カノン  〜妹よ〜

 

 

 

 

 アイスクリームのかけらが緑の絨毯の上に落ちる。

 

「あっ」

 

 小さな木のスプーンを口に近付けたまま、相沢君が声を上げた。

 

「落としちまった」

「相変わらず祐一さんはおっちょこちょいですね」

「ん? そうか?」

「そうですよ。初めて会ったときだって、帰り道がわからないとか……」

「あれは、食い逃げしたあゆが……」

 

 相沢君と仲良く笑いあっているのは、我が妹、栞だ。

 やれやれ……

 私はふたりの熱気でアイスクリームが溶け出さないうちにと、急いでスプーンを口に運んだ。

 昼休み。私たちは学校の芝生に座り、食後のアイスクリームを楽しんでいるところだった。

 私は脳天気に笑い声を上げる相沢君の顔を盗み見ながら、ぼそっと呟いた。

 

「ったく……のんきな奴ね」

「ん? なにか言ったか、香里」

「べつにぃ」

 

 と、彼から視線を逸らす。

 ふと、さっき相沢君が落としたアイスクリームのかけらが目に入った。

 それは、春の陽射しを浴びて、はかなく消えていった……まるでひとひらの雪のように。

 私はなにもない芝生の上から目を離し、妹の……栞の無邪気な笑顔を眺めた。

 

「……」

 

 ――そう。それはまだ、この街を真っ白な雪が覆っていた頃のお話。

 相沢君の知らない、奇跡の裏側。

 それは、彼女のこんな一言から始まった。

 

 ――私、生きたい――

 

「えっ?」

 

 栞の誕生日。家に帰ってきた栞が言った言葉がそれだった。

 

「……お姉ちゃん、私、生きたいよ……」

「栞……」

「生きて、祐一さんとずっと一緒にいたい……このまま消えてしまうなんて……嫌だ」

「……」

 

 

 

 

 大きな病院の一室だった。

 白衣を着た医師が、お父さんとお母さん、そして私に向けて言った。

 

「……確かに前例はあります。ですが、そのときの患者は栞さんほど病状が悪化していませんでしたし、若い男性で体力もありました。ですが、栞さんは……」

 

 なおも医師の説明は続く。

 

「はっきり言って、たすかる確率は万にひとつ……いえ、それ以下かもしれません。それに、投薬の副作用によって栞さんが受ける苦痛は想像を絶するものでしょう。あまりこういう話はしたくありませんが……費用もかかります。

 それでも、みなさんと……そして栞さんが望むというのでしたら、私たちは全力を尽くします。

 ――どうしますか?」

 

 お父さんやお母さんが口を開くよりも早く――

 

「お願いします」

 

 私は、はっきりとそう答えていた。

 だって、栞は言ったから。

『生きたい』って、言ったから。

 

 

 

 

「投薬、明日からだね」

「……うん」

 

 白い病室。私は、ベッドから上体を起こしている栞の横で、果物ナイフ片手にリンゴの皮と格闘していた。こんなことをしたのは前の調理実習以来だ。

 

「ぷっ……お姉ちゃん、なにそれ?」

「なにって、ウサギに決まってるじゃない」

「嘘だぁ」

「嘘じゃないわよ、失礼ね。いいから食え」

 

 私は栞の口にリンゴを放り込んだ。

 

「どう?」

「……おいひぃ」

 

 シャリシャリと、栞がリンゴを噛み砕く音が響く。

 

「……ねえ、栞」

 

 窓の外を見ながら、私は言った。

 

「相沢君には……知らせなくていいの?」

 

 少し間があって。

 

「うん……祐一さんには、元気になってから会いたいの。それに……」

 

『それに、もし治療がうまくいかなかったら、また祐一さんに悲しい思いをさせちゃうから……』

 

 口には出さなかったが、私にはその声が確かに聞こえた。

 当たり前だ。

 私たちは姉妹なんだから。

 

「お姉ちゃん、私、どんなに治療が辛くっても、絶対あきらめないから」

「うん」

 

 私は優しく微笑んだ。

 

 そして、投薬が始まった。

 

 それは悪夢の始まりでもあった。

 

「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「栞ぃ!!」

 

 ベッドの上でのたうち回る栞を、数名の看護婦が必死におさえている。

 

「危ないから下がって!」

 

 医師が、お見舞いに来ていた私に向かって怒鳴った。

 その直後――

 

 ぱぁん!

