騎士として                                                       

 

 僕は彼女にずっと恋心を抱いてきた。

 

 それこそ世界で一番だ、と言葉を使っても足りない程かもしれない。さらに言ってしまえば、僕が持っている全ての宝物でも僕の中での彼女の価値には遠く及ばなかった。

 

 時には彼女の事を少し離れた物陰からじっと見つめていたこともあった。その時に彼女が見せた笑みや笑い声なんかは正直、聞いた後暫く頭の中から離れなかった。鈴のような声にまるで花が咲いたような顔。最も、僕に向けられた笑みではないのが残念なのだけど。

 

 何回か彼女の家に行こうかと思ったこともあった。でも、その試みは全部途中で頓挫した。彼女は僕にとって天使、雲の上の人なのだ。その考え方が彼女が人間である事を意味する彼女の家へ足を向ける事を拒ませたのだと思う。それに、いざ行ったとしても僕は何をすればいいのかさっぱり分からないしね。

 

 だから僕は彼女を守る男になろうと決めた。古臭い言い方で、しかもこっぱずかしく言えば姫を守る騎士、といった感じになるだろうか。勿論彼女には気づかれない所で。影からこっそりと見守り、彼女に近づく下衆野郎がもしいれば追い払ってしまおう、ということだ。

 

 その想いは小さい頃から抱いてきた。今でも変わらない、今も僕は彼女の騎士なのだ。

 

 僕……斎藤と僕にとっての姫……水瀬名雪さんは。

 

 

 

 

 最近、クラスに妙な奴が転入してきた。

 

 妙な奴の名前は相沢祐一。見かけや名前が変と言う訳ではない。むしろ外見なら格好いい男の部類に入るんじゃないか? とも思っている。

 

 でも、それは表面上のことだけで、その性格ときたらわけがわからないの一言につきる。むしろ馬鹿と形容した方がしっくり来ると思う。

 

 授業中にちらと覗き見すればいつも寝ているし、休み時間でもたまにクラス全体を巻き込んだ大騒ぎを展開している。一体どうしてこんなやつが高校に入れたのか本気で首を捻った事もある。

 

 兎に角、相沢祐一の中でも一番特筆すべき点、いや注目しなければならない点と言ったところだろうか? それは……

 

 奴は水瀬さんと仲が良い事だ。

 

 まあその辺の事情については僕も大分承知している。何でも奴は彼女のイトコというやつで、この学校に通う間は水瀬さんの家で生活するということだからだ。そうなってしまえば嫌でも仲が良くならなければ、学校に通う時はずっとギスギスしながら暮らさなければいけないしね。

 

 それでも若干の抵抗はあった。なにせ僕は彼女の騎士だ、騎士としては姫に近づく不遜な輩は追い払わなければならない。それに個人的なものだけど、相沢自身あまり好きではない。

 

 だから僕は、少しばかりの距離を置いて奴を監視する事に決めた。もしも彼女に何か不埒な事をしようものなら……そのときは覚悟をしなければならない。僕も。奴も。

 

 そういうわけで僕は今、奴と水瀬さんが一緒に下校しているの所を尾行している。勿論これは奴を監視する為だ。水瀬さんに変なことをするつもりなど一切無い。ちなみに今日水瀬さんはめったにないことだが部活が休みらしい、だからこんなに早く下校できるというわけだ。

 

 緩やかながら寒風が吹いている一月の風の中を、二人は仲が良さそうに言葉を交わしあいながら雪を踏みしめ、歩く。僕はその後ろで距離を取り、なるべく足音を立てないようにしながら水瀬さんたちについていく。勿論他の人がこの場にいないことを確認しながら。

 

 僕の心には不安がひしめいていた。今歩いている所は人気の無い並木道、まさか奴が犬畜生みたいに道端で水瀬さんを襲うとは少し考えにくいけど、何事にも例外というものが存在するのだ。いざというときは僕が身を呈して彼女を守らなければならない。

 

 しかしそんな気配は全く無く、二人はさも仲が良さげに会話を交わしながら歩いていく。奴の身振りから判断すれば、奴が冗談を言って水瀬さんがむくれ、それを相沢が笑うと言ったところか。

 

 水瀬さん。

 

 綺麗だった。どこまでも、彼女はどこまでも綺麗だった。

 

 詩に例えていってみれば、彼女が笑うのは寒い冬の日に、雲ひとつ無い青空で太陽がきらきらと輝くような情景、といったところか。

 

 僕にとって彼女が笑うのはそれくらい価値があるものなのだ。

 

 それなのに。

 

 その彼女の笑みを受けているのは、目の前の相沢祐一。あの奇人の相沢祐一なのだ。

 

 そう思った時からだろうか。

 

 胸が押しつぶされそうな痛みが走り、奴を見るたびに目の中に赤黒い霧が乱舞するようになり、刃物や鈍器の連想が頭に浮かぶようになったのは。

 

 結局その日は何も変わったところは無かった。二人は無事家に帰り、家に入るのを見送った後で僕も自分の家に戻った。

 

 自分の中のわだかまりが嫉妬のようなものかもしれない感情に気づいたのは、全てが終ってからだった。   

 

 

 

 

 思うに、健全な高校生ならば誰だってマスターペーションを経験したことくらいあるのではないだろうか。大抵の男ならば心の奥深くに異性と交わりたいという願望を持っているだろうし、僕もそれを否定する積りは無い。むしろ無い方がおかしいだろうとも言えるんじゃないか。

 

 僕の理論に従っていると言うよりは本能を無理やり理由付けたものに近いのかもしれないけど、僕はその理論に基づいて、健全な高校生である僕は今自分の部屋でマスターペーションをしていた。ちなみに、空想の相手は水瀬さんだ。騎士である以上は姫である水瀬さんとそういう事をするなんてできるわけがないので、代わりに夢想の中でどうにか我慢しているというわけだ。彼女に変な気を起こしていないと言いながらこうして自慰の相手をしてもらうのは矛盾しているかもしれないけど、それについては僕はあまり深く考えないようにしている。

 

 それは兎も角、自分自身をひたすらに擦って、快感を高めていく。何度も、何度も。彼女の喘ぎ声を考えて、体の震えを感じて。それこそ摩擦熱で真っ赤になるかもしれないというくらいに擦る。ごしごし、ごしごしと部屋にいやらしい、卑猥な音が響いて、思わず僕自陣ではなく顔が赤くなるのを感じる。家族はもうとっくに床についているけど、やはりなんとなく気恥ずかしい物は有る。それでも僕は僕自身をこすっていく。ごしごし、ごしごし。

 

 やがて、僕の体にぶるりと震えが走るのを感じた。これまでに何度も体験したことのあるものだ。それに対して僕はどうしようもなく身体を震わせて、なんとか声を出さないように努力しながら、ただ頭の中からやってくる快感に身を任せた。自分自身から液体が流れ出てくるのを感じ、それを実際に目にすると軽く息をついた。どっと力が抜けて僕は陽物をパンツの外に出したまま天井を見上げる。パンツも半分脱げ掛けた他人が見たら二階のこの部屋から直に地面まで穴を掘って、そのまま埋まりたくなるほど恥ずかしい状態だったが、今この部屋には誰も居ない。

 

 ぼんやりと自分の中をひた走っていく快感の余波をを感じながら想う、水瀬さんのことを。

 

 最後はいつも水瀬さんに辿り付く。例えばテストの範囲やら休日に何をしようかという算段も、どういうわけか気づいたら水瀬さんのことを考えているのだ。

 

 水瀬さん。水瀬さん水瀬さん水瀬さん。どうして僕は彼女に恋焦がれるようになったのだろうか?

