「暇だな…名雪」
 居間のソファに仰向けに寝転びながら、チャンネルスキャンのかかっているテレビを見やる。
 人によってはゴールデンタイムも、俺にとっては眠気すら誘ってくれない。
「ひまだね……ふ、ふわぁ……」
 同じようにソファの上で、うつぶせになって片手だけぶらぶらさせていた名雪が同じ返事を返す。
 欠伸はしていたが、さすがの名雪も寝るのに飽きたらしい。まぁ、このところ起きてるより寝てる時間の方が多いからな。
 夕食の準備でも手伝えばいいところなのだろうが、それにはまだ時間があるし、何より秋子さんの手際に俺が手伝える隙はほとんど無い。
 で、とりたてて趣味もなく、年度末の飲み会続きで金銭的な余裕も無い大学生はこうして待ったりしているのだが…
 ばたん!
「ただいまーっ」
 
ALGOL PRESENTS


イーハトーブの風

 どたどたどた……。
「真琴、うがいしなくちゃダメよ」
「はーいっ」
 どたどたどた…。
 まもなく洗面台からだろう、水の音が聞こえる。
「また水出しっぱなしでうがいしてやがるのか. もっと気を使えってんだ」
 どたどたどた…
「おかーさん、のどあめのどあめ!」
「はい。…今日で、これも最後かしら」
 秋子さんが、棚から小さなジャム瓶を取り出す。
 なんでも蜂蜜に色々な漢方を混ぜ合わせた、自家製の喉飴、らしい。
「うわ、やっぱり不思議な味」
「やっぱりこれで空みたいね」
 そんな様子を寝そべったまま眺めていると、視線に気付いたのかスプーンを口に入れたまま振り返る。
「あーっ、また祐一だらけてるーっ! もっとしゃんとしないさいよ!」 
 途端、加えたスプーンが音を立てて床に落ちる。
 あうー、と情けない声を上げてそれを拾って流しに置く真琴。
 見た目、まさにイソップ童話の動物。
「うるさいな、長い受験勉強の苦痛の末手に入れた自由だ、満喫させろよ。ついでにマンガも頼む」
「働かざるものくうべからずっ。きのうもおとといも、そうやってだらーっとしてただけじゃない」
「あんまり大きな声出すと、明日歌えなくなるよ……」
 思わぬ名雪の援護に、真琴の勢いが弱まり、俺はニヤリとする。
「そうだぞ、俺たちも聞きに行くんだから、恥ずかしい真似はするんじゃないぞ」
「祐一は来なくたっていいわよぉ。別に用はないんでしょ」
「いや、天野の見送りはしたいからな」
 天野の名前を出されて真琴の反論は完全に止まる。
 ふふ、この理由には手の出しようがあるまい。
「ふ、ふん、今日のところは祐一をいい気にさせておいてあげるわ。明日以降は覚悟しないさいよ」
「ストレスを溜め込むと、肌に悪いぞ」
「余計なお世話よぉっ」
「ぐお」



