Kanon 〜親子の定義〜
リビングに石像があった。
「何してんだ、真琴」
石像――身を乗り出した姿勢でぴくりとも動かずにテレビを見つめていた真琴は、俺の声を聞くと、
「わっ、祐一」
ピョンとバネ仕掛けの人形のように勢いよく振り向いた。
「なんか面白いテレビでもやってんのか?」
「べ、べつにテレビなんか見てないもん!」
「嘘つけ。テレビが照れて赤面するくらい真剣に見てたじゃねえか」
とはいっても時刻はまだ三時半。ゴールデンタイムにはほど遠い。こんな時間帯にそんなに面白い番組があるとは思えないが。
「どんな番組なんだ?」
「わっ!」
俺がテレビを覗き込もうとすると、真琴は素早くテレビの電源を切った。そして俺の脇をすり抜けると、リビングを出ていく。
「なんなんだ?」
見られてはまずい番組なのだろうか。だがエッチな番組がこんな時間にやっているわけないし。
階段を上がる真琴の足音を聞きながら、俺はテレビの電源を入れた。
そこに爆乳があった。
「おおっ!?」
思わず身を乗り出した俺だったが……
「なんだ、CMかよ」
セクシータレントが缶コーヒーを持って踊っている。意味不明なCMだ。
俺は近くにあった新聞を手に取ると、テレビ欄を見た。
「えーと、今の時間でこのチャンネルはと……なんだ、ワイドショーじゃねえか」
べつに真琴があわてるような内容のものは見当たらない。
「変な奴……まあいいや、部屋に戻ろう」
俺は学校から帰ってきたばかりで制服のままだった。
階段を上がろうとしたところで玄関のドアが開いた。
「あ、秋子さん、お帰りなさい」
「ただいま、祐一さん」
秋子さんだった。買い物から帰ってきたのだ。
「ただいまー」
その後から制服姿の名雪が顔を見せた。
「お帰りなさい、名雪」
「ただいま、お母さん、祐一」
「おう、お帰り。今日は部活はどうしたんだ?」
「顧問の先生が体調悪くしちゃって、途中で中止になったんだよ」
「へえ、そっか。ラッキーだったな」
「祐一、そんなこと言うもんじゃないよ」
「そうですよ、祐一さん」
ふたりに叱られてしまった。さすが聖人親子だ。
「そ、そうですよね。ははは」
俺は逃げるように二階に上がった。
チャリン。
「おっ」
ポケットに手を伸ばす。
「これは、今日パン買ったおつりだな」
音の正体は五十円玉一枚と十円玉二枚。財布にしまうのが面倒臭くてポケットにいれておいたのだ。
「よし。これはブタさんに入れておこう」
ブタさんとは、俺が町内の福引で当てたかわいらしい貯金箱のことだ。小銭があまるとこの貯金箱に入れるようにしている。もう結構たまっているはず。いつの日か、ブタさんを割ったとき、中にいくら入っているだろう……今から楽しみだ。
俺は鼻歌なんて歌ったりしちゃいながら、部屋に入り、机の上に置いてあるブタさんの背中の割れ目に小銭を……
「なにぃ!?」
ブタさんはきえていた。
「なぜだぁ!?」
俺はナイアガラの滝のように涙を流しながら、部屋をのたうち回った。フローリングの床に落ちた小銭が悲しい音を立てる。
チャリン……
「そんな馬鹿な。確かに今日の朝までは……」
さまざまな推論が頭をよぎる。泥棒? 神隠し? 空間移転? それとも国家レベルでの陰謀か……?