 

 身体を横に向けてそんな事を考る。そういえばいままで考えた事も無かった事だ。一体なんでだろう?

 

 僕が覚えている限りでは……確か七、八年前くらいだろうか? その年の冬だ。雪がちらほらと降っていて、吐く息が凍りつくんじゃないかと思ったくらい寒かったのが印象に残っている。

 

 僕の記憶の中で、彼女は駅前のベンチに座っていた。僕はおつかいか何かの用事の帰りにそこを通り、丁度彼女を発見したんだ。

 

 その時にはもう僕は彼女に恋をしていただろうか? まだだったろうか? 駄目だな、記憶がぼやけていてよく分からない。それでも、僕は当時からクラスメイトだった彼女に声を掛けたことだけは覚えている。

 

 ”どうかしたの?”そんなことを言ったろうか。何で僕は声を掛けたのかこれも覚えていないが、その時の彼女の姿にどこか心を惹かれたとのかもしれない。

 

 どうにか残っている僕の記憶を繋ぎ合わせれば、ベンチに座って俯いていた彼女は顔をあげて”斎藤くん”と言った。

 

 ”あ…ちょっと、様子が変に見えたから。ね、そんなところに座ってて寒くない? 雪も降ってるしさ”と僕が言う。彼女は少し躊躇いがちに、なんとなく言葉を濁しながら答える。ここから、なんとなく記憶もはっきりしてきた。なんとなく、彼女の頭にぽつぽつと付いた白い結晶が綺麗だった。

 

 ”うん……でもいいんだ。わたし、ここ好きだから”そこで彼女は自分の手の中の物に目を落とした。つられて僕も彼女の手の中にあるものを見ると、そこにはぐしゃぐしゃになった雪の塊のようなものが入っている。よく見ると、それはなんとなくウサギの形をしたものだった。

 

 ”それ、なんだい?”と僕が聞くと、彼女は慌てたように、

 

 ”え…これは、その、何でもないよっ”と言って手の中のものを隠した。確か僕は不思議に思ったけど、それ以上追求はしなかったと思う。

 

 もう用事は終らせた後だったからこのまま家に帰ろうかと思ったけど、僕は帰らずに彼女の隣に腰を下ろした。なんとなく、ほっておけなかったからかもしれない。

 

 暫くして、水瀬さんが口を開いた。

 

 ”ね、斎藤くん?”

 

 ”うん?”

 

 そこで彼女はまたしても躊躇うように、どことなく口をもごもごさせながら言ってくる。

 

 ”もし自分の大好きな人が……とってもとっても大好きな人がね……その人が、自分じゃなくて他の誰かを好きだということに気づいたら、もしそうしたら、斎藤くんはどうする?”

 

 僕は自分に発せられた問いかけの意味が分からなくて、彼女の方に目を向けた。思えば、この頃は僕や他のクラスメイトも随分子どもだったにも関わらず、彼女だけは、もう既に心のどこかで大人になっていた部分があったんじゃないだろうか。

 

 ”え、と………”僕は何を言ったらいいのかわからなくて、彼女をただぽかんと見つめているだけだった。その僕に対して彼女は、

 

 ”ううん、いいんだ。ごめん、わたし変なこといっちゃったね”そういって彼女は僕の方を向いて笑った。それは苦笑みたいなものだったというのに、僕はその笑い方を見て心の中にどうにも言いにくいものを覚えた。

 

 ”ね、そのさ”言ってしまってから僕は口に出した事を軽く後悔した。ただぽつりと言っただけで、一体何を水瀬さんに伝えれば良いのかまるきり分からなかったからだ。彼女は苦笑いの表情を崩して僕を見上げる。少しばかり逡巡した小さい頃の僕は、ようやく何かまともな事を言えそうな気がして言葉を紡いだ。

 

 ”あー…えっと、何があったのかは僕はよく知らないけど…元気出したほうが良いよ。んと、やっぱり落ち込んでるよりにこにこしてた方が水瀬さんらしいし”口をもぐもぐさせながら、ところどころ薄くどもりながらも何とか言う。言っている事はひょっとしてかなり恥ずかしい台詞だったんじゃないかじゃないかということには後で気づいた。

 

 少しの間彼女は僕を見つめていたが、やがて、

 

 ”うん、ありがとう。斎藤くん”そう言って彼女は笑った。にこ、とまさにたったいま僕が言った言葉そのままに。まるで花のように。その顔を見た途端、今は真冬だと言うのに顔面が物凄く熱くなった。多分その時の僕の顔は真っ赤にはなっていただろうなと思う。

 

 ”う、うん……それじゃっ”その場に居る事がなんとなく気恥ずかしくなって、僕は水瀬さんに軽く別れを告げると足早に家に戻った。

 

 ああ、そうだ。

 

 このときから、彼女の笑った顔をみた瞬間から、僕は彼女に恋したんだろう。きっと。 

 

 

 

 天井の灯りが、妙にまぶしい感じがする。いつも見慣れているというのに。今はすぐ間近で見ているみたいにチカチカしているように見えた。

 

 もういいや、今日はもう寝よう。

 

 僕はパンツの中に陽物を戻してパジャマを着て、上の灯りを消す。脇のストーブの電源を消すとそのままもそもそとベッドの中に入り込んだ。ベッド脇のスタンドの灯りを最小限に切り替えて目覚し時計を七時にセットすると、布団の中に身体を潜り込ませるようにして横になる。

 

 暗闇の中で目を閉じて、小さくしぼんでいく意識を感じながら僕はあることを思いついた。

 

 明日。

 

 明日相沢に水瀬さんのことをどう思っているか聞いてみよう。

 

 マスターペーションで疲れていたせいか、僕の意識は早々に暗闇の中でばらばらに分解されて、眠気の中にかき回されて消えた。   

 

 

 

 翌日。

 

 二時間目の休み時間の中、教室のごたごたしたやかましい喧騒を縫って僕は相沢の席に近づき、水瀬さんや他の人達と話していた彼にこう切り出した。

 

 「相沢くん、ちょっと良いかな?」僕の呼び出しに最初は相沢はきょとんとした顔をしたが、

 

 「ああ、いいぞ」と言うと彼は席を立った。そのまま誘導して後ろの扉から教室を出て、廊下に出ると僕は相沢と向かい合う。2、3人生徒は居たが、幸いな事に近くには居ない。話を盗み聞きされる心配は無さそうだ。

 

 今は真冬だったが、それでも背中の方に冷や汗のようなものを感じた。僕は心の中をあまり味わいたくはない部類の興奮で満たされながら、

 

 「ね、水瀬さんの事をどう思ってる?」と聞いた。あまりにストレートな問いかけなのかもしれないが、こういう場合はあまり回りくどい聞き方をする方が話をこじれやすくするのだ。確かそんな事を前にテレビか何かで聞いた覚えがある。

 

 「名雪が…何だって?」

 

 どくり

 

 僕自身の心臓の鼓動が聞こえたような気がした。

 

 周りの音が瞬間的に全て消失して、ついさっきまでそこらへんにいた生徒たちの姿も消えていた。急に心臓をわしづかみされたように胸に鋭い痛みが走り、僕は胸元を押さえた。いくら息をつこうとしても肺にまで酸素が入っていかず、浅い呼吸を何度も繰り返す。

 

 今、あいつは、何て言った?