 

「あっ!」

 

 めちゃくちゃに振りまわしていた栞の手が、ひとりの看護婦の頬を打った。

 

「大丈夫か!?」

「ええ……大丈夫です」

 

 その看護婦は、口の端から血を流しながらも気丈に微笑んで見せた。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 栞の叫び声は絶え間なく続く。

 

「っあぁあぁぁあぁぁぁ!……苦しい!……殺して!……もう殺して!!……ぁぁあああ!!!」

 

 その夜、私は栞の叫び声が耳について、眠ることができなかった。

 

 

 

 

 投薬を始めてから数日が経ったある日のこと。

 

「栞……アイスクリーム買ってきたよ」

 

 病室のドアを開け、私は言った。

 栞はベッドから体を起こし、窓から外を見ていた。

 

「……いらない」

 

 栞は振り向こうとさえしなかった。

 

「どうして?……大好物だったじゃない」

 

 私は袋からアイスクリームをひとつ出し、栞に手渡そうとした。

 

「いらないって言ってるでしょ」

「でも……」

「しつこいのよ!」

 

 栞はそのアイスクリームを手で払い落とした。

 

「……栞」

「もう……」

 

 シーツをぎゅっと握り締めながら、栞は続けた。

 

「もう、なにを食べても味がしないの……薬の副作用よ」

 

 シーツの上に、ぽつん、ぽつんと涙が落ちる。

 じんわりとにじんでいく涙を見つめながら、栞は肩を震わせていた。

 

「もういやよ……どうして……どうして私だけがこんな思いをしなきゃいけないの? 私、なにか悪いことでもしたの?」

「……いつか、きっと治るわよ」

「無責任なこと言わないで」

 

 栞がキッと私を睨みつけた。

 栞にそんな目を向けられたのは始めてだった。

 

「お姉ちゃん、私を無視してたじゃない。ずっと私を無視してたじゃない。まるで、もうこの世からいなくなったみたい……ううん、始めから私なんていなかったんだって顔して」

 

 痛かった。

 胸の辺りがとても痛かった。

 

「あのときみたいに……無視すればいいのよ」

「……」

 

 うつむく栞に向けて、私は言った。

 

「……栞、相沢君に会いたくないの?」

 

 ビクンと栞の体が震える.

 そして、ぼそっと呟いた。

 

「……会いたいに、決まってるじゃない」

 

 風が、カタカタと窓を揺らしていた。

 

 私は床に落ちていたアイスクリームを拾うと、黙って栞に背を向けた。

 背後から栞の声が聞こえた。

 

「……もう、来ないで……」

 

 私は病室のドアを開けると、肩越しに振り向いて言った。

 

「……明日もまた来るから」

 

 

 

 

 私はいっぱい泣いた。

 いっぱいいっぱい泣いた。

 でも、栞の前では笑顔でいた。

 だって、栞のほうが私よりも何倍も辛いのだから。

 私が泣くわけにはいかない。

 

 

 

 

 治療を初めて二ヶ月近くが過ぎ。

 栞への投薬、入院にかかる費用は、我が家のたくわえをすぐに食いつぶした。

 お父さんは仕事量を限界まで増やし、なおかつお金を借りるあてを探すため、頭を下げながら親戚の家を回った。お母さんはもともと丈夫な体ではないのだが、少しでも治療代の足しになればと、パートに出て働いている。

 だから、栞のお見舞いはもっぱら私の役目だった。

 

「……香里」

「なぁに、お父さん」

「香里、すまないが、おまえが大学に進むときのためにと貯めていたお金……」

「わかってる」

「……すまん。おまえは頭もいいのに」

「なんで謝るのよ。当然じゃない。大学なんかより、栞のほうがよっぽど大事なんだから……」

 

 

 ――それが、家族ってもんでしょ?――

 

 

 街が、空が、人々の表情が、「もうすぐ春ですよ」と口を揃えて言っている――そんな日々の中で……

 

「栞、調子はどう?」

「お姉ちゃん……うん、この頃はとっても気分がいいの」

 

 病室に入った私を、栞の穏やかな笑顔が迎えてくれる。

 だが、この二ヶ月ほどで、栞の姿は別人のように変わってしまった。

 頬はこけ、目はくぼみ、肌はカサカサで、一気に何十歳も年をとったかのようだった。手足は驚くほど細く、今にも折れてしまいそう。

 

「……」

 

 だれよ、あんた。

 

 あんたなんか知らない!

 あんたなんかが栞のわけがない!

 そう叫んで……逃げ出してしまいたかった。昔と同じように。自分の弱い心を守るため、栞の存在を自分の中から消し去って……

 私は震える膝をごまかすように、ベッドの横の椅子に腰掛けた。

 

「お姉ちゃん……」

「なに?」

「……んとね、アイスクリーム、ある?」

「ええ」

 

 私は手に下げていた袋からアイスクリームをふたつ出した。

 

「ありがとう」

 

 私たちは、ふたりでアイスクリームを食べた。

 

「お姉ちゃん」

「ん?」

「……ごめんね」

「いいのよ」

 

 その笑顔は、確かに栞のものだった。

 栞の病状は安定してきている。それは素人目にもわかった。

 春が待ち遠しかった。

 春になれば、きっと栞の病気は治る。

 そんな気がした。

 そう信じたかった。

 

「お姉ちゃん、今日ね、夢を見たの」

「ふぅん、どんな夢?」

「えっと……小さな天使さんが出てきて、その天使さんが、私の願い事をなんでもかなえてくれるって言うの」

「へえ……」

「それでね、その天使さんの顔が――」

「なによ? 笑っちゃって」

「うん。その天使さんの顔が、少しだけ祐一さんに似てたの」

「そう……」

 