「ん?」
俺は机の上にあるものを見つけた。そっとそれをつまみあげると、まじまじと眺める。
それは一本の髪の毛だった。
「謎はすべて解けた」
俺はその一瞬、自分のIQが180まで跳ね上がったのを感じた。祖父に名探偵がいるような気さえした。
「まぁこぉとぉぉぉぉぉぉぉ!」
俺は高速で真琴の部屋まで走った。時速119キロもスピード違反じゃなかった。
「わっ! わわっ!」
まさに間一髪。
真琴はブタさんを高く振り上げていた。床に叩きつけようとしていたのだ。
「こらー!」
俺は真琴の手からブタさんを取り上げた。そして叫んだ。
「おまえ、なんてことをしようとしてたんだ!」
「あぅー。ちょっと借りようとしてただけだよぅ」
「借りようだとぉ!? おまえ、この#$%=&〜!」
最後のほうは言葉にならなかった。魂の叫びだった。
「なに? どうしたの?」
騒ぎを聞きつけた名雪と秋子さんが二階に上がってきた。
「聞いてくれ、名雪! こいつが……こいつがぁぁ!」
「祐一、泣かないでよ」
俺は事情を説明した。
「真琴、ダメじゃない。祐一さんのブタさんを勝手に持っていったりしたら」
秋子さんが、いつものようにやんわりと真琴を叱りつける。
「そうだよ、真琴」
「……あぅー」
「そうだ! 人のものを盗むなんて最低だ! 鬼畜だ! 極悪人だ!」
このときの俺は完全にイッちゃってた。
そのとき、猫が一匹、真琴の頭の上に乗っかった。まるでかばうように。
この家族の一員、ぴろだ。
「あぅー……ごめんなさい」
ぴろを上に乗せたまま、頭を下げる真琴。
「なにか欲しいものでもあったの? 私、相談に乗るわよ」
秋子さんが優しく言う。聖母マリアの生まれ変わりだった。
「ダメですよ、秋子さん! こいつは肉まんが食いたかっただけなんすよ! 肉まんを食うためにブタさんを殺そうとしたんですよ!」
何度も言うが、このとき俺はイッちゃってたのだった。
結局、真琴は何も言わず、その場はお開きとなった。
次の日は土曜日で授業が午前中だけだった。
学校から帰ってきた俺は、風となっていた。
五月の初め。溶け残っていた雪もその姿を消し、道路が自転車を受け付けるようになった。俺は最近購入した愛車にまたがり、街中をあてもなく徘徊していたのだった。
そのとき。
「む?」
俺のデビルイヤーが聞き慣れた声を拾ったような気がした。
そこにあったのは保育所だった。
「むう」
あいにく幼児に知り合いはいない。が、俺は自転車にまたがったまま、電柱の影に隠れるようにして保育所の中を堀越しに覗いた。
デビルイヤーはやはり地獄耳だった。
「真琴……?」
保育所の中には真琴がいた。とはいっても、あずけられていたわけではない。
「なにやってんだ、あいつ」
真琴は保育所のネームが入った服に身を包み、保育所の子供の世話をしている。
「あぅー、ケンカしちゃだめだよぉ」
「あぅー、サトシ君、おしっこもらしちゃったよぉー」
「あぅー、あぅー……」
かなり苦労しているようだ。
「そう言えば、真琴は前に保育所で働いてたな……いつのまにかやめてたけど。もう一度働き出したのか?」
だが秋子さんはなにも言ってなかった。どうしてだろうか。
「あのー、ちょっとキミ」
「えっ?」
声のほうへ向くと、そこにはお巡りさんがいた。
「そこでなにをしてるんだい?」
「えーと、そのー」
「最近、ここらで幼児にイタズラを繰り返している男がいるらしいのだが、まさか……」
「そんなわけないじゃないですか、ア、アハハー。それじゃ」
俺は愛想笑いを残しつつ、その場から全力で離脱した。
「やれやれ、危なかった。それにしても真琴の奴、あんなに嫌がっていたバイトまでして。そんなに肉まんが食いたかったのか?」
俺は首を傾けながら、急いで家に帰った。
夕食時になって、真琴はやっと家に帰って来た。
「真琴、こんな時間までなにしてたの? お昼ご飯も食べないで」
「あぅー……ちょっと」
どうやら秋子さんは真琴のバイトのことは知らないらしい。
やれやれ。
「秋子さん、真琴は友達の家で遊んでたんですよ。その友達ってのが俺の知り合いで、秋子さんにそのことを伝えといてくれって頼まれてたんですが、すっかり忘れてました。すいません」
「あら……そうなの? 真琴」
「あぅー……うん」
「そう、それならいいわ。早く手を洗ってらっしゃい。ご飯できてるわよ」
「うん」
真琴はパタパタと洗面所のほうへ走っていった。
夕食はいつものようにうまかった。
「あぅー」
食べ終えた後、部屋に帰ろうとした俺の袖を真琴が引っ張った。
「祐一、ありがと」
「ん? ああ」
俺はぽんぽんと真琴の頭を軽く叩いた。
「気にすんな」
それにしても、真琴の奴、秋子さんに内緒にしてまでバイトして……そんなに肉まんが欲しかったのか? それともほかになにか欲しいものでもあるんだろうか。
朝。
っていうか昼だった。
「寝坊しちまった」
まあいい。今日は日曜だ。
俺はあくび混じりでベッドから抜け出すと、部屋着に着替えた。
「寝すぎたかな……」
ドアを開け、一階へ。たぶん秋子さんが昼ご飯の用意をしているだろう。
「あっ」
ちょうど真琴が部屋から出てくるところだった。
「よぉ、おまえも今起きたのか?」
「うん。昨日は疲れたから……」
それはそうだろう。慣れないことをすると疲れるものだ。
俺たちは並んでキッチンに顔を出した。
「おはよう、祐一、真琴」
名雪だった。
「おはようございます、祐一さん、真琴」
秋子さん。昼ご飯の用意をしている。
俺たちは朝のあいさつをかわした。
いつもとかわらない風景。だが。
「おや?」
テーブルの中央に、見慣れないものがあった。
薔薇だ。
花瓶に生けられた、赤い薔薇。
「それは名雪にもらったんですよ」
嬉しそうに秋子さんが微笑む。
「うん。今日は母の日だから」
【母の日】母の愛をたたえ、母に感謝する日。五月の第二日曜日。(学研 国語辞典より抜粋)
「そうか。今日は母の日だったのか」
すっかり忘れてた。
「あのぉー……」
おずおずと声をあげたのは、真琴だった。
「こ、これ……」
真琴は秋子さんのほうへ近づくと、綺麗に包装された小さな箱を差し出した。
「プレゼント……母の日の……」
なに!?