 

 水瀬さんのことを何て言った?

 

 「斎藤?」ふと僕は下を向いていたらしく、はっと気づいて顔を上に向け(彼の方が僕より若干背が高い為)、相沢を見上げると、相沢は狼狽したような表情を見せていた。一体僕は下を向いている間に、どんな表情をしていたのだろうか。

 

 「おい、顔色が悪そうだぞ? 大丈夫か? お前、保健室行ったほうがいいんじゃないか?」相沢の声が、どこか遠くから聞こえるような気がする。確かに少しばかり胸焼けがするような気がするけど、そんなことはどうだっていい。今は目の前のこいつが水瀬さんのことをどう思っているか問いたださないと。

 

 「いや僕はいいんだ、大丈夫。それより、相沢君は水瀬さんのことどう思ってる?」ともすれば息すら出来なくなりそうだけど、僕はその言葉をなんとか搾り出す事が出来た。

 

 「……どうしてそんなことをお前に教えなくちゃならないんだ?」相沢が訝しげにしながらも、僕の体調を気遣いながらも聞いてくる。いいから早く話してくれ、こっちはお前の顔を見るたびに胸がむかむかしてくるんだ。

 

 「個人的興味、って言えばいいのかな? まあ、相沢水瀬さんと仲良いしさ。あの人クラス内で人気あるから気になってね」

 

 「あー……ああ、そういうことな。ところで本当に大丈夫か? 顔が白いぞ?」

 

 「大丈夫だったら」

 

 「……まあ、あいつは小さい頃から兄妹みたいに一緒に過ごしてきたからな、好き…といったほうがいいのかもな」相沢は僕の顔をちらちらと見ながら話す。その様子はクラスメイトと話すというより、特別教室の人と話しているように思えた。いったいこいつは何様なのだろう。

 

 「ふうん……わかった、ありがとう」僕は軽く心臓の辺りをさすりながら相沢に言った。ついでに、じゃ、というと彼の脇をすり抜けて前の方から教室に入り、教卓の前の自分の席に座る。相沢が不審な目で僕を見ているのに気がついてはいたが、敢えて気にせずに。

 

 胸はまだずきずきと痛みを訴えていたが、ようやく少しは緩和されてきたようだった。息をするのも楽になってきた。すうはあと深呼吸をすると、一月の冷たい空気と教室の薄い埃が混じった空気が肺に入っていく。二回もすれば、完全に落ち着いた。

 

 僕は眼前の黒板を見上げながら、周りでクラスメイト達がぎゃあぎゃあ騒いでいるのも耳に入れずに、相沢の事を考えた。

 

 まるで毒だ。第一印象では見かけだけ格好いい男というものだったが、今ではそんな印象など遥か彼方だ。あいつは僕にとっての毒、ひょっとしたらクラスの奴らや水瀬さんにとっても毒かもしれない。なんせあの水瀬さんを名前呼ばわりしやがったのだ。毒になれこそ薬になるはずなんて全く無い。

 

 あのどこかの異常集団が起こした事件に使われていた、吸ってしまったらすぐに意識不明の植物人間になってしまうサリンのような速効性のものではない。もっとじわじわと獲物を弱らせ、獲物自身が弱っている事に気づかないほど狡猾にやりとげる砒素みたいな男なのだ。

 

 僕はちら、と他の人に怪しまれないように後ろを向いて相沢とそのほか三名が陣形を形作っているところに目を凝らした。メンバーはまず相沢、次に(これまた相沢に並んで奇妙な奴な)北川潤、クラス内で一二を争うほど綺麗といわれているのにも関わらずテストなどでも非常に成績が良いとされて、まさに才色兼備を形にしたような女子、美坂香織、そして残り一人が水瀬さんだ。クラスではこの四人で『美坂チーム』と呼ばれているらしい。

 

 席が離れている為声は聞こえないが。彼らが楽しそうに話しているという事は見てすぐに分かる。ぺらぺら、わあわあ。言葉は席と席の間を飛び移り、一人が笑えばつられて全員が笑い出す。彼ら全員が笑顔だ。その中で水瀬さんの笑顔は特別ということは分かりきった事だけど。

 

 その中の、一番毒に為りうる男、相沢祐一に目を遣る。彼もまた笑っている。奴を見ているとまた胸がむかむかしてくるのが感じられる。

 

 あいつはなんとかしなければならない。

 

 そう、確かにあの男はどうにかして水瀬さんから遠ざけるなりなんなりしなければならないのだ。兎に角何とかして手を打たなければいけない。

 

 問題は何をするかだ。困った事に何をすればいいのかが全く思い浮かばない。いくら頭の中で思い浮かべようとしても、そこの部分だけスクリーンに穴が空いたようにぽっかりと途切れてしまっている。一体どうするべきか。

 

 きーん こーん かーん こーん

 

 はっとして僕は考え事をしていたためか下がりかけていた頭を上の時計に向けると、もう授業が始まる時間になっていた。周りで喧喧諤々の騒音をたてていたクラスメイトたちも渋々ながら自分達の席に戻っていくが、中にはまるでチャイムなど聞いていない顔でまだ休み時間のように話し込んでいる奴もいる。美坂チームも解散して席に戻ったようだ。それでも彼らの席は殆ど隣といっても良いような物なので解散というより散開した、といった方がいいかもしれない。

 

 僕も気持ちを切り替えよう。軽く息をつくと僕は机の中の教科書類やノートを漁り始めた。

 

 

 

 

 その日から数週間後。放課後。

 

 僕は今日も尾行を続けていた。

 

 僕が相沢を毒と断じた日から何週間か経つけど、あまり進展のような物(ようするに相沢がなにか不埒な行為を働いたり水瀬さんの身に変な輩が近づいたりする事)は無かった。強いていえば少し前に水瀬さんのお母さんが事故に遭い、そのショックからか水瀬さんが学校を何日か休んだ。その間僕は様子を見に(勿論水瀬さんとそのお母さんの両方を)水瀬さんの家に行こうかと考えもしたが、あまり部外者がこういうことに口を出すものではないかもしれないと思ってそれは取りやめた。結果として水瀬さんは学校に復帰し、恐る恐る様子を訊ねてみればお母さんは後遺症も無く毎日リハビリに励んでいるという。そのことについては良かったと心から思った。

 

 水瀬さんが学校に復帰してきた頃だろうか。いや、正確に言えば更に前、水瀬さんのお母さんが事故に遭う直前だ。彼らが親密になったと思えるのは。口でははっきりと言い表せないのだけど、距離感みたいな物だ。その距離感が以前と比べて明らかに小さくなったのだ。今まではなんとなく距離を離してコミュニケーションを取っていた。それは僕でも分かる。しかし、どういうわけか距離感みたいなものは消え、彼らは今まで以上に仲が良いのだ。それに僕は席が遠くてよくは分からないが、顔を赤くしながら二人してひそひそ囁きながら一緒に弁当を食べている所を目撃すれば、部外者でも二人の仲が大体想像つくだろう。

 

 気に入らない。まったくもって気に入らなかった。まず相沢はろくでもない奴だし、毒と銘打っても良いものだ。そいつが水瀬さんと仲睦まじい様子を見せるとなるとそれは倍増する。何より水瀬さんが心配だ。

