ALGOL PRESENTS


 帰路

 
 
 お母さんがなんだか変だ。
 真琴がいなくなってから
 ずっと悲しそうな表情で。
 わたしが話しかけるといつものような表情を見せる。
 いつもの、ような。
 そう、決して「いつも」じゃない。
 祐一も元気がない。
 ふと気付くと、家の中が本当に暗くなった気がする。
 
 
「ただいま」
 そんなことを考えていると、祐一が帰ってきた。
 玄関まで出ていくと、祐一は見なれない包みを持ってた。
「ぷれせんと」
 そのまま包みは私の手の中に来た。
 祐一がわたしにプレゼントするなんて…
「祐一、何かやましいことしてない?」
 何か、わたしに悪いこと隠してるような気がするよ。
「いや、ぜんぜん、な〜んにも」
「すっごく怪しいよ…」
「ちなみに中身はイチゴショートだ」
 ……。
 ま、いっか。
 後できこっと。
 
 
「名雪」
 晩ご飯を食べているとき、お母さんがわたしの名前を呼んだ。
「ケーキ食べた後でいいから、ちょっとお話しましょうね」
 お母さんの目は、笑ってなかった。
 怖い。
 何にも悪いことなんかしてないのに。
 怖いよ。
 お説教される前ってこんな空気なのかな。
 わたしには、はじめてだった。
 
 
 そう。
 お母さんが、怖いくらい真剣な顔を、わたしに見せたのは…。
 
 
 
 
 テーブルに向かい合って。
 わたしはお母さんの口が開くのを、ただただ待っていた。
 ふたりっきり。
 こんなに痛い二人っきりは、なかった。
 こんなに長い時間は、なかった。
「名雪」
 お母さんが、また、わたしの名前を呼んだ。
「もう、嘘はつけないわ」
 嘘?
 わたし嘘なんかついてないよ。
「ずっと隠しておこうと思ったけど、無理ね」
 わたしは、その言葉で気付いた。
 嘘をついてたのは、
 お母さんだ。
「名雪」
 また、わたしの名前が呼ばれた。
「落ちついて、聞いてちょうだいね」
 顔を伏せた。
 嫌だよ。
 何が話されるのかぜんぜんわからないけど、とにかく、聞いちゃいけない気がした。
 でもそう言えなくて。
 お母さんが話し出すのを、許してしまった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 わたしは階段を駈けあがった。
 駈けあがってのは気分だけで、実は足がもつれて、ちっとも進んでいなかっただろう。
 わたしは祐一の部屋のドアの前についた。
 足があちこち痛む。
 わたしは祐一の部屋のドアの前についた。
 でも、そこでどうすることも出来なかった。
 ノックでもすればいい。
 わたしなら、黙って開けて入っても許されるだろう。
 でも、なにもしなかった。
 ただ、祐一が開けてくれるのを待っていた。
 
 
 怖かったから。
 もし、
「とんとん」
 とノックして、
 中からなにも返ってこなかったら、
 どうすればいいのかわからなかったから。
 
 
 中に灯りがついてるのかもわからない。
 家のドアはそれほどぴったりしてる。
 
 しばらく、扉の前で、じっと、立っていた。
 
 
 疲れ果てて、わたしは自分の部屋に戻った。
 こんなに近くにいるのに、
 歩いて十歩とかからないのに、
「ゆういち…」
 わたしに、会いに来てよ。
 
 
 
 とんとん。
 出し抜けにドアが叩かれた。
 ぼんやりしていたわたしは、一瞬何をすればいいのかわからなくて、動けなかった。
「名雪、もう寝てるのか?」
 声でわたしは跳ねた。
 祐一だ。
 ドアに行き、前に立っていた祐一を、強引に部屋のなかに入れた。
 祐一も入る気だったのか、特に驚いたそぶりは見せなかった。
 
 
「名雪、その、なんだ…」
 照れたように頭を掻き続ける祐一。
 こんなシャイな祐一、はじめて見たよ。
「実は今日のケーキは…」
「やっぱりお詫び?」
 少し目をねこさんのように細くして、わたしは祐一に聞いた。
「そう、なんだが、その…」
 すごく言いにくそうだ。
「大丈夫、そんなにひどい事じゃなかったら、ケーキももらったし怒ったりしないよ」
 逆に、ひどい事だったら怒るんだけど。
 もうすっかり、さっきの不安は消えていた。
「その…七年前、ごめんな」
「え?」
「ほら、七年前…駅のベンチで…」
「……」
「俺が名雪の作った雪うさぎ壊しちゃったことが、あっただろ」
 
 
 
 
 