§


「真琴、卒業式の合唱で、ソロ部分歌えって指名されたの…」
 俺たちの大学進学と同時に、俺たちの高校へ進んだ真琴。
 テスト前でも無いのに沈んだ顔をして帰ってきたのは、約2週間前のことだった。
「合唱?」
 俺の問いに、名雪が説明をはじめる。
 俺たちの卒業の時はたまたまなかったが、通常の年は、1年生が式で卒業生相手に合唱をするらしい。
「また中学校みたいなことしなくても……」
「うちの高校の芸術教科は音楽だから。授業の締めくくりとしてやるんだよ」
「なるほど」
 俺の高校は美術だったから、適当な絵を出して済ませた記憶がある。
 とりあえず理由不明で評定は4をくれたから、ここに1年から通わなくてよかったのかもしれない。
 合唱といえば居残り練習女子との対立は基本セットだし、この歳になってまで青春ドラマは勘弁だった。
「先生、何度も合唱部をコンクールで賞取らせてるから、卒業式の合唱も評判いいんだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ。真琴、すごいじゃない」
「あうー、でも」
 他のクラスは話し合いで決定のところ、真琴は音楽教師じきじきに指名されたそうだ。
 当然真琴に拒否権などあるわけもなく一発決定。
 まぁこんな役、普通の奴はできれば避けたいだろうからな。
「目立とうと思ってでかい声張り上げてたんじゃないのか?」
「ちがうわよぉ…」
「祐一、真琴はそんなことしないよ」
「うん、だけどねおねえちゃん、それでも真琴が歌えって…」
「だいじょうぶ、ふぁいとっ、だよ」
 ……。
 毎日のように罵声怒声悲鳴を聞いている俺としては、真琴の声は飯塚真弓よりむしろ宮村優子のほうがいいと思うのだが音楽教師にはその辺の事情などわかるまい。
「……祐一、“まにあっく”だよ…」
「うぉ!」
 また地の文を読むとは……やるな名雪。
 ついでに今のがなんだか分かってしまう名雪も相当マニアックだとは思うが後が怖いので突っ込むのはやめておく。怖いのは無論秋子さんだが。
「でソロって、何百人の中一人で歌うのか?」
「ううん、各クラス一人づつなんだけどぉ……」
「それなら多少失敗してもばれないだろ。諦めろ」
「あうー、真琴、できるかなぁ…」
「大丈夫よ。音楽の先生が指名してくれたんでしょう、安心していつも通り歌えばいいのよ」
「あぅ…」
 今回ばかりは、秋子さんの七光りも効果覿面とは行かないようだった。
 まぁ元から真琴は人見知り激しかったしな。



§


 それから、短縮授業の時期でも日が落ちかけた頃に真琴は帰ってくるようになった。
 全体練習以外に、居残ってとっくんがあるようだった。
 俺たちが追い出しコンパにでる頃、玄関で鉢合わせたりして。
 それでも鬱めいた顔をしていたのは数日間で、後は喉に神経使うようになったほかは、今日のように元気よく帰ってくるようになったというわけだ。
 そして、その本番は明日卒業式。
 真琴にとっては、1番の友達、天野を送り出す式でもあるはずだった。
「おかーさん、ばんごはんと明日の朝ごはんはいい声が出る料理お願いね!」
「はいはい」
「無茶言うな。そんな料理出せるか」
「なによ祐一。明日は大事な真琴の“はれぶたい”なんだから邪魔しないでくれる!」
「ついこないだまで、肉まんだって喉を通らなかった分際で」
「だからどうなのよぉっ!」
 どげしっ!
「お……ぐ……」
 くそ、真琴のやつどこで学んだか知らないが、最近パンチの威力が増してやがる。
 そういや公園で、みちるとかいう園児とツープラトンで殴られたこともあったなぁ……。
 若干香ってきた今日の夕食のにおいを感じつつ、今日はそんなに食えないだろうなと思って俺はくの字に床へ沈んだ。