 

 しかも問題はそれに留まる事は無いだろう。いくら相沢と仲が良くなったとしても、その手の者が水瀬さんを逸れていくという事でもないのだ。

 

 その二つの理由が相重なって、僕は未だ水瀬さんを尾行している。それに今回は特に神経を集中させてだ。 

 

 ざくざくと黒く汚れた雪を踏みしめながら、重苦しい灰色の空の下を僕は歩いていた。目の前には二人の男女が僕と同じく雪の中の並木道を苦労しながら歩いている。その二人とは、やはり相沢と水瀬さんだ。今日は水瀬さんの体調があまり芳しくはなく、朝から最近学校で流行しているインフルエンザの症状が出ていた。授業に支障は無いのだが、無理に部活に出て他の部員にうつしては困るとの顧問の教師の計らいで今日は帰された、とのことだろう。推測するにその前には体調管理の不備にきつくお灸を据えられたと思うが。

 

 断続的に呼吸をするたびに空気中に白い息が瞬間的に出現し、瞬間的に消える。僕は冷えて不満を垂らしている身体をところどころ手でさすることで何とか宥めながら、ただ二人を尾行しつづける。勿論十分に距離はとってだけど。今までのところ二人におかしなところは無い。

 

 [もういいんじゃないのか]頭の中で声がした。その声の響きはまるで父親のような厳格さを宿し、僕の心の中に入ってくる。最も、僕の本当の父親はもう何年も家に帰っていないけど。[これ以上尾行しても不審な点なん見当たらないだろうよ、いいかげん水瀬に固執しないで他の人にでも乗り換えろ。お前、傍から見たらまるで変人だぞ]

 

 (分かってるよそんな事)僕は頭の中の父親に応える。(でも、もしもの事があるんだから仕方が無いよ、彼女に不幸な目にあってほしくない)僕がそう言うと、無精ながら頭の声は引っ込んだ。そういえば、こんな声が聞こえてくるようになってもう何年経つのだろう? 確か高校に入ってからだったような気がする。

 

 でも、ここらへんでそろそろ潮時なのかもしれない。いい加減僕は身を引いて、水瀬さんの幸せをそっと祝福してやったほうがいいんじゃないだろうか。ひょっとして僕がいまやっていることは彼女から見ても異様な事じゃないのか?それにこの尾行を水瀬さんに気づかれたら一体彼女はどう思うだろう?他にも色々ある。

 

 いや待て、ちょっと待った。水瀬さんはそれでいいとして、問題は相沢だろう? その相沢はまず何をしでかすのか分からないような奴なんだぞ? そんな奴に水瀬さんを任せて本当に良いのか、彼女をもっと幸せにできる奴

 

 (例えば僕とか)

 

 がいるんじゃないのか? あんな奇人と変人を足して二で割ったようなものを信用したら…                                                     

 

 もういい。分かった。

 

 僕は自分の中の感情を振り払う為に首を左右にぶるぶると音がするほど振り払う、目の前の雪道を進んでいく二人の男女を眼前に捉えながら、僕は心の中で決心した。

 

 これを最後にしよう。

 

 大掛かりな尾行はもうこれで最後だ、彼女の事を思えば。相沢のような毒が彼女に何かしたりするのではないか不安だが、ここは千歩譲ってあいつに任せてみることにしよう。彼女の騎士としてなら、まず彼女の幸せを考えてみる事が最優先だ。

 

 決意が固まると、僕は改めて尾行をする相手のほうに集中の矛先を向けた。

 

 

 

 

 欲求不満。

 

 高校生ならば誰しもそういう感情に振り回されるようなことはあるのではあるまいだろうか。例えば性的なものでもありうるし、食べ物についてもある、遊び盛りであるからまた金銭に対する欲求等も抱えているだろう。人間欲の塊とよく言うが、その中でも特にそれが大きいのは思春期の頃ではないだろうか。

 

 勿論、その欲求不満には相沢祐一という高校生がきちんと範疇内に治まっている。彼が今抱えているのは、性的なもの。今彼の隣を歩いている水瀬名雪という少女についてだ。

 

 相沢祐一は以前彼女と交合を交わした事がある。言わずもがな、双方の了解の元に行われた和姦である。彼にとっての問題は、それから一回も二人の間で交合が行われた事が無い、ということだ。キスくらいならば何回かしたが、やはり健全な高校生の彼としてはその手の妄想が時たま頭の中を飛び回る。

 

 確かに彼は理性の人、きちんと節度くらいは守って生活はしている。なるべく学校ではあまりにもべたべたしすぎはしないし、登下校の時にもそれは同じだ。しかし溜まり過ぎればどこかで破裂してしまうもの、どこかで安全弁を設けてガス抜きしたい。

 

 丁度今、こんな人気の無い並木道で。

 

 周りを近づいている足音は無いのを確認してから、ちらりと、気づかれないように隣を歩いている少女を見る。本人は今祐一の考えている事など露知らず歩いているが、もし彼女がそれを知ったら一体どんな事になるだろうか。心臓の鼓動が早くなってきているのが分かる。深呼吸をしたかったが、流石に名雪に不思議がられるのはまずいと思ってやらなかった。

 

 大丈夫、大丈夫だ。祐一はそう思っているにはいたが、隣の彼女を見ると、どうにも大丈夫ではないかもしれないという気が心の中からだんだんと湧き上がってくるのだ。

 

 もう一回、横目でできるだけさりげなく名雪を見やる。さらさらとした蒼穹の髪、ぱち、といつも開いている大きくて綺麗な眼、どこまでも男心をくすぐってやまないようなあどけない顔つき、顔の割には異様にスタイルが整ったその身体。

 

 駄目だ、祐一落ち着け、このままじゃあ暴走しちまうぞ、こんなところでコトに及んだりしたらそれこそ夕飯抜きなんてことになる。

 

 このままでは情況はこちらが不利になるばかりと(祐一が勝手に考えているのだが)思い、彼は名雪から目を逸らそうとした。

 

 だが、そこで決定的なものを目にした。彼らは近道の為に雪が積もっても誰も除雪しないような道を歩いていたが、やはり悪道を歩くのは疲れるもの。それは陸上部の部長である名雪も同じ事だったらしい。彼女は軽く顎の下の汗を拭った。その拍子に彼女の青い髪がさらりと冬の空気中を揺れ動き、わずか、これっぽっちと表現してもいいほどわずかだが、隣の祐一に彼女のうなじが見えた。ちらと見えたにすぎないのだが、透明な彼女の汗が見えた。

 

 その動作は彼の無意識感の欲情を司る箇所を直撃し、彼の精神はつかのま理性を吹き飛ばした。それでもほんの僅かに残った理性の残党は一致団結して心の中で立て篭もり、祐一自身の欲望の抑制を要求してきた。たったいま彼の心の半分以上乗っ取った欲望は要求を断固否定し、理性を攻撃し始めた。

 

 そんな祐一の心の中の事情など全く知らない名雪は、隣を歩いていた祐一が不意に足を止めた事に訝しがって同じく止まって背後の祐一を見た。

 

 理性の抵抗も虚しく、欲望側は残党を手早く掃討した。彼は欲望が語りかけてくる声に神経を集中し、その声に従って名雪に近づいた。

 

 祐一が再び歩き出したが、その様子はなんとなく変だなと思いながら名雪は再び雪道を歩き出す。祐一はその腕を軽く掴んだ。

 