 そう、祐一がこの街にこなくなったちょうど七年前。
 慰めに言った私が送った雪うさぎを、祐一は目の前であっけなく壊してみせた。
 今考えれば、なんて無神経だったのだろう。
 好きになった女の子を目の前で失ってぼろぼろになっている祐一に、好きだなんて伝えて効果なんかあるわけなかった。
 今だったら、傷心に付けこむ、なんて言葉で表現されるかも知れない。
 半分は罪悪感を感じていた。
 だから祐一に、ことあるごとにほのめかした。
 逆説的だけど、祐一が自分であのこを思い出して、気持ちを整理してくれる様に。
 そして今日、祐一は思い出したんだ。
 何がきっかけかはわからないけど。
 
 
「今日のはそのお詫びってことで…」
「別に謝るほどのことじゃないよ」
 祐一が、七年間のブランクを取り戻したんだもん。
 お祝い、だよ。
 
 
 
 
 
「あやまるほどのことじゃない」
 次の瞬間、
 自分で言った言葉に、殴られた。
 さっきのお母さんのことばが、振り子が揺り戻ったように、やってきた。
 
 
 謝ることのないことを、謝りに来た。
 
 
「名雪…そしてな、もう一つ謝ることがあるんだ」
 祐一が喋ってる。
 
 
「正直に、いう」
 
 
「実は…」
 
 
 いやだよ。
 ききたくないよ。
 今度は、本人の口から?
 
 
「祐一さんはね…」
 
 
 
 
 
 
 
「ほんとはここにはいないんだ」
 
 
 
 
 
 
 
―俺は、ほんとはここにいないんだ
―今ごろ…海の底かもな
―でも、名雪に、ひとこと謝りたくて
―ほんとに悪いとおもったから…
―めちゃくちゃ遅くなったけど、
―七年前、ごめんな
―それだけ言いたくて、戻ってきた
 
 
 
 
 
―そして、今日でめでたく期限切れなんだ。
 
 
「いやだよ…そしたらわたし、また、お母さんと二人ぼっちだよ?」
「大丈夫、名雪は強いよ。七年間も俺を待ってて、あのことだってずっと隠しててくれたじゃないか」
「祐一、いやだよ、嘘だって言ってよ、許さないよ」
「……許してくれ」
「イチゴサンデーでだって許してあげないよ」
「そいつは困ったな…」
 
 
―でも、ダメだわ、じゃあな
 
 
 アニメみたいに、ぼんやりと薄くなって、なんて美しくなんかない。
 ぱっと、目の前から姿が消えた。
 幻覚でも見てたように。
 
 
 わたしは、はしった。
 祐一の部屋のドアをばんと開けた。
 真っ暗だった。
 カーテンも引いてない部屋には、お母さんが買ったベットと本棚と机が残っていて、
 祐一の鞄やマンガや服はそっくりなかった。
 祐一が来る前の、部屋。
 
 
 わたしは部屋の入り口付近でへたり込んだ。
 からだががたがたしていた。
 おばけでも見たように、恐くて、怖くて。
 いない人と話していたからかもしれない。
 金縛りみたいにからだは動かなくて。
 涙がこぼれてきたからとりあえず泣いて。
 
 真っ暗な部屋。
 嘘だった部屋。
「祐一…祐一……」
 いなかった人。
 ほんの少し前まで一緒にご飯を食べて、わたしの部屋でお話していた人。
「ゆういち…ゆういちぃ………」
 自分に爪を立てて、ぶるぶる震えて、涙も流して。
 わたしは、一人ぼっちで、祐一の部屋にいた。
 
 
 
 
 
「……秋子さん」
「祐一さんですか」
 俺は、秋子さんの寝室に身を置いていた。
「寝室に押しかけて申し訳ありません」
「そんなに他人行儀じゃなくていいのよ」
「…名雪には、俺から話しました」
「そう」
「……辛い思いをさせてしまって、申し訳ないです」
「……気にしなくていいわ」
「……すみません」
「……」
「……」
「じゃあ、俺は、これで」
 俺はドアノブに手を掛けかけた。
「駄目です」
「秋子さん?」
 秋子さんが、俺の腕をしかと掴んでいた。
「あなたを行かせません」
「……わかってます、でも」
 俺は向こうを見ずに言い切った。
「こればっかりは、絶対に無理なんです」
「だめです」
「秋子さんっ、これ以上は、ふたりとも辛くなるだけですッ」
 俺は言葉を叩きつけた。もう、これ以上、辛い想いはごめんだった。
「お願いです、黙って、行かせてください…」
「私はまだ、あなたとの約束を果たしてません」
 約束?
「あなたを元気なあゆちゃんに会わせてあげると言う約束を、私はまだ果たしてません」
 約束?
「覚えてる?祐一『くん』」
 
 
 
 
 
 
 
