Kanon  〜祈り〜

 

 

 

 名雪のお母さんが事故に遭った。

 意識不明の重体……かなり危険な状態らしい。

 次の日、名雪は学校に来なかった。

 

「相沢君……名雪は……」

 

 相沢君は黙ってかぶりを振るだけだった。悲しげな、そして少しだけ悔しそうな表情で。

 

 私は、前に名雪の家に泊まりにいったときのことを思い出していた。

 

『おはようございます、香里さん、名雪』

『おはようございます』

『うにゅ。おはようございまふ……』

『香里さん、朝御飯は洋食でいいですか?』

『あっ、はい』

『香里、お母さんの作ったイチゴジャム、ほんとにおいしいんだよっ』

『ほんとね。店で売ってるジャムよりもおいしい』

『よかったわ、香里さんに気にいってもらえて。こっちのジャムもいかがですか?』

『はい、いただきます』

『あ、香里……』

『ぶ……!』

『どうですか? 香里さん』

『……はあ、なんというか……その……独特の味わいですね』

 

 あのあと、名雪は「あんなに表情の崩れた香里を見たのは初めてだよ」っていつまでも笑ってたっけ……

 

 名雪のお母さんは、とっても優しくて、きれいで、いいひとだった。

 私は名雪のお母さんのことが大好きだった。

 

 ――お母さんは、わたしの自慢だよ――

 

 屈託のない笑顔でそう言える名雪が少し羨ましかった。自分のお母さんのことをあんなに堂々と『自慢』にできる名雪が……

 

 そのお母さんが今……

 

「香里、なにしてんだ?」

 声に気付き、顔を上げると……

「……北川君」

「まだ帰らないのか?」

 教室には私たち二人しかいない。私はひとり自分の席に座り、物思いに耽っていたのだ。

「うん……」

「……水瀬のこと、心配なんだな」

「……」

「……無責任なセリフになっちまうけど、でも……きっと大丈夫だよ」

 私は、黙ってうなずいた。

「俺はもう帰るけど……香里もいっしょに帰らないか?」

「……ごめん。私はもう少しここにいる」

「そっか……でも、暗くなる前に帰れよ。女の子なんだから、夜道の一人歩きは危ないぜ」

「ん……わかった」

「じゃあ、な」

「うん……ありがとう、北川君」

 

 北川君が帰ったあとも私はぼんやり夕日を眺めていた。

 

 ……私には、なにもできない。親友が苦しんでいるのに、なにも……

 

 どうしてだろう。名雪も、名雪のお母さんも、とってもいいひとなのに、どうしてこんな目に遭わなければいけないのだろう。

 善良な人間は幸せになって、悪人が不幸になる……なんて、そんな単純な構図で世界が回っているとは私も思ってない。

 でも、それでも……

 

『お姉ちゃん』

 

 脳裏に浮かぶのは、あの子の笑顔――

 

『わたしももうすぐお姉ちゃんと同じ制服を着れるんだよね』

 

 どうして……どうしてどうしてどうしてどうして……!

 

 ……どうして、あのひとたちが……どうして……

 

『奇跡って、起きないから奇跡っていうのよ』

 

 自分のいった言葉が、重く、悲しく、頭の中に響く。

 

 そう。奇跡は……起きないから、奇跡というのかもしれない。

 

 でも……

 

 私は、机の上で手を組み合わせ、祈った。

 神様なんて信じているわけではない。自分が祈ることによってなにかが変えられると思っているほど傲慢でもない。

 それでも、祈らずにはいられなかった。

 自分の大切なひとたちのために、祈らずにはいられなかった。

 

 奇跡は、起きないから奇跡という……そうかもしれない。

 けれど、この世界に――私たちの住むこの世界に、『奇跡』という言葉があるのは……『奇跡』という言葉が生まれたのは、きっと、だれもが『奇跡』を願っているから。信じたいから。

 

 

 

『奇跡』は、ある――そう信じたいから。

 

……だから……だから……

 

 

 

 

 プルルルルルル……

 プルルルルルルルルル……

「はい、美坂です」

『香里?』

「……名雪?」

『うん、そうだよ』

「名雪……お母さんの容体は……?」

『うん……もう大丈夫だって。意識も戻ったし、後遺症も残らないだろうって』

「……ほんとに……?」

『ほんとだよ。お医者様も奇跡だっていってたよ』

「そう……よかった……よかったね、名雪……」

『……香里。ごめんね、心配かけちゃって』

「……ううん……よかった……本当に、よかった……」

 

 

 

 

 

 

 この『奇跡』は、彼女の起こしたものではない。

 これは、夢と現実の狭間で生きるある少女と、名雪のことを心から大事に思うことのできた少年が生み出した奇跡である。

 ならば、彼女の祈りは無駄なものであったのだろうか?

 いや、違う。

 人が、大切なだれかのために願った気持ちは、決して無駄になんかならない。

 たとえ形に現れなくても、報いがなくても、その気持ちが無駄になるわけがない。

 そう――信じたい。

                        

 

 

〜fin〜

 

 

 

 

「香里、学食に行こうよ」

「うん。あっ、ちょっと待って。ねえ、名雪」

「なに?」

「もうひとりご飯をいっしょに食べたいひとがいるんだけど、いいかな?」

「うん、いいよ。でもだれなの?」

「それはね……あっ、来た来た」

「? 香里、その子は?」

「えっと、この子はね……ほら、自分で自己紹介しなさい」

「うん。美坂栞です。お姉ちゃんがいつもお世話になってます」

 

 

 

 

BGM「風の辿り着く場所」by彩菜

 

 

 

2000・7・14 あっさー

 

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