 もう一度振り返り、いつのまにやら大分近くまで来ていた祐一を名雪は見上げた。今度はその瞳の中に本格的な疑問を宿して。彼の右腕が彼女の腰に回り、名雪は声に出して訊ねようとした。

 

 「ゆういーーーーーー」

 

 声が最後まで出ることがなかっのは、彼がいきなり彼女にキスしてきたからだった。そのあまりの展開振りに名雪はぽかんと目を見開き、少しの間放心した。数秒ほど意識は彼女の精神から休暇に出ていった。近くでごそりと足音のようなものが聞こえたような気がしたが、彼女も彼も聞いてはいなかった。

 

 祐一の中では欲望が精神の中を跳ね回り、まるで台風が自分の中に入り込んだようにも思えた。

 

 ほんの数秒間、その場を静寂が満たしていた。ぬけるような青空や、冬特有の異様にその密度を増したのではないかと思えるようなぎらぎらした太陽、シチュエーションとしては確かに最高だった。

 

 そのシチュエーションをぶち壊しにしたのは、軽い平手打ちの音だった。

 

 名雪は祐一から身を離し、彼の頬を無意識のうちにはたいていた。もちろん相手は自分の思い人なのだから全力ではたこうと思ったわけではないが…それでも、無意識のうちでは力の加減なんて出来るわけが無い。それに、こちらが何の心の準備も出来ていないうちからするなんて少し酷くはないだろうか…

 

 はっと彼女は自分の思考から抜け出すと、頬に手を添えてこれまたぽかんとしていた祐一に近づき、「痛くない?」と声を掛けた。

 

 「え、ああ……いや、大丈夫だ」どこか惚けたような口調で祐一が答えた。彼の中の欲望は大規模な爆発が家をばらばらに吹き飛ばすように、彼の心の中から雲散霧消していた。いまは復活した理性をなんとか掻き集めているような状態だった。

 

 「その、えっと、……ごめん」名雪は祐一に謝ると、ポケットの中からハンカチを取り出したが、水をつけないと効果が無いという事を思い出して苦い顔をしながらハンカチをポケットの中にしまった。見れば、頬の叩かれた場所がまるで斑模様のように紅潮していた。

 

 「いやはや、きついのもらっちまったな」祐一は笑い、軽口を叩くと、名雪はほっと安堵した。良かった、怒ったわけじゃないんだ。

 

 「もう、祐一が変なことするからだよ」心の中の安堵を何故か祐一に悟られたくなくて、名雪はそう答えた。「わたし、すごいびっくりしたもん」

 

 「悪い悪い、俺もどうしてあんなことしたのかよく分からないんだ」これは本当だった。確かに祐一は名雪に欲情し、ひょっとすればこの場でコトに及ぼうとすら思っていたが、どうして自分がそう思ったのかは分からなかった。気の迷いのようなものだろう。祐一は心の中でそう片付ける事にした。なに、今ごろの高校生ならよくあることだ。欲情の結果として真っ赤になった頬を戒めの意味もこめて手でこする。

 

 「ふーん……まあいいか。祐一をビンタしたのなんて初めてだし、気も済んだから許してあげるよ。私、先行ってるね」言うなり名雪は雪が積もった並木道を軽く走り出した。背後で祐一が何か声を掛けてきたような気がしたが、あまり気にしない事にした。

 

 祐一は名雪を追いかけようかと思ったが、流石にこの雪だらけの道に慣れていない自分ではまず確実に転ぶだろうな、そう思ってゆっくりと歩いていく事にした。軽く首を振って、段々手ほどの大きさからライターほどの大きさになっていく彼女を見送る。

 

 「何やってるんだろうな、俺は」呟いて、それから少しばかりのやるせなさと、不思議な事に心の中から沸いて出てきた幸福感とが入り混じった感情に浸りながら、彼は果てが見えない並木道を歩いていった。

 

 

 背後では、かつて彼にある質問をした斎藤という名の男が、雪で満ちた並木道の上に、まるで彫刻のように微かな音も出す事も無く立っていた。その顔は彼の中で暴れまわっている黒い霧を表すようにぎりぎりとひきつり、両手は握りこぶしを形作っていて、双方の拳の中から血がぽたぽたと垂れ落ちて足元の雪に薄く赤い後を付ける。彼の目の中はまるで骸骨か何かのようにどこまでも果てが無く、どこまでも虚ろでもあり、どこまでもどす黒いものに満ちていた。

 

 子どもが見ればまず軽いひきつけを起こすか泣き出すか逃げ出す姿を、大人が見ればすぐさま警察か救急車を呼びそうな姿をしながら、彼は暫くその並木道に突っ立っていた。

 

 それから、彼はふらふらと夢遊病者のような足取りで夜の十時頃まで誰も帰ってこない家に帰り、二階の自分の部屋に入るなりドアに取り付けてあった鍵を三つとも全て掛ける。そしてそのままベッドに突っ伏した。

 

 二日間彼がその中から出てくることは無かった。

 

 

 

 「うお、さむ…」

 

 夜の帳が降りれば暖かな日の光も消え失せ、あたりにはまるで霧のように寒さがたちこめてくる。相沢祐一はその寒さの中を突っ切り、水瀬家へと近道がてら公園の中を速足で歩いていた。最近はいつも通っている経路で、夜の公園という不気味さも慣れが軽減する。

 

 今日は同行するものもいなく、一人きりの下校。しかも北川に美坂をデートに誘うから見守っていてくれなどというよく分からない用事でつき合わされたものから帰るのがかなり遅くになってしまった。部活中の名雪を待とうかとも思ったけど、腕時計の時間は六時を指していて大分微妙な時間なのでやめた。たしか名雪はかなり遅くまで部活をしているのではなかったろうか。

 

 (せめて秋子さんに電話しといたほうが良かったかな)そう考えて、帰ったときの秋子さんの様子を思い浮かべるとなんとなく憂鬱になった。秋子さんのことだから顔には出さないと思うし言わないと思うけど、この場合は言わないほうが辛い物があるかもしれない。とりあえず今は、この公園を通り過ぎる他無い。

 

 帰ったときの言い訳を考えようか、それとも素直に白状してしまおうか、自分の中の考えに沈み込む祐一。今日は湿気が多いらしく、手が湿っぽい。全くもっていやな感じだ、早く家に帰りたい。

 

 この時周りには人は全く居なかった。これについてはそれなりに遅い時刻からだろうし、こんな時間に公園で何かをしようなどと言う人もなかなかいまい。ただ、全く音もしないので、少しの音にもかなり敏感になってしまう。微風での葉ずれのこすれる音とか、遠くを走る車の稼動音。

 

 だから、背後でのがさり、という微かな音にも祐一の耳には届いた。反射的に後ろを向く。そこで凍りついた。

 

 今の彼の位置からすれば、丁度後ろには人が2、3人隠れられるだけの大きい草むらがあり、祐一はそこから出てきたものを見て思考と身体の神経が瞬間的に凍結した。

 

 草むらからは、何か背中を丸めた人影のような物が飛び出してきていた。かなり早いスピードで向かってきているようで、出たと思った次の瞬間にはもう自分のすぐ側に移動していた。

 

 その影からは、ぎらぎらと光を放つ、何かとがったような物が突き出ていた。最初祐一はそれがなんなのか視認出来なかったが、今は刃物のようなものだと気づいた。

 