「私に?」
顔を真っ赤にしながら、大きくうなずく真琴。そのまま赤い顔を隠すようにうつむく。
「開けていい?」
首に顎をめりこますように真琴がうなずく。
秋子さんが、ゆっくりと丁寧に包装紙を開け、箱を開ける。
中に入っていたのは腕時計だった。
値段はせいぜい二〜三千円だろう。デザインも決していいとはいえない。だが……
「ありがとう、真琴」
それは、どんな高級な腕時計――ロレックスやプレミア付きのGショックなんかよりも……いや、そんなものとは比べることすらできないほど、価値のあるものだった。年棒ン億のプロ野球選手だろうが、一国の大統領だろうが、決して手に入れることができない……そんな腕時計だった。
秋子さんの笑顔がそのことを雄弁に語っていた。
俺はすべてを理解した。
真琴が食い入るように見ていたワイドショーの内容。
なぜブタさん貯金箱を割ろうとしていたのか。
秋子さんに内緒で慣れないバイトをしていたその理由。
そう。それは……
「あ、あの……」
首まで真っ赤にした真琴が、うつむいたまま口を開く。
「わたしは、秋子さんのほんとの子供じゃないけど……でも、でも、わたしは、ほんとのお母さんだと……思ってるから……だから……だから……」
尻すぼみに小さくなっていく真琴の声を聞きながら、秋子さんは何度もうなずいていた。
伝えたいことあるのだけど、その想いが大きすぎて、喉を通って言葉にならない……そんなようすだった。
「……真琴」
優しく、限りなく優しく、秋子さんはその名前を呼んだ。
数歩近づき、真琴をそっと包み込む。
「ありがとう……私も、真琴のこと、本当の娘だと思っているわ」
真琴が顔を上げる。
嬉しさと、安心感と、愛しさと……人間が人間であることを素晴らしいと思えるすべての感情を内包したような笑顔。それがふたつ。
もし『世界笑顔選手権』なんてものがあれば、間違いなくワンツーフィ二ッシュを決めているだろう。そんな笑顔を見ながら俺は……
ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
罪悪感に苛まれてた。
『最低だ』『鬼畜だ』『極悪人だ』
それは俺だった。
ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
今の状況を見て、どちらが最低で鬼畜で極悪人かは大岡越前でなくても一目瞭然だった。判決は打ち首拷問。ひったてえぃ。
心の中の俺が泣きながら役人に連れていかれた。
「秋子さん……あの……」
「なぁに?」
「お母さん……って呼んでもいい?」
「ええ、もちろんよ」
そのとき、心の中の俺は拷問されていた。
「わたしのことも『お姉ちゃん』って呼んでね、真琴」
目尻に涙をひっつけた名雪が言う。
「うん。名雪……お姉ちゃん」
そのとき、心の中の俺は役人に命乞いをしていた。
はっ、と我に返った俺は、真琴のほうに近付き、慌てて言った。
「ま、真琴! 俺のことを『お兄ちゃん』って呼んでくれちゃったりなんかしたりしても俺は一向にかまわないぞ!」
「イヤ」
がはぁ!
やはり打ち首か……
うなだれる俺に向けて、真琴は輝くような笑顔で言った。
「だって祐一は、わたしのお婿さんだから」
~fin~
「あら、水瀬さん」
「あ、向かいの奥さん、おはようございます」
「おはよう。今からお仕事?」
「ええ」
「そうなの。それにしても今日も綺麗ねぇ。うらやましわ」
「いえいえ。そんなことありませんよ」
「あら?……失礼なこと言うかもしれないけど、その腕時計、ちょっとその服装と合ってないんじゃないかしら。前にしてらした腕時計はどうしたの? なくしたとか?」
「いえ。この腕時計は、母の日に『娘』からもらったものなんです。私の一番大切な宝物なんですよ」
BGM「風の辿り着く場所」by彩菜