§


「栞、あなたもとうとう卒業ね。……私あなたの姉でよかったわぁ……」
「お姉ちゃん泣かないで。ちょっと大げさです…」
「大げさなんかじゃないわよ。いい、苦しかったら早めに回りに声をかけるのよ、倒れた方がよっぽど始末が悪いわ」
「もうそんなことないってば」
 翌日。
 入り口でおざなりな記帳をした俺たちは軽く旧担任と話したあと、参観者控え室に入って、栞と香里の掛け合いを見ていた。
 いや、正確には香里のシスコン具合を。
「卒業生、こんなところにいていいのか?」
「最後のHRが始まるまでは特に何もありませんから」
「祐一、私たちの卒業だってたった一年前のことだよ……忘れたの?」
「いや、なんとなく」
 俺とあっていたころの病気の影もなく、背も少しのびた栞が楽しそうに笑う。
 出席日数が明らかに足りなかったにもかかわらず、栞は俺の一個後輩として、2年に進級してきた。
 そして今日、晴れて卒業式に臨む。卒業後の進路に大学進学を選んだのは、俺たちと変わらない。
「それより祐一さん達はどんな御用です? 誰か、見送る人がいるんですか?」
「名雪は陸上の後輩を。俺は天野の卒業を祝いにも来たが、合唱を聞きに来たんだ」
「そうなんですか。じゃあ、じっくり聞いてってくださいね」
「……そろそろ時間ね。胸張って式に臨んで」
「…うん」
 プルルルル…。
「あ、健二から」
 最後に栞を抱きしめようとした香里を前につんのめらせて、栞が制服のポケットから携帯を取り出した。
「…うん、もう少しで始まるから。終わってちょっと話していくから、集合2時ぐらい。え? だから大丈夫だって、ちゃんといい子そろえるから……」
 ピ。
「し・お・り? 式の最中に鳴り出さないように、電源切っておいたわ」
「ヒッ!」
「わ、香里、目が素だよ…」
 祝賀ムード一転突如地の底から湧き出るような香里の声と、さっきを感じた栞の悲鳴が場を支配する。
 とりあえず、俺は怖くて香里の顔は窺えない。
「栞、そろそろ教室に戻った方がいいんじゃないか、ここは危険そうだし」
「は、はい、指が痛いです…。それじゃ終わったあとに」
 慌てて栞が部屋から出て行く。
「まったく、元気になって普通の女子高生してくれるのはいいんだけれど、他校に彼氏作って遊び歩くのは勘弁して欲しいもんだわ…」
 香里の言うとおり、学校に復帰した栞は生死の境をさまよっていた病人だったとは思えないような学校生活を送った。
 昔の栞を知る俺としては、他校の男と付き合うほどの器量が栞にあったことは、一種感動さえ覚える驚きだった。
「香里、会う度にいっつもそれ言ってるよ…」
「言いたくもなるわよ。全く、まだ前期日程の結果出てないのに、どうしてああのんきでいられるのかしら…」
「そんなに保護者気取らなくてもいいだろ、美坂」
「北川くんも下がいれば分かるわよ。世間知らずなのに」
「まぁ北川、行き遅れの姉の心境なんてそんなもんだ」
「……相沢君。この体育館の裏には乾くことの無い赤い染みがある壁があってね…」
「わ、香里。右手から何か立ち上ってるよ」



§



「あ、栞ちゃん入って来たよ」
「そうみたいだな」
 若干腫れた後頭部を撫でながら、俺は名雪の視線の先を見た。
「真琴が見えないな、どこだ」
「合唱のときには、合唱隊形に並び替えるんだよ」
 やがて、一同起立、とピアノの和音で、式が始まった。
「校長の話、俺たちのときより短いぞ」
「そりゃ6人も倒れたもの、責任感じてるんじゃない?」
「全くひどい話だな」
 証書授与の奴が、時折パフォーマンスをして開場を沸かせ、
 聞いたことの無い中学校と政治家からの電報が読み上げられて、
 送辞と答辞が交わされて。
 式は、滞りなく進んだ。
『在校生、卒業生、起立』
「始まりますね」
「ええ」
 音を立てて一斉に椅子が動く。
 そして、静寂の中、真琴が他の生徒と共に在校生の集団の前に、歩んできた。



 金色に輝く峰や 魚たち上る川
 果てしない草原にいるとき 不思議さに身を包まれる
 今頬 掠め 吹きぬけた あの風はぼくたちが
 生まれ来る 遥かな岸から 吹いてきた風なんだね




 全員合唱が始まった。
 もう、手元のパンフレットの歌詞に目を落とさなくても、分かる。
 ときどき俺に煙たがられながらも、名雪に応援されながら真琴が歌った。
 暗示するような。
 本当は、他県の、イベントのためにできたこの曲の歌詞、一つ一つが。


 イーハトーブっていうのは宮沢賢治が名づけた、理想郷の名前だっけか。
 命の誕生年を含んだ歌詞は、学校に冷めた俺をも、しばし魅了した。
「ほら、またソロのパートだよ」
 名雪の声で、ふと我に還る。
 やばい、柄にもなく物思いなんてしていたら、肝心のところを目に焼き付けるのを忘れていた。
 初めて聞く、生の、間奏部分。
 家でも何度も聞いた、そのあとの短い歌詞。
 少し謝罪の気持ちも篭めて、俺は、真琴の顔に、制服を着て立つ姿に、見入った。