 影は祐一の側まで高速で近づいてきたとき、彼の顔を見上げた。祐一にはそれが誰なのか分かる事は無かったけれど、その影が男であり、目の中には全てにおいてふっきれた者特有の目、つまり世間一般で狂人と区別されている種類の人種が持ち合わせている光を認めた。

 

 男はまるでラガーマンがタックルをするように祐一にぶつかってきた。どつ、という鈍い音が公園内に響く。祐一はその瞬間男の興奮しきった、荒い呼吸の音を聞いた。ひゅうひゅうという音で、ぶつかったときの衝撃で、祐一はよろけた。

 

 (え……) 

 

 急に体の力が抜けて、まるで操り糸が切れた人形みたいにその場にくずれおちた。この前彼にもよく分かっていない理由で祐一が不意にキスしたときの名雪のようにぽかんとした表情で祐一が上を見上げると、興奮しているよりは疲れきったように男がふらつきながら立っていた。見上げると男はレインコートを着ているらしく、丁度顔は街灯の光も月の光も当たらないせいで彼にはよく見えなかった。コートのざらざらした布地には赤黒い物がところどころこびりついている。

 

 男のその手にはどこにでも売っていそうな包丁が握られていて、そこにもレインコートと同じく赤い物がべったりとくっついていた。そこで腹の辺りが妙に熱をもったように感じるのに気づき、男から目を離してて手をやると、穴のような物が空いて中からぬるぬるとしたものがどんどん溢れ出ている事がわかった。

 

 半ば手がどうなっているのか確信していながらゆっくりと目の前に持ってくると、やっぱり赤い物が手に大量にくっついていた。その手が光沢で、てらてら光っているのを見て急に祐一は気分が悪くなった。冷めた夜の空気が、血にあてられて湯気の立ち上っている真っ赤な手を冷やす。

 

 手を身体の上に投げ出して男をもう一回見上げると、男は両手で包丁を高々と振り上げ、顔面をひきつらせながら祐一の側に座り込んでいた。未だ自分の置かれている状況がよく飲み込めていないまま、吸血鬼が杭を打ち込まれるときってひょっとしてこんな風なのかな、と全くずれた事を思った。

 

 そういえば、俺は何でこんな遅くに帰る事になったんだろうか。秋子さんは夕飯は何を作ってくれたのか。名雪の顔がもう一度見たい。何で俺がこんな

 

 男が持っていた包丁を勢い良く祐一の胸に突き立てると、考える事が出来なくなった。胸のあたりの感覚が何かに遮断されたようになって、祐一は口から大量の血を吐き出す。身体がいきなり痙攣し始めて、男はぎょっとしてあとずさった。だがすぐに男はおそるおそる近づいて、ただ祐一は痙攣しているだけで別段それいじょう異常な行動に出ないということが分かると、ほっと安堵の吐息をもらした。それから再び祐一の側にしゃがみこむと、祐一の身体を何回も手にした包丁で勢いを付けて突き刺し始めた。

 

 ざく、ずちゅ、ずしゅと肉や皮膚が切り裂かれる音が生々しく公園内に響く。男は自分でもそれと知らずに声を出して笑い出していた。祐一はそれをもう遠い世界の出来事のように感じることができなかった。手や足の感覚はもう彼の身体からは離断されていた。耳栓をつけたように、男の声も突き刺さる音も、彼の耳にはくぐもった状態でしか届かない。目の前はスイッチをオンからオフに切り替えたようにいきなり真っ暗になった。

 

 (名雪     秋  子     さん      真   琴     香 織          あ ゅ        北  川            舞 )

 

 もう目が見えない筈なのに、ちらちらと自分が見知った人の顔が頭の中を通り過ぎていく。それと同時に小さい頃からの思い出がまるで追体験しているかのように脳裡に蘇る。どんどん血が体中から搾り出され、内臓や肉を傷つけられても、それは終らなかった。確かこういうのを何と言うのだったろうか、どこかで聞いた事があった気がする。

 

 意識もだんだんと薄れてくる。えぐられて穴の空いた所がようやくちりちりと熱を帯び始めたように感じたその瞬間、やっと自分の置かれている状況に気がついた。

 

 自分は今、死ぬ瀬戸際の辺りに来ているのだ。ドラマや映画で人が死ぬ瞬間は何度となく見てきたが、自分が今この時死ぬ事になんて頭の隅をかすめもしなかった。確かに死が彼に降りかかることがあるとしても、それは六十歳や七十歳と年老いて余生を過ごしているときだ。言うなれば、ついさっきの彼には死など遠い惑星のようなものだったのだ。今隣の惑星の物がいきなり自分の身体をがっちり捕まえた事を悟ったとともに。滑稽なほどの驚愕と絶望の感情が祐一の脳内を走り抜け、彼の身体は一段と大きい痙攣を起こした。  

 

 嫌だ、死ぬなんて嫌だ。やめてくれ。助けてくれ。

 

 叫びだしたかったが、もう口から出てくるものは血という名の体液しかない。声を出す代わりに喉がごぼごぼと音を立てた。

 

 同時に、こう思い出や人のことを思い出すこの現象がなんだったかを、思い出した。

 

 (走馬灯だ)

 

 そう考えると、ふっと気が楽になった。身体の中に僅かに残っていた力も全て抜けていく。耳も聞こえなくなり、目ももう何もうつすこともなくなった。激烈な痛みを遅まきながら伝えていた胸の神経も死に絶えた。

 

 その瞬間、今自分を殺そうとしている男の事や彼が世界で一番好きな少女も、その母親も、自分の父親も、母親も、級友も、彼の頭の中から消え失せた。脳細胞が一気に死に絶え、機能を永久に強制停止させた。

 

 相沢祐一は死んだ。

 

 

 

 

 今しがた祐一を強襲した人物、斎藤は既に内臓と血が詰まった頭陀袋同然となったかつて相沢祐一と呼ばれていた物体から身を離し、ほっとして座り込んだ。こうしている間に誰か来るかも知れず、早いところ死体を隠さなければいけないのだけれど、彼はずっとこうして座り込んでいたかった。(もう少し、もう少しだけ)と頭の中で自分を急かす声に返事し、夜空を見上げた。

 

 いつかこうするんじゃないか、と彼はふと思った。ひょっとしたら、こんなことをするのを自分の中のどこかは既に分かっていたのだろうか。

 

 けれど、もう後戻りは出来なかった。人を自分は殺してしまったのだ、こうなったいけるところまでどこまでも突っ走るしかない。

 

 一体どこから自分の中の歯車が狂いはじめたのだろうか、彼には分からなかった。考えてみれば思いつく箇所はいくらでもあった。陰気そのものだと言っても良かった小学生、ひたすらに内申を上げてもらおうと教師に気に入られようと必死だった中学生の頃、高校生になってからはもっと酷かったかもしれない。勿論親しい友人など一人も居なかった。

 

 いったい歯車の中にゴミか何かが入っておかしくなりはじめたのはいつ頃だったのか。そのゴミとは何だったのか。

 

 普段は優しくて頼りがいがあった父親が夜になるとヒトラーもかくやと言わんばかりの暴君であった事か、

 

 ある夜にその父親がいつものように酔っ払い、理性のタガが外れたのか母親を二階から一階まで蹴り飛ばした事か、

 

 このままでは自分の立場は危うくなってしまうと酔った頭で考えついた父親がふらりと家を出てそのまま二度と戻ってこなかった事か、

 