 半分泣いた名雪を連れて、ぼくはお父さんとお母さんの元に戻った。
 すぐにでもいなくなりたかった。
 もう二度と、くるもんか。
 もう二度と…もう二度と…あゆとは…
 その時名雪のお母さん、秋子さんがぼくの手を取った。
 
 
 
―祐一くん
―私が約束するわ
―絶対にあゆちゃんはよくなる
―もう一度この街にいらっしゃい、元気なあゆちゃんに会わせてあげるから……
 
 
 
「私にあの約束を果たさせてください、だから、まだ戻すわけには行きません」
「秋子さんっ…」
 そう。
 ぼくは。
 まだ、行けないんだ。
 でも、視界は急にぼやけてきた。
「祐一くんっ」
 俺の腕がぎりぎりと痛む。すごい力だ。
 秋子さんが、俺を繋ぎとめようとしている。
「俺は、俺はッ…!」
 そこまでが声だった。
 
 
 
 
 
 
 
 うしろからそっと腕が回される感覚があった。
 おかあさん。
 私はでも、ただしゃっくり上げるだけで、なにも言えなかった。
「ここは寒いわ」
 声が、出ない。
「一人で寝られる?」
 返事を聞かずに、おかあさんは私をだっこした。
「じゃあ今日は、一緒にねましょうか」
 
 
 
 とん、とん、とん、
 おかあさんにだっこされたまま階段を降りる。
 私だってもうそんなに軽くないだろうに、おかあさんは重そうなかおひとつしなかった。
 ベットにつくと、私はおかあさんに抱きついた。
 こわかった。
 おかあさんといっしょににいないとおばけにたべられちゃうようなきがして、
 おかあさんのにおい。
 おかあさんのあったかさ。
 おかあさんがそこにいる。
 それだけがたよりだった。
 ずっと私をおかあさんは正面から抱きしめていてくれた。
 
 
―名雪…
 お母さんの声だ。
―私だって忘れていたかった。
 独り言…?
―祐一さんがずっとここにいるんだって思いたかった、思っていた。
―でもね、真琴がいなくなって、思い出してしまったの。
―どんなに頑張っても、いつかは、いつかは、別れがやってくるんだって…。
 あったかい水が、頬にかかった。
―ごめんね。名雪…。
 心臓が、搾られるように痛くなった。
 私はおかあさんを抱いてあげた。
 
 
 おかあさん。
 
 
 また、ふたりっきりだね………
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ずっとたって、リビングで電話が鳴った。
 
 
 
 おかあさんが立ってリビングに歩いていく。
 しがみついたまま、ふらつく足で私も付いて行った。
 とても一人でなんていれなかった。
 
 
 会話の内容なんて聞こえてもわからない。
 眠いのと怖いのが入り混じった頭では。
 かたんっ
 受話器が置かれた。
「名雪…」
 お母さんが私を向いた。
「今連絡があって」
 
 
 
 
 
 
 
―ちょっと前にエンジントラブルした飛行機が、海に不時着した事故があったでしょう。
―その事故で、近くを通りかかった客船に救助されていた親子がいたんだけど
―その中の高校生の男の子がね…
―向こうの時間で今朝、意識を取り戻したんって…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 神さまなんてだいきらいになった。
 名雪なんか大嫌いになった。
 あの街だって大嫌いになった。
 全てが大嫌いだった。
 
 
 
 
 
 七年間、ぼくは人形の様に過ごしていた。
 誰にも干渉せず、感情も出さずいじめられることも無いが一人ぼっちで。
 ほとんど言葉を喋った記憶もない。
 心配したおとうさんとおかあさんは、ぼくを海外のカウンセラーに見せようと日本を離れる決意をした。
 ぼくは喜んだ。
 あの町から遠く離れられるんだったらどこでもいいと思った。
 でも、ぼくの乗った飛行機は空の上で大きく傾いた。
 そして、見ていた窓のほうで、エンジンが火を吹いた。
 正直、ダメだと思った。
 その瞬間までは、いつこの世からいなくなったってぜんぜん構いやしないと思ってた。
 でも、落ちていく飛行機の中でぼくが必死に考えたのは
 名雪に会いたい。
 名雪にあやまりたい。
 それだけだった。
 
 
 そして気がついたら電話口だった。
 ぼくは高校生で、名雪達のすむ街に転校することになっていて、荷物を送っていた。
 決められていた通り、ぼくは、あの街に向かった。
 あの事故の日付はとっくに過ぎてて、両親はどちらとももういなかった。
 もっとも、そのときはそんな事は知らずに過ごしてたのだけど。
 
 
 
