはない言葉なのでつい気になってしまったと言うことだった

 彼女は俺の話す内容を、相変わらず俺の顔は恥ずかしいのか見ないけれど、でも、真剣な面もちで、時には相づちを打ちながら聞いていた。彼女が俺の話にこんなに耳を傾けて聞いてくれるのは初めてのような気がした。

 「というわけで、しばらくは調べ物なんだよ……」
 「そういうことですか……」

 大体を聞き終えた彼女は少し考える風な顔で、そうつぶやいた。
 目の前で考え事をされるというのは、なかなか居心地がよくない物だ。彼女はそれこそ、俺が目の前いることなんかすっかり忘れてしまったかのように、考え事に熱中していた。
 目の前にかわいい女の子がいるというのも悪くはないんだけれど、でも、この際は居心地の悪さがそれを上回る。

 「楓ちゃん、ちょっと俺、トイレに行って来るね」

 早口でそうまくし立てると、俺はその場を静かに立ち去る。

 「……車に気を付けて下さいね……」

 ……考え事をしていると、意外と周りを忘れる子らしい、彼女は……。

 一応右左を確認しながら(一応鬼の楓ちゃんの言葉だからな。もしかするということもあるかな、と思ったようである、俺は)、俺は柏木家のトイレの方へと向かうために、光の射し込んでくるこの家の廊下にでた。

 いつの間にやら、と言っても俺が電話をしていた間に決まっているけれど、梓と千鶴さんの姿はもう見えなかった。学校の用意にでも行ったのだろうか。

 なんだかえらく長い食事だったような気がするなあ…。
 そんなことを思いながら、大きく一つ伸びをする。
 年寄りっぽいなと思ったけれど、でもとりあえず、少しだけ気合いが入った気がした。

 

 

 この日の朝は、とりあえずこんな風にして始まったのだった。

 


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