 入院先の病院で母親の中の自分の弟か妹になるはずだったものが死産を宣告され、母親の精神状態がすこしばかり人と常軌を逸し始めた頃か、

 

  兎に角、彼のこれまでの人生はトンネルのように真っ暗だった。

 

 そんな滑稽なほど陰気そのものと言っても良かった学生生活でも彼には華があったからやってこれた。心の支えがあったから彼は自分を見失わずにこれた。

 

 水瀬名雪がそうだった。

 

 どんなに沈鬱なときでも、どんなに彼の心が荒んだときでも、彼女の事を思えばなんとか乗り切ってきた。騎士として名雪を守ろうと決心したことも、半ば盲目的な恋心がそうさせていた。彼女は彼の中の中心軸だった。

 

 たった今、彼は水瀬名雪を守る為に、毒を、相沢祐一を殺したのだ。数日前雪が降り積もった並木道で相沢祐一が危うく水瀬名雪に毒牙をかけそうになったとき、彼は祐一を殺す事を考え、自分の家の部屋の中で死ぬほど悩んで決心した。

 

 ひたすらに。

 

 彼女を守る騎士として。

 

 じゃり、と脇のほうで砂を踏む音がして、彼は早々と死体を隠す事をしなかった自分を内心呪いながら包丁を持ち音のしたほうを向いた。包丁を構えたのは、勿論目撃者を残さない為だ。

 

 彼は一気に目撃者の方を向くと同時に近づこうとし……硬直した。口がぽかんと間抜けのように開き、包丁を構えていた手も同じく固まり、徐々に脇に垂れ下がっていった。まるでその瞬間を揶揄するかのように強風が吹きさらし、砂を吹き飛ばし、木をざわめかせる。風はその場にいた者の精神状態をも現すかのようだった。

 

 斎藤と、水瀬名雪の両者の。

 

 

 

 

 祐一と同じく近道の為に公園を突っ切ろうとした名雪はその場の状況を一瞬夢かそれに非常に良く似たような物だと思った。自分はよく歩いているときにも寝るときがあるらしく、今見たものもその睡眠の余波のようなものだと思った。夢にしろ、殺人現場になんて出くわしたくないけれど。

 

 目の前にいるレインコートを着込んでいる男は血でてらてら光る包丁を持っていて、見るからに危険だと分かった。彼のすぐ横に倒れている男は体中に穴を開けられていて、夢だと思わなければ到底耐えられるような光景ではなかった。レインコートの男は穴が空くほど自分を凝視していて、彼の目はギラギラしていた。ひょっとしたら自分はとんでもないところに居合わせたのかもしれないと考えた。直後、とんでもない量の冷や汗が背中のほうから出て、足ががくがくと震えだした。

 

 そう考えると、途端に目の前の光景が現実味を増してきた。なんだか鉄臭い匂いまでがこっちに漂ってくるような気すらしてくる。

 

 レインコートがこっちの方へと一歩足を踏み出してきて、名雪も思わず一歩後ずさりした。

 

 男の口がぱくぱくと動いているのが見える。何か言っているらしいが、今の名雪には聞こえなかった。

 

 ふと名雪はある事に気がついた。

 

 今自分に詰め寄っているこの男、どうにも見覚えがあるような気がする。通学路で、商店街で、教室で、確かどこかで…

 

 (!!教室!!)

 

 そうだ、彼は学校で見た。しかも自分が通っているのと同じ教室で、いつも視界の端に治まっている人だった。よく話をする友人の一人で、忘れ物をしたときや授業で教師から自分には分からない問題を指名されたとき、そんなときに頼れる友人だった。

 

 あまりにどうしようもなく、自分では処理しきることなど物理的に不可能なのではないか、というショックと共に名雪は悟った。ああそうだ、この人は斎藤、名雪のクラスメイトだ。よく話はするけどそれ程気に掛けはしない程度の友人、彼がそうだ。

 

 あまりの驚きに一瞬目を伏せた瞬間、倒れている男が目に入る。

 

 その瞬間、今目の前で包丁片手に自分に近づいているクラスメイトのことは頭の中から消えた。それこそ手品で消したとでもいうように、ぱっと。

 

 自分のすぐ近くで砂利と石ころが入り混じった土の上に倒れている男、もう死んだかもしれない男、名雪はその男に見覚えがあった。いや、あるなんてものじゃなかった。見た瞬間はやはりこれは夢で、自分は今ごろ路上に倒れたまま寝ているか、それとも今日起こった事からすべて夢の出来事で、実はまだ部屋のベッドの中でぬいぐるみのけろぴーを抱いたまま寝ているんじゃないかと思った。

 

 いっそそうであった方が彼女には良かった。ずっと、ずっと。

 

 かつて彼と名雪とは心が繋がったことがあった。つい数分前も必要とあればいつでも互いの心を通わせられると信じていた、彼と自分とが何者かの魔手のようなもので引き離される事などついぞ考えた事も無かった、簡単に言えば心の絆がその相手との間に張られていた、そんな関係の人。

 

 彼は紛れも無い相沢祐一だった。

 

 つい最近居候として水瀬家にやってきて、少し前からかけがえのない大切な人にもなった人が、今砂利と石ころの上に倒れていた。

 

 彼女は自分でも顔が青ざめるのが分かった。

 

 

 

 彼女の顔が青ざめるのを見て、斎藤は二つの愕然としたくなるような事実に気づいた。返り血を防ぐ為にレインコートを着ているのだから、フードを被るべきだったのだ。そしてもう一つは、これで彼女には完全に自分だという事に気づかれたという事だった。兎に角今は何かしなければならない。そう考えていた刹那、

 

 「あああああああああああ」名雪が叫びだし、まるで斎藤の事など目にも入っていないような様子で、斎藤の脇をすり抜けると祐一の側に駆け寄り、彼にしがみついた。そしてそのまま、彼の名前を連呼しながらゆすりはじめる。まるでそうすれば彼が生き返るみたいに。

 

 のろのろと名雪の方を振り返りながら、斎藤は胸がぎりぎりと締め付けられるような思いを感じ取っていた。彼がしたかったのは名雪を喜ばせる事だ、悲しませる事ではない。

 

 完全に後ろに向き直り、今さっき彼の手の中の包丁で肉塊にされたものに必死にしがみつき、ひたすらに泣きじゃくっている名雪を見たとき、ある事に考えが思い当たった。そのことにも愕然とする要素が多分に含まれていたが、それは前の二つの比では無かった。今までで一番衝撃を受けるものだった。

 

 ひょっとして、彼女にとっての騎士は、彼だったんじゃないか?

 

 そんな考えが頭の中に生まれたとき、まず脳内の大部分がそれを否定し、そんな馬鹿げた考えを思いついた脳の器官を次々にさげずんだ。しかし時間が経つにつれて(実際に一、二秒足らずのことだが)まさか、その考えは事実を述べているのではあるまいか…脳内の大部分にその考えが浸透していき、慄然と驚愕とある種の恐怖とともに、その考えを受け入れる事となった。

 

 だけど、だとすれば自分はいったいなんだったんだろうか?