 でも、ぼくが会わなきゃ行けないのは名雪だけじゃなかった。
 もっと多くの人が、ぼくを待っていた。
 秋子さん。
 あゆ。
 そして…真琴。
 
 
 帰らなきゃいけなかった。
 
 
 あの時、秋子さんが必死にぼくの腕を掴んでくれなかったら、
 俺はどうなっていただろう。
 
 
 
 
 
 そして、俺は帰って来た。
 
 
 
 
 白い遠景がどこまでも続いていた。
 窓の外の景色はまだ春には遠くて、ベッドの傍に置かれた花だけが彩りを添えていた。
 この質のよくないベットの目覚めは、そろそろ勘弁してほしかった。
「おはよう、祐一」
 ぽすんとベッドのふちに、何かが飛び乗ってきた。
「………」
「だめだよ祐一。朝はちゃんと『おはようございます』だよ」
「………俺、夢の世界に帰る」
「わっ、祐一だめだよ」
 青い髪のいとこの少女は、手荒に俺のくびを締め上げた。
「祐一、起きるんだよっ」
「く、く…」
 俺の顔が変色したのか、名雪が慌てて手を放した。
「名雪っ、少しは手加減しろ、まだ回復してないんだぞっ!」
 無論、回復したときでも絶対にやって欲しくない。
「…ごめん」
「ごめんですむかっ!」
「元気そうですね」
 病室のドアをかちゃりと開け、秋子さんが入ってきた。
 ここは、日本の病院。名雪達の住む、そして俺が住むことになる街の病院だった。
 海外より日本へ。
 無茶以外の何物でもない要求をして、俺はここにやってきた。
「もうすぐ退院ですね」
「ほんと、病院はいるところじゃないです」
 秋子さんの手料理になれた舌には、食事は非常に堪えた。
「『また』ご厄介になります」
「よろしくね、祐一」
 名雪が破顔して俺を見つめる。
「今度は、どこにもいっちゃだめだよ」
「わかった、家に引きこもって学校にも行かない」
「祐一、極端だよ…」
 くだらない会話の間、名雪の顔から笑みが途絶えることはなかった。
「今日はお客さんを連れてきました」
 会話の間を見計らって、秋子さんが話だした。
「俺に…ですか?」
「入って」
 秋子さんの声を合図に、見なれない女の子が入ってきた。
「………」
 やたらともじもじして、入り口から踏み出してくる気配がない。
「あの…」
 俺はとりあえず話しかけてみた。
「うぐぅ…やっぱりだめだよ、秋子さん…」
「あゆかッ!」
 俺は動ける上半身だけ跳ね起きた。
「祐一くん、覚えててくれたんだねっ!」
 さっきまでの硬直が嘘のようにあゆが突っ込んできた。
 その勢いを肩に受けながら、俺はあゆを抱きしめた。
「あゆちゃんは祐一さんと同じ日に目覚めて、昨日退院したんですよ」
 秋子さんが説明をはじめた。
「そして…」
「わかってます、明日から、一緒に暮らすんですよね」
 秋子さんが珍しい驚きの表情を見せた。
 でも察しはついた。
 七年前のあの日に、あゆの母親は亡くなっていた。
 あゆからついぞ父親の話が出なかったところから、父親は『いない』に違いなかった。
「ええ、そうですよ…やっぱり、食事は賑やかな方が楽しいですから」
 裏ではかり知れない苦労があったろうに、秋子さんはそれを感じさせない調子で、微笑んでいた。
「うんっ、祐一くんと一緒だよ」
「そっか…」
 記憶の中のあゆの身体の冷たさが、今、身体で感じているぬくもりに消されていく。
 非情な運命への恨みが、
 無力な自分への嫌悪が、
 この部屋の、幸せに満ちた空気にすぅっと消されていく。
 俺は、秋子さんに視線をむけ、目で礼を言った。
 秋子さんは、約束を果たせた安心感からか、気を抜くと泣き出してしまいそうな、そんな顔をしていた。
 
「今度は、ぼくも、本物だよ」
「ああ」
「今度こそ、本当の「おかえり」だね…」
「ああ、今度こそ、感動の再会シーンだ」
「うぐ、うう…よかった…」
 
 ずっと忘れていた気持ちが、胸に感じる嬉し涙のように、俺の心に染み渡っていく。
 でも、
 許されるなら、もう少し俺は欲張りたい。
 まだ、欠けてるピ−スがあるんだ。
 
 
 きっと、帰ってくるよな。
 お前が好きな肉まんが街に似合う頃になったら、戻ってくるよな。
 いや、街にほんとに春が来たら、きっと戻ってくるよな。
 真琴。
 
 
 
 みんなと一緒に暮らそうぜ。
 だって、
 
 
 
 
 みんなと一緒にいた夢は、こんなに暖かい現実を運んできてくれたのだから。
 
―end.