 私はくすっと笑った。

 

「似合わないわね。あの相沢くんが天使だなんて」

「そんなことないよ。そんなこと言うお姉ちゃん、嫌い」

「ごめんごめん……で、栞はその天使にどんな願い事をしたの?」

「えっ? それは……それはね……」

「栞?」

「……それは……」

 

 栞の様子がおかしい。

 

「……栞? 栞!!」

 

 栞は苦しそうにあえぎながら、胸の辺りを強くおさえている。

 そして。

 白いシーツが赤く染まった。

 

「栞!!!」

 

 ナースコールを押す私の手はひどく震えていた。

 

 

 

 

 医師と看護婦たちが、病室の中をあわただしく動き回っている。

 

「――を静脈に……」

「くそっ、せっかくここまで持ちこたえたのに……」

「君、この子の親御さんが呼んでくれ」

 

 看護婦のひとりが病室を出ていった。

 

「……栞」

 

 せき込むたびに赤い液体を吐き出す栞。

 ぐにゃりと歪んだ景色の中で――

 相沢祐一。

 その名前だけが鮮明に浮き上がった。

 呼ばなきゃ。

 彼を呼ばなきゃ。

 私は、苦しむ栞に背を向け、病室から出ようと……

 

「ダァメー!!!」

 

 世界が止まった。

 医師と看護婦たちが凍りついたように動きを止めている。「この子にこんな大声を出す力なんてもう残っていないはずなのに……」と、そんなことを言いたげに。

 

「ダメ……お姉ちゃん……あの人には……」

 

 ごふっ、とせき込む。

 

「お姉ちゃん、そばにいて……お願いだから……ずっと、そばに……」

 

 そこで、栞は意識を失った。

 止まっていた時が流れ出す。

 ……栞。

 栞!

 栞!!!

 私は唇をかみ締め、床から足の裏を引き剥がすと、ゆっくり栞のほうに向き直った。

 そうだ。

 なにを勘違いしてたんだ、私は。

 この子がこんなに苦しんで、それでもここまでがんばってきたのは、相沢君にもう一度『さよなら』を言うためじゃない。

 生きるためだ。

 相沢君と、私たちと、ずっと生きていくためだ。

 

「栞!」

 

 もう逃げない。もうこの子から逃げ出さない。どんなに苦しくても、悲しくても、もうこの子から目をそらさない。

 栞。

 私の、たったひとりの妹。

 私は指を組み、祈った。

 神様。私の命なら、あげるから……全部、あげるから。どうかこの子を生きさせてあげて。一日でも長く、生きさせてあげて。

 

 

 

 

 ……春が、来た。

 

『私は反省しなければいけません』

 

『私は、医学が人の命を救うと思っていました。医学だけが、人の命を救うと。

 でも違ったんですね。

 医学が人の命を救うわけではない。本当に命を救うのは、患者さんの強い意思だったんです。生きたいという強い意思が、人の命を救うんですね。医学は……医者は、その後押しをするだけ……

 そのことを、栞さんから教わりました』

 

『もう、大丈夫です。もうすぐ彼女は退院できますよ』

 

「ほら、いってらっしゃい」

「うん。お姉ちゃんは?」

「私はいいわ。帰って寝る。今日はあんたを送るだけ」

「そっか。でも大丈夫? 勉強とか……」

「大丈夫よ。私、頭いいんだから。一ヶ月や二ヶ月学校休んでも、すぐに追いついて学年トップに返り咲くわ。そんなことより、約束してたんでしょ? 学食オゴるって。早くいかなきゃ昼休み終わっちゃうわよ」

「うん……じゃあ、いってくる」

 

 と、小走りで校門をくぐる栞。

 

「奇跡、か。本当にあるんだな……」

 

 私は呟くと、校門に背を向けようとした。

 

「お姉ちゃん!」

 

 栞が、びっくりするほどの大声で呼んでいる。

 私は振り向いた。

 見なれた校舎と、青い空を背に――栞は笑顔で言った。

 

「お姉ちゃん……ありがとう!」

 

 ……バカね。

 それはこっちのセリフよ。

 

 ありがとう、栞。

 私の妹として生まれてきてくれて、本当に……

 

 ――ありがとう――

 

 

 

                           〜FIN〜

               

 

 

 

「おい、香里」

「なに? 相沢君」

「名雪に聞いたんだけど、おまえ、医大を受験するって本当か?」

「そうよ」

「でも医大って、めちゃくちゃ難しいんじゃないのか? それに、けっこう金もかかるって聞いたぞ」

「大丈夫。私のいく医大ではね、最も優秀な成績をおさめた生徒の授業料を免除するっていう制度があるのよ」

「医大で最も優秀って……そんなの、奇跡でも起こさないと無理なんじゃねえか?」

「なに言ってんの。そんなの、あの子が起こした奇跡に比べればどうってことないわよ」

 

 

 

                          BGM「風の辿り着く場所」by彩菜

 

 

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