 ぼくらは 束の間の旅人 そのことを教えてくれた


 風よ吹け 恵みを運んで 歌うように明日も
 風よ吹け 恵みを運んで 歌うように明日も




 呼び声に誘われて、覆うように響く大きな風。
 夕暮れの物見の丘を抜けるような、そんな情景が浮かんだ。
 ……そうだったよな、真琴。
 お前は、最初は、束の間の旅人のように何もかも持たずに、俺の前から駆け抜けて行ったよな。
 けれど、風は、もう一度お前を運んでくれたよな。
 今度は家族として。
 もう、俺の前を通り抜けていかない、水瀬真琴として。


 奇跡で助かる事件はあっても、舞台に奇跡はない。
 裏にどんな美談があっても、練習の無い歌声なんてない。 
 だから、素晴らしかった。
「…私達のときより、ずっとうまいね、香里」
「そうね。今年の1年生は真面目なのかしら。あの熱海の指導に耐え切るなんて」
 万来の拍手の隣で交わされる二人の会話も、どこか遠い世界のことのように、俺の耳には聞こえていた。



§



「疲れた? 真琴」
「うん、緊張したの」
 式が終わって、栞と話し、殺意にまた目覚めた香里をなだめ、何で声をかけてくれなかったのかとむくれる天野をこれまたなだめ、真琴とともに俺たち4人は帰途に着いた。
「うちの学校は、設営が一年生、片付けは2年生の仕事だからよかったよね。一緒に帰れて」 
「うんっ」
 緊張していたというわりに、真琴の声はいつもと同じで元気だった。
 思わず、目を細めてしまう。
「お前の声、よく聞こえたぞ」
「ま、真琴、音程外してたのぉ?」
 激しく動揺する真琴。おっと、誤解で泣いてもらっちゃ困るからな。
 俺は真琴の頭に手を置くと、やや強めに撫でた。
「違う、何人歌っていても、お前の声が綺麗に通っていたってことだ。音楽教師の言うとおりだ」 
「そうなの?」
「ああ。俺は、あそこまで熱心には歌えないぞ。よく頑張ったな」
「そっか……うん、やって、よかった」
 頬を赤らめ、目と閉じて、独り言のようにそう漏らす真琴。
 こうしているときは可愛い奴だ。
 きっといい想い出になっただろう。
 想い出、か。
 思い出せば、何かに使えること、今でも話の種になることってみんな中高の時に経験したことだ。


 俺は真琴に、やっと勝ち取った自由、なんて言ったけれど、
 その自由は、ただ何もやることが無いだけだった。
 子供の頃憧れた制服も酒も煙草も運転もみなしたけれど。
 大学は人生のモラトリアムというけれど。
 今過ごしている時間は、後で、思い出せる何かが残るだろうか?
 死ぬほどの緊張や、眠れなくなるほどの興奮、歓声の中の充実感。
 真琴が今日までに得たようなものを、思い出せるだろうか?


「……あれから、僕たちは、何かを信じて来れたかなぁ…」
「ん、祐一、何歌ってるの?」
「ちょっとな」
「なによ、教えてくれたっていいじゃない。あ、そっかっ、音痴だから聞かれたくないのよねーっ」
「何だと?」
「ふーんだ。祐一は一回でも『そろ』で歌ったことあるわけ?」
「カラオケじゃいつもソロだ、馬鹿にしてるのか?」
「じゃあ、今日はこれから4人でカラオケにでも行ってみます?」
「はい? 秋子さん?」
「真琴、喉は大丈夫?」
「だいじょーぶっ」
「うん、わたしも久しぶりに行きたいよ」
「祐一さん、いいですよね?」
「は、はあ…」
「決まりね」
 いつも通りの即決。


 ……そうだな。
 自分の努力で何とかしなきゃいけない思い出はあとで考えるとして、4人の想い出を、今は優先させようか。


「採点機能ありでねーっ。祐一の音痴を暴いてあげるから」
「ろくに歌ったことも無いくせに、その台詞後悔させてやる」
「ふふ、楽しみだわ」
「………ところで名雪、秋子さんってどんなの歌うんだ?」
「さぁ? わたし、一度も歌っているの見たことないよ」
「どりょーく、みらい、あびゅーてぃふるすたー♪」
「最初はこの前あの坊やに書いてあげた曲にしようかしら…」






――あの頃の未来に ぼくらは立ってるのかなぁ……






あとがきへ。

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