 

 決まっていた。彼は狂っているかもしれないけど馬鹿ではなかった。もう答えは自分にもわかった。

 

 必要なかったのだ、自分は。別に彼女は僕など必要とはしていなかったのだ。ようするに僕は、自分ひとりの考えに一喜一憂し、あげくの果てに人を殺した奴なのだ。そんな奴に護られたいと思うような奇特な人がこの世に…

 

 やめろ。もういい。これ以上自虐的になるな。もうたくさんだ。

 

 だったら僕はどうしたらいいんだ? 彼女の為になりたくて彼女と同じ学校に入って、なんとかクラスも一緒になれるようにクラス発表の前日は死ぬような思いで神に祈り、結果幸運な事に同じクラスになれたとしても、してあげられたのがこんな事だという僕は?

 

 無性に泣き出したくて堪らなかった。このまま地べたに座り込んで彼女と同じようにわあわあ泣く事ができたらどんなにいいだろうか。もう鼻は鼻水や何かで詰まって、目も少し潤んできていた。けど、これ以上彼女に無様な姿を見せたくなかった。

 

 それに、こんな僕が彼女にしなくちゃいけない事がまだある。騎士としての最後の務めだ。

 

 騎士? お前が? 脳内の最早彼の支配を離れはじめた脳の部分がせせら笑う。おいおい冗談はやめてくれよ本当に。今ももう冗談のようなものの積み重ねでぐらぐら上の方は揺れていて落ちそうだってのに、これ以上に積み重ねてどうする?

 

 その声は無視することとして、斎藤は一歩名雪と祐一の方に近づく。名雪は彼の遺体に相変わらずしがみつき、どこまでも続く哀しみの荒野を彷徨っている途中で彼の足音にもまったく気づかなかった。

 

 「名雪さん」ひゅうひゅうと音が鳴る、かさかさして極度の緊張で渇ききった喉からかろうじて声が出てくる。自分でもこんな声が出るのが不思議だった。

 

 名雪の身体が呼びかけれられた反応でびくん、と大きく震え、ゆっくりと斎藤の方を向く。彼女の瞳の中には、怯えと、悲しみと、怒りが入り混じっているのが斎藤には分かった。

 

 「僕は…」唇を、なんとか声が出やすいように同じように渇いていた舌で舐める。幾分はマシになった。「僕は、彼を、殺した」

 

 言った。とうとう言ってしまったのだ。これで不安は現実の物となった。騎士失格だ。

 

 「………どうして…」ゆっくりと、彼の目を青ざめた顔で見据えながら問い掛けた名雪の声も、斎藤と同じくらい震えていた。

 

 「僕は、良かれと思ってやった。君が喜ぶと思ってこうした」こうして告白をすると、心の中は妙にしんとして静まり返り、冴え渡った。それを邪魔してくる声も今回ばかりは引っ込んだらしかった。もしくは彼がとちる様をいち早く鑑賞したく、どこかで見ているのか。

 

 「前に水瀬さんたちが並木道で下校していたとき、彼は君を襲いそうになったと思ったんだ。だから、僕は、こうした」これを言ったときに、不意に気がついた。もしかして、自分は彼を水瀬さんの毒になるからという理由で殺したが…本当は、彼に対する嫉妬で殺したんじゃないだろうか?

 

 今度ばかりは名雪は無言だった。再び祐一の方に向き直り、彼を注視したまま斎藤の声に耳を傾ける。

 

 「今更どうのこうの弁解する気は僕には無いよ。どう思ってもらってもかまわない、僕はそれだけのことをしたから。

  でも、これだけは聞いて欲しい。僕は、君がそう望んだからじゃないか、と思って彼を…殺したけど、それは君が気に病む事じゃない。悪いのは全面的に僕だ。彼も悪くない。兎に角、勘違いした僕が悪いんだ」

 

 どうにも自分の言っている事が支離滅裂なものにしか思えなかったし、最後まで言えないんじゃないかと思っていたけど、どうにか言えた。言い切った。

 

 だけど、まだ最後に言うべき事が一つ残っている。これはひょっとすればひょっとすればだけど、この場では言わない方がいい類の言葉かもしれない。でも、彼女に向かって何かをいえるとしたら、おそらくここが最後となるだろう。だとすれば、言わなくてはならない。絶対に。

 

 「君が好きだ。ずっと好きだったんだ、あの初めて言葉を交わした雪の日から。ずっとずっと好きだった」

 

 言った途端に、体中から力が抜けていくのをなんとか堪えなければならなかった。どっちにせよ自分は言ってしまったのだ。この酷く場違いな言葉を。もう後戻りは出来なかった。

 

 名雪はただ黙って肩を震わせていた物の、やがて祐一に身体を押し付けて再び泣き始める。その拍子に彼の身体から漏れ出てきた血液が彼女の顔や髪にべったりとくっついたが、彼女は全く気にすることは無かった。泣きながら彼女は何かを言っているみたいだったが斎藤には聞こえなかったので、もう一歩彼女の方に近づく。すると何を言っているのかが理解でき、それとともに悔恨や悲痛な感情が胸のうちからわきあがってきた。

 

 「そんなこと言われても、わたし、わからないよ。いまそんなことを言われても、わたし困るよ……」彼女は泣きながらそう呟いていた。それが彼に対する返事だった。余程祐一は彼女の心の中の比重を占めていたのか、彼女は祐一を屍骸を抱きかかえて抱きしめると、言葉を無くしてまた泣きじゃくり始めた。

 

 斎藤はただ、ああそうかくらいにしか思っていなかった。どうせ最初から叶わないような恋だったのだ、どうせならば口に出してすっきりしておきたかった感もあったかもしれない。

 

 それにしても、ああ、彼には悪い事をした。

 

 だが彼は自分の言うべき事、言いたい事を全て吐いた。それに対する彼女からの返事も帰ってきた。あとは最後の務めを果たすだけだ。

 

 それが少しの間だけでも麗しの姫君を護っていたという虚しい幻想を信じ込んでいた騎士の、最後の為すべきことだ。

 

 「………分かった。有難う。それと、ごめん」彼はそう言うと包丁をレインコートの片方のポケットに突っ込み、後ろを振り向き、公園の出口に向かって歩き始めた。顔に吹き付けてくる風が、今は妙に重々しい感じがする。 

 

 「どこに……?」泣きながら名雪が彼に向かって、鼻詰まりのような声で訊ねる。彼女の声を聞くのもこれが最後か。そう思うと心臓が引き裂かれるような感じがした。

 

 「罪を、償う」それが君の騎士としての最後の務めだからね。そう心の中で付け足して彼は歩き始めた。名雪はその様子を、既に冷たくなってきていた祐一を抱きしめながら、ただじっと見ていた。

 

 彼は公園の出口に向かって、終わりの無い苦しみの中に向かって、歩き始めていた。それが彼に課せられた為すべき事だった。これから先一体どうなるのか、彼にも予想がつかなかった。警察にでも捕まるのか、名も無き森を彷徨ったあげくに行き倒れになるのか、それとももっと悲惨な結末を辿るのか。

 

 いずれにせよ、それは彼が為しうる贖罪だった。今しがた全てを奪った者へと、思い人を奪い心に永久に消えることの無い傷を付けた騎士の姫君への、彼が行わなければならない行為だった。例え苦痛を伴うとしても、絶望と歪みに彩られた道を歩かなければならないとしても、仕方の無いことだった。

 

 それが今まで幻想に囚われていた騎士に対する世界からの仕打ちだった。

 

 行く手には先々の苦難をあらわすように暗い淀んだ空気がたちこめ、冷たく慈悲の無い風が吹き付けていた。 

 